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・『蒙古襲来と神風』は天野忠幸著『三好一族』を買った本屋で2年前に購入。・『観応の擾乱』は谷口克広著『織田信長合戦全録』を買った本屋で2年前に購入。・両方通読するのは二回目である。・通夜に読む本ではないだろうと自分にツッコミながら読み終える。・二年前より日本中世史への理解が深まった気がする。服部英雄著『蒙古襲来と神風中世の対外戦争の真実』260㌻中央公論新社中公新書2461860円(税抜)日本地図主要参考文献一覧有り2017年11月25日発行亀田俊和著上
かんのうのじょうらん、と読みます。高校で日本史を選択した方はご存じですね。2017年初版です。教科書ではほんの1~2行しか記載のない足利尊氏・直義兄弟の死闘ですが『南朝の真実』の亀田先生が前史後史併せて65年間の動乱を余すところなく描ききっています。『南朝の真実亀田俊和著吉川弘文館』2014年2刷、歴史文化ライブラリーの一冊です。戦前には皇国史観という歴史観がありました。南朝=正義、楠木正成その他=大忠臣、足利尊氏=大逆賊などの極めて偏っ…ameblo.jp通説にも厳しくメスが入れられ
日本史上でも屈指の有名人でありながら「英雄」と「逆賊」という両極端な評価を弟・直義と共に受ける人物である足利尊氏。尊氏(初名は高氏ですが「尊氏」で統一)の生涯は鎌倉幕府の有力御家人である足利氏本宗家の庶子に生まれた事から始まり、家督を継いだ兄・高義の死後も家督を継ぐことはなく(出家していた父・貞氏が当主に復帰)父の死後27歳になってやっと相続するところから始まります。後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てた元弘の乱が貞氏の亡くなった時期と重なっているのは事実ですが、その時期に尊氏が幕府の
1,足利兄弟の争いさて、コラムですが。まず、ここに至るまでの情勢を簡単に。でないと、書いている方も話が分からなくなるのがこのあたりです。新田義貞が死に、足利尊氏は室町幕府を開きました。初期の幕府は「将軍」として尊氏が軍事、恩賞を、「副将軍」と称された足利直義が政務を司り、両者のバランスの上に成り立っていました。この兄弟は仲はよく、このまま幕府は安定するかに見えましたが、ですが、尊氏の息子である足利義詮(幼名は千寿王)が成長する頃には、不穏な空気が流れはじめます。それというのも
昨日の、「歴史のお話」“観応の擾乱”(かんのうのじょうらん)御覧頂き、ありがとうございました。対立派閥の戦いに、様々な人の思惑が重なり予想外の方向へ…?!南北朝時代・室町時代の人気が無いのは、対立構造が複雑だから…か??だいたい、じょ〜らん…て、何?????見逃したというアナタは、こちらから録画を御覧下さい!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/phwk3ymsupc?si=yIq4lUunrFunv-Ym歴史のお話~第144回「観応の擾乱
本日、11/20(月)PM8:00〜インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“観応の擾乱(かんのうのじょうらん)”生放送!足利尊氏政権内での対立、戦いへ…。そこへ、南北朝の争いも加わり…?☆YouTubeライブでお送り致します。生放送開始直前に、こちらでURLを公開します!↓↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/phwk3ymsupc?si=8yI5sE-V8t2OR-le歴史のお話~第144回「観
北朝第二代光明天皇は、室町時代が始まった時の天皇です。御父は後伏見天皇、御母は西園寺寧子。同母兄は北朝初代の光厳天皇(後醍醐天皇により在位を否定され、三種の神器をもって即位されたにもかかわらず御歴代の天皇としては数えられていません。)元亨元年(1321年)生。御名は豊仁(ゆたひと)。在位は建武元年(1336年)から貞和三年(1348年)。鎌倉時代末期、後醍醐天皇に従って幕府を攻めた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は光厳天皇を廃して天皇に返り咲きます。しかし、足利尊
南北朝時代に起こった「観応の擾乱」について。関心を持っているという人は、なかなか、居ないのかも。なぜなら、対立、抗争が複雑で、簡単に理解をすることが出来ない。本を読んでも、なかなか、頭で整理をするのは難しい。観応の擾乱-室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)Amazon(アマゾン)1〜5,573円個人的に、この本を読んで、頭の中で、簡単に、まとめたことに、想像を加えて、書いてみます。室町幕府の初代、将軍になったのは足利尊氏です。しかし、この
上野上村城をあとにして、「堤本地城」(つつみほんちじょう)にも行ってきました。『上野上村城』愛知県豊田市上郷町にある「上野上村城跡」5月27日に岡崎へ行って帰りに行ってきました。「榊原康政生誕の地」として取り上げられています。上野城は応仁(1467年…ameblo.jp別名本地上で豊田市内にある本地上と区別するため、この場では隄本地城としている。しかし、ここには「本地城」しか書かれていません。※ここでは「隄本地城」と題しています南北朝の頃()この付近を領有していた尾張守
久々に、ガイドブックに出て来る王道の鎌倉。浄妙寺の茶亭・喜泉庵の脇を抜けて、境内の北辺へ行くと、このヤグラが。↓宝篋印塔が並んでいるヤグラは、足利直義の墓。足利直義は、室町幕府初代将軍となる足利尊氏の弟だったが、尊氏と対立し、討たれてしまう。ここには、ヤグラが3つ並んでいで、左端が足利直義の墓。中央のヤグラには、五輪塔がギッシリと。↓足利直義軍の郎党の墓か?そして、右端のヤグラにも、中央程では無いが五輪塔がいくつか。↓こちらは足利直義一族の墓か??3つのヤグラの並
2023年5月20日土曜日東京経済政策研究会の勉強会に参加した後で夜7時半から9時まで友人のKさんが主催するオンライン読書会に参加しました。Kさんにはこれまで3回お会いしています。いずれも井手英策さんの講演会で司会者あるいはスタッフを務められています。そしてZoomでの井手英策さんのイベントで司会者を務められたこともあります。このブログでも井手英策さんと一緒に何回か登場しています。Kさんの登場する一番最近のブログはこちら。トークイベント「さあ、語ろう。変
興津宿公園から3分弱歩くと、左手に「理源寺」があり、山門前に大きな石碑が立っていました。石碑には「東海道行路病死無縁各霊供養塔」と刻まれていました。「細井の松原」の所でも無縁仏の骨が多数出てきましたが、江戸時代の旅は命がけだったようです。寺の境内はきれいに管理されていて、本堂も落ち着いた格調高い建物でした。「理源寺」の30mほど先右手に「高山仙吉商店」がありました。建物の前を通った時は、建物自体が気になり写真を撮りましたが、この建物は単なる米屋さんではなく、昭和20
「足利基氏」鎌倉公方は突然亡くなるみなさん、おはようございます四月も終わりに近づいてきましたそろそろ今月の締めに入りたいところですさあ、今日「4月26日」の國史を学びましょう「足利基氏、没」正平22年(=貞治6年、1367年)正平(しょうへい)は南朝貞治(じょうじ)は北朝の元号です足利基氏(もとうじ)は足利尊氏の四男9歳で関東10か国を統治する「鎌倉府」の長官である「鎌倉公方(くぼう)」になります観応の擾乱(じょうらん)で尊氏と直義の兄弟
我が家から国道171号線を通って京都へと向かう途中のスーパーに行く途中に発見👀❣️主人に「停めて」というとなにがあったの?とあまり慌てることなく、停めやすいところにちゃんと停めてくれる主人です。「もう慣れた」そうです😅あれだ!以前も写真を撮っていたのですけれど、ブログに書くのは初めて?かな。師と直の間が空いているけれど「高師直」の塚です。この側道をたまたま信号でとまって車中から発見。そっか、武庫川を渡ったあたりで忙殺されたんだな。と、咄嗟に主人に言ってしまった💦
名古屋のシンゾウ私の机には2台のPCと4台のモニターが並んでいます。私の京都検定勉強の強力ツールです。しかし、その内の1台が、いよいよ悲鳴を上げています。スイッチを押しても、立ち上げに10分ぐらい掛かるようになり、OSのWindows8.1はサポートが切れ、ウイルスソフトはバージョンアップを催促するようになりました。新規購入すれば解決するのですが、何故かためらいがあります。それは年齢です。購入後、どれだけの期間利用できるかという事です。数年ぐらいしか利用できないのであれば、騙し騙し使えば良
ども、蝦読weeklyです。今週読了した本はこちらでございます。ベネディクト著『菊と刀』アメリカの文化人類学者による日本人研究。kindle。戦争中の日本人の行動や考え方の理解が難しかったという著者が、日系人への取材を中心に日本の歴史や日本人の思想についてまとめ、紹介と考証がされています。私は戦時中の日本人の言動を知識でしか知らない世代なので、こういう本を読んでも「ああ、当時の日本人って、こういう感じだったのか。なるほどなぁ」という受け取り方になってしまいます。でも、「日本人は
旧東海道歩きは、清見寺を過ぎ「薩埵(さつた)峠」を目指します。「興津(おきつ)宿」に入りました。このあたりが興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神興津島姫命ここに居を構えたことからとか、あるいは平安末期興津一族がこの地を治めていたからとか諸説あるようです。ここは江戸から17番目の宿場で、由比から難所の「薩埵峠」を越えて、ホッと一息つける宿場でした。また甲州を結ぶ身延道の起点でもあったこともあって、寛永年代には本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠24軒という賑やかな宿場でした。
法話に続いて「清水寺と武将達」シリーズ1回目「室町幕府南北朝の内乱と足利氏の祈願」の講演。清水寺に伝わる古文書を清水寺史編纂委員の河内先生(奈良大学)が解説されました。先生は中世史がご専門。河内将芳河内将芳さんの後を追って、Amazon.comの河内将芳の著者ページから参考資料を探します。www.amazon.co.jp大学の史学科ではこういう授業をするのかな〰。配布資料が足りなかったのようなので、予定より参加者が多かったみたい。古文書のいろは1,和紙に墨で
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。「二著物語:足利直義(その1)」及び「二著物語:足利直義(その2)」では、国宝指定を受けている伝源頼朝像の像主が実は足利直義であったことを論証した黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』、角川選書、2012年の内容を概観し、前回「二著物語:足利直義(その3)」では、亀田俊和『足利直義―下知、件のごとし』、ミネルヴァ書房、2016年(以下、『直義』)同『観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の
*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。前々回「二著物語:足利直義(その1)」及び前回「二著物語:足利直義(その2)」では、黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』、角川選書、2012年の内容を概観して、長らく源頼朝像とされてきた肖像画の像主が、実は足利直義であったことを説得力のある論証の跡を辿った。黒田書は飽くまで神護寺三像の中で伝源頼朝像とされるものの像主が足利直義であったことを論証することを主題としており、直義自身の歴史上の活動に関しての
観応の擾乱では、足利直義、足利尊氏、そして足利直冬が南朝に降伏するということがお決まりになっていました。その都度、南朝は京都に攻めては来るのですが、結果的には尻尾を巻いて逃げ帰っています。しかも、乱が収まると、降伏の条件がなかったことになるという足利時代ならではの状況が展開されています。この時代は天皇皇室の権威が一番貶められた時代でもあります。よく、南北朝の争いとひとくくりにされて、教科書で書かれていますが、そんなに単純なものではなく、実情は複雑怪奇な状況であることはお分かりでしょう。特に北朝
観応の擾乱室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)Amazon(アマゾン)899円『書評「観応の擾乱」亀田俊和(中公新書)』観応の擾乱-室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い(中公新書)929円Amazon足利幕府初期の足利尊氏…ameblo.jp中公新書の「観応の擾乱」は2年半前にレビューを載せています(↑)今回、「太平記」の再放送を見ながら周辺情報を調べたり関連書籍を読んだりして、久しぶりに「観応の擾乱」を読んでみた
足利直義は北陸で、配下の細川顕氏や畠山国清が足利尊氏に寝返ったのに、戦闘を止めようとはしません。足利尊氏と足利直義の戦さは激化していきます。しかし、多勢は無勢で、足利直義軍は押されて、足利尊氏との和睦交渉が始まります。足利直義は引くに引けない状況になったので、この和睦交渉は決裂します。戦は終わったものの、足利直義は北陸から、鎌倉へ落ち延びます。ここでまた、足利基氏争奪戦が始まります。足利基氏は足利尊氏の次男であり、足利尊氏とは仲が良いです。それとともに、叔父である足利直義を尊敬しているという板
足利直義は足利尊氏&高師直に戦で勝ったのに、徐々に勢力を削ぎ落されてしまいます。当面の目標である、高師直の排除は達成できたものの、恩賞の権利を足利尊氏に保持されて、足利尊氏は戦に負けたにもかかわらず、足利尊氏に付き従ったものから恩賞を与え始めます。つまり、勝った足利直義派には恩賞が行き渡りません。こうなると、勝っても負けても、足利尊氏についた方が恩賞を貰えるという構造が出来てしまいます。勝ったのに足利直義に付き従った武士たちは次第に足利直義から離れていき、足利尊氏の方につくようになりました。足
観応の擾乱の打出浜の戦いで尊氏・師直軍が直義・足利一門軍に敗北した際、尊氏側には高師直一派のほか佐々木導誉、赤松氏、仁木氏らが付き従っていました。時勢に流されない、根っからの尊氏派と言えるかもしれません。ドラマでも義詮に京からの退却を促すシーンで仁木頼章・義長兄弟が映っていました。仁木(につき)氏は足利氏の祖、義康の庶長子・義清を祖としています。本家の足利義氏が承久の乱で活躍し三河国の守護に任じられると、義清の孫にあたる実国が三河国額田郡仁木郷に移り住み仁木氏を名乗ります。なお実国
足利直義が南朝に寝返って、南朝方は息を吹き返し、南朝方に味方に付く武士が物凄く増えました。まるで、それは南朝の時代の到来を告げるかごとくの、勢いで、南朝の時代が来たという空気が世間を席巻します。南朝方と北朝方との戦いは各地で起こることになります。まずは鎌倉ですが、尊氏側は劣勢を強いられます。石塔義房が高師冬を撃破したことから、直義派と高師直派が鎌倉を治める足利基氏の争奪戦を始めます。直義派の上杉能憲が鎌倉を包囲し、高師冬は足利基氏を連れて、鎌倉を捨てます。しかし、上杉軍に攻められて、高
僕は前々から、織田信長はカリスマ性が極めてあった人物であるということに、疑問を持っていました。確かに天才は天才です。でも天才だと思う根拠が通常言われていることとは違います。その辺のお話をしていきたいかと思います。まず、織田信長のカリスマ性はなかったのでは?という疑問に、なかったと確定できることを見つけました。僕は毎週、月曜日に『日本の歴史』という題名で、現在、観応の擾乱の詳細をお話しています。観応の擾乱と聞いて、あ~あの時代ねとわかる人は歴史マニアでしょう。凄いなと思います。なぜかとい
1349年12月。足利直義は出家しました。完全に政界を引退した形になります。翌1350年2月、足利幕府を擁する北朝は改元し『観応』元年としました。ところが、九州に落ち延びた足利直冬はこの改元を認めず、旧元号の『貞和』を使い続けます。これは自分の勢力が足利幕府とは別個の独立した存在であることをアピールするものです。これは足利幕府に挑戦状を叩きつけるものでした。足利直冬は落ち延びた九州で徐々に勢力を拡大していきました。落ち武者同然で行ったにもかかわらず、福岡、大分をあっという間に制圧し