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流れが急で岩場や荒瀬など難所の多い天竜川では、中世まで丸太を組んだ筏船が主流でしたが、慶長十二年(1607)、徳川家康は「京の三長者」に数えられた豪商角倉了以(すみのくらりょうい)に信州から掛塚まで天竜川の舟路開発を命じました。了以の手代であった角倉屋利右衛門が元和八年(1622)までに概ね工事を完了させ、了以が京都に開削した運河、高瀬川で使われていた高瀬舟(当地では「角倉船」と呼ばれていましたが、御朱印船として海上貿易に使用され数百名の船員が乗った大型の角倉船とは別物で、船頭四人、米
11月19日(日)に二年に一度のイベント「浜背負い祭り」が佐久間町大井(西渡)で行なわれている。一般に「塩の道」は遠州相良(牧之原市、旧相良町)から長野塩尻までの陸路を指すことが多いが、相良の塩は陸送が中心で信州へ運ばれることは少なく、実際に青崩峠を越えて信州へ運ばれていったのは遠州川崎湊(牧之原市、旧榛原町)から廻船によって出荷された塩であったと云う。塩は川崎湊から掛塚湊へ廻船で運ばれ、掛塚からは川船で天竜川を遡っていった。本格的な天竜川の水運は江戸時代の初期に角倉了以が開き、角