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ジュノー博士の救援活動には困難がつきまとった。広島に届けられた医薬品が役立ったのは間違いないが、全ての被爆者に行き渡ったわけではない。薬が間に合わなかった人が圧倒的に多いのだ。それに発熱、脱毛、出血などの放射線障害に苦しみ死んでいく人々をどうすることもできなかった。ジュノー博士なら何か良い治療法を知っていないかと県衛生課の課長が聞いてみたことがあった。目元に大きな皺をつくった博士は言った。「放射線によるこのような症状に対応する治療方法など、世界のどこにもない。このような残酷な兵
広島平和記念公園の「マルセル・ジュノー博士記念碑」ジュノー博士は9月8日に岩国に着くと翌日府中町の東洋工業に間借りしていた県庁に向かった。途中瓦礫だらけの街を眺めながらジュノー博士は案内役の松永勝さんたちにこう言った。医大を出たばかりの松永さんは英語ができた。「…たった一発の爆弾で何万という人が殺され、あれから一か月も経っているというのに、毎日のように傷ついた人々が死んでいますね。ひどい人殺しです。人間のどこにこんなことをする権利があるのでしょうか。これは悪魔がやったとしか思われませ
当時県の衛生課に勤めていた松永勝さんの回顧談にも大田萩枝さんとマルセル・ジュノー博士の出会いの場面が出てくる。それは9月10日のことだった。焼けただれて外形だけになったビルは、一昨日の雨で地階が水浸しになっており、一階の病室になっている各教室にも水たまりが点々とあった。被爆前まで県病院の眼科に勤務していた若い女医の大田先生が、階段横の診療所で外来患者を診ており、年輩のふたりの看護婦は、蚊帳が吊ってある病室で患者の面倒をみていた。銘仙のブラウスと黒っぽいモンペの下に海軍の長靴を履いた小柄
1945年10月上旬、大田萩枝さんが袋町国民学校の救護所で治療しているところを菊池俊吉さんが写真に撮った。その写真は現在、中国新聞ホームページの「ヒロシマ平和メディアセンター」にある「広島原爆の視覚的資料—1945年の写真と映像」を開くと見ることができる。10月1日、「学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会」が派遣した調査団が広島市で調査を開始し、日本映画社が記録映画の撮影を始めた。菊池俊吉さんと林重男さんがスチール写真撮影担当として参加している。中国新聞ホームページを見ると、菊池さ
大田萩枝(はぎえ)さんは当時県立広島病院に勤める23歳の眼科医で、爆心地から約2.2km離れた牛田町の自宅で被爆した。幸いケガは軽く、持っていた救護カバンの医薬品で近所の人たちの傷の手当てをしたが、薬や包帯はすぐになくなった。8日になると大田さんも頭が割れるように痛くなり、9日は何か黒いものを吐いた。それから大田さんには体調不良がずっとついてまわることになる。県立広島病院は爆心地に近い水主(かこ)町、現在の加古町にあって原爆で壊滅した。即死を免れた職員は医薬品を疎開してあった広島市西部の
8月12日から2、3日間、黒川孝一さんたち尾道の医師が袋町国民学校で被爆者の治療にあたっている。鉄筋コンクリートの建物は窓が壊れ内部も焼けてしまったが、夏の強い日差しは遮ってくれるから、多くの負傷者が逃げ込んだり、軍隊や警防団が動けない負傷者を運び込んだりしたのだろう。それがそのまま臨時の救護所ということになった。八月十二日、吉本良槌先生等と共に、袋町小学校に至り、一、二泊した。ここで吾々は始めて原爆症の実態に直面した。重症被災者が、ぎっしり収容されて居り、オレフ油の臭が立ち込めていた
三好茂さんの長女で広島女子商業学校3年の美代子さんは胡町の福屋百貨店に入っていた広島貯金支局分室に動員中。次女で袋町国民学校高等科1年の登喜子さんは雑魚場町(三好茂さんは、作業現場は隣の新川場町と手記に記している)で建物疎開作業。二人とも何かあった時は広島市の西にある五日市町の親戚を頼るように言ってあった。何せ三好さんの家は広島市のど真ん中。空襲にあったらひとたまりもないが、さりとて町工場の一工員である三好さんが郊外に別宅を求めることなど、とてもできることではなかったろう。三好茂さんが五日
元安川の川べりには公設市場があった袋町国民学校西校舎の壁に残された伝言の中には、我が子の死を担任の先生に伝えたものもある。加藤先生本校高二(八月十六日)三好登喜子奥海田国民学校デ死亡致シマシタ父三好茂(※「高二」は「高一」の間違い)袋町国民学校高等科1年の担任だった加藤好男先生は市役所の東にあった雑魚場(ざこば)町、今は広島国泰寺中学があるあたりで生徒に作業の指示をすると報告のために現場を離れた。加藤先生も爆風に吹き飛ばされたがケガや火傷は軽く、すぐに作業現場に
袋町国民学校1年生だった西京節子さんの行方もわからない。節子さんは母親の豊子さん、祖父の金次郎さん、弟の紘一さんと袋町近くの新川場(しんせんば)町に暮らしていた。父親の一雄さんが兵隊に取られ、母親の豊子さんは秋山アサコさんと同じく広島市役所で働いて家族を養っていた。8月6日は早出で節子さんが学校へ行く前に出勤し、節子さんとはそれっきりになってしまった。原爆で全身にガラスが突き刺さった豊子さんは近くの広島赤十字病院に担ぎ込まれた。翌日、妹の夫掛川浅雄さんが西京さん一家の安否を尋ねてまわったの
栗原明子さんは8日朝もう一度自宅の焼け跡に行ってみた。7日夜は大学の敷地に植えてあった、まだ小さなサツマイモを掘って茹で、みんなで分けあって食べたのだが、8日はもう食べる物がない。それで栗原さんは自宅の防空壕に缶詰や米を埋めていたのを思い出したのだ。ところが、掘り出した缶詰は焼けて真っ黒、振ってみたらガサガサという音がした。米は一升瓶に入れていたのだが、そのガラスが熱で溶けて固まっていた。他の食糧も全部黒焦げになっていて、栗原さんたちをがっかりさせた。ちょうどそこに栗原さんの母親が疎開
人生で初めて、プラネタリウム(広島の冬の星空を投影)中に寝てしまったRieruです後日、『この世界の片隅に』で、すずさんが望遠鏡と海苔で作ったミニプラネタリウムを覗いて夜空を見た人さらいが、一瞬で寝こけてしまったのを思い出しました。その人さらいが寝こけた場所の近く…かどうかは分かりませんが、相生橋の近くにある『おりづるタワー』を見ると、おりづるが随分溜まっていて驚きました。コロナ禍が無かったら、もっと上までおりづるが積もっていたかもしれません。半分以上積もった状態を見てみたいものです。
1946年2月、川本省三さんのたった一人の家族だった姉が亡くなり、川本さんは駅前の「孤児」たちと別れて13歳で伴村(現広島市安佐南区)の醤油屋に住み込みで働くことになった。一生懸命頑張って働き、20歳のころには村で青年団の団長をするほどの若者になった。しかし、青年団で知り合った女性と結婚しようとした時、相手の親からとんでもない言葉を投げつけられた。「広島におったもんは放射能に汚染されとる」というのだ。結婚を拒絶されて目の前が真っ暗になった川本さんは村を飛び出して広島に舞い戻り、ばくちとけ