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おはようございます。気温は10,0℃、天気は曇りです。長い急坂を登って、山頂に到達しました。ここに何があるかというと、西南戦争の前に熊本の旧武士がおこした「神風連の乱」で、熊本城での蜂起で負けた烈士が、この山の山頂で城を見ながら自刃した場所なのです。さすがに山頂は手入れされています。ちょっとした休憩所もあります。但しトイレはありません。こちらは大岳神社の祠です。血溜まりの塚とは、少し不気味ですね。さて帰り道は登りより危険です。枯葉で足が滑って、何回か転び
おはようございます。気温は6,4℃、天気は晴れです。次の場所も西南戦争に関係する場所です。宇城市三角町にある郡浦神社。ここは古い歴史書にも出てくる由緒正しい神社です。肥後三の宮という歴史があります。境内の銀杏の落ち葉が美しいですね。どうもわざと土の部分に残しているようです。近くで清掃している近辺の方もいました。境内には銀杏の説明書きがあります。ここには、本日の本命である大岳山で自刃した烈士の慰霊を祭ってあるようです。その大岳がこの山です。今から登ります。
導入:六・七巻の位置づけ司馬遼太郎の大作『翔ぶが如く』は、西南戦争へと至る激動の時代を描いた作品です。六巻・七巻では、神風連の乱や萩の乱、そして西郷隆盛の挙兵へと至る過程が描かれ、明治維新後の社会の不安定さが鮮やかに浮かび上がります。本記事では、両巻のあらすじを整理しつつ、作品から感じ取れるテーマを考察してみます。六巻のあらすじ|神風連・秋月・萩の乱台湾出兵から帰還し、琉球を日本領と認めさせる外交的成果神風連の乱熊本では思想の違いから「学校党」「実学党」「敬神党」に分裂。敬神党の一
2025年11月26日(水)半高山293.8m1/2回目熊本県玉名郡玉東町半高山は、玉東町の南側にある標高293.8mの小高い山です。山頂部は、西に有明海、東に阿蘇をパノラマで見渡すことができる絶景ポイントで、車でアクセス可能です。周辺は、明治10年西南戦争の激戦地となった場所でもあり、関連する石碑等が点在しています。ハゼの紅葉三角点標柱コンクリート桝に入ってます。「蓋」を上げて三の岳名前?広ーいミカン畑の中を下りて行きます。2回、柵の開閉に
上野彦馬の生涯を追っています撮影局を開業した彦馬ですがその後精力的に写真を記録として撮りまじめますまずは金星の太陽面通過の写真です彦馬は写真として残す事で記録しようとしたのです彦馬の写真への興味はポンペから学んだ化学がスタートです彦馬は一化学者としての興味と使命から金星の太陽面通過という高度な技術にも挑んだのですそして西南戦争の戦跡写真ですこれは政府からの公的依頼でした政府は近代兵力の戦いだった西南戦争での兵器や兵士の跡などを記録させました彦馬も純粋な使命感と
【明治時代】214西南戦争と西郷隆盛の最期【日本史】自衛隊の階級が変わる!①11月13日木曜日の産経新聞のトップページには、「自衛隊の階級名変更政府検討来年度中にも法改正」と書かれていました。国民の皆様、おはようございます。産経新聞のトップニュースを見て、こんなことを感じました。明治時代の西南戦争で、西郷隆盛は死にました。その当時、日本は朝鮮を併合していました。ところが、朝鮮人は日本の言うことを聞きません。朝鮮をどうしてもこらしめる必要があったのです。西郷隆盛は
司馬遼太郎の『翔ぶが如く』、ついに読み終えました。長かったけど、本当に読んでよかった!西郷隆盛と大久保利通。どちらも薩摩出身で、一緒に明治という新しい時代を作ったのに、最後は悲しいほどに離れていくんですよね。最初は「歴史小説って難しそう」と思ってたけど、読み進めるうちにすっかり引き込まれました。司馬遼太郎の文章はとにかく人間くさい。西郷の優しさ、大久保の孤独、それぞれの「信じた道」が痛いほど伝わってきます。とくにラストの西南戦争の描写。あの静けさの中にある悲しみが、胸に刺
一旦目覚めたのが3時で、今朝は7時に起きた。ウェイン・ショーターのアルバム「モト・グロッソ・フェイオ」をレコードで聴いた。朝食は青森県産まっしぐら8割に麦2割でご飯炊き、おかめ納豆と海苔で一膳半。デザートは宮崎産極早生みかん。グレープフルーツジュース飲みながらシーラ・ジョーダンのアルバム「コンファメーション」をレコードで聴いた。昼食は池之端「ラフたす」に行き、注文したのは美笑牛ハンバーグランチ。サラダ、ライス、デザートに黒豆きなこアイスクリームとパイナップル、コーヒーが付いて2200円
『1180.玉名巡り~宇都宮神社~金の屏風•春風』暗い朝に目が覚めた時計を見ると5:55おー!ゾロ目に反応10/21新月5のゾロ目ではじまったこの日はまだ巡った事のない熊本県北部、玉名巡礼を予定していた今回…ameblo.jp続き⬇︎二社目は、繁根木八幡宮へ!ここは以前に近くを通った時お見かけし主人の心に残っていた神社だった神社駐車場から正面鳥居へ向かう前に稲荷神社があったのでご挨拶参りへこちらは蚊がいたので我慢できず手を合わせ直ぐに去りました【繁根木八幡宮】ここ、繁根木(
今年の夏に放送された、某テレビ局が制作したドラマが「歴史の歪曲」と批判されているとの新聞記事を読んだ。ドラマ中で描かれた人物の御子孫が、テレビ局を相手に訴えを起こす方針だという。これを受け、「ドラマによる歴史の改竄は許されるか?」と銘打ったシンポジウムが開かれたとも。歴史に材を採った物語制作が宿命的に抱え込むこの問題は、物語制作に携わる者にとって悩ましい問題であるだけに、考えるための豊富な材料を与えてくれもする。先人たちはこれとどう向き合ってきたのだろう。明治10年
二泊目は「城山ホテル」。高台にあり錦江湾や桜島、鹿児島市内が一望できます。学生の時に鹿児島へ行ってもは見上げるだけの高級ホテルの一つです。市内を通って桜島フェリーで一路、桜島へ出発。西郷さんが自刃するまで過ごした洞穴。市内の石垣。市街戦の時の弾の痕が残っています。私達が一度は見ておくべき歴史跡。熊本にある「田原坂」にも戦の時に銃痕。ここには弾と弾が空中で衝突して変形した弾が展示されています。政府軍には「電信」があり西郷さん側は通信兵が馬で情報を伝えていたとか。戦争はしたらダ
少しずつ🤏バレてきているね。今では奥手(?)の私でさえ知っている。https://x.com/kharaguchi/status/1874086735648620605明治維新は、薩長の藩閥(傀儡)が権力を握り中途半端な形で終わる。それまでの日本の文化や宗教、風土といったもので、明治を通して破壊されたものがどれだけあっただろうか?江藤新平侯(佐賀の役)西郷南州侯(西南戦争)は、失敗に終わる。…https://t.co/X86IyIoSzR—原口一博(@kharaguchi)
一路南下して鹿児島城へ島津家久が築城した(1601)別名鶴丸城は防御に優れた山城と館づくりの居館を組み合わせた強固で広大な城藩主の居館は城山を背後に三方を堀と石垣で画し、前面は御楼門そして左右に櫓が配された構造御楼門場内からの眺めテレビドラマの影響か、篤姫の存在感大でした広大な本丸、二の丸跡本丸跡には歴史美術センター黎明館二の丸跡には図書館や美術館などが建っています規則的な積み方が美しい石垣
時間は1時間ほど。西南戦争記念館に突入。北海道よりも沖縄よりもここに来たかった下の。すまん。ブレてます。廃刀令。西南戦争ってのは特権が次々奪われた士族の不満が爆発した乱。征韓論に敗れた西郷さんが鹿児島に戻り士族を引き連れ率兵上京。その際一番激しい戦いが行われた場所がここ田原坂。熊本城にも総攻撃を仕掛けその後は兵糧攻め。ここ田原坂は官軍が物資を輸送するのにも重要なルートでその攻防戦が田原坂の戦い。当時の戦いの雰囲気。緊張感を醸し出す展示物が秀逸。こんなのどかな場所で壮絶な
お城や陣屋を構成する「城郭建造物」の中に建つ「蔵」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくる
おはようございます。昨日、9月24日は西郷隆盛が西南戦争で鹿児島の城山に立て籠もり自刃した日です。https://newsdig.tbs.co.jp/articles/mbc/2185378?display=1一昨日は西郷さんの史跡を巡るツアーもやったという記事が掲載されていました。毎年やっているんですね。幕末から明治。激動の時代を駆け抜けた西郷さん。倒幕の立役者であり、日本最後の内戦の首謀者でもある。自分の中でも評価が定まりませんが西郷さんを含む旧薩摩藩士たちの御墓が全部東を向
父がようヘボ大阪とか大阪のヘボ侍と言うてたのを思い出しますねヘボヘボいうな大阪はどうでもええけど一応関西なんやしと思ったのを思い出しますまあ京都やないし京都の悪口言われてるんやないから大阪だから京都の何時も大阪は盾になってくれとるから感謝感激雨霰です西南戦争でヘボ侍と言われながらも大阪頑張ったんやてねいまでゆう志願兵ゆうのやね史実をもとにして物語いうのがあるのだからあれは面白いと思うけどねぶんぶんぶんぶんぶんいうなうっとしい思うけどねシューしてやるシュー
今日9月24日は、西郷隆盛の命日です。明治10年(1877年)木戸孝允について書いたので、西郷隆盛についても書かざるをえません。維新の三傑の一人で、三傑のトップに崇められているようです。私は歴史に疎いのですが、私の頭の中では、西郷がいちばん活躍したのは、王政復古から、戊辰戦争のあたりではないかと思います。なにしろ仲間や部下から崇められることが多く、また軍事に強かったようです。革命には戦争がつきものですから、幕末・明治維新には戦争が行われました。戊辰戦争では、討幕軍のトップ、相手
家康と三成。家康は豊臣家を滅し、世界史上例のない260年戦争がない平和な世の中の礎を作った。だが、家康は、本心では三成も豊臣家も本当ならば滅したくなかったのではないか?西南戦争の西郷さんもそうだけど、人間は、そうなってしまったら、綺麗ごとだけでは済まされない、というのを、今日は家康に言われている気がした。
9月24日は、西郷隆盛の148回目の命日~我が家に西南戦争で官軍が立ち寄った1877(明治10年)、西郷隆盛を立てて、薩摩士族が明治政府に反旗を翻した。西郷軍は、総勢約3万人。これに軍夫や民衆が続く。つまり、兵站(軍事物資、糧秣など)なくして、戦争ができない。西郷軍は、「西郷札」という私製の紙幣を発行して物資を調達した。また、鉛を溶かして、弾薬を作る有様だった。熊本城は難攻不落の城だった。「銀杏城」と言われたという。谷干城は城内に立てこもり、救援隊を待った。西郷軍は北上し、田
維新ふるさと館とても良かった!維新体感ホールではただ上映されるだけでなく、アンドロイドで動く西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬、登場してが薩長同盟、西南戦争、当時の出来事を再現。撮影禁止なのでHPより↓近代化に貢献した薩摩の技術だったりクイズで当時のことを学べる郷中教育ゾーンでは遊べる電信機に挑戦入館料も安いのに二階建てでまだまだ見どころ学びどころいっぱいそこから路面電車で移動して西南戦争の銃弾後が残っている西郷どんが作った私学学校前へ行き徒歩で移動し鶴丸城(鹿児島城)
司馬遼太郎『翔ぶが如く(四)』(『司馬遼太郎全集第三十八巻』)長かった~。そもそも西郷隆盛の一代記だと思っていたらそうではなかった。司馬さんは歴史上の人物の伝記ものをよく書かれるが、その人物のある一定の期間を切り取って作品に仕上げる事が多い。その切り取り方が独特。今作は、明治維新成った後、西郷が「征韓論」という政策を提案したものの、取りあげられず、官を辞して故郷・薩摩に帰る辺りから始まる。つまり、西郷隆盛が政府に反乱を起こして賊となり事実上自死するまで。
ライバル剥き出しの両県人このタイトルを見て、「あ~あの話か」と思われた年輩の方は多いでしょう。「お互いにライバル意識を剥き出しにする」と言う話で・・・別の言い方をすれば「仲が悪い」とも言えるし、逆に「良き競争相手」とも言える。先に申し上げておきますが、これは当時(昭和)に「そう言えば、そんな話があったな」と言う一時期の状況であり、現在(令和)の若い人は「そんな話は知らない」と言う人がほとんどだと思う。福岡の生まれ育ちの僕が、このことを意識したのは会社人生の中半だった。支店の
京王線西調布駅にやってきました。この地は新選組の近藤勇局長の生誕地として有名です。西調布駅のすぐ近くの西光寺。600年以上歴史ある寺院です。この寺院には、近藤勇局長の座像があります。近藤勇局長は、上石原村の宮川久次郎の三男として天保5年(1834)に生まれました。父の影響で15歳の時に天然理心流に入門、16歳で近藤家の養子となり、27歳で結婚、28歳で天然理心流の4代目を襲名しました。30歳の時に清河八郎の献策により召集され上洛、新選組結成に至ります。35歳で下総流山で官軍に投降、
今日も36度の予報やんけ?どないやねん?さあ!今日はなんの日(^o^)/今日は噴水の日・・・この暑さ・・・噴水は涼しげ(😊)/でも・・・お湯が出てる(苦笑)1877年(明治10年)のこの日、東京・上野公園で第1回内国勧業博覧会が開催されたそうです。会場中央の人工池に日本初の西洋式の噴水が作られた。博覧会の開催日が8月21日で、噴水が落成したのは9月8日であったそうです。西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われたそうです。この博覧会は、日本が参加した1873年のウィーン万
戦争末期の新聞記事にもこういうのありましたね。「女たちも勇ましく竹槍訓練」とか。古くは西南戦争の西郷軍にもあったとか。こういうプロパガンダが出てくる時点でもう負け戦は確定でしょうね—いいやま(@koayu01)2025年8月20日
力のあるものが全てを支配する法律や友愛が消し飛ぶ現実ウクライナは元々ロシアのものと言ってのける傲慢北方四島は元々日本のもの千島列島ですらない相手を人として尊重することもなく我が意の範囲内で付与される権利と言わんばかり暗澹たる気持ちになるこの現状を打破するのは狂気の如くな熱情かも知れない短絡的には革命か明治維新も革命大政奉還も革命西南戦争も革命独裁者が恐れおののくものは何だろ裏切り者への疑心暗鬼やられる前にやる反逆者内に秘められた民衆の気持ちの反感拡大志向を
征韓論自体は幕末に出ていた論だが、明治維新後、対ロシアにおいて朝鮮を独立させることが必要であると考えていた。幕末の頃、吉田松陰や橋本左内らは占領を考えていたが、それに譲歩する。西郷隆盛や江藤新平や板垣退助らは、まず鎖国している朝鮮に使節を送って国交を開かせると言う立場をとっていた。使節が討たれれば当然戦争と言う立場。その使節として西郷隆盛が行くと言う。一方、大久保利通や岩倉具視らは、清国と戦争になる可能性もあり、今は余計な戦争をせず国力を増して富国強兵に務めるべきだと主張した。
単独で、好きなようにお散歩する残り2日になりました…。孫も可愛い、魚も旨い、精神的なストレス皆無、帰りたくない…😓と、相変わらず城方面へお散歩✨城山稲荷神社丁寧にお参りします。小泉八雲が愛したお狐さん達護国神社西南戦争と関わりのありそうな趣の違う灯籠続きます。
【問題。】西南戦争において、熊本城を守備を指揮したのは誰か。①山県有朋②黒田清隆③谷干城④板垣退助今回は選択肢的に簡単かな。【答え。】③谷干城熊本鎮台司令長官である陸軍少将・谷干城が指揮をしました。現在、熊本城の近くに像が建ちます。熊本城、懐かしい。以城。