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「被爆再現人形」の足元にも目が行った。資料館に展示してあるときは瓦礫に隠れていたから気にも留めなかったのだ。大人の女性の人形は地下足袋(じかたび)を履いていた。中学4年だった私の父も8月6日に地下足袋を履いて動員先の工場に出て、避難する途中、足袋の底に穴があいていたのでガラスが足裏に刺さったという。地下足袋でもガラスや釘が危ないのに、女学生の人形はなんと稾草履(わらぞうり)を履いていた。その印象が強くて男の子が何を履いていたか忘れてしまった。人形に何を履かせたらダメとかはないのだが、問
3月20日に広島市立大学で始まった市立大学芸術学部講師の菅亮平さんの個展「UnknownPeople」を見にいった。展示のメインは1991年から2017年まで広島平和記念資料館に置かれていた3体のいわゆる「被爆再現人形」を原寸大で精密に撮影した写真だ。原寸大の写真は人形ごとに二通りの撮影が行われている。ひとつは白をバックに影ひとつないライティングで客観的に撮影したもの。いわばスッピンの写真だ。もう一つはかつて資料館で見た通りの、暗闇の中で赤い光に照らされて浮かび上がる人形の写真。私は資料
ヒロシマ原爆の被害を展示するも、広島平和記念資料館から撤去された被爆再現人形を主役として、埼玉県東松山市の原爆の図丸木美術館で企画展「菅亮平BasedonaTrueStory」が7月20日から10月14日まで開かれている。本当の被爆光景でないとの理由で、人形論争を経て2017年からの資料館改修で除去されたプラスチック人形を哲学する。空虚(ヴォイド)を主題としてきた広島市立大学の菅(かん)亮平講師が、資料館の倉庫に保管されている被爆再現人形3体(女性、女学生、男児)を高精細カメラで
〈思い立ったら今年は旅に出よう〜広島で平和を願う前編〜〉人権教育啓発推進センターが発行する月刊誌「アイユ」のインタビューの取材で広島へ。せっかく広島を訪れたので広島平和記念資料館に行ってきました。平和記念公園の入口には来月開催されるG7広島サミットに向けて花を植え込んだ巨大なモニュメントが設置されていました。広島出身がリーダーを務めるこのタイミングで日本から〈核なき世界〉を被爆地である広島から発信する意義は非常に大きいと感じました。前回2019年に訪れた時はリニューアル中だった広島平和記
原田義諦さんの「黒い雨」の絵栗原貞子さんの言われる「被爆者を見世物にする」という問題は重要なのであらためてまた考えることとして、まず「あやまった固定観念」から思ったことをもう一度書いてみたい。初代ロウ人形や二代目プラスティック人形について「つじつまが合わない」と書いたが、ではあの人形のような姿になった人が全くいなかったのかと言えばそうでもない。爆心地からわずか1kmばかり離れた雑魚場町(現中区国泰寺町)で建物疎開作業中に被爆した坂本節子さんがその一人だ。当時広島第二県女2年生だった
『被爆40年写真集』には1977年に撮られた写真で、3体のロウ人形のうち左端の人形が大きくはっきりと写っている。この写真を見ると、左端の人形は火傷で両手の皮膚がめくれて垂れ下がっているとともに、顔のあごからも皮膚が垂れているのがわかった。初代は顔が火傷していないというのは訂正である。しかし、目鼻立ちは普通で膨れ上がってはいない。衣服の方は右半身が写っていないのでもどかしいのだが、左半身の着物の襟や身頃、モンペには焼け焦げがないのは間違いない。要するに初代のロウ人形は、ひどい火傷の身
水島久光さんは、これからは記憶を「語り、伝える」ことから記録に「アクセスし、読む」ことによって戦争を知ることになると言われる。「アクセスし、読む」という観点から広島平和記念資料館はどのようにリニューアルされたのかと、水島久光さんは何度も広島に赴いて資料館に入られた。が、どうも失望されたようである。水島さんが最初に論じられたのは、いわゆる「被爆再現人形」についてだ。この人形について私は以前、鍋島唯衣さんの「原爆資料館の人形展示を考える」(東琢磨他編『忘却の記憶広島』月曜社2018)を読んで
こうしていくつかの被爆体験記を読んでいくと、被爆者の傷ついた体の様子にも目を奪われるが、それと同時に被爆者に襲いかかる絶望的な状況、それでも何とか生きたいと体を引きずるようにして歩む人々の姿が胸をうつ。これをいくら今の最新技術でジオラマにつくろうとしても、見る人の心に届くような再現は不可能ではなかろうか。(最新の技術で「医学標本」をつくるのはやめてほしい。「見せ物」にされるだけだ)まして初代や二代目の「被爆再現人形」は「『原爆資料館の人形展示を考える』を読んで」で考えてみたのだが、被爆者の体
では「被爆の実相はこんなもんじゃない、ジオラマはおもちゃである」と訴えた坪井直さんの被爆体験はどのようなものだったのか。坪井さんは当時千田町にあった広島工業専門学校(現広島大学工学部)に学んでいた。8月6日は空襲警報が鳴り響いていたので夜明けまで学校で警備にあたり、警報が解除された後近くの食堂で朝ご飯を食べて昭和町の下宿に戻る途中で原爆の閃光を浴びた。爆心地からわずか1.2kmのところだった。(「中国新聞」2013.1.19)顔は火傷で腫れ上がり人相が変わっていた。耳は爆風でちぎれてい
広島の場合、原爆で爆心地からおよそ半径2kmまでの建物がほとんど全壊全焼した。そして30万人もの人たちが強烈な閃光を浴び、爆風に吹き飛ばされ、体を放射線が貫いた。一体どこのどんな場面を再現したらよいのか、考えてみたら見当もつかない。初代蝋人形の場合、背景は空まで焦がすような猛火の絵だ。被爆10分後、江波山(高さ30m)から見た市内は、死の砂漠のように茶褐色で、上空は一面黒灰色のものにおおわれていた。15分後にはもう市内の各所から火の手が上がり、9時ごろには市内の中央部一帯は黒煙に包ま
松原美代子さんは逃げる途中で同じクラスの友達から声をかけられた。声をかけられなければ友達とはわからなかった。私はその人が最初だれだかまったく判りませんでした。顔全体が大火傷で大きく腫れあがって裂け、顔の形がありません。特に下唇は大きく腫れあがり、首と顎の区別さえつかないほどでした。(松原美代子「私の被爆体験とヒロシマの心」ワールド・フレンドシップ・センター被爆体験記)爆心地から離れるにしたがって爆心地に向いていた方だけが火傷するようになり、B29爆撃機を見あげれば、どうしても顔を
原爆の閃光を浴びて人の体や衣服はどうなったのか。いくつかの手記から拾ってみたい。爆心地から500mの材木町、今の平和記念資料館南側では広島市立第一高等女学校1、2年生が全滅した。その日の昼頃、山崎益太郎さんは二女の仁子(さとこ)さんを探して今の平和大橋西詰あたりにたどり着き、そこで眼を蔽うような光景に出会った。ああ何たる悲惨。河原一面、砂洲寄りに無残にも、何十何百の少女らが、或いは傷つき、或いは眠り、実は既に事切れしか、また斃れ、あちこちに僅かに蠢動し、かすかにウメキ声が聞える。驚
モンペ姿の親戚の女性1945年春前にも書いたのだが、初代蝋人形の火傷の様子と着ている服の破損の具合がどうもマッチしていない。女性の両手の指先から皮膚がたれているのは原爆の閃光による重度の火傷のせいだ。しかし袖口にゴムの入っている着物の袖はまったく無事であることに気がついた。(女性が着ているのはブラウスではなく、上の写真のような着物を縫い直した上衣とモンペだと思われる)女性の胸元にしても、上衣の右胸部分が焼け、下着(シュミーズか襦袢)も焼け、火傷した乳房があらわになっているとすると、
2013年3月19日に開かれた第14回広島平和記念資料館展示検討会議で今中亘委員長(当時中国新聞社特別顧問)は、「被爆再現人形」撤去について批判の声が上がっていることを受けて、次のように述べている。現状のジオラマ人形について市や資料館へ声が寄せられている。これまでの会議で、実物の資料を重視するという中で被爆者の坪井委員の「被爆の実相はこんなもんじゃない、ジオラマはおもちゃである」という意見が決め手となり、ジオラマ人形は撤去する方向になった…(「第14回広島平和記念資料館展示検討会議要旨」
1991年8月1日、広島平和記念資料館が改装オープンし、さらに94年6月には平和記念資料館東館が新たにオープンして、原爆ドームの模型などがある東館を経て本館に至る見学経路が設定された。この間、「被爆再現人形」も新しいプラスチック製の人形に変更され、崩壊した原爆ドームを想起させるジオラマの中におかれた。照明が落されて薄暗い中、炎のような赤いライトに照らされて、ひどい火傷をした女学生、そして母子の人形が浮かび上がっていた。この「被爆再現人形」撤去の議論が始まったのが2010年のことである。この
とにかく朝鮮人被爆者に関しては実物資料があまりにも少ない。困難なこととは思うけれど、実物資料を求めてまわり、それを展示することによって、韓国・朝鮮人被爆者の訴えを資料館を訪れる私たちに伝えるのは、広島平和記念資料館が中心にならなければできないことだ。解説ならば周りの人間でもできる。資料館の容積には限りがあるけれど、ネットには無限の空間がある。話しは変わって、小田原のどかさんは実物資料と対比して「被爆再現人形」の問題を大きく取り上げておられる。私も以前、鍋島唯衣さんの「原爆資料館の人形展示を
今日は原爆の日でしたね。広島県人として語らずにはいられないこの悲惨な出来事。はだしのゲンの本が学校から姿を消したり原爆資料館の被爆再現人形が撤去されたり…大人にとっても衝撃的な絵や人形。子どもたちにとっても衝撃的過ぎるのは分かりますがこの悲惨で残酷なことが現実に起きていた、という事を伝えないといけないのに撤去されたりするのっておかしいと思うんですよね。それが現実に起きたことなんだから…私の甥っ子も小学1年生になり初の夏休み。戦争ごっこだ!銃でバンバン!!とかやってい
米中は「トゥキディデスの罠」を回避できるのか日経ビジネス電子版研究チームは15世紀のポルトガルとスペインの対立や17世紀後半から18世紀半ばのフランスと英国の対立など、過去500年間で覇権を握る勢力と新興勢力が...3分でわかる!マルクス『資本論』ダイヤモンド・オンライン18世紀に、イギリスで産業革命が起こり、19世紀にはこれがヨーロッパへと拡大していきました。生産力は急激に上昇しましたが、19世紀の後半になると、資本家...くまモン、カイトバギーに挑戦海賊の街では市長
8月か9月にまた行くよ(ʘ̆ʚʘ̆)■被爆再現人形の展示やめた理由原爆資料館リニューアル(ʘ̆ʚʘ̆)(朝日新聞デジタル-05月16日15:07)https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5621796■いちからわかる!原爆資料館Q広島の平和記念資料館(原爆資料館)がリニューアルしたね。A資料館は本館と東館にわかれていて、2014年9月から順番に閉館して改修工事を
「焼け跡に立つ少女」本館入り口では今度新しく「焼け跡に立つ少女」の写真が私たちを出迎えてくれる。行く前は、写真の前に人だかりができているかなと思ったが、そんなことはなかった。写真には少女の名前も年齢も何の説明もないのだ。人々は、少女の「今日は。どうぞ中にお入りください」の声が心の中に響いているかのように、写真の前を横切って本館の中に吸い込まれていく。何の説明もないのは、そこに資料館の意図があるからだ。その意図に敬意を表してこれ以上は書かないけれど、私たちは本館の出口でもう一度この少女
こんにちは。兵庫県三田(さんだ)市の広島のお好み焼きこのみのママです。猛暑が続く毎日ですね。73年前の1945年8月6日8時15分、晴天。広島に原爆投下。この日も、暑い日だった・・・・広島で記念式典が行われた。この核攻撃(原爆)により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち、9万~16万6千人が被ばくから2~4か月以内に死亡したとされる。原爆投下後の入所被爆者も含め59万人が被ばくしたとされる。三田の小学校6年生の修学旅行は広島です。広島の
24歳が原爆を伝えるガイド日記*自己紹介・ガイドを始めたきっかけ*ハフポスト個人ページ☆23歳が伝える原爆ドーム昨日カナダ人の女性がバッジをくれました。資料を熱心に読むイギリス人の女の子。被爆再現人形は今年の4月に資料館から撤去されました。被爆再現人形の撤去についてハフポストに書いた記事は反響が大きかったです。それだけ関心が高い問題だったということです。ーーーーーーーーーーーーーーー決まったことじゃし仕方ないか。と思っていたのですが、やはりそれではいけないと思い、先日の
1945年のこの日、第二次世界大戦が終了しました。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう(余談)※これまで原爆資料館で展示していた被曝再現人形が、残酷過ぎるとかの理由で今春、撤去されました。戦争自体、非道で残酷なものなのに…被曝体験者が減る中、人形くらい残せないのかな?…というのが、個人的な意見です。**************************************Uターンの途中で、ゆめタウン廿日市に寄りまし
小学生のときに初めて原爆資料館(平和記念資料館)を訪れました。やけどを負い、無惨な姿で炎と瓦礫の街をさまよう人々を再現した人形、放射線により石段に人の姿が残ったと言われる人影の石など、幼いチャバシーラには恐ろし過ぎました。その晩どうしても眠ることができず、祖母の布団にもぐりこみました。「大丈夫、戦争はもう起こらないよ」そう言われてやっと眠ることができました祖母は広島の人でした(原爆投下当時には広島にはいませんでしたが)。それ以来、長い年月が流れましたが、広島にはお墓参りに行くことはあっ
先日の夕方仕事をしながらテレビニュースを聞いていたら懐かしい方の声が聞こえてきましたよく選挙解説をされる大学教授の福岡先生でした先生が残念がっておられたのは広島に原爆投下されその時の展示物等を原爆資料館に展示されていましたがどうも資料館の改装に伴い被爆再現人形が撤去その人形は原爆投下によりヤケドで皮膚が垂れ下がった両腕を突き出してさまよう人形非常にリアルで10年前に見た時は非常に衝撃でしたしかしそのリアル性は人形職人の方と被爆者の方々を治療され
※8枚目に被爆再現人形の画像があります。苦手な方は閲覧をご注意ください。旦那さんが誕生日に出雲・広島旅行をプレゼントしてくれ、一昨年秋に初めて広島に行くことができました。2泊3日の旅の3日目に厳島神社に伺った後、広島市内に向かいました。原爆ドーム九州出身なので長崎にはよく行ってたし修学旅行も長崎だったので、長崎の原爆資料館には何度も行きましたが、原爆ドームは衝撃的でした。世界遺産に登録されたこともあってか、外国人観光客の方が圧倒的に多かったです。そして笑顔とピースサインで記念撮影を
この前ね、友人らとチャットしとってそんなことを聞いたもんで、何がどうなってんねん!──っちゅうことでググってみると、『2016年3月頃、資料館に展示されている被爆再現人形を撤去すると、広島市は18日に表明した』──(*´・д・)?じゃあ、その『被爆再現人形』って何?っていうと、『プラスチック製で三体。成人女性と女学生、少年が原爆の炎に追われ、瓦礫の中を彷徨う姿を表現しており、前方に突き出された両腕から皮膚が垂れ下がっている。現在の物は二代目で、1991年に設置。先代は蝋人形で、19