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こんにちは、philosophiaです師走の攻城TRG日向・薩摩の続編です。西郷さんの銅像を左手に見ながら進むと、鶴丸城(鹿児島城)の二之丸に<県立図書館>が見えてきます。そして、<鶴丸城黎明館>の案内板境目がよくわかる二之丸(左)と本丸(右)の石垣歩道上に石垣のオブジェが新設され構造がわかるようになっていました!<金場取残し積み><亀甲積み><算木積み><復元された御楼門>が見えてきました♪石垣は、典型的な布積みですね!<鶴丸城御楼門>
B154<西郷隆盛との歓談>230204歓談002<西郷隆盛との歓談>230204歓談阿山>メッセージをお願いします。西郷隆盛>ただ見とっちゃダメだと日本を変えていくためには、1人ずつが発言しないかん言いたくないことを言っていかないといけない。誰かを守るという事はそういうことじゃ政府の悪行とか、いわゆるコントロールに対してもそうだ。みんなおかしいと思ったことをおかしいと言える。そういったこと今の時代はまこと言えるんじゃないか?
1876年・・・明治9年の今日・・・大礼服着用者、軍人、警察官以外の者の帯刀を禁止する「廃刀令」が発布されたそうです。明治時代になって、士族の時代は終りを迎えます。日本は、急速に西洋文化を取り入れ文明開化の時代を駆け抜けていく中、明治4年には、断髪令が出されました。当時は「ザンギリ頭をたたいて見れば文明開化の音がする。」という言葉も流行ったそうです。この廃刀令もそのひとつで、刀は野蛮なモノとして扱われたそうです。大礼服着用者や軍人、警察官以外は刀を持つことが禁止されました。身分も奪われ・・・
「越すに越されぬ田原坂」せごどんは何を思案したか?せごどんは何を目指したのか?勝てば官軍、負ければ賊軍?土方歳三も…銀の匙
玉東町役場に車を停めて玉東三山の木葉山(標高284m)、高塚山(標高359m)、松ヶ平山(標高383.2m)を縦走しました。木葉山と松ヶ平山の山頂からは180度の展望を得ることができます。木葉山には雨乞いの神様、霊雨山神社が鎮座しています。霊雨山神社からは玉東町が一望できます。眼下の玉東町一帯は西南戦争の激戦地で、「西南戦争遺跡」として国の史跡に指定されています。半高山・吉次峠、横平山の古戦場があり、すぐ近くに田原坂もあります。吉次峠は薩軍の篠原国幹戦没の地です。西
おはようございますチェックアウト今日は家に帰りますホテルの近くなので寄ってみた千人殺し言うのでどんなのんなと思ったら石垣が崩れて千人やっつけるがやと・・・・地震でもきたらやね延岡市大分へ向かう道中さらに寄るってみた西南戦争で西郷隆盛が政府軍との戦いで最後に陣をとった宿やと結局闘いを諦め解散夜逃げで鹿児島へ帰ったが政府軍に追われ自害大分へおぅ~臼杵市lunch美味しそうなパン屋発見寄ってみた美味しそうなので夕食にゲット佐田岬メロディーライ
2/21.22バスで通過。車窓から。鹿児島城跡。御楼門は2020年4月に復元されたそう。私学校跡の石塀。西南戦争の銃弾跡。無数の弾痕が!
太陽のスペックこれのおかげで自然が今のようになっているこれはちょっと高騰向けか?とすると、ご先祖たちがなんとか私の両親まで繋いできたこと。そんなに遡れないが、西南戦争で戦死した人もいる。そして、運。よかった気がする。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
西南戦争記念碑そういえば、明治維新、西南戦争で松江藩はどんな立ち位置だったのだろうか?調べたら楽しそうだ!月見櫓南門から城をでます、千鳥橋今日目指したのは、萬天堂https://www.marutayawa.com/mantndo_index.html日替わり弁当萬天堂日替わり弁当専門の萬天堂。お肉・お魚・野菜が入ったお弁当が一種だけ。「今日のお弁当何かな~」って楽しみにしてもらえるようなお弁当を目指してます!www.marutayawa.com日替わり弁当のお店です。
スワロフ、オスラービア、アレクサンドル3世、ボロジノ、ナワーリンほかほとんどの戦艦が海中に沈んで……。再放送のNHKドラマ『坂の上の雲』がまもなく終わる。私は15年前の放送を観ておらず、今回初めて観た。小説に比べコンパクトだが、東郷と真之のシーンは胸を打たれ、戦いのシーンは迫力があり戦争の恐ろしさがかいまみえ見応えがあった。個人的にいうと、大好きな役者、米倉斉加年さんの大山巌が見られたのでよかった。それだけでも甲斐があった。コンビを組んだ児玉源太郎役は高橋英樹さん。ご両人は、大
上野彦馬の上野撮影局の撮影料金は決して安くはなかったとされていますが彦馬の上野撮影局には先の坂本龍馬に高杉晋作更に長崎へ来崎した商人トーマス・グラバー等通訳士に商人、志士などが続々と撮影に訪れたといわれます(撮影料は銀二分とされその価値は1/2両程で当時の価値で2千円程になります)それでも上野撮影局は県庁職員の平均年収が150円の時代に年収15000円あったとされますここから考えても上野撮影局はかなり潤っていたとされますまた同時期、彦馬はかなりの門弟を抱
朝ご飯を食べたら、ホテルを出発❗️今日は1日、鹿児島観光に出掛けます。連泊なので、荷物をまとめなくていいので楽チンです。連泊サイコー♪出発して20分程で、鹿児島の端っこにある「開聞岳」が見えてきましたおお〜〜、見事な三角形△ですホテルから30分、着いたのは竜宮伝説で有名な「枚聞(ひらきき)神社」境内には、露店がいっぱいまずは、手水で清めてからご参拝🙏おみくじを引いてみたら、末吉でした浅草寺の、凶を払拭出来て良かったバスへ戻るとき、露店を見て歩きました。中でも1番気にな
こんな田舎に住んでいますよ。山の中ょ!西南戦争史跡・・・毎日眺めています。可愛岳(えのだけ)俵野畑の草取りが終わり、長靴を履いて散策してきました。3kmで到着西郷隆盛魂に触れるドラマ大型駐車場もありますが・?最近は観光客が少ないようです。西南戦争最後の決戦地・・俵野西郷隆盛青空テーマ館ドラマの舞台を見いに来てください畑にヤカンが転がっていたら声をかけてください
福地源一郎の続きです日報社に入社した福地は同社発行の「東京日日新聞」の社説担当します更に新聞紙面の改良を行います(「東京日日新聞」とは現在の「毎日新聞」の旧題名です)紙面改良で発行部数は「東京日は紙面」の部数は飛躍的に伸びました福地は政府系の新聞として漸進主義を唱えます(急激な手段を避けて順を追い徐々に目的を達成する立場)こうした福地の社説などはリベラル系の新聞等から保守主義、御用主義と批判されますがその効果もあり政界と親しくなりました1875年(明治8年)に
2013年12月11日玉名駅から鹿児島本線で八代駅まで戻ります。途中で田原坂が見えました。映像が良くないのですが、左側に田原坂の看板が見えます。西南戦争は明治10年1月29日に西郷隆盛を盟主にして起こった武士反乱で、日本最後の内戦です。9月に政府軍に鎮圧され、西郷隆盛は自決して終結しました。政府軍側の熊本城を包囲する西郷軍に対して、新政府側の乃木希典が率いる第14連隊が派遣され、一部が衝突しますが、乃木隊は主力部隊の到着まで高瀬(玉名市)迄退却していたところ、西郷軍の迫撃を受けて
2月15日、西南戦争の始まりと熊本城の歴史に想いを馳せる2月15日は、西郷隆盛率いる薩摩軍が鹿児島を出発し、熊本城へと進軍を開始した日。この出来事は1877年、西南戦争の始まりを告げるものでした。当時、西郷軍1万3000人が熊本城を攻めましたが、わずか3500人の政府軍が堅固な城を守り抜きました。その象徴とも言える熊本城、実はただの「お城」じゃないんです!熊本城は、あの加藤清正が築いた難攻不落の名城。ほぼ垂直にそびえる石垣や、複雑な道のり、そして長期籠城を想定した1
よく家に置いてるお菓子は?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようヨメさんが何かしらのお菓子を置いてますね、珈琲タイムで頂いてます…全国菓子工業組合連合会が毎月15日を「お菓子の日」に制定しています…🍿毎月行事ですね…「春一番名付けの日」…🌬️「春一番」という言葉が初めて使われた事を記念した日だそうです…🍃諸説あるそうですが、1963年(昭和38年)2月15日の朝日新聞に「春の突風」という記事があり、これが「春一番」という語が新聞で初めて出たそうです…📰還暦世
現在、詩吟に没頭中の吉武大地です。先日の大会は悔しい準優勝でしたが...一応NEXTSTAGE進出です!場所はお馴染み「目黒パーシモンホール」今2つの詩吟コンクールにエントリーしておりまして、この日本吟剣詩舞の大会の方は今回が目黒区予選ということでしたが、一先ず入賞することが出来たので次は都大会に進出!こちらは「凱旋」という日露戦争が描かれた作品で勝ち残っております。そして今週末、もう一つのコンクールではまた違う漢詩を吟じます。1877年の九州、西南戦争最終決戦の地"城山"での西
原作:和月伸宏、監督:駒田由貴、脚本:倉田英之、制作:ライデンフィルム。第四十二話「翔ぶが如く」志々雄のもう一つの狙いが大阪にあると気づいた剣心と一。そこに左之助も合流する。京都大火を阻止するため、葵屋の面々に手紙で協力を仰ぐ剣心。京都での現場指揮を警察署長の荒戸流作に任せる一。用を済ませた三人は馬車で大阪湾に向かう。そして老警官の近江彦左衛門は荒戸に面会したいという十一歳の少年・北沢十郎を連行してくる……。<雑感>あと37分のところで終わった。御庭番衆が京都に残っ
滝田洋二郎監督による日本の時代劇映画。出演は中井貴一、佐藤浩市、三宅裕司。<あらすじ>その男、名は吉村貫一郎。幕末の混乱期に、尊皇攘夷の名のもと、京都府中守護の名目で結成された新選組の隊士である。幕府の力が弱まるにつれ、明日をも知れない運命に翻弄される隊士たちの中で、貫一郎はただ一人、異彩を放っていた。名誉を重んじ、死を恐れない武士の世界において、彼は生き残りたいと熱望し、金銭を得るために戦った。全ては故郷の妻と子供たちを守るためだった。大義名分、権力、名誉。そんなものはど
おはようございます。単行本を買って読んでいる漫画の中にこういう漫画があります。フォーロンホープ。西南戦争の時に導入された警視庁抜刀隊をモチーフにしたお話です。当時、軍隊は平民、つまり元武士のひと以外で編成されていて(幕末の長州藩の奇兵隊や大村益次郎による新政府軍の考え方によるもの)武士は基本的に軍に入る事ができませんでした。代わりに犯罪を取り締まる警視庁(今の警察)に所属していたわけですが西南戦争時の薩摩軍の抜刀しての接近戦が強力で戦線が膠着したために時の政府軍がこれに対応する為
感謝してます♪雪が降ったり止んだりの一日。今日は西郷隆盛と西南戦争で亡くなった方々のお墓のある南州神社に参拝してきました。鳥居の真ん前が西郷隆盛の墓になります。毎回ここに来ようとしても来れなかった。で、タイミングが今日だったんだなってわかりました。雪がすごかったのにここに到着したと同時にだんだん晴れてきたんです。ここには1時間近くいたと思います。階段をあがって正面が神社になります。南洲神社に来て思ったのは西郷さんの墓の周りにたくさんの私学
前回はこちら城山展望台の後、城山バス停からカゴシマシティビューで薩摩義士碑前バス停まで乗り、歩いて鶴丸城跡・鹿児島県歴史資料センター黎明館に行きました。御楼門です。「薩摩は人をもって城となす」の説明板です。西南戦争の痕跡です。西南戦争の痕跡の説明板です。黎明館の入口です。黎明館をバックに、自撮りをしました。スマホでも、自撮りをしました。天璋院像です。鹿児島県歴史資料センター黎明館です。御楼門と排水溝の整備の説明板です。楷の木です。楷の木の由来の説明板です。七高
ウィキペディアに掲載されてる元熊本バンドの私の曾祖父「古閑義明」の記事↓熊本バンドのメンバーの中で、西南戦争にも参戦し活躍した日本で唯一の人物。1855年(安政2年)10月10日、熊本城下の熊本藩、徒士(軽輩)の上徒(かみかち)の家に生まれ、幼少期は歌鞠両道(現在の文武両道)に秀でた存在だった。植木学校では司馬遼太郎の「飛ぶが如く」でも描かれた宮崎八郎や有馬源内から自由民権思想を学び、同志社英学校入学後の翌年には、西南戦争に参戦する為に同志社を中退して、平川惟一率いる熊本協同
肉と魚よく食べるのはどっち?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう歳を取ったら魚になってきましたね…🐟️😋「EPA」はエイコサペンタエン酸の略称で、イワシ、サバ、アジなどの青魚に多く含まれるn-3系脂肪酸の一つで体内で作ることは出来ない「必須脂肪酸」の一種で中性脂肪を減らしたり、心臓病・脳梗塞・動脈硬化などを予防します…🐟️「3分間電話の日」1970年(昭和45年)日本電信電話公社(現・NNT)の市内電話の料金が3分間10円となりました…☎それまでは1通話時間無
英雄たちの選択「西南戦争・熊本城攻防戦」を見ました。熊本城攻防戦1877年西郷軍挙兵。13000人。熊本城に向けて進軍。熊本城は新政府軍がいるが、徴兵制で徴兵した平民3300人。指揮官・谷干城。西郷軍包囲。なぜ52日間籠城して勝利できたか?深い堀と高い石垣によって、まず相手歩兵を寄せ付けない。大砲撃たれるのでは?と思ったけど、着弾が確認できなければ砲弾の無駄使いになる。西郷軍はそんなに銃弾・砲弾を供給できるわけではない。だから大砲もむやみに撃てない。下から上
こんにちは島原城を探索したあと、島原港フェリーターミナルからカーフェリーに乗船して約1時間の船旅を楽しみました。熊本港に着船し、その足で宿泊先まで直行しました。翌日、宿泊ホテルからほど近い(国道57号、3号を経由して約8km走行)加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じて築城された日本三名城のひとつといわれる熊本城を紹介します。▼熊本城周辺マップ(ネット上のマップ抜粋参照)≪熊本城≫日本三名城(姫路城、名古屋
さて、マラニック〜銭湯を経て次は食事だったのですが、それは次にまとめて上げるとし。国内最後にして最大の内戦となった西南戦争。その最大激戦区となった田原坂に行って来ましたWhatis田原坂田原坂は、明治初期に起きた日本最後の内戦である西南戦争(西南の役)において、最大の激戦地となった場所です。周辺には、当時から変わらずに残されている史跡も数多く存在します。現在、坂の頂上には田原坂公園があり、資料館での展示や当時の写真を元に再現した建屋などで、今もその歴史を伝えています。自然も豊かで、美
人面蒼といえばブラックジャックに出てたが現実に妖怪ではなくて存在する話で幕末の志士西郷隆盛も患い晩年は男のひとのダイジなダイジなんかしらんけどそうゆうとこにできて晩年はひとの頭ほどに膨れあがっていたそうですホンマオダイジニ藤田紘一郎の空飛ぶ寄生虫によると西南戦争で自害した首のない西郷隆盛の死体を本人のもの特定させたのはこの男のひとのおダイジなおダイジな膨れあがって頭ほどにもなった象皮病でできた人面蒼だったのでした
茶唄鼓は闇に閉ざされた日本史の研究とブログ作成と昼寝をライフワークにしてますが今日は日本史の研究発表第1弾Goldenball伝説です。明治維新の立役者であった西郷隆盛は政府に不満を募らせた反乱軍に担がれて西南戦争を起こし政府軍に敗れ城山で自刃しました。その時、政府軍の検屍官が首の無い西郷を見て西郷と確認したのは大きく膨れ上がった陰嚢でした。西郷隆盛のあそこは特大だったのです!鈴木貫太郎は海軍兵学校に入り、日清・日露戦争に従軍し海軍大将・連合艦隊司令長官と出世をたどり1