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3月13日、秋田城からバスで秋田駅近くまで戻る。晴れ時々雪という戸惑いそうな天気の中、久保田城へGO。城跡のうち、秋田駅に一番近い大手門跡からスタート入城常陸国(茨城県)の佐竹義宜(さたけよしのぶ)が1602年にこの地に移される。最初は湊城へ入る予定だったが、湊城は狭すぎるため、翌年新たに久保田城を築城。平和な江戸時代に入り武力を見せつける必要が無くなったので、天守閣が造られなかった城です。堀を渡ります黒門跡クランク状両側が土の壁でできています。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。今月の同門誌表紙。家元の了々斎のお話に、表門の事が書かれていました。紀州治宝(はるとみ)公が、参勤交代の帰り道に家元へ立ち寄られ、了々斎が茶事の形でおもてなしし、その御成の後、表門を拝領したと。私はてっきり、治宝公をお迎えする為に、この門を建てたのだと思っていました。表門の事。『2024年1月10日のつれづれ、今月の同門誌より。』いつも読んで頂き、ありがとうございます。今月の同門誌表紙。今年は元旦
今日から3月10日に茨城県観光で地元水戸市の偕楽園と弘道館に行きましたので今回は偕楽園:表門と孟宗竹林・太郎杉等編を載せたいと思います。9時に偕楽園の表門に着きました。偕楽園は石川県の兼六園と岡山県の後楽園に並ぶ日本三名園の1つです偕楽園の入場は南門や梅まつり期間中当駅から多くの方が利用している東門があるけど特にお勧めの入口は表門で別名黒門と呼ばれる程の歴史ある門です。園内に入ると沢山の竹林と杉林がありとても静かです。その竹林は孟宗竹林で徳川斉昭が京都の竹を移植したのでここにあります
関ケ原の合戦後転封された佐竹義宣の居城久保田城石垣が殆どなく堀と土塁を巡らした平城現在は千秋公園として整備されています長坂門跡no階段を登ると表門構造は木造2階建て瓦葺き櫓門二の丸跡
2023年秋日本海側からちょこ〜っと函館へ渡り太平洋側の東北地方をぐる〜っと巡ります新潟県新発田城からstart新発田城は平地につくられた平城かつて本丸二の丸三の丸からなり11棟の櫓と5棟の門が並んでいたらしい天守閣の代わりを果たしていた三階櫓3匹の鯱を配した独
甲子園も終わりが近付いてきたけど、一方で世界陸上が始まるお仕事の日は録画しておくから、寝不足生活到来かニャでも織田裕二サンはいないんだよなぁ番組を見るに当たっては、面白さ半減の不安大だったりするでは、先日の日帰り青春18きっぷ旅で訪問した駅のご紹介をいつものように自宅を夜明け前に出発して、ガラガラだった山陽本線で姫路まで🚃姫路駅からは姫新線でガタゴト…乗り鉄子ハルちん、初めての乗車区間に興奮気味走ってるのは山間部で、強いて言えば因美線に似た風景だったかしら9:08三日月駅、とー
前回の続きです。今回は本丸表門内部展示品の一部を紹介します。明治5年頃に撮影された古写真がたくさん展示されています。古丸が遠くに見えます。二の丸講堂と本丸三階櫓です。現在は撮影地点が自衛隊駐屯地です。講堂は下図にあります。8代藩主直養(なおやす)は、1772年に越後で最初の藩校「講堂」を設立します。のちに「道学堂」と改称しています。1775年には全国で3番目の医学館を設立しました。江戸時代の区画名図です。本丸と周辺の復元想像絵図です。
前回の続きです。今回は本丸表門内部です。1732年(享保17年)に再建された、渡櫓門で国の重要文化財です。腰回りは黒瓦を使ったなまこ壁です。これには積雪耐性があるようです。表門渡櫓入口です。江戸時代建築で国重要文化財です。渡櫓の土橋側(南側)の窓と内部構造です。古写真や藩主の肖像画などがあります。床には石落としがあります。その上の窓から外を見ると渡廊下窓から見た外側風景です。格子の隙間から見ると石橋(江戸時代は木橋)の向こう側に帯曲輪が見え
前回の続きです。今回は本丸表門です。本丸表門です。石垣は切り込みハギできれいです。現存する本丸表門は享保17年(1732年)に再建された2階の渡櫓門で、国の重要文化財です。腰回りは黒瓦を使ったなまこ壁で、冬場の積雪に耐久性があります。渡櫓に石落しを備えています。表門の解説板です。カメラを左に回すと鉄砲櫓(二の丸隅櫓移築)が見えます。表門の下から外側を見ると表門の下から外側を見たところです。表門渡櫓の下には地図などの展示品がありました。
お城巡りから21時頃に帰りました。遅れましたが更新します。前回の続きです。今回は本丸前帯曲輪から本丸です。本丸前帯曲輪の土橋門跡から本丸表門を見ると土橋門跡から本丸表門方向です。この反対側は土橋門跡から土橋方向です。表門の方に進むと本丸表門が見えます。表門は1668年の大火焼失の後、1732年(享保17年)に再建されています。表門と旧二の丸隅櫓が内部公開されています。冬は雪が積るので、公開は3月下旬から11月30日までで、公開時間は午
広い緩やかな坂道の参道を進みいよいよ世界遺産・日光東照宮の敷地内に入って来ました。日曜日でしたのでコロナ禍にも拘わらず結構な参拝客がいました。久しぶりの参拝でしたので表門の前の五重塔、表門、三猿の彫刻で有名な神厩(しんきゅう)、三神庫などを撮影しながら陽明門まで進んで行きました。にほんブログ村世界遺産部門のランキングに参加しています。このブログが気に入ったら1日1回、こちらに応援クリックして頂けると嬉しいです。↓↓↓[https://travel.blogmu
御香宮神社には多くの境内社が鎮座しています東合祀社(若宮八幡社、恵比須社、八坂社、住吉社)豊国社大神宮北合祀社(春日社、天満社、新宮社、熊野社、那智社、金札社)東照宮松尾社弁財天社稲荷社桃山天満宮あと一つ、七五三で行った生國魂神社を加えて2022年は合計32の神社に参拝しました
昨年参拝した未掲載神社の二つ目伏見に行った時の記事は幕末・維新がメインだったのでここは「明治維新伏見の戦跡」碑だけを掲載して後日神社の記事にしようと思っていてすっかり忘れていました道路を跨ぐ大鳥居大鳥居の扁額表門手水舎怖い顔の狛犬伏見七大名水のひとつ「御香水」(拝殿は撮り忘れています)伏見城跡残石国道24号側の鳥居扁額続く
全国お城の「石・石垣シリーズ」は、『「石」の使われ方』において「算木積み」が見られるお城をお届けしています。今回は、「中部・東海」のお城を掲載します。「算木積み」は、石垣の隅部において、長辺が短辺の2~3倍の長さの直方体の石を、長辺と短辺とが互い違いになるように積み上げていく手法です。そうすることによって、隅部が一体化されて非常に堅固になります。関ケ原の戦い後には、隅石垣の組み方の技術が一段と進化して、これに併せて規格化された石材が使用されるようになり完成度の高い「算木積み」が導入さ
表門の両開きの木戸のカンヌキが壊れていますブロンズのダイキャスト製のカンヌキ金物が壊れています残念ですがブロンズの金物は手に入れることができませんステンレス製の物を用意しました高さと反りに注意して取り付け位置を検討します既存のビス穴は木栓で埋めます取り付け位置の再確認です修理完了です世田谷/奥沢リフォームなび東京都世田谷区奥沢で住宅を新築、リフォームはアサクラハウスにお任せください介護予防、省エネ対策、防犯対策、耐震補強のご相談ビルの防水、修繕も診断、施工いたします
八戸から盛岡に南下し、こまちで秋田に行った。昔もこの線に乗ったが、これが新幹線と言えるのだろうかと思ったが、今回も同じ印象でのんびりした感じである。まずは、なまはげがお出迎え。さて、駅に近い久保田城に向かう。直ぐにお濠が見えた。歩いていくと表門の入り口になる。忠実に再現した門だが、やはり相当太い梁を使っている。脇に、唯一現存している御物頭御番所があった。そして、鉄筋コンクリート製の3重4階櫓。4階からは、秋田市内が一望できる。帰りにお昼頃になったので、千秋ラーメンを食
こんにちは、philosophiaです店休日を利用してかねてより気になっていた豊前・豊後のスポットへ出陣♪1年ぶりの攻城TRGです!豊前の築城から県道237号(寒田下別府線)で城井ノ上城(きいのこじょう/きいじょう)を目指します!昨夜の雨で朝曇りでしたが、晴天になる予感です(^^♪駐車場に到着以前『城井谷崩れ海音寺潮五郎』を読んだときに宇都宮氏の居城であった城井谷を訪れようと思っていてようやくその機会が到来したのです(^^♪<宇都宮氏顕彰碑>
写真はくぐり戸が破壊された貝塚市の願泉寺の表門/youtubeより事件現場のストリートビューA/願泉寺、大阪府貝塚市中町5−1https://goo.gl/maps/FQY4oSKpyvKAChwCA南海本線貝塚駅西出口まで南290m映像:日テレ10/4:【器物破損で捜査】国の重要文化財の門が破壊「強い憤り」大阪・貝塚市(0:45)https://youtu.be/_sepoOKY90k3日夜、大阪府貝塚市の寺で国の重要文化財に指定されている門の一部が壊されているのが
※2022年9月21日訪問※長泉寺さんの山門の道路を挟んだ東側の参道には、角田市指定文化財になっている【臥牛門】と呼ばれる立派な門が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼臥牛門角田邑主石川氏の居城であった角田城(角田要害)の旧表門と伝わるもので、三間一戸の切妻造の八脚門である。明治になってから長泉寺に移築された。門の移築については『伊具郡誌』(1926)の各郷土史の中に「角田長泉寺境内臥牛門は館林館の表門にして、臥牛館門火災に罹りたるを以って之を移し、明治三十五年(
前回の続きです。今回は本丸表門から本丸です。本丸表門です。2001年(平成13年)に本丸表門を復元しています。構造は木造二階建ての瓦葺櫓門です。表門解説板です。この表門は本丸の玄関口です。上図⑬にあるのが表門です。表門復元で利用された欅(ケヤキ)の大木断面です。樹齢約250年です。門の冠木に使われた木の根元部分です。礎石解説板です。2001年(平成13年)に復元された表門のサイズです。展示されている表門の礎石です。表門がある本丸
<2021年3月30日>放浪ドライブで訪れた福島県会津若松市。「会津武家屋敷」という施設に入場して、柔道家「西郷四郎」像の見てから、表門をくぐりました。冠木門から入城して左へ曲がり、片長屋の前を右折、表門から表玄関に来ました。家老屋敷「西郷頼母邸」です。会津藩松平家譜代の家臣の家柄で、広大な敷地に壮大な屋敷が建っています。表玄関も実に立派な造りです。「式台玄関」は家老屋敷の正面玄関。恭しく出迎えてくれる人形は、当時の雰囲気そのままでした。
6/19、試合には時間に余裕があったのでまずは新発田市へ。少し通り過ぎてしまい、アイネスしばたの駐車場に。新発田城へは間に特養老人ホームがあって回り道する必要があります。アイネスしばたの外には義士堀部安兵衛誕生之處碑があります。新発田城へはこちら。駐車場もあります。新発田城新発田市大手6-49:00~17:0012~3月休門外には堀部安兵衛の像があります。本丸の大半が自衛隊の基地になっているので見学できる範囲が限られています。
<2021年3月30日>放浪ドライブで訪れた福島県会津若松市。朝早く、まだ誰もいない「鶴ヶ城」に入場し、天守閣を目指します。「蒲生時代の表門」という標札が見えました。正式には「本丸埋門(うずみもん)」。【天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる桝形の城門である。城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。本丸奥御殿
こんばんはー♪♪v(⌒o⌒)v♪♪法観寺を後にし、二年坂を通って高台寺に向かいました。この辺りは観光地で、二年坂ゆうたら休日は多くの人で賑わう場所です。やっぱあれの影響で人は少なめですね。少し歩き、高台寺公園の前に来ました。客待ちのタクシーや人力車が待機しています。ねねの道を北に進み、右側に見える石碑の所から台所坂の石段を登って行きます。ねねの石碑台所坂台所門高台寺は、豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため1606年
永楽屋宇治平等院店平等院表参道~皆さん同じ方角もしかして同じ目的先~♡表門♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡・・*・・♡こんばんは~♡今日も一日お疲れさまでしたまだまだ寒いですやっと今週も終わったかなっていう感じ…長かったです…
さぁさぁ、皆さん聞いておくれ!3代将軍、徳川家光の霊廟「大猷院」を紹介して、いよいよ「日光社寺世界遺産」の要である「日光東照宮」境内の中を小出しでチョロチョロと紹介していきま~す。つきましては、今回の拝観では写真をあまり撮らなかったので、小太郎フォト未公開の写真と絡めてアップするので、季節感が滅茶苦茶になるからご容赦を・・・(笑)日光東照宮は、日光霊峰の山懐地恒例山にあり、中禅寺湖から流れる大谷川と女峰山から流れる稲荷川との河合いの山岳水明の地に江戸幕府初代将軍、徳川家康を神格化した「
琴坂表門琴坂表門こんばんは~♡今日も一日お疲れさまでした夕方になって風も強くなりほんとに冷え込んできました…雪降るのかな…温かくしてお過ごし下さいね…
前回はこちら相国寺④はこちら櫻坂46「流れ弾」の護王神社での第3部:遠藤光莉のオンラインミート&グリートの後、護王神社に行きました。護王神社の鳥居です。護王神社全景鳥瞰図です。護王神社の主神・和気清麻呂と広虫の説明板です。表門です。表門の説明板です。和気清麻呂公と霊猪の説明板です。和気清麻呂と広虫の説明板です。舞殿です。社務所です。拝殿です。四神の説明板です。霊猪手水舎です。拝殿をバックに、僕の着物姿の自撮りをしました。スマホでも、僕の着物姿の自撮りをしました
サボリ過ぎちゃって♪(≧∀≦*;)ゞもぉ11月…遠ざかるばっかりの季節のつづき…7月11日♪日曜日♪めっちゃエエお天気🎵ヽ(*≧∀≦*)ノ実は、ツレ(♂)の水先案内人で(*・ω・)(*≧∀≦)ノ夏の宇治を徘徊♪宇治橋の西詰『夢浮橋ひろば』で紫式部サン(石像)に出会って♪宇治橋を渡って♪宇治橋の東詰♪莵道稚郎子墓の道標や源氏物語『東屋』『椎本』の2古跡を見て♪源氏物語ミュージアム♪新緑の『源氏の庭紫のえにし』で森林浴♪入館して♪館内♪廊下を歩いて展示室へ♪
東京タワーの真下港区東麻布にあります心光院10月30日、31日の2日間東京文化財ウィークの一環で登録有形文化財(建造物)となっている表門と本堂が公開となりました。昨年に引き続きの参拝です。東京タワーと表門心光院は増上寺創建時からの山内学寮が前身で、元禄8年(1695)に二代将軍徳川秀忠公の菩提のため増上寺別院念仏道場になりました。将軍家墓所造営を機に赤羽門外に転出、昭和20年に焼失し、25年に現在地に移転となりました。この場所、本当に東京タワーの真下あまりに