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歴史的に言えば、インドの宗教(当時はヒンドゥー教という言葉や概念はなかった)が仏教に影響を与えてチベット密教や中国密教を形成し、中国の密教は日本において、天台宗や真言宗に取り入れられた。密教の行軌には、しばしば「観想」という文字が出て来るのだが、どちらかと言えば真言宗の行法として世間に知られている阿字観を始めとして、何かを心の中にイメージすることによって成立する「観想」こそが、密教の行法の眼目ではある。さて、密教以外にも「観無量寿経」が説く阿弥陀仏の観想を始め、大乗仏教において仏を観
2月4日最終日宿泊したお宿民家の中にある。旅行日程を模索していた時この宿の写真を見てここがいい!とひらめいた。でも、まわりにごはん食べるところがないので最後の一泊だけ、ここにした。いんとぅ=海とぱりとぅ=畑とすら=空という意味なんだって。でも、いん=犬でもあるんだってキタコレ妙見菩薩は犬を連れているらしいんだわ妙見菩薩は地球規模の女神の一面女神=水神=海神で、インだから海神と一体である犬も、インと呼ば
主観の鏡:苦しむ凡人と冷静な達人の世界私たちが日常で目にするもの、感じること。実は、それは純粋に外部の事象ではなく、自分自身の「主観の眼鏡」を通しての解釈です。どうして凡人の私たちは、同じ出来事にも他人と異なる反応を示すのでしょうか?苦しむ凡人の心象風景日常生活で小さなストレスや出来事が積み重なり、感じる「ドゥッカ(思い通りにならない苦しみ)」。これは私たちの心に積もる過去の経験や未来への不安、そして周囲の期待によるものです。それはまるで歪んだ眼鏡を通して世界を見ているような
(福者マリア・ピエリーナへのイエスさまからのメッセージ)1936年受難週火曜日「わたしのみ顔を観想するたびに、わたしの愛をその心に注ぐでしょうわたしの聖なるみ顔を通して多くの魂が救いを得るでしょう」福者マリア・ピエリーナにほんブログ村
パッカーンして空っぽを受け入れたら満ちちゃった♡∞空っぽのすゝめ見てから見るクセをつけよう「見る」と「観る」2つを意識的に使い分けられると現実という思い込みから幻実かも?という目覺めが起きて解放へと繋がります♪「見る」と「観る」2つを使い分けるきっかけになったのが「観想」という言葉との出会い♡観想とは仏語で、特定の対象に向けて心を集中し、その姿や性質を観察すること。また、心の中に思い浮かべる意識のこと。佐用町にある真言宗のお寺常光寺さんで毎月第3日曜日に
福者アレキサンドリーナの標語(モットー)「苦しみ、愛し、償う」・・・この言葉は、福者アレキサンドリーナ・ダ・コスタが神秘生活の初期の頃に何度も何度もくり返し心の中で聴いた言葉だそうですこの言葉に、私も妙に惹かれ最近、何度も何度も心の中でくり返していますイエスさまはアレキサンドリーナの生涯を私たちが学ぶべき「人類の学校」と呼ばれました
「私たちは聖人になることができますか?」(神のしもべフランク・ダフ著)第4部「武器と道具」・第7章ー念祷することはとても難しい「定期的に念祷することができない人は本当にたくさんいますこれらの人たちは、念祷ができないからといって失望してはなりません念祷は非常に望ましいものであり、次のような簡単な方法で行なうことができるからです師(イエス)を心の中に鮮明に思い浮かべるように努力し、その聖なる模範について注意深く考えるようにするのですすらりと
ある聖コルベ神父さまの伝記に「コルベ神父の中には汚れなきマリアが充満していた」と書いてありましたコルベ神父さまの中にはマリアさまが充満していましたがそのコルベ神父さまの中に充満していたマリアさまの中には神さまが充満していたと思いますわたしがいま日本語リメイクしているマリア的神秘家・聖テレジアのマリア(マリー・ぺティト)の霊的日記には聖テレジアのマリアがマリアの中に居られる神を神の中に存在しておられるマ
『マリアにおけるマリアのための、マリア的生活と婚姻についての考察』(第7章)マリア的生活は、他の観想生活の対象が神のみ、あるいはマリアのみであるのとおなじように、神とマリアを崇高な方法で一致したもの、あるいは神とマリアが一体化したものとして考察し、その対象としますそしてそこから魂の活動が生じるようになるのです「私はこう宣言します(観想生活の)対象には、すべての形式から解放された神の本質のみの、あるいは他の純粋な神の存在ー例えば祝福された三位一体、ある
『マリアにおけるマリアのための、マリア的生活と婚姻についての考察』(第6章)続き「その意味で、私たちは神の命に結ばれたマリア的生活も、一般的な観想的一致の生活よりも更に完全で高度なものであると言うことができますなぜならこのマリア的生活は、実際には神とマリアのうちにあってほぼ二重の、つまり『神ーマリア』的であり、マリアの中における神の観想と、神の中におけるマリアを観想という、真に愛とある種の単純で受動的な行為によって構成されているからですそしてそうなると
ふと時折、私は自分自身のことがよくわからなくなります。何を求めているのか───それは今の私の思いに本当に適っているのか───実はそれとは別の何かを求めているのではないか───考えても考えても永遠に答えなど出せないと知っていながら、私自身の性質について悩み続けています。自分自身を騙しているような感じに囚われて、私自身という得体の知れない何かを確かめたいという思いが強まっていきます。しかし、それ自体が欺瞞に陥りやすい倒錯的な課題であるために、私はただただ漠然とした散漫な思考に耽っていくばかり
この男性性と女性性の関係について本当のところを知りたいゾクチェン身を委ねて夢の世界に人生の書人との繋がりマグネティックフォース出会いと別れ腐れ縁良くない時期になると臭い臭いがしてくるらしい互いに良い影響じゃなくなってくる良い人なんだけどね別れの時期はある愛した人の裏切り裏切られてからが真骨頂私より先に死なないでね。先に死んだら裏切りみたいな親より子供が先に亡くなる親不孝だねでも、死について家族が深く考える時期になるね自分は若くして母を亡くしたのでその
とある日の鉛色の空の下、私は駅の構内に設置された椅子に腰かけていました。半ば眠りにつこうという具合に肩の力を抜いて、次々と入れ替わり、流れていく人の群れをただ視界に捉えていた状態にありました。私はその日に用事があり、駅を跨がなければならなかったのですが、こういった日には私はいつも予定の時刻よりもかなりの余裕を以て移動をします。予報によれば、交通機関が乱れる恐れも見られず、私自身の移動速度を鑑みれば、もう少し出発を遅らせても良いところを私はいつも早く目的地に向かうようにしてしまうのです。相
ただ現実の世界を生きているだけで現実感覚が狂う───人は会話やあるいは創作物などにおいて、簡単に「殺す」とか「愛する」とか、そういったことを語ることができる───物騒な話題も冗談として語ることができ、楽しく笑い合うことができる───もちろん冗談とは本来現実の中で現実から遊離したことを楽しむという前提があるからこそ意味があるのであり、そのような意味を暗黙の内に認めるところから表されるものなのでしょう。しかし、この世界で私の視野がこのような冗談で溢れかえっていて、私の現実感覚は狂っていく──
先日観た、グランド・シャルトルーズ修道院のドキュメンタリー映画俗世を完全に断ち、最も厳格に沈黙の中で観想する修道院の一つでした。▼過去記事はこちらですこの修道院について書かれた新書を発見したので読んでいます。『沈黙すればするほど人は豊かになるラ・グランド・シャルトルーズ修道院の軌跡』杉崎泰一郎・著戒律の中で暮らしているというと堅苦しいイメージがあるかもしれませんが、映画に出てくる老僧は「すべては魂の幸福のため」と静かに語っています。修
本日で地蔵会の行事は全て終わりました。夜は施餓鬼供養も行いました。施主さまにはおつとめありがとうございました!日中は暑かったですが、朝夕はまだ肌寒いです。なんとなく今年は暑さと寒さのメリハリのついたそれぞれその時期らしい気候だなという気がします。観光の方もちょっとずつ増えてきましたが、気候も観光の楽しみの一部かもしれません。見るものも体験も体感も、十分楽しんでいただけたらと思います。極楽橋駅の天井絵、たまにはゆっくり見ると楽しいです。祥鈴庵圓珠です。
シャルトルーズ修道院という、カトリックの中でも特に戒律が厳しいフランスの男子修道院があります。その修道生活の基本は沈黙と孤独にあります。その内部をとらえた『大いなる沈黙へ』というドキュメンタリー映画を観ました。ドイツ人監督フィリップ・グレーニングが1984年に撮影を申請して、なんと16年後に許可が出たそうで。音楽・ナレーション・照明なし、監督ひとりだけが中に入ることが条件。俗世間から隔絶されている修道士たちの祈りの暮らしが、とても静謐に映し出され
信仰と信頼・・・私に一番足りないものすべての中に神さまを観るようになりたい目の前にあるすべてのものの中に耳に入ってくるすべての音の中に鼻腔をくすぐるすべての香りの中に、口で味わうすべての食物の中に肌に触れるすべての感触の中に神さまを感じるようになりたいそしてそれが「神さまを観る」ということでありそしてそれが「観想生活」というものなのだと思うにほんブログ村
テレーズは観想者でしたなによりもまず第一に、観想者でしたカルメル会修道女になる前から・・・ごく小さな幼い頃・・・おそらくは物心ついた頃から、すべてのもの、すべての出来事の中に神を観ていました小さい道、愛と信頼、あわれみの愛の霊性・・・それらをテレーズの内から生み出したのは、まず何よりも、神を見詰めて生きるという観想者としての姿勢でしたすべてのもの、すべての出来事、すべての人々、すべての世界、そして自分の人生と自分のすべての日常生活の中に神を観
観想的に生きるのは、修道者だけの特権ではないむしろ、この世に生きながら観想的に生きる方が修道院の中でだけ生きるよりも大切で、難しいことかもしれない一般の信徒は修道者のように修道院の囲いに守られていないそして、この欲望や危険にまみれた世間の中で観想的に生きる魂があるということこそ真の神の証の姿になるような気がするにほんブログ村
「観想」とは読んで字のごとく「観る」こと、「想う」こと・・・つまり神を観ること、そして神を想うことこの言葉のように常に神を見詰め、神を想いながら生きていけたらな、と思いますにほんブログ村
天台宗の恵心流の教えが、珠光にも心敬にもひいては紹鷗以降の茶人たちにも直接・間接に精神面での影響を与えました。せめて現代語訳なりとも恵心僧都源信の往生要集を読んでみようと思いたちましたが、色々な方が解説書を出しておられ、訳文によって随分印象が変わります。シェークスピア劇でも同じですが、訳者の責任は重大。煩悩(心を支配しているありとあらゆる雑念)から一時完全に離れて、一つのことに集中し、心の動揺をコントロールする術を知れば、直観が研ぎ澄ま
わび茶の境地を冷える枯れる寂びるかじけるなどと表現するのは、心敬の連歌論による影響が大きいといわれています。その心敬は1406年に紀伊国に生まれました。幼いころに出家し、比叡山で修行した天台宗の僧であり、室町中期を代表する連歌師でもあります。心敬は、恵心僧都源信を祖とし、観想(特定の事象に神経を集中して、心にある迷いを取り除こうとする修行)に重きをおく恵心流に思想的基盤をおいて仏教の修行に励みました。また、和歌は臨済宗の僧侶、正徹(しょうてつ138
今日のお天気は朝から晴れ気温は最高35度近くまで最低気温は27度ぐらい蒸し暑い金曜日夢レポートです昨晩は1時頃お布団に入って天井を見上げて気力を溜め込んで目を閉じて周りの気配を鎮まるのを待ちました暫く微睡んでからお多福さんを見ようとしてたのですが簡単に寝落ちしました途中眼が覚めることもなく普通の夢ですが覚えてませんお約束の目の前の本の出番です再び題名神道の形成と中世神話著者伊藤聡発行㍿吉川弘文館引き続き「幻視される始源」を読んでるのですが幻視される内
『あなたの人生を華拓く』数秘&禅タロット術師天音翔子です^^=========こんにちは。夏本番。夏を楽しまれてますか?東京オリンピックに燃えるのも、世間からちょっと離れ自分の世界を構築するのもまたよしですね。前回、排毒について野草のお話を少ししましたが、試されました?野草の力はすごいですよね。私など、ドクダミ茶の香りをかぐだけで、もう排毒された氣になります(笑)。もし、更に排毒をすすめられたいかた、また、肝臓や、腎臓の調子がちょっとね、と思われている
『あなたの人生を華拓く』数秘&禅タロット術師天音翔子です^^=========こんにちは。夏がやってきましたね。お日様の強い光を、とパワーを感じます。さて、そんな今日この頃ですが、皆さん、排毒されてますか?「藪から棒に、何を言っているの??」となりますよね(苦笑)。実は、これが春からずっと気になっていて、自分自身も、たまりにたまっている、毒素を身体の中から、心の中から、出しに出しているところなのです。^^特に、この頃は、外部より、わざわざ毒を摂取する
観想の時間を持たない者には、そもそも生きるうえでの選択肢がないのであって、さらには、本当に言葉を必要としているとは言えないのではないでしょうか。社会に対して自身が一歩踏み出すことがないのです。その場合、その気がない者から学ぶべきところはないと断言して良いと思います。
uzumakiun??ΓΔδЩ´×◇〇。。gurugrunantoitta?anatanokokoro今日も読んでいただきありがとうございます唯一無二のあなたと出逢い次元を超えた世界を旅する月は水面で愉しむの瞑想のメイ&観想するという意味のギリシャ語テオリア併せて
サムプラジュニャータ・サマーディ(識別ある三昧)の続きです。サヴィタルカ・サマーディは具体的な対象を見るものでしたが次の段階では具体的な対象がなくなります。サヴィチャーラ・サマーディ(洞察を伴う三昧)例えば白とか赤、あるいは愛とか美などのような抽象的なものの観想である。抽象であるがゆえに、普通の人間にとっては具体的な対象物の助けがないと理解できない。だが具象の観想と理解が十分に行われたならば、その心は具象なくして抽象を理解する能力を得る。したがって時間・空間をも超越する。サアーナン