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集中という言葉は「閉じた感覚」とも感じるので、あまり的確ではないとも思うですが(別記事「感覚は、集中させるのではなく、開放する」)、ここではあえて「集中力」という言葉を使ってみようと思います。剣道でも、仕事でも、勉強でも「集中力」が大事だと言われますね。現代剣道において、「集中力」に必要なこととして、胆力、気迫、気勢、稽古量などが挙げられますね。しかし、「集中力」に必要なこととして「リラックス」は、ほとんど言われません。私としては、「リラックス」が第一順位に来るのですが。
自分自身の稽古でも、中学生の指導でも、思うのは「気を入れるのは後でいい」ということです。どういうことかというと、基本練習において、動作の内部感覚を研いでゆくということを優先させるということです。最初から気迫満々で稽古しても、動作の内部感覚を研ぎ澄ますことが難しい(いや、全くできない)ということです。根性ではアカンのです。自分の内部感覚を感じる集中力が鈍るからです。こんなこと書くと「何を言っている。けしからん。稽古は最初から最後まで本気の気迫が大事だ」と叱られそうです。
今日は自分自身の研究課題について。いつも考えているのは、重心移動により自分の身体を相手に寄せて(または相手を自分に寄せて)、秋猴の身で打つことを心掛けています。でも、時々、自分から仕掛けた面打ちで、前足を大きく前に出すのではなく、小さく前に出しただけで、急激に前傾姿勢になりトンッと鋭く打てる時があったのです。私としては下丹田にある重心が相手に寄っていくように打てれば、背中は極端な前傾姿勢にはならないと思ってますので、前述の打ち方は、頭から突っ込む姿勢でもありますから、あまり良
八段の先生に、九歩の間合いで互いに礼をする際は、「両足の踵どうしをつけなさい」と指導されたことがあります。これが一般化しているのかなと思います。体側の幅より足幅が細くなる逆三角形(アイスクリームのコーンのようなシルエット)になる立ち方ですね。これは小学校で教わった軍隊方式の「気をつけ!」の姿勢の足の位置ですね。「気をつけ!」は、明治維新によって取り入れられた西洋軍隊式の立ち方だと思います。剣道で、九歩の間合いから蹲踞して立ち上がって構えるまでの所作は、おそらく相撲の仕切
先日書いた「短い竹刀で中学生と稽古」の続編です。ある日のことですが、中学生に「相小手面」を徹底指導しようと、もう一人の指導者と決めていました。で、指導していたのですが、私の短い竹刀が、ついに割れてしまいました。入念に手入れしながら使っていたのですが、仕方ありません。ですので、その日は途中から三尺九寸の竹刀で中学生を指導することになりました。そして、私が小手を打ち、中学生が「相小手面」を打つわけですが、これが全然噛み合わなくなったのです。短い竹刀を使っていた時は
40歳になる直前で剣道を再開したときは、「○○さんに負けないようになる」「○○先生から一本を取る」とかを目標にしていました。でも、そういう目標設定はやめました。特定の人のレベルを目標にしちゃうと、それ以上になれないと感じたからです。実際、強い先生になると相手のレベルより少し上で稽古されるんで、その調整されたレベルを目標にしていては全然足らないのです。特定の人をイメージして稽古すると、その人のレベルの下にいる自分を確認しながら稽古することになってしまうと感じたのです。それ
稽古でも試合でも、自分で納得できた動きや技、ましてや誰かに褒められたりした打ちがあったとしたら、「もう一度再現したい」という気持ちになるのは自然なことかもしれません。「再現性のあるものこそ本物で、再現性のないものは偶然だ」なんていう意見もあったりもしますので、「もう一度」なんて思うことなのかもしれません。しかし、よくよく考えてみれば分かりますが、同じ道場で同じ人と打ち合ったとしても二度と同じ条件にはなりえません。たとえば、一流の100m走の選手でも毎回同じタイムで走るなんて不可
以前は、中学生と稽古する時に、いつもどおり三尺九寸の竹刀を使っていましたが、どうも間合が合わないと思っていました。中学生は三尺七寸の竹刀ですから、こちらを打つのに間合いを詰めないといけないところ、こちらの技は遠間からラクに当たっちゃう。私の身長は162cmほどですから低身長ではあるのですが、私より小さい子供も沢山いるわけです。これは、いかにもズルいこれで「先生」と呼ばれるのは抵抗あったわけですで、中学生よりも一寸短い三尺六寸で520gになる竹刀を購入して、稽古するように
コロナ禍になってから、以前からやってみたかった無声での稽古を私の主催の稽古会で行ってきたが、2月あたりから声を出しての稽古も解禁にした。それでも、ほかの稽古会では当然に有声で稽古してる人も、私の稽古会では無声でやってみたり、有声でやってみたりと工夫しておられる。で、私も有声でやってみるのだが、声の使い方が相手方向に向いてしまうと、自分の内部感覚が捉えにくくなる感覚がある。声の使い方によっては意識が優位になってしまい、無意識の技が自然に出現しにくくなる状態になるともいえる。
私が子供たちを指導している稽古会において、他の指導者から「もっと試合に勝たせてやりたいから、テクニックの指導をしてほしい。少々、悪い打ち方でもいいので・・・」なんて言われてしまいました。相手をフェイントでひっかけて打つってことや、打突は軽くていいから速く当てる方法を教えてほしいということのようでした。自分としては負ける指導も勝ちに繋がらない指導もしていないつもりですが、手っ取り早く勝つ方法を身に着けさせてほしいということかと思います。で、そんなことを効率よく教えられるのか真剣に
「水を手本とする」とか「水の如し」とか、五輪書にも他の武術書にも「水」はよく出てきますね。このブログで取り上げた「明鏡止水」っていうのも「水」という言葉ですよね。水は、川の流れともなり、コップに入れればコップの形にもなり、変幻自在です。ですから相手の攻撃に対してこちらが水の如くなれれば、正面衝突することなく勝ちを得るということなんだろうと思いますしかしですね、長い間「水」をイメージして稽古してきましたが、全くピンとこなかったのです。いえ、理屈では水が最強なのは分かるんで
速く打てるようにと稽古をすると全身の骨格の連動を感じることなく、筋肉の感覚だけを強く感じて打つ稽古になります。骨格や重力が合理的に調和しているかどうかより、そんなことは置いといて、兎に角筋力でスピードアップを図る稽古が尊重されています。しかし、昔の人は、生死のかかった戦や試合のために何をやったかというと型稽古なんですね。なぜでしょうか。合理的な身体操作を無意識下に沈めるための稽古は、ゆっくりやらないと精度が落ちるからだと考えます。実際の戦いで咄嗟に出る技の精度が不確かなものになって
いざ、立合となれば呼吸を意識したりはしていないことは以前このブログに書きました。でも、呼吸についての鍛錬は、切り返しの時に意識的にやっています。普通の切り返しを私は息をゆっくりはきながらやるのですが、「息を吸う→正面→体当たり→左右面前進4後退5→正面→体当たり→息を吸う→左右面前進4後退5→正面」というようにやっています(息が続く時は左右面の数を増やして調整します。鼻づまりの時は息が続きませんが)つまり途中の息継ぎは1回だけで、後は静かに長く息が漏れていくようにしています。
初心者の内は、面打ちだけ沢山やり、身体が慣れてきたら、小手打ちや胴打ちも学んでいきますね。最初はそれでいいと思います。でも、ある段階からは、ありとあらゆる技を稽古していくのがいいと思っています。「摺り上げ面はまだ早い」とか「逆胴は応用だ」とか、「これは基本だがこれは応用」と分けずにどんどんやっていけばいいと思っています。というのは、打てない技があるということは、面打ち一つでも合理的に打てていないと考えるべきだからです。面は得意だが胴は苦手、表からは打てるけど裏からは
以下、「なぜ人間は力みやすいのか」という私の仮説を含みます。本来、人間は他の動物に比べれば武器を持たないと勝てないほど、ひ弱な動物だと思うのです。2足歩行を始めて、脳が発達して知恵で生き延びる道を選んだわけですから、他の動物に身体能力のレベルでは到底及ばないわけです。では、武器や罠などの準備がない場合、他の動物から身を守るにはどうするかというと、逃げるか隠れるかを選ぶしかないわけです。でも、逃げ隠れできずに捕まって最悪の事態になった時はどうするかと考えると、身を縮めて身
さて、2021年4月からこのブログを書いてきましたが、私自身の身体感覚も深化していくにつれ、以前書いた記事が「違うぞ」と思うこともあるのです。2021年7月25日に書いた「大きな面打ちと小さな面打ちは異なる技術」を自己批判してみようと思います。「大きな面打ちと小さな面打ちは異なる技術」に書いたことは、大方は間違っているとは思わないのですが、大きな誤解を生みますね。確かに「小さな面打ちは、大きな面打ちの応用だ」と聞けば、なかなか小さい打ちが上手くいかないことがあるのは記事の通りで
このブログでも何度も書いている意識と無意識の話なんですが、意識優位になると必然の技が出現しにくく、無意識優位になると必然の技が出現してくれる感覚でいます。五輪書も「見の目弱く、観の目強く」「上の心弱く、底の心強く」というのも納得なんです。先日書いた「左脳と右脳」と「意識と無意識」においても同じことを書きました。そこで、凄いと思うのが塩田剛三さんなんです。動きが凄いのはもちろんなんですが、それを解説しながら実演しちゃうということが、本当に凄いと思うのです。言語化するこ
同じ人と2分30秒の立合を3回行った(1分のインターバルあり)。1時間後にビデオを見直す。一回目:うまくいかない。打たれずに打ちたいという意識が強い。張り合ってしまっている。動きにも角がある。間詰めも刻みが大きい。良い反応をしている機会もあったが、防御意識が邪魔して捨てきれないので技が成立しない。打たれてないだけで全然ダメ。卑しい。2回目:インターバル中に自分の全身の脈拍に集中する。前半はまだ意識が強い。後半になってきて意識を薄めて無意識優位になってゆくと良い技が出だす。
「相手の動きや心を読め」なんて指導もありますね。でも相手の動きや心を読もうなんてすれば、意識が強くなって居ついてしまうと感じています。恐懼疑惑は自らの先入観や思い込みが生み出すものですが、相手の動きや心を読もうとすれば恐懼疑惑に陥ることになります。「読んで打つことが最上」という考え方は、「読もうとして居つく」という危険を「それは修行が足りない」という理屈で片付けちゃうことになるように思います。(戦場で戦うことが前提の侍は、この考え方では生きて帰ることはないでしょう)しかし
神経や精神の医学の分野で「内受容感覚」という言葉があることを知りました。自律神経(交感神経と副交感神経)は、本人の意思にかかわらず仕事をし、自律神経が感じた情報を脳に送り、その情報をもとに脳も色々と指令を出すわけです。体内に起こる心身の変化について、自律神経が脳に情報を送り、これを脳が受け取り情報処理することを「内受容感覚」というようです(素人の解釈として大体こんな感じかな)。内受容感覚が正常に働けば、自分の体調の変化も感情の変化も敏感に感じ取ることができるのですが、内受容感覚
武術や武道にも様々なものがありますが、私が「おお、これは凄い」と興味を持つのは、外観には力感がなく、静かでしなやかで優雅ささえ感じさせる動きです。一見、まったく凄そうにも強そうにも見えない動きを「おお、これは凄い」と感じるのです。一見、凄くない物を凄いと感じるのは、内部感覚を観ているからでしょう。中には数百年の歴史を伝承してきたという武術もあるのですが、迫力や凄さが分かりやすく見えると、私は興味を持てなくなるのです。大工仕事でも書家の動きでも、熟練した技には力感がなく、繊
「ここぞという時に捨てて打つ」というのもよく聞く言葉。「ここぞという時」を「見て確認」してからでは遅すぎる。「ここぞという時」は無意識に打ち終わっていないといけない。つまり気配を打つ。「捨てて打つ」は、「捨て身で打つ」ことでもあるが、間を詰める時点の「捨て入る」ということも重要。もちろん、「捨て入り」と「捨て身の打ち」が繋がっていないといけないし、分離してたんでは全く意味がない。さて、この「捨て入り」だが、「無謀入り」になってしまうことがある。強引すぎるのだ。
常々思うのは、身体内部で自分が感じている「感覚」と実際に現れる表面上の動きは異なるということです。例えば、このブログで「秋猴の身」というのも何度も出ていますが、実際に出現する動きが「常に腕を短くしたまま、一切腕が伸びない」という解釈にしてしまうと違ってしまうのです。最後まで腕を先に出さないで、身体を寄せて打つ感覚ではあるのですが、最後に自然に結果として重力に引っ張られて腕が伸びる瞬間も否定しなくていいのです。感覚として腕を短く使う感覚であればよく、「実際は違うじゃないか!」と判断し
前回の続きです。武蔵が言いたいのは「当てる」のではなく、理に適えばおのずから「当たる」ということなんですね(「打つ」と「当てる」なら、どちらも意図的であることは同じことになってしまいますからね)。私の解釈を分かりやすく、私なりの補足を入れて現代語訳してみます。「五輪書」打とあたると云事。うつと云事、あたると云事、二つ也。うつと云こゝろハ、何れのうちにても、おもひうけて、たしかに打也。あたるハ、行あたるほどの心にて、何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、これハ、あ
ブログで書くのはもったいないぐらいの内容の記事を書きます。でも、ま、いいか。ほとんどの人が素通りになるでしょうから五輪書の水の巻には次の記述があります。一打とあたると云事。うつと云事、あたると云事、二つ也。うつと云こゝろハ、何れのうちにても、おもひうけて、たしかに打也。あたるハ、行あたるほどの心にて、何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、これハ、あたる也。打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。敵の手にても、足にても、あたると云ハ、先、あたる也。あたりて後を、強
強い人と稽古してドカンと打たれると「ああ、いいところを頂いた」とそのイメージが印象に残って、自分の理想とする身体操作法とは逆方向であるのに影響されそうになることがよくあるんです。そもそも私も一般的な現代剣道の身体の使い方をしていたわけですから、まだまだついつい釣られそうになってしまうんですね。でも、相手の強さを受け入れ高く評価できることはすごくいいのですが、身体操作法や心法が影響されてしまっては、武蔵の世界に行けないんです。手本がない分、引きづられれば道を外れてしまう。一番中途
理屈でいくら正しいことを知っていても、身体感覚が届いてなければ、それは「知らない」のと全く同じことだと思います。正しい理屈を知っているけど身体感覚が大間違いというのが私も含めて世間の大多数だろうと思います。正しい理屈を知ってやってみても身体感覚は違和感があるため、その理屈を拒絶し、違うところで納得しようとし、それが正しいような気になるのが常だと思います。短期間で納得したものは、大方は全く違うのです。表面上同じように見えても全く違うのです。分かる身体ができてこそ、分かるに
時々見る夢がいくつかあります。寝汗をかくような悪い夢もあるのですが、良い夢の話。*******************************道場にいる私。いつものように一人稽古をしている。立った姿勢から股関節を静かに抜くと重心が滑り出し、スーと体が前に出る。足裏は、床に触れるか触れないかの感覚。まるで濡れた氷が床を滑っていくような感じで、3mほど体が移動した。「やった~!!!できた!!」と思いつつ、「いや、また夢かもしれん。感覚をつかんでいるうちに何度
五輪書水の巻の「足つかひの事」にある「爪先少し浮けて、くひすを剛く踏むべし」は重々承知していたが、いざ剣道となると「ここまでやっていいのか」というようなリミッターを自分が掛けていたように思う。さすがに、爪先で床を蹴ることはしてこなかったが、踵を踏むものの足裏全体も使って重心移動に寄与する感じにしていた。しかし、もっと強く踵を踏む(力任せではない。重さのかかり方の事)方が、安定した重心移動になるのと全身に芯が通る感じがする。陸上短距離のスターティングブロックは、踵を強く踏めるよ
また、手の内について書いてみます。かなりマニアックな内容です(いつもか!)。五輪書に下記の記述があります。どちらも水の巻にある記述です。一太刀の持様の事。刀のとりやうハ、大指、ひとさし指をうくるこゝろにもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしゆび、小指をしむる心にして持也。手のうちにはくつろぎの有事悪し。太刀をもつと云て、持たるばかりにてハ悪し。敵を切ものなりとおもひて、太刀を取べし。敵を切ときも、手の内にかハりなく、手のすくまざる様に持べし。若、敵の太刀を、はる事、うくる事、あ