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合気については、「張り合う事が合気ではない。対立しないことが合気」と考えております。ただ、もう少し狭義の意味でも捉えだした感じです。現代剣道の高段者の剣道では、合気になって触刃、交刃、打ち間と入ってゆき、そこで「勝って打つ」といわれます。で、この「勝って打つ」ということを「相手を上回る」という捉え方をするとグイグイやりがちです。しかし、相手の心身が動いちゃえば打つべき機会はできますから、「相手より弱める」というのが私としては練りやすい。なぜなら、皆さんと同じように
「腕は短く使う」ということをこのブログでは五輪書の「秋猴の身」を取り上げて解説してきました。今回は「腕が伸びるのは最後」ということを書いてみます。「腕を短く使う」と言いながら「「腕が伸びるのは最後」というのは矛盾しているように感じると思いますが、そうではありません。「伸ばす」ではなく結果として「伸びる」瞬間もあるのです。打突時に腕を短く使うということは、「相手に我が身を寄せて打つ」または「相手を我が身に寄せて打つ」ということでもあります。打ちの初動から振りかぶり終
このブログでは、剣道において「むき出しの気迫も、大声もいらない」というようなことを何度も書きました。集中力(心の開放)は必要ですが、相手を威嚇したり、自分自身を鼓舞するために大声を出すというようなことは、その集中力の邪魔になると感じているからです。では、宮本武蔵はどう考えていたのでしょう。今まで、武蔵が60歳になって書いた五輪書を題材に何度か同じテーマで書きましたが、今回は武蔵が20代の時に書いたといわれる兵道鏡の第1ヶ条を見てみましょう。一、心持之事(付たり座之次第)心の
現代の高校生以上の剣道の試合を見ると心がザワザワするのです。小中学生なら「元気でよろしい」と見ておれるのですが、体格も良くなってくると「しばきあい」に見えてくる。いえ、京都大会のような演武としての立合などは比較的穏やかに見れるのです(中にはザワザワする立合も混ざってくるのですが)。しかし、八段の試合でさえ、街中でケンカを見たような胸がザワザワする試合もあります。昔の全日本大会や明治村大会などの昭和の映像はじっくり見れて感動もするのですが。今の剣道は、何かが全く違う。
私はバンド活動にのめり込んでいた時期もあるので、NHK朝の連続テレビ小説「ブギウギ」を楽しんで視聴しています。で、今朝の福来スズ子と水城アユミのステージ対決は見事な対比でした。観客の盛り上がりの演出に大きな違いがあったので、福来スズ子の圧勝という感じでしたが、その演出がなくても、実力の大きな違いが見事に表現されていたと思います。水城アユミのステージは、歌も踊りも一生懸命さや迫力が伝わってくるのですが、力みがあり、いくらステージを走り回っても、空間が閉じている感じ。福来スズ
このブログでは、無意識の大切さを何度も書いていますが、もちろん初めからその段階に入れるわけではありません。まずは、意識して色々と試行錯誤することが大事なのです。それをやらないと、身体に何もプログラミングできていないからです。基本動作や攻めの定石など、身体に何もプログラミングできていない状態で意識を薄くしても何の技も出現しないのは当たり前ですね。お箸の使い方は、幼いころに親に注意されながら沢山練習して身体にプログラミングされているので、家族と会話しながらでもテレビを見ながらでも
さて、また現代剣道の「爪先立ちはおかしい」と思う私の考え方を書いてみます。爪先と踵の機能については、以前書いた記事「爪先立ちは武道的ではない」をお読みください。では、陸上競技の短距離でのスタートを思い浮かべて下さい。スターティングブロックに両足を置いてスタートしますよね。両足裏はスターティングブロックにどう付けて号砲を待つのでしょう。ほとんどの選手が次の2つのどちらかになるようですね。①爪先から踵まで、足裏全体をスターティングブロックに着けておく方法
陸上競技や競泳では、フライングすれば失格になりますね。でも、剣道では、いくらでもフライングOKですよね。第三者の審判などがいる場合でも「はじめ」の声を聞いた後は、いつどのように動いても良いわけです。だったらフライングしようと考えたわけです。「いや、打ち急いだら出鼻を打たれるぞ」という声が聞こえてきそうです。もちろん、動き出しから、即、打つ動作に入ればバレバレのフライングになるから打たれます。ただ立っているのか、間を詰めてるのか、打つ動作に入ったのかが分からない
五輪書水の巻兵法心持の事「兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。静かなるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上の心はよわくとも、底の心をつよく、心
前回は「乗る」「攻める」という意識をなくして立てば良い立合が出来た。さて、「今日も良い立合を」と思いたいところを「いやいや、前回のような立合を再現しようとすると過去の自分に縛られる。今日は今日」という気持ち。立合前に、「無意識を信じること」「膝を固めないこと」「構えは仙骨を股下に入れること」を課題にすることを確認だけし、実際の立合はそれらさえも忘れていいことにした。いくつも「あ、打てた」という技が出現。しかし、打った後もずっと無意識優位のままだったので、立合後はほとんど何も覚え
さて、「初めからやり直し」ということで、まずは稽古日誌の読み返し。どこからおかしくなったのか。はい、「そっと乗る」という課題を強めたところからが怪しい。先をかける、自分きっかけになるということは大切だ。しかし、「乗る」を「乗ろうとして乗る」ではダメだ。それは「攻めようとして攻める」ということと同じだ。「攻めは攻めようとしないこと」と気づきを得ていたのに、「もっと、もっと強くなりたい」という向上心が、その気づきを忘れさせ、完全に違う方向に入ってしまっていた。
最近の稽古は上手くいっていない。どうも稽古テーマが多すぎる。あれもこれもと欲張った感じになると、立合稽古でも無意識優位にならずに意図的な心身の状態になってしまっている。「潔く打たれよ」というイメージでも、その底に「うまく無意識が機能して打ちたいな」というこざかしさを感じる。これではダメだ。雑念が多く「充実とゆらぎ」のバランスがズレている。さて、また一度、積み上がってしまったものをバラバラに崩壊させて始める時期が来た。
最近の課題は「乗る」ということ。ただ、相手を威圧するほど表面に気がでてしまうと、「乗る」ではなく相手と「張り合い」になってしまって、互いに居つきながらの争いになると感じる。心の揺らぎが止まってしまう。かといって、表面に出る圧が弱くなりすぎるとうまく合気にならず、噛み合わない場面で相手が打って出てくるし、それに対して自分の応じ返しも噛み合わず中途半端になる。内面の「上の心弱く、底の心強く」と同じように、相手側に伝わる気も、外側と内側の構造があるように感じた。しかし、表面に出
前回は「観の目強く、見の目弱く」について書きました。で、「観の目」から技に繋げるために、重要なことがあります。それは「太刀の道を知っている」ということ。「観の目強く、見の目弱く」と「太刀の道を知っている」というのは絶対的にセットでないといけない。どちらかが欠けると技にならないのです。五輪書の水の巻太刀の道と云事太刀の道を知ると云ハ、常に我さす刀を、指二つにて振る時も、道筋よくしりてハ、自由に振もの也。太刀をはやくふらんとするによつて、太刀の道さかひて振がた
五輪書の水の巻の「兵法の眼付と云事」には次のように書かれています。目の付様ハ、大に廣く付る目なり。觀見二ツの事、觀の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀を知り、聊敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也。工夫有べし。此目付、ちいさき兵法にも、大なる兵法にも、おなじ事也。目の玉うごかずして、両脇を見る事、肝要也。かやうの事、いそがしき時、俄にハわきまへがたし。此書付を覚、常住此目付になりて、何事にも目付のかはらざる所、
先日の稽古で、「乗る」という感覚の大切さに気付けたように思います。「攻めよう」とか「割ろう」という意識でいますと、どうしても強引になる感覚がありますので、私はそうした意識を捨てるようにしてきました。「乗る」という言葉も「攻め」ということの中で語られることが多いので、「攻める」の一手段として「乗る」をイメージしていましたので、敢えてあまり意識しないようにして、心の揺らぎを止めないよう、心が居つかぬようにという課題を優先していました。しかし、「乗る」は、「攻める」というイメージとは
今年の3月のこと。いつも行く役所で、いつものように階段の上りで歩行を感じている時に気づく。振り出す前足の腿の力を抜くことを錬っていたが、後ろ足である軸足側にストンと重心を落とすと前足がラクに跳ね上がることに気づいた。弾む感じに近い。軸足が床からの反力をもらうと、振り出す足が浮く。ものすごくラクに感じた。もしかして、いまだに立合で踏み込み足が出てしまうのはこのためか?踏み込み足は、前足を上げることで後ろの足に荷重して床からの反力をもらう動きだと考えていたが、自分の
「剣道は、聞き上手になれ」ふと、自分で思った言葉です。剣道は、話し上手より、聞き上手を目指したいものです。聞き上手と言っても、口下手で寡黙なまま「ふんふん」と頷いているだけの話しやすい人よりも、ベテランのアナウンサーや取材員のような聞き上手。話し手に警戒心を持たせずに、ついつい要らぬことまで口を滑らしてしまうような、インタビューや取材ができれば最高の仕事ですよね。剣道も同じ。攻め立てて、威嚇して、居つかせてスピードとパワーで打つとか、引っかけてダマして打つなん
残心については以前にも触れましたが、今回は角度を変えて書いてみます。全日本剣道連盟の剣道指導要領では、残心は「打突した後に油断せず、相手のどのような攻め返しにも直ちに対応できるような身構えと気構えを示すことである」とされています。前回書いた「残心について」の記事も、この意味での「残心」になるように書きました。これに何の疑問もないのが一般的ですね。しかしですね、山岡鉄舟の「兵法十二箇条」や「猫の妙術」で有名な丹羽十郎左衛門忠明の「天狗芸術論」にも記載ある「残心」については解
【016】感覚と技(100412)術理は、目で見ても、説明を聞いてもなかなか理解出来ない。自身の身体で感じる事が上達の一番の近道だと思うのだが・・・。身体で感じる事が苦手な人はなかなか上達しない。そんな人に限って視覚情報・聴覚情報に頼った稽古をしている。視覚情報・聴覚情報は道場に来て稽古をしなくても本やDVDから得られる。道場内の稽古に於いては「見る事」や「説明を聞く事」よりも優先してやる事がある。視覚情報・聴覚情報に頼って上達がおぼつかない人は「目をつぶって」稽古する事も一つの方法
さて、まだ全く答えが出ていないのが表題の課題。年齢を重ねれば必ず筋力は衰えるし、デスクワークの多い私の現状の生活のままでは10年後は確実に筋力の衰えが顕在化していると思っています。昔の人は車も電車も自転車もないわけで、生活するだけで、毎日、現在の私の数十倍は動いていたでしょうから、必要な筋力が自然に発達していたと思います。しかし、「よし、筋トレをはじめよう」という気持ちにはなれないのです。単純な筋トレでは、骨格と重力の自然な協調を可能とする筋力にはならないように感じるから
先日、スポーツチャンバラの稽古を覗いていましたら、その会の代表の先生と次のような会話がありました。先生:「明後日、全国大会なんですが、今から基本動作の試合稽古をしますので審判をお願いします」私:「え?私ですか?私、スポチャンは見るばかりでやったことないので判定基準がよく分かっていないので、皆さんに失礼なことになってしまいます」先生:「構いません。剣道を長年されているそうですが、いつも見学されている時の姿勢が素晴らしいので、どちらが好みかの判定で良いのでやってみて下さい」非
また、手の内についての続編です。私は、「どうやったら手の内だけでも冴えのある振りが出来るか」という課題を持って稽古していますが、その稽古の一つとして肩肘手首をなるべく使わずに手の内だけで面打ちや小手打ちや小手面打ちなどを稽古に取り入れています。以前、ある範士八段が、手の内について説明していた内容があるので書いてみます。「正座をして竹刀を持ち、剣先を床に着けた所から剣先を持ち上げるのはどうしたらよいのか」という話でした。結論としては、初動に一瞬右手でポンと竹刀を跳ね上げるように
色んな人に説明しても、なかなか始動時に床を蹴る必要がないことを分かってもらえないですね。二本足で体を支えて立っているわけですから、一本外せば体は動き出すわけですが、これを説明してもほとんどの人が外していないもう片方の足に乗りなおしてからじゃないと動けない感じなのです。なので、一方の支えを外すと同時に動き出さないで一瞬片足で止まってから動き出すというロスがあるのです。これは明らかにカウンターバランスをとってしまう癖なんです。物理に任せればそんな動きにならないのですから。構え
私個人の感覚としては、身体操作の原理が日本の武術が持つ術理に近づけば近づくほど、剣道以外の武道の術理の素晴らしさに感動します。空手のナイハンチやサンチンは素晴らしい型ですが、常識的な現代の竹刀剣道の基本から見たとすれば、なんの利点があるのか感じることさえできないように思います。(オリンピック種目としての空手の型は、残念ながら劇画漫画のように険しい表情と強烈な力みが見えますので、現代剣道と同じような価値観にも見えます)沖縄琉球空手、合気道、古武術などの心の在り方は、現代竹刀剣道の八段
中学生を指導。試合に勝ちたい中学生。それに応えて興味を術理に引き込むのも私の仕事。「先をかけるのが遅い」というと「攻め急ぎ」になってしまう彼ら。攻め急いで、いきなり交刃の間に入り、すぐに近間になり、ゴチャゴチャしちゃうか墓穴を掘る。そこで次のような声掛けをした。「先をかけることと攻め急ぎは違う。君たちは間合いや時間を4ビートでやっている感じなんで先かけが遅いねん。16ビートでやれば、テンポは同じでいながら間合いも時間も細かく刻んで感じてるんで、慌ただしくない
先日書いた「基本姿勢の重心は低い方が良い?高い方が良い?」の続編です。最近、普段の動作の基本の重心位置を高くして生活しています。立つ歩くはもちろん、座った時もうなじ(上丹田)を意識しています。そうしますと腹は常に上下に引っ張られている感じなので、自然と腹筋と背筋を使うことになるようで、運動量は増えてないのに体重が2キロくらい減りました。デスクワークの私としては、これは思わぬメリット。でも、うなじを意識して歩きながら、呼吸を腹まで深くするのが少し難しいですね。重心を高くすると
若い頃は、車やギターや服など、あれこれ欲しい物がありました。でも、今は物に対して所有欲がなくなった感じです。「武術的身体操作とそれに伴う心法を高めたい、上手くなりたい」という尽きない興味の虜になってから、人の技術(技)自体に関心があり、そういう技術や技を見て素晴らしいと思うのですが、「さて、自分はどうする」という気持ちになるのです。ですから、素晴らしい美術品、腕時計などの装飾品、高級車などを見ても、感動はするものの、「これを作った人は、いったいどんな姿勢で作業するのか、歩いているのか、
先日書いた下丹田、中丹田、上丹田を自由自在に使いこなすにはどうしたらいいのか。そこで、稽古で試しはじめたのが、下丹田重心移動からスタートして、一気に中丹田重心移動に変化し、最後に打ち切りでまた下丹田に落とす打ち方。始動から中丹田だと打突動作の起こりが顕著になりやすいので、下丹田から床と水平に始動し、これによる相手の気配の変わり目から中丹田に繋げ、最後の打突終わりに下丹田に落とすという試み。うん、普段のさまざまな歩き方の修練の応用に過ぎないので、そう難しくはない。ただ、中丹田か
このブログでも「気配を打つ」ということは何度も出てきます。「見の目弱く、観の目強く」というのもそうで、目で見て確認してからでは気配を打つ感覚になりません。心を静めて気配を感じる必要があるのですが、自分の外側ばかり気になるような感覚ではなく、外側に心を放ちつつ、同時に、自分の内部感覚にも集中している感じが良いと感じます。そこで考えたのが「心を澄ます」なのですが、「耳を澄ますように、心を澄ます」感じといえばいかがでしょうか。「目を澄ます」とは言いませんね、「目を凝らす」になり