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ベレスフォード将軍は、戦場にある、丘の反対斜面に部隊を配置した。スールト元帥は、連合軍を視認できなかったため、ブラケの師団が昨夜到着したことに気付いていなかった。1811年5月16日の朝、スールト元帥は、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍の右翼に向かう、作戦を実行に移した。アルブエラの戦いの始まりである。フランス軍が、アルブエラ村へ、直進するためには、アルブエラ川に架かる、小さな橋を渡らなければならず、スールト元帥は、当初、この橋の方面へ強力な陽動攻撃を行った。ゴディノの
ベレスフォード将軍は、ブラケ将軍、カスターニョス将軍に説得されると、スールトのフランス軍との決戦に挑むことを決断した。イギリス・ポルトガル・スペインの連合軍の指揮官達は、バダホス救援に向かう、スールト元帥のフランス軍に対峙するのに適する、ウェリントン公爵の選択地点、アルブエラに集結することに合意した5月15日には、ベレスフォード将軍は、スールト元帥が、サンタ・マルタとアルブエラを通過する、バダホスへの中央の道を通ることを知った。ベレスフォード将軍は、更に、部隊配置を変え、第2師団と
マックでお昼を終えて、さらにスタバにもデザ-トと思い、立ち寄ってしまいました~!ブル-ベリ-レアチ-ズケ-キです!先日で日本史概論のレポ-トを書き終えたので、次、西洋史概論を読み始めました。日本史の通史は大学入学前から読んでましたが、西洋史は高校生以来だと思います。いや、古代ギリシア時代なら、大学入学後の政治学での政治思想などで読んでますけどね。中世まで読んで、大陸が舞台だから、色々な民族が進入の連続ですね。そこに他から国王なども入ってきて・・
ベレスフォード将軍は、ウェリントン公爵の指示に着実に従い、最終的には、5月4日、バダホスの包囲を開始した。更に、イギリス・ポルトガル連合軍に、新たなスペイン軍が、参戦した。カディスの摂政会議は、ホアキン・ブラケ将軍をサヤス及び、ラルディサバルの師団と共に、海路、グアディアナ川河口のアヤモンテへ送った。ブラケ将軍は、4月18日に上陸後、スペイン領内のセレスに向かうと、フランシスコ・バレステロス将軍と合流した。ブラケは、摂政会議の一員であったが、軍隊内の階級は、スペイン軍のカスター
池上英洋他1名美術でめぐる西洋史年表美術でめぐる西洋史年表Amazon(アマゾン)1650込**「美術でめぐる西洋史年表」**は、美術史家の池上英洋さんと青野尚子さんによって執筆された書籍です。この本は、美術の誕生と西洋史の重要な出来事をビジュアル年表と共に解説しています。以下は、この書籍の詳細情報です:タイトル:美術でめぐる西洋史年表著者:池上英洋(著),青野尚子(著)出版日:2021年4月24日ページ数:224ページ言語:日本語出版社:新
【史実】なんて恐ろしい…19世紀、死者が相次いだ「悪魔的に美しい色」の正体|THEGOLD6019世紀に開発された美しい緑色、「エメラルドグリーン」。当時はあらゆるものがこの顔料で染められ、飛ぶように売れました。人々は理解していなかったのです。このエメラルドグリーンが、心のみならず“命”をも奪う危険な色であることを…。歴史系YouTuber・まりんぬ氏の著書『思わず絶望する!?知れば知るほど怖い西洋史の裏側』(佐藤幸夫氏監修、KADOKAWA)より…gentosha-go.com
概論は考古学概論は終わりました。でもまだあと2科目はやらなければと言うことで、西洋史概論に手をつけましたいやーカタカナが多い笑人の名前か場所の名前かはてまてなんかの制度のことか…世界史は大の苦手ですとりあえず時間がかかるわーギリシア?ローマ?何が違う?中世史?って何があった??なんも知らんヤバー私に理解できるのかわかりませんが、とにかくテキスト読んでこーで、走れメロスって何時代のどこの人?(ヤバっ💦)
ベレスフォード将軍の前衛部隊が、東岸に取り残されたことは、破滅的に思われたが、バダホスの守備を指揮していた、ラトゥール=モブールは、連合軍と対峙するより、要塞の修繕に注力していた。当初、バタホスを指揮していた、モルティエ元帥は、この時点で、ナポレオンによって、フランスに召喚されていたのである。フランス帝国元帥である、モルティエと、将軍のラトゥール=モブールの能力の差は、大きかった。ラトゥール=モブール将軍は、イギリス・ポルトガル連合軍の第13軽竜騎兵大隊を捕虜としたことに伴う、小成
モルティエ元帥のフランス軍は、3月14日の夜に、サン・ジョアン要塞を占領したが、カンポ・マイオルの要塞の攻略は、更に困難であった。ホセ・タラージャ少佐の指揮する、民兵800人と、「オルデナンサス」しかいなかったにも関わらず、町は、七日間持ち堪え、モルティエの砲撃によって、堡塁の全ての面が、崩されるまで、降伏しなかった。モルティエ元帥は、アルブルケルケを攻囲するために、ラトゥール=モブール将軍及び、2個騎兵連隊を送った。アルケブルケの守備隊、6千人は、フランス軍の前に、降伏した。
思わず絶望する!?知れば知るほど怖い西洋史の裏側読みましたとんでもなかった!あなたが知らない西洋がここにある90点丁寧な解説とわかりやすい映像で大人気のYoutubeチャンネルが書籍化されたものなるほど大変興味をひきやすい内容にまとめられています有名な王族は本当に処女だったのかとかベルサイユ宮殿にいた貴族の教科書には載っていないウラの顔や苦労実在したトンでも職業庶民たちのおもしろブームなど面白い内容でした貴族ばかりではなく庶民の風習にもスポットを当て
スールト元帥は、マッセナ元帥が、病気、飢餓、そして、尋常でない、冬に悩まされて、崩壊した、軍隊を率いて、ポルトガルから、退却したことを、学習していた。そのため、包囲の強行を不安視していた。イギリス軍が、自由になり、バダホス解放のため分遣隊を送ることを懸念して、降伏を要請したのである。3月11日、イマス准将は、正式に降伏し、フランス軍は、要塞を占領した。3月12日は、ヴィクトール元帥が、バロッサの戦いにおいて、スペイン軍に敗北した。スールト元帥は、その報告が届くと、ヴィクトー
3月23日(土曜日)は勉強会の日。西洋史&西洋美術史のホーエンツォレルン家の続き話です。ドイツのプロイセン家(正式にはホーエンツォレルン家)の六代フリードリヒ・ヴィルヘルム4世「ひらめ王」の時代から九代ヴィルヘルム2世「最後の皇帝」までの話を聞きました。土曜日は朝から雨でした真面目に勉強しておりますよ(^^)勉強会が終わったら、石仲間の奥様といつもどうりにランチに行きます。ネットで桃園亭のランチがリーズナブルでお得だと書いてあったので、この日は四条河原町の中国料
スールト元帥は、フランスのナポレオンから、マッセナ元帥への援軍要請を受けたが、ナポレオンの命令は、古い情報に基づいていたため、小部隊を送るのみとの命令であった。スールト元帥は、既に、ポルトガルのリスボンへの攻撃を成功させることは、命令された、小部隊では、不可能であることを理解していた。スールト元帥の軍勢とリスボンの間には、イギリス・ポルトガル連合軍の3万人及び、六つの大きな要塞があった。スールト元帥は、その状況でさえ、なお、皇帝の命令に従い、何か行動を起こさなければならないと感じて
1810年4月17日、ナポレオンは、マッセナ元帥をポルトガル軍最高司令官に任命した。5月10日、マッセナは、スペインのバヤドリッドにおいて、司令官職に就任する。しかし、マッセナと共に、ポルトガルに派遣された、ネイ元帥及び、ジュノー将軍に嫉妬された。ジュノーは、半島戦争の1808年に、屈辱的なシントラ条約を締結させられていた。ネイは、マッセナと同様、帝国元帥であるため、同等の立場にあり、マッセナの指揮下に入ることに、不満があることは、当然であった。ジュノー将軍は、1807年に
ベルナドット元帥は、既に、ハノーファー及び、ハンザ都市同盟の総督時代に、広範囲の優れた、管理能力を示していたが、アウグステンブルク公には、備わっていなかった。1809年のクーデター後の憲法改正によって、スウェーデン王国は、絶対君主制を廃したが、スウェーデン人は、国家を牽引する、強力な君主を欲していたのである。ナポレオンは、ベルナドットのスウェーデン王位継承者決定を、公の場では、「フランス帝国の誉れある、業績にして、栄光の拡張」と祝っていた。しかし、オーストリア外相のメッテルニヒには
ヴォルテールとシャトレ侯爵夫人の物語。つづきます。ルイ15世から、修史官に任命され、年金も受け取っていたヴォルテール。パリのブルジョワの家に生まれた彼ですが、いまやれっきとした宮廷人。立身出世を遂げた、と胸を張ってもいいはずなのですが。。。ライバルや敵も、あまたいて。みんな、すきあらば足をすくわんと、虎視眈々。訴訟、ゴタゴタ、誹謗中傷に絶えず見舞われ、ご本人は、報われ感がイマイチだったようです。そんなとき、プロイセン国王フリードリヒ2世から、熱烈なラヴコール
メルネル中尉は、7月12日に、スウェーデンに帰国したが、独断専行で、スウェーデン王位継承候補者を探したため、地方に左遷させられた。しかし、メルネル中尉の計画は、軍部を中心として、徐々に、支持者を集めた。特に、メルネル中尉の従兄弟、メルネル伯爵等、リューベックにて、ベルナドット元帥に世話になった、軍人達は、スウェーデン議会で、キャンペーンを行い、次第に、党派を形成するまでに、ベルナドット擁立の支持者を集めていった。その頃、パリのベルナドット元帥は、知人の商人、フォーニエに肖像画等を持
2月24日(土曜日)は月一の石仲間との勉強会の日でした。この日の勉強は西洋史&西洋美術史の中のプロイセン王家(正式にはホーエンツォレルン家)です。まぁ!国民が王様につけた二つ名が凄すぎ~(爆笑)初代フリードリヒ1世猫背のフリッツ二代フリードリヒ・ヴィルヘルム1世兵隊王三代フリードリヒ2世大王四代フリードリヒ・ヴィルヘルム2世デブの女誑し五代フリードリヒ・ヴィルヘルム3世不定詞王六代フリードリヒ。ヴィルヘルム4世
学期と簿記試験も終わり、久しぶりに何もない休日を過ごしています。のんびりしていたら、こんな時間になっていました。さて、昨日後期の成績が一気に更新されました。会計学入門Ⅱ(後期メ)S経営学特講(後期メ)A+西洋史(秋スク)B西洋史(冬スク)A今期の成績が出揃いました。秋スクの西洋史はあまり良くない結果になりましたが、今期2回西洋史を履修し、西洋史の面白さがわかったので履修して良かったです。今期はスクーリングに助けられ、42単位修得の着地、教養科目は残り経済学2単位のみとな
スウェーデン王カール13世の使者の一人、カール・オットー・メルネル中尉は、パリに到着後、フィンランド奪回のため、フランスとの関係を強固にする、人物を、王位継承者に据えることが、望ましいと考え、独断で、動いた。1810年6月25日、メルネル中尉は、パリにて、事実上の退役状態にあった、ベルナドット元帥と会見したのである。メルネルは、ベルナドットに対して、プロテスタントに改宗可能であり、能力に優れ、ボナパルト家と繋がりがある、スウェーデン王カール13世の後継者のフランス人の候補者を必要として
◆第381位『世界史リブレット102~イスラーム社会の知の伝達』評価:065点/著者:湯川武/巻数:全1巻/ジャンル:東洋史/2009年◆第382位『世界史リブレット70~中央アジアのイスラーム』評価:065点/著者:濱田正美/巻数:全1巻/ジャンル:東洋史/2008年◆第383位『世界史リブレット109~イエズス会と中国知識人』評価:065点/著者:岡本さえ/巻数:全1巻/ジャンル:中国史/2008年◆第384位『世界史リブレット65~太平天国にみる異文
スウェーデン王、グスタフ4世アドルフは、ナポレオンとの同盟を悉く、拒否したため、スウェーデン領ポメラニアを失った。更に、ティルジットの和約によって、ナポレオンは、ロシア皇帝、アレクサンドル1世のフィンランド獲得を容認したために、第二次ロシア・スウェーデンに敗北し、フィンランドを失った。その結果、グスタフ4世は、完全に貴族及び、国民の信頼を失い、1809年3月13日、クーデターが発生し、宮殿において、逮捕されると、グリプスホルム城へと連行された。グスタフ4世の叔父、セーデルマンランド
◆第371位『ローマの起源~神話と伝承、そして考古学』評価:065点/著者:アレクサンドル・グランダッジ/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/2006年◆第372位『メロヴィング朝』評価:065点/著者:レジーヌ・ル・ジャン/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/2009年◆第373位『ラングドックの歴史』評価:065点/著者:E・ル・ロワ・ラデュリ/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/1994年◆第374位『スロヴェニア』評価:065点/著者:ジョルジュ・カステラン/巻数:
日本は火山国なので東の金、西の銀で西洋より金の産出高が高く金銀交換比率が低く金目的で大量に銀が流入したせいで元禄頃は凄まじいインフレになってました。民主主義が機能している国は封建制度が高度に発達して経済も高度に発達機能している国なんですよね。経済も経済でキチンと生きていく為にも個々人はしっかりしないといけないですから。律令制や日本の幕府が崩壊した原因は汚職とNo.2の下位権力が上位権力を傀儡化しての崩壊なので、室町幕府では鎌倉幕府の将軍から執権から連署から内管領で崩壊した反省に三管領にし
◆第361位『渤海国~東アジア古代王国の使者たち』評価:065点/著者:上田雄/巻数:全1巻/ジャンル:東洋史/2004年◆第362位『春秋の名君』評価:065点/著者:宮城谷昌光/巻数:全1巻/ジャンル:中国史小説/1996年◆第363位『戦争の日本史07~蒙古襲来』評価:065点/著者:新井孝重/巻数:全1巻/ジャンル:日本戦国史/2007年◆第364位『戦争の日本史08~南北朝の動乱』評価:065点/著者:森茂暁/巻数:全1巻/ジャンル:日本戦国史/200
久しぶりの連日通学スクーリングでした。冬スクは1科目あたり半日講義が6日間です。やはり6日間は長いです。半日でも後半は疲労が蓄積しました。仕事の合間に講義を受けているのでより疲れが増すのかもしれません。身体と頭は疲れましたが、楽しく学べました。おすすめ度★★★★★講師は渡辺先生、参加者は200名弱でした。講義はとても丁寧で進行スピードもゆるやかでした。適宜ポイントを振り返りまとめてくれたりと、できるだけわかりやすく伝えたいという気持ちが伝わる講義で、初学者にもおすすめです。難易度★★易し
1807年7月のティルジットの和約後、ベルナドットは、ハンザ都市総督及び、総司令官に任命され、ハンブルクに司令部を置いた。ベルナドットの第1軍団の指揮権は、新たな帝国元帥、ヴィクトールに委ねられることになった。そして、以降、ベルナドット元帥は、軍団規模のフランス兵の指揮権を与えられることはなかった。ナポレオンは、ベルナドット元帥に、大陸封鎖令を北ドイツに施行させ、各港湾都市とイギリスとの貿易を阻止し、代わりにフランスとの通商を行わせるように命じた。更に、イギリス軍のデンマーク上
昨日は月一の勉強会。今は西洋史&西洋美術史におけるジュエリーの勉強をしておりまして、ようやくロマノフ王朝まで進みました。先生は歴史が好きみたいで、よくこんな細部まで調べてくるなぁと感心しておりますよ。ピョートル大帝の話は結構好きかも。2mの大男だったんですって。この人、ロシアからヨーロッパ漫遊して実際に自分で色んなことをやってみて、帰ってから学んだことを実践し、国を変えた人だと言うね。そして、オルロフダイアモンドの話が出ました。199.60ctの小型の鶏卵を
1804年5月、ナポレオンに批判的な将軍と目されていた、ベルナドットは、ナポレオンに招かれ、自分の味方になる様に説得された。ナポレオンは、ベルナドットに、共和政は、最早、再興不可能であり、革命の成果を守るには、ナポレオンのフランスの帝政化により、再構築を行うしかないと説得したのである。ベルナドットは、「選べる道は、一つしかありませんでした。私は、ナポレオンに好意を抱くことはできないが、忠実に協力すると約束しました。この言葉を守るつもりです」と、レカミエ婦人に語った。ナポレオ