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続いて、当ブログ2022年1月17日に書いた「“闘将”というイメージを作りあげ、チームをまとめあげた星野仙一監督」を以下に再録します。***ひとつ前の当ブログで書いたように、1974年、ついにジャイアンツの10連覇を阻んだ中日ドラゴンズの優勝、その瞬間にマウンドで吼えた星野仙一投手の姿が今も忘れられません。気迫あふれる投球を見せた星野仙一投手ですが、同時代の他チームのエース、江夏豊さん(タイガース)や平松政次さん(ホエールズ)といった投手に比
西本幸雄1920年4月25日~2011年11月25日和歌山県和歌山市出身左投左打1961年11月に阪急ブレーブス一軍コーチに就任し、1962年11月に監督に就任した。阪急ブレーブスは戦前からある老舗球団だが、成績は南海、西鉄、毎日と下位の東映、近鉄に挟まれ強くも弱くもなく、灰色の球団ともいわれた。そんなチームを大毎時代と同じように鍛えに鍛えた。「打てるチーム」を目指し、当てるバッティングではなく振り切るバッティングを提唱し、福本豊のような小柄な選手にも「振り切れ!」と
Q.給料日に真っ先にすることは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようA.色んなものの支払い…だな*アメブロさんからは「初任給の日」にちなんだクエスチョンを振られたんですけどお金の話をすると悲しくなるのでここでは取り上げませんです…ハイ☆ランキングに参加しています各ジャンルをクリック👇ポチッとしていただけるとありがたいですその1…その2…4月25日・DNAの日…(No.7612)→ん…ちょっと違くないか…⁈まあ、自分的には好きなんだが…しかし
西本幸雄1920年4月25日~2011年11月25日和歌山県和歌山市出身左投左打野球で名門だった旧制和歌山中学に入学。1938年に立教大学へ進学その頃は監督が就任しておらず、西本が監督のような役目でチームを牽引した。学徒出陣で戦場へ行き、復員後、社会人野球部を転々としながら星野組に移籍し、1949年監督兼一塁手として第20回都市対抗野球に出場し優勝した。当初星野組は、プロ野球に参入しようとしたが業績悪化のため断念。そこに参入が決定していた。そして、毎日新聞社
昨年、大阪近鉄バファローズに在籍したことのある最後の選手だった坂口智隆選手(ヤクルト)が現役を引退しました。これで、近鉄時代を知る現役選手はゼロとなりました。今年9月には、近鉄バファローズの1979年に初優勝、1980年の連覇の時のメンバーだった平野光泰さんが亡くなりました。また一つ、近鉄バファローズの面影が消えました。2004年に球団が消滅した近鉄球団について、個性派ぞろいの猛牛戦士たちを率いてきた歴代監督を振り返りましょう。近鉄は現在の2リーグ制となった1950年に、「近鉄パールス
結果論ではなくひらめいたことは直ぐ文字に残しておく8割ボケおじさんの観戦記シリーズ第4弾シリーズ第3戦伊藤将のセンスと気の強さが裏目ピンチをしのぐかどうかは分からない。(※追記;送信直後痛打される)並の内野ならピッチャーの送球エラーで仕方ないが到底届かぬ高い送球じゃないのだしあれはショートにカバーして欲しいね併殺もあり得たプロのプレーもう一段レベルアップは必要鎌田実さんならどう解説されただろうか。その昔、同じような谷村智啓投手の送球エラーに対して
1950(昭和25)年毎日オリオンズでプロ野球のキャリアをスタートした西本幸雄は1960(昭和35)年、監督となり(大毎)オリオンズを10年ぶりにパ・リーグ優勝を飾り、日本シリーズに臨んだが、三原脩監督率いる大洋ホエールズにまさかの全て1点差の4連敗・・・。日本シリーズの采配に口を出した個性の塊永田雅一オーナーとぶつかり、「売り言葉に買い言葉」で辞任してしまった。西本幸雄は実直の人だ。根回し的なことや、政治的な駆け引きが得意な指導者ではない。派手で狂言回しのような永田
八四年、パ・リーグで三冠王を獲得したのは、阪急のブーマー・ウェルズだった。その年のオールスター第三戦(ナゴヤ球場)の実況で解説者の一人だった西本幸雄は時代を遡って、「相手のチームがね、ガイジンというものを意識してですね、後半に入ればかなりマークして、どうせ(三冠王を)獲られるなら日本人にという、そういう意識が働いてですね、かつてスペンサーがね、ひどい敬遠にあったことがあるんですね1」と述べている。これもよく知られた話だが、スペンサーに対して繰り返された敬遠四球を「ひどい」と感じながら、「
西本幸雄さん。闘将とはこの人のためにある言葉。「かわきゅう」のCMにも出てたね。阪神タイガースの監督オファーを断ったのが残念。イニングイーターの園川一美!打たれても、打たれても。マウンドを降りなかった。防御率が酷かったなぁ~。イニングイーターとしては優秀ですよ。評価されるべき。
ひとつ前の当ブログで、6月16日に亡くなられた北別府学さんが在籍した当時の広島東洋カープは選手たちはいい意味で「バラバラ」だったという話を書きました。同じチームとして、試合では勝利のために一丸となりますが、選手どうしは同じポジションやローテーションを競うライバルだという意識が徹底されていたのです。というか、かつては「同じチームでもライバル」というのは当たり前だったんです。以前にも書いたことですが、1975年のシーズン後に、江夏豊投手とのトレードで阪神にやって来た江本孟紀投手のエピソードです。阪
われらがバファローズは12勝9敗、首位のマリーンズとは1ゲーム差の3位タイとなっています。さて、先日4月25日、早稲田に所用があったのですが、夕方ふと思い立ち、少々寄り道をしました。西早稲田から歩いて、最寄りの都電荒川線(東京さくらトラム)面影橋停留所から乗車降りたのは荒川区役所前そこから徒歩約10分ほどここはかつて、東京オリオンズが本拠地としていた東京スタジアムの跡地です。撮影したのはかつてのレフトスタンド側から。ここに今、荒川総合スポーツセ
Q.給料日に真っ先にすることは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようA.色んなものの支払い…かな(笑)(引き落とし分以外のヤツ…)4月25日・初任給の日…(No.7085)→こんな枚数の諭吉先生、見たことないぞ…(笑)しかもオレの初任給もすでに振込みだったし…今、現金支給やってる会社ってあるのかな…お疲れ様です放浪するブロガーリハビリ適宜継続中bobbyです自宅療養生活?日目記念日ブログでございますなかなか毎日書けない記念日ネタ…せっかく復活し
巨人が低迷している。12球団最速で10敗を喫したのが、48年ぶり。48年前は、1975年=昭和50年。自分は小学4年生。広島がこれまで無かった帽子、ヘルメットを赤にしてリーグ初優勝。世間は赤ヘルブームに。方や巨人は前年に選手を辞めた長嶋茂雄さんが直ぐさま監督に就任したが、最下位に終わった。この当時。阪神ファンってより、アンチ巨人の度合いが強かった自分には喜びかつ驚きの1年だった。今年の巨人は、通常ユニフォームの背中を背番号のみで試合をしているが、これも48年ぶり。この当時。背番号の
今日からホーム開幕戦。筆者は業務小休止を利用して、大阪に喝入れしに来ました。初めて関空に到着。南海電車で大阪…を通過し、いつもの西宮北口。球場のホームベース、そして御大・大監督はじめ功労者たちにリーグ連覇と日本一の報告、そしてリーグ3連覇と連続日本一を祈願しました。これより京セラドームに移動します!よろしければクリックお願いしますm(__)m
西本幸雄さん。確か、サンテレビの阪神戦の中継を観ているとこの人のCMが流れていたな。日本料理の高級店だったかな。かなり昔の話。気が付いたら、日本ハムの監督もしていたな。この人が阪神の監督をしていたら野手も少しは育っただろうな。
歳上の方をどうこう言うのは、ましてや亡くなられてる方をとやかく言うのもどうかと思うが…個人的に仰木彬さん西本幸雄さん共に御二方とも、小さい頃から頭の素晴らしい方だなぁと野球の采配などを見てて感じてましたが…真実は知らないが…あくまでも監督されてる野球の感じ、印象を見てての感想ですが…SmartNewsで記事を開く"「これも天の定めちゃうかな」…西本幸雄と仰木彬日本一に届かなかった二人の名将が残した「至言」と、貫いた「男の美学」"https://share.smartnews
昨日の日本シリーズ第7戦で、オリックス・バファローズが東京ヤクルトスワローズに5対4で勝ち、4勝2敗1分けで日本一に輝きました。こちらが優勝が決まった瞬間のベンチ。そして中嶋聡監督の胴上げシーン。阪急・オリックスの歴史という観点から見れば1996年のオリックス・ブルーウェーブの優勝以来26年ぶり5度目の日本一です。しかし、「バファローズ」という名のついた球団の優勝は初めてです。近鉄バファローズは1979年、1980年、1989年、2001年と4度パ・リー
ひとつ前の当ブログの続きです。「オリックス・ブルーウエーブ」に入団1年目の鈴木一朗選手はウエスタン・リーグで首位打者を獲りながら、1軍に定着することはできませんでした。当時の土井正三監督は、のちに「振り子打法」と呼ばれる規格外のバッティングフォームを矯正すべきと思っていたのです。しかし、1994年から指揮をとった仰木監督は柔軟な頭を持った人でした。監督に就任した直後にウインター・リーグを視察し、イチロー選手の「眼の鋭さ」が印象に残ったといいます。「ある目的を持っている男の眼の色」と感じ、イチ
おそえも〜ん、貫さんっす!!時代劇専門チャンネルでこんなのやってました。かつてのプロ野球ニュースのオフの企画だと思いますが西本幸雄の水戸黄門関西テレビ制作のようで印籠は関テレマークでした。水戸黄門役は在りし日の西本幸雄に・・・助さん格さんは今も健在、福本豊に山田久志町娘はフジテレビ寺田アナに相手役は当時は阪急の投手だったであろう関口朋幸調べたら若くしてこの人、亡くなってるんですね…。悪役は代官の手下は山本一義、まんまのイメージこの方も亡くなりま
今月のベースボールマガジンの特集が西本幸雄監督時代の近鉄特集。1974年から1981年なので、自分が小学3年から高校1年までの時代。近鉄で最初に覚えた人は、太田幸司投手。当時は、高校野球の人気者だったことはよく知らなかったが、アーモンドグリコのCMに出ていたことで知る。西本監督時代の選手と言えば、鈴木投手、井本投手、佐々木選手、栗橋選手、小川選手、平野選手、ジョーンズ選手、マニエル選手等々が活躍。西本監督就任前は、リーグ優勝未経験だったが、昭和50年に後期優勝をし、昭和54、55年はリ
前回はダリル・スペンサーが日本で残した数字や略歴、後味の悪い三冠争いについて簡単ではあるが述べていった。そして今回は予告通りスペンサーが数字以外で日本球界に残したものについて触れていく。彼が日本の野球に与えたもの、その影響は数字以上に大きく、プロ野球を変えていったと言っても過言ではないのである。①サイクル安打という概念スペンサーは1965年7月16日の近鉄戦(西京極)でサイクル安打を達成する。しかし記者たちは特にそれについて質問をしなかった。当時日本においてサイクル安打が知られていな
西本幸雄1920年4月25日~2011年11月25日和歌山県和歌山市出身左投左打野球で名門だった旧制和歌山中学に入学。1938年に立教大学へ進学その頃は監督が就任しておらず、西本が監督のような役目でチームを牽引した。学徒出陣で戦場へ行き、復員後、社会人野球部を転々としながら星野組に移籍し、1949年監督兼一塁手として第20回都市対抗野球に出場し優勝した。当初星野組は、プロ野球に参入しようとしたが業績悪化のため断念。そこにプロ野球参入が決定していた毎日新聞社が
西本幸雄さんが関西テレビで解説者されていた頃は加藤英司さんも、関西テレビの解説者で、オリックスブルーウェーブの1996年の優勝試合の関西テレビの緊急中継も西本幸雄さんと加藤英司さんの解説だったと思います1996年オリックス優勝試合NHK-BS1DJの打席元西武ライオンズ監督の森祗晶さんは、不利なカウントからストライクを取りに行った時が一番怖いと解説されていますが実際そうなっていますグリーンスタジアム神戸のレフトフェンスにまだ関西テレビの広告があった時
1959年(昭和34年)第41回夏の甲子園大会において、北四国代表は、3年ぶり2度目の出場を果たした愛媛・西条高が出場。当時の北四国地区は、愛媛=松山商業香川=高松商業の強豪壁があり、全国有数の激戦区。ただ当時の地元新聞記事によると、西条高に対する世間の期待はさほど高いとは言えず・・よくて準決勝進出くらい・・の下馬評だったようです。その時の3番遊撃手で出場したのが森本潔内野手(2年)。身長168cmと小柄ながらパンチ力があり、選球眼も良いと、将来のプロ注目候補の
今週は、やはりこの話にしたいと思います。我が家にあったのは『ドカベン』でなく『あぶさん』と『野球狂の詩』、そして『白球の詩』でした。さらに言えば『野球狂の詩』は、「史上初の」女子プロ野球選手・水原勇気が登場する以前の部分まででした。このラインナップを見ると、生前の父が高校野球にはさほど興味がなかったことと南海ファンであったこと、さらには女子が野球をするという感覚に違和感を覚えていたことがわかります(息子は、そうは育ちませんでしたけど)。自宅近くの西武球場に西武対南海を観に行った際、三塁
ひとつ前の当ブログで書いたように、1974年、ついにジャイアンツの連覇を阻んだ中日ドラゴンズの優勝、その瞬間にマウンドで吼えた星野仙一投手の姿が今も忘れられません。気迫あふれる投球を見せた星野仙一投手ですが、同時代の他チームのエース、江夏豊さん(タイガース)や平松政次さん(ホエールズ)といった投手に比べると、すごい剛速球やこれぞという変化球があったわけでもありません。(テレビで観ているだけでも江夏さんのスピード、平松投手のシュートは凄かった!)それをカヴァーしていたのは、やはり気迫を前面に出
昨日1月14日に、今年の「野球殿堂」入りの人が発表になりました。プレーヤーズ部門で、高津臣吾さんと山本昌さんが選ばれました。高津さんは現ヤクルト監督、日本一、正力賞に続いて「殿堂入り」、すごい一年になりましたね。さて、映画関係者で一人だけ「野球殿堂」に入っている人がいます。もうお分かりですね。大映の社長、永田雅一さんです。かつて映画が娯楽の王様だった時代には、松竹、東映、大映と3つも映画会社が持つ球団がありました。中でも大映の永田ラッパ社長は最も球団経営にも熱心なオーナーでした。黒澤明さんを招