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福島民報新聞の今日のワイド版に来る14日に行われる「戊辰戦語る」の講演会とシンポジュウムの記事が載っています。主催者の花ホテル滝のやの話によると、まだ余裕があるということですので、興味のある方はぜひ電話をお願いいたします。柳津町は只見川を挟んで、東軍と西軍が激しく戦った場所でもあります。西軍の本隊は越後口から会津に攻め込んだのに対して、会津藩は白虎寄合一番、二番隊など防衛線を張りました。その当時を偲びながら、なぜ戦わなくてはならなかったのか。飯盛山での白虎士中二番隊の壮絶な死は何を語ってるかを
歴史を感じながら赤坂の岡山、関ヶ原町の桃配山、最後の陣地を廻りました。関ケ原合戦における東軍の指揮者である徳川家康は、慶長5年(1600)9月10日尾張熱田につき、翌日一宮を経て、清州に滞在して、13日岐阜に到着。翌14日未明岐阜を発し、長良川を渡り、神戸、池尻を経て正午ごろ赤坂につき岡山(今の勝山)の頂上に設けられた陣営に入った。(前にブログで紹介した。)ここから午前2時ごろ、岡山の陣営を発し、暗雲低迷の中関ヶ原に急いで、最初の陣になる桃配山の中腹に陣を構えた。ここは壬申の乱(672年
大河ドラマどうする家康いよいよ本日、関ヶ原の戦いが放送されます。慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦い。旧暦9月15日に合わせ9月17日の放送か、新暦の10月21日に合わせ、10月22日の放送かと思っていました。西軍石田三成。徳川家康を成敗致す!東軍徳川家康。石田三成を討ち、我らが天下を取る!天下分け目の決戦地。関ヶ原東軍先鋒は福島正則。初陣の松平忠吉を連れ、前線に来た井伊直政。西軍宇喜多秀家の陣に向け発砲。井伊直政の抜け駆けが成功。
岐阜県関ヶ原町徳川家康武将印徳川家康武将印(関ヶ原)の切り絵武将印をget✨徳川家康と石田三成をイメージした武将印だそうです!西軍勝利の切り絵関ヶ原古戦場記念館で関ヶ原合戦投票が行われ、西軍勝利の切り絵です🏆👌関ケ原古戦場記念館関ヶ原古戦場記念館別館ショップへ関ヶ原に来るとワクワクします♡またまたご無沙汰してしまいましたが💦最後までご覧いただきありがとうございました🙇♀️
今年も来ました、米百俵まつり!!in長岡!!それにしても寒くなりましたね。今日なんか、毛糸のセーター着てた人もいましたよ。今日のお天気は生憎、雨が降ったり止んだりでした。でも時代行列の時は晴れていたので良かったです。雨のせいか空いていたので、メインステージ前に陣取ることができました。オープニングは日野新選組の皆様です。パフォーマンスがあったのですが、今年のミスター土方歳三が喋るのを初めて聞きました。やっぱり選ばれるだけあって流石の迫力ですね。なんか最近、長岡出身の新
ブログを始めてよかったこと教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようどうでも良いことなんだけど揚げ足とりみたいで嫌だけどタイトルは『19周年』なのにイラストの方は『18thAnniv.』ってなっててどっちが本当なの?#は『~19周年の日2023』ってなってるから19周年が正解と思うんですけどAmebaの中の人気付いてるかな?あ、アメブロはいつも楽しませてもらっていますこれからも宜しくお願
こんにちは。小規模多機能の職員S・Oです。今回は広報紙の紹介です。小多機なぞなぞ前回のなぞなぞは以下のものでしたが、皆さん分かりましたか?・1600年の9月15日に徳川家康を中心に構成された東軍と、石田三成を中心に構成された西軍による天下分け目の大合戦の名前は?1.関ヶ原の戦い2.山崎の戦い3.桶狭間の戦いそれでは答えです。答えは・・・「1.関ヶ原の戦い」です。いまの岐阜県不破郡関ケ原町で徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による、天下分け目の決戦が
【問題】関ヶ原の戦い前、西軍の山口宗永が自害した地でもある大聖寺城は、次のうちどこにあるか?【選択肢】石川県白山市石川県珠洲市石川県加賀市石川県七尾市【正解】石川県加賀市【解説】大聖寺城は、石川県加賀市にあった城である。関ヶ原の戦い前には、西軍に属した山口宗永が、前田軍に攻められて自害している。現在、城跡は錦城山公園となっている。
蕪村さんの「菜の花や月は東に日は西に」をお借りして日ノ本や勝ちは東に負けは西にスターの卵
芭蕉さんの「五月雨を集めて早し最上川」をお借りしてお味方を集めて強し関ヶ原
ようこそインターネットステーション泉中央へ、このブログは、私こと源住泰(ペンネーム)個人の趣味のページです。今回は、前回に引き続き1/1に立ち寄りました、岐阜県不破郡関ヶ原町、西暦1600年の関ヶ原の戦いにまつわる、私が見た関ヶ原と題した後編の駅から岐阜関ヶ原古戦場記念館のあたりまでの光景にスポットを、あててみたいと思います。まずは、駅のフェンスで見かけた16枚の関ヶ原の戦いにまつわる、看板をご覧いただきたいと思います。
東日本新人王獲得から5日が過ぎましたが、すでに全日本新人王決勝戦の日程は12月17日と迫っております!!今回は西軍との対戦ともあり、観戦チケットは即ソールドアウトではなさそうなのですが、一応最初の注文の〆切を11月17日(木)※1ヶ月前とさせていただきます🙇♂️(最終受付は1週間前とさせていただきます)観戦チケットを希望される場合は、ジムのメンバー様はスタッフへ、それ以外の方は五十嵐春輝までお申し付けください。券種の発表はまだされていませんが、東日本新人王決勝戦と同じであれば、RS席¥1
私は歴史も地理も全然わかりません!でも、興味はあるので中学受験対策の旅行をするようになってからだいぶ賢くなったと思います(それでも普通の小学生以下の知識ですが…)息子のおかげです子育てしていなかったらこんな旅行は選んでいなかっただろうということが多くあります今回は京都をメインに車で移動するのでその行き帰りに寄れるところとして関ケ原を入れようと思いました昨年岐阜城に行った時のお土産で岐阜城の紙製模型と関ヶ原の戦いのミニチュア模型を買ったので(
あっという間の1ヶ月相変わらず、のんびり更新です💦慶長5年9月15日は西暦1600年10月21日になるそうです今年は3年ぶりに10月中旬『大関ヶ原祭2022』が開催されたそうです!前回からの続きです『いざ!関ヶ原②西軍陣跡』『いざ!関ヶ原電動自転車で爆走①』2022年9月15日(木)大垣城🏯を出発した私達は1時間に2本しかない🚃JR東海道本線にギリギリで乗車😵�…ameblo.jp大谷吉継の陣跡(墓)を出発🚲🚲🚲松尾山麓から🚶松尾山山頂へ西軍/東
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...10月21日(金)#仏滅(丁未)旧暦9/26月齢25.2年始から294日目(閏年では295日目)にあたり、年末まであと71日です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅...43/53週目のラストスパート金曜日になりました
2022年9月15日(木)大垣城🏯を出発した私達は1時間に2本しかない🚃JR東海道本線にギリギリで乗車😵💨乗車時間は13分電車の表示が出ただけで興奮駅舎の中も外も合戦関係…駅を出てすぐ向かいに関ヶ原駅前観光交流館愛称:"いざ関ヶ原!"こちらの武将家紋ロッカーに荷物を預け電動自転車を借りて出発この地図の陣跡を訪ねます🚲️💨まずは東軍・総大将徳川家康が最初に布陣した桃配山へ山頂へ駆け上がります🏃♀️💨桃配山(ももくばりやま)標高104m桃配山山頂から見た古
はい!今年も9月15日がやってきました!歴史クラスタが1年で1番盛り上がる(であろう)関ヶ原の戦いの日です。今年も石田の治部殿の速報から。石田三成@zibumitunari【速報】今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた日今日は関ヶ原の戦が起きた…https://t.co/GuRQMFV11A2022年09月15日07:30石田三成@zib
このところ、少しだけ一部で話題になってる、らしい。歴史警察これにならないように気を付けてます。ただ、新説が出て来て、それが従来の定説を覆すような内容の場合は、出典も含めて説明は必要だと思ってます。出典も、実は怪しいんじゃないか的な史料の場合は、良く考えたいところです。ところで〇〇警察って…悪い意味でばっかり使われてますが、警察の方、気分悪くされてると思います。〇〇警察の警察に代わる何か…他の言葉無いですかね…。関ヶ原の戦いも、新説とか新解釈とかたくさん出てきてて楽しいです。
【問題】関ヶ原の戦いで西軍に属した垣屋恒総が自害したのは、次のうちどこか?【選択肢】竹生島小倉城高野山白川郷【正解】高野山【解説】垣屋恒総(かきやつねふさ)は但馬国の武将で、豊臣秀吉に従って同国内に所領を得ていた。関ヶ原の戦いでは西軍に属して大津城などを攻め、戦後、高野山に逃亡して自害した。
<2021年3月30日>放浪ドライブで訪れた福島県会津若松市の「会津武家屋敷」。西郷頼母の家老屋敷を再現した建物の一番奥まで行って、庭を眺めながら反対側を戻って行きました。「客待の間」、つまり応接室です。「長居間」は執務室といったところ。そして「自刃の間」です。慶応4年(1868)8月23日早朝、西軍が会津城下への総攻撃を開始したときに、登城した家主の頼母を除く西郷家の婦女子は、「足手まといになるまい」として、この部屋で自らの命を絶ちました。そのときの様子
関ヶ原・垂井で購入した、御朱印・武将印を紹介します。関ヶ原古戦場記念館史跡を巡り写真を別館ショップで見せると御朱印を購入できます。御朱印・武将印は、全15種あります。今回は、主な御朱印・武将印だけを購入しました。(本当は全部欲しいけど金額が…)*店員に陣跡画像を見せてます。垂井町観光協会武将印は、普通に買う事が出来ます。武将印南宮山に布陣した西軍大名。南宮山に布陣した西軍を抑える東軍大名。垂井町岩手地区まちづくりセンター
徳川家康最後の本陣跡に、床几場があります。味方が討ち取った、敵将の首実検が行われました。関ヶ原の戦いは、調略に長けた東軍の劇的な勝利で幕を閉じた。*南宮山の毛利秀元・安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家は、吉川広家が東軍と内通したため参戦出来ず。松尾山の小早川秀秋も家臣が東軍と内通寝返り、脇坂・朽木・小川・赤座が反応して西軍を攻撃。続く
名神高速関ヶ原ICの東側に、伊勢街道が通っています。関ヶ原の戦いで、伊勢街道にある烏頭坂で熾烈な追撃戦がありました。西軍の島津義弘は、総崩れになった西軍の中で唯一陣立を保っていた。前方は東軍、後方は西軍敗走兵で入り乱れに。義弘の決断は、西軍敗走兵が北国街道へ殺到しているので、反対側の伊勢街道を目指す。伊勢街道に向かうには、前方の東軍に突撃するしかない。家康本陣に向け、敵中突破を敢行。東軍の福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興は朝鮮での恩義があるため島津軍のために進路を開ける。徳
西軍石田三成の陣の近くには、東西両軍が最後の力を振り絞った決戦地があります。慶長5年(1600年)9月15日、東西両軍合わせ16万と言われる天下分け目の関ヶ原の戦い。午前8時頃、東軍松平忠吉・井伊直政の発砲に怒った福島正則が、西軍宇喜多秀家の陣に向け一斉射撃。東西両軍が入り乱れ、一進一退の状態。正午過ぎ、西軍小早川秀秋の寝返りに東軍が優勢に。大谷隊は壊滅、宇喜多隊敗走、小西隊敗走と西軍は総崩れ。残るは石田三成隊のみ。今が三成の首を取る好機と見た、東軍諸隊が石田三成の陣に総攻
南天満山と東山道の間に挟まれた山に、関ヶ原の戦いで西軍に参加した大谷吉継の陣跡と吉継の墓があります。大谷吉継戦国時代から安土桃山時代の武将、大名。越前敦賀城主、官位は刑部少輔。永禄8年(1565年)近江國で生まれる。出自は謎とされてる。豊臣秀吉の小姓となる。馬廻衆の1人となり毛利攻めに従軍。九州征伐、小田原征伐、奥州仕置にも従軍した。越前敦賀5万石の城主になる。二度に渡る朝鮮出兵に参加。船奉行・軍監を務める。慶長5年(1600年)9月、東西両軍の中でいち早く関ヶ原に着陣。開
東山道の南にある松尾山に、関ヶ原の戦いで西軍に参加した小早川秀秋の陣跡があります。松尾山からは、東山道の北に東西両軍の陣跡が望む事が出来ます。小早川秀秋安土桃山時代の大名。天正10年(1582年)木下家定(高台院の兄)の五男として生まれる。叔父の羽柴秀吉の養子になる。天正17年(1589年)秀吉の後継者候補として7歳で元服。丹波亀山城10万石の大名になる。全国の大名から接待が続き、アルコール依存症になる。文禄3年(1594年)小早川隆景と養子縁組。筑前國国主30万7千石の大名に
西軍小西行長の陣前には、東西両軍が対峙し開戦地となる場所があります。慶長5年(1600年)9月15日、前日から降った雨が止み早朝は深い霧に包まれた。東西両軍は、それぞれの想いがあるなか着陣を済ませ戦の開始を今か今かと待っている。午前8時、霧が弱まったころ東軍先鋒の福島正則隊の横を松平忠吉・井伊直政隊が先を進む。福島正則は、何事かと井伊直政隊に詰め寄る。先鋒は福島だ!家康殿から承認されている。抜け駆けは、軍律違反だ!井伊直政は、物見だと主張する。押し問答が終わった直後に、発砲音
島津義弘の陣の南側にある、北天満山に関ヶ原の戦いで西軍に参加した小西行長の陣跡があります。小西行長戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。肥後國宇土城主。キリシタン大名。永禄元年(1558年)泉州堺の商人・小西隆佐の次男として生まれる。宇喜多直家に、才能を見出され商人から武士になる。豊臣秀吉にも、才能を高く評価され秀吉の臣下になる。秀吉政権下では、舟奉行に任命され水軍を率いる。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定で功をあげ肥後國南半分20万石が与えられた。二度の朝鮮出兵で活
笹尾山の石田三成と、北天満山の小西行長の陣の間には、関ヶ原の戦いで西軍に参加した島津義弘の陣跡があります。島津義弘戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。島津家第17代当主。天文4年(1535年)島津貴久の次男として生まれる。天文23年(1554年)初陣を飾る。島津氏は、薩摩國・大隅國・日向國を領する勢力を保つも、その道のりは困難だった。島津氏の九州制覇目前に、豊臣秀吉の九州征伐により降伏。秀吉から、羽柴の名字と豊臣の姓が下賜される。二度に渡る朝鮮出兵に参加。味方不利な状況から
関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成の陣跡が笹尾山にあります。石田三成安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣、近江國佐和山城主。豊臣政権五奉行の一人。永禄3年(1560年)石田正継の次男として生まれる。幼名は佐吉。羽柴秀吉の小姓として仕える。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参加する。天正13年(1585年)秀吉の関白就任に伴い、治部少輔に任じられる。小田原征伐、奥州仕置に参加。豊臣秀次謀反を詰問。二度の朝鮮出兵では、後方支援で活躍。豊臣秀吉の死後、武断派との対立が深まる。