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トップページ都道府県別索引へ主郭内の建物の跡などを見ながら、南端の木橋まで降りてきた。ふつうの城なら、そろそろ探索も終わりかと思うところだが、この館はここから下も凄かった…北側の空堀は、大小二重になっている。木橋から東の方西の方ここも深さはそれほどでもないが、もともとの傾斜を利用して館との高低差と斜度を取っている。客殿などがある西側の切岸。すごい威容😨東側はもう少し大人しい印象…二重空堀の向こうには北郭が広がる。こちらは整備されていないようで🌿🌿がす
今回からは松前氏の初代と言える、武田信広が住んでいた上ノ国勝山館の紹介です。2017年に続日本100名城(102番)に選定されました。Googleマップです。上ノ国は江差付近の上ノ国町にある地名です。北海道への和人の進出が本格化したのは室町時代の14世紀後半以降と推定されています。勝山館とは、松前藩の祖武田信広が15世紀後半に築いた山城です。武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・北方交易の一大拠点でした。松前氏の略系図です。1431年に生まれた武田信
こんにちは、philosophiaです「4年ぶりの社員旅行in北海道」の続編です。道南十二館のひとつ<志苔館>を攻城後は一路R227で山越えして日本海側へ北海道は、市街地を抜けると速度制限のない道路が増えなかなかのペースで走れますが、あえて地元ナンバーの後ろを追従します!レンタカーには、愛車のようにレーダー探知機が付属していないからです(笑)50キロ制限の標識が出ると、やはりペースダウンしているようです。江差追分からR228へ入り、海岸線に沿ってしばらく走ると
道南の和人勢力の拠点だった12の館北海道最古の歴史書と言われる『新羅(しんら)之記録』は、松前藩が幕府に提出した『松前家系図』を改訂し、正保3(1646)年に松前景(かげ)広(ひろ)が編纂しました。松前藩成立前史となる同家の始祖・武田信広(後に蠣崎氏を継承し、四代続く)から、松前姓を名乗った初代藩主・慶広、三代・氏広に至る事績を年代記としてまとめたもので、編者の景広は松前家初代の慶広の六男にあたります。タイトルの「新羅」とは、同家の先祖が清和源氏の血を引く源義光、通称「新羅三郎」であ
「現存する最古のポルシェ」タイプ64が生まれるまでのストーリーマイナビニュース最初のポルシェ」にして「現存する最古のポルシェ」であり、フォルクスワーゲンとポルシェをつなぐ進化上の「ミッシングリンク」とも形容される。時代に翻弄された...隕石被害の最古の記録をトルコで発見sorae...中央政府を経てオスマン帝国皇帝へと伝えられた公式な記録が残されており、確認されたものとしては隕石による人的被害を高い信頼性で伝える最古の記録で...カモミールの花言葉は?世界最古のハーブに
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、勝山館その2の紹介です。JALマイルの期限が迫っていたので、ちょっと北海道に行ってきました。行ったのは震災の数日前でした。少し遅かったら大変だったでしょうね。震災に遭われた方、亡くなった方、心からお見舞い申し上げます。3日目の城の旅です。まずはじめに勝山館へ行きました。城名(別名)住所関連する人物勝山館(和喜の館)北海道檜山郡上ノ国町勝山松前家、武田(蠣崎)信廣、蠣崎季繁誤字やリンク切れ等がござい
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、勝山館その1の紹介です。JALマイルの期限が迫っていたので、ちょっと北海道に行ってきました。行ったのは震災の数日前でした。少し遅かったら大変だったでしょうね。震災に遭われた方、亡くなった方、心からお見舞い申し上げます。3日目の城の旅です。まずはじめに勝山館へ行きました。城名(別名)住所関連する人物勝山館(和喜の館)北海道檜山郡上ノ国町勝山松前家、武田(蠣崎)信廣、蠣崎季繁誤字やリンク切れ等がござい
※2018年8月1日訪問※松前城の北東約1kmの場所に位置する【徳山館(大館)】を訪れます徳山館(大館)は、松前氏(蠣崎氏)が現在の松前城の場所に館を築くまで使用していた蠣崎氏の拠点で、国の史跡に指定されています古くは【大館】と呼ばれていたようで、これは館が、《小館》《大館》と二つの郭で構成されており、主郭部分の大館の名が残った為と推測されます◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆大館は、松前町字神明から字福山にかけての丘陵地、勝軍山の裾野が街の中に突出した舌状台地上に有り、東はバッコ沢
※2018年8月1日訪問※松前城散策を終え、馬坂から城外へ大松前川を渡った先の現在の松前町役場の位置には【町奉行所】と【町会所】が有りました◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆住民の行政、治安を司る町奉行所は寛永年間(1624〜)には、すでに設置されていたが奉行・吟味役・下吟味役があり、二人以上が同職にあって月番を担当していた。町会所は役場の南側駐車場のところにあった。ここは全く町民自治の機関として町年寄りー見習一町下代一町小使一名主一町代一五人組合頭があり、この二つの機関の連携には奉
※2018年8月1日訪問※寺町門跡から城の北東方向に位置するのが【海渡山阿吽寺】寺の創建は1443年(嘉吉3年)、現在地に移ったのが1617年(元和3年)と、かなりの歴史を誇るお寺ですね寺宝として、5世・慶広公の木像など、貴重な資料が伝えられていますそんな阿吽寺さんの入口には重厚な門が建てられていますが、この門はかつての松前城の【堀上門】という城門だと伝えられています門の脇には【城門堀上門】と書かれた標柱もただ、この《堀上門》というのが、城内のどの場所に有ったのかがわかりませんでし
※2018年8月1日訪問※本丸跡から北側に向かうと、松前の寺町の区域に入ります綺麗な紫陽花に癒されながら歩いていると、城の北側の入口である【寺町門跡】の標柱を発見寺町門跡のすぐ側には【外堀跡】の標柱が有り、石垣の下、現在道路になっている場所がかつての外堀だったのでしょうね寺町門跡から北東に歩くと、わずかに残された石積みが、所々に点在しています特に説明板などは有りませんでしたが、城の北側の外郭部分の石垣の跡でしょうか?要所要所に、わすかでも石垣が残されているのは貴重ですよね◆蝦夷国・
※2018年8月1日訪問※本丸内堀から歩いて行くと、天守を望む広大な広場が視界に飛び込んで来ます現在は芝生に覆われたこの広場には、かつて広大な【本丸表御殿】が建てられていました写真の奥には本丸御門が見えますね本丸御門、天守とともに昭和まで残存していた表御殿は、1875年開校の《松城小学校校舎》として利用されましたが、1900年の新校舎建設に伴って取り壊されてしまいましたしかし、玄関のみは新校舎に取り付けられて引き続き利用される事になり、玄関部分は曳家して現在も保存されている事は以前の記
※2018年8月1日訪問※東郭隅櫓跡から北西に歩いて行くと【本丸内堀】が見えて来ます二ノ丸と三ノ丸を隔てる堀には水が張られていませんでしたので、松前城で見られる水堀はここだけですね下の写真、少し石垣がお堀に出っ張っている部分が有りますが、江戸時代の絵図によるとこの場所には木橋が掛けられていたようですね内堀越しの天守は画に成りますよね◆蝦夷国・松前城(福山城)本丸表御殿跡/国指定史跡◆に続く
※2018年8月1日訪問※天守を出て、今度は城の北東部分にあたる【東郭】に向かいますかつては、二ノ丸と東郭は隔てられていたようですが、現在はその境はわかりませんね二ノ丸の南側と同様に、東郭にも【隅櫓】が上げられていましたこちらの古写真でも右端に二重の櫓が見えていますね松前城は、二ノ丸・三ノ丸南東部が非常に良く整備されているので、出来れば二ノ丸太鼓櫓やこの東郭隅櫓も復元して欲しいですよねこの隅櫓跡の真下には馬坂が目の前に見えるので、城への東側の出入りはこの櫓から丸見えです敵の侵入など
※2018年8月1日訪問※松前城の天守と本丸御門を繋ぐ【本丸御門東塀】ですこちらの本丸御門東塀も、天守や本丸御門と同様に戦災を潜り抜けた貴重な文化財でしたが、1949年(昭和24年)の失火により惜しくも焼失今、見られる本丸御門東塀は天守の再建に合わせて作られた物ですねこちらは、天守を出て本丸御門に向かう途中の、土塀の【裏側】部分の土塁と石垣ですが、《はらみ》が生じてしまっていますね今度は天守の乗る【天守台石垣】を見てみましょうこちらは、天守1階の出口を出た所を撮影した物ですが、よくよ
※2018年8月1日訪問※さて、いよいよ松前城のシンボルでもある【天守】を見て行きましょう1854年(安政元年)、長沼流兵学者・市川一学の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の天守を上げました天守の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板で葺いているのが特徴ですね通常、天守の壁は柱の間の竹で編んだ骨組みに壁土を塗りこむのですが、ロシア艦隊の砲撃に耐えられるように、中に硬いケヤキ板を仕込んで備えとしたようです天守は本丸南東隅に上げられ、三重三階の層塔型築
※2018年8月1日訪問※松前城の天守を出て本丸御門をくぐると、広場のようなスペースに出ます多くの観光客の方が、本丸御門と天守をセットに写真に納める中、門を出て右側の木々の中へ何やら古そうな建物が見えてきましたが、こちらはかつての【本丸表御殿玄関】なんです北海道の《有形文化財》に指定されていますね松前藩の政庁だったのが表御殿です表御殿は、明治維新後は明治8年に開校した松城小学校校舎として使用され、明治33年の新校舎建築にあたり解体表御殿の玄関部分のみが新築された小学校の正面玄関に再
※2018年8月1日訪問※天守内部の【松前城資料館】を見学し、1階から外に出て、柵沿いに進むと見えてくるのが、国の重要文化財にも指定されている【本丸御門】です本丸御門は本丸御殿へ向かう正門で、切妻造り、銅板葺きの櫓門です1849(嘉永2)年、江戸時代初期の城郭を取り壊し、北方防備を重視して新しい城郭を建設した際の門で、石垣は凝灰岩を方形に加工し、隙間なく石をすり合わせて積んだ美しい姿ですね明治8年、開拓使は《本丸御門、本丸御殿、天守》を残し松前城の施設を解体破却本丸御殿は学校に転用され
※2018年8月1日訪問※多聞櫓跡に有る入場券売場で入場券を購入し、いよいよ天守の内部へ向かいます松前城の天守へ向かうのには、一度地下に下りて、通路を抜けて行くという珍しい構造現在見られる天守は、1961年(昭和36年)に再建されたもので、鉄筋コンクリート造りの地上3階・地下1階天守内部は【松前城資料館】として、松前藩に関する貴重な資料が展示され、アイヌ民族に関する展示も有りました【松前藩主装用甲冑】兜の吹き返し部分には、松前家の家紋である《丸に四菱》の紋が確認出来ました【桐章】
※2018年8月1日訪問※天守のすぐ側には【多聞櫓跡】の標柱が建てられています絵図によると石垣上に多聞櫓が設けられ、搦手門の枡形を守る、堅固な要塞で有った事がわかります【多聞櫓跡】の標柱のすぐ側には松前城の歴史を解説する案内板もそして、【史跡松前城】の石碑が建てられていましたこちらの建物は、天守への入場券売場ですかつての多聞櫓跡に建てられているとの事ですが、形状などは当時の物とは違うそうです現在の建物は入場券売場、トイレ、管理事務所などを兼ねた施設として使用されており、受付では松
※2018年8月1日訪問※搦手二ノ門をくぐって左側、方角で言うと南側の海の方へ歩いて行くと、綺麗に整備された一角がここにはかつて、【二ノ丸二重太鼓櫓】が建てられていました城の古写真を見ても写真の左側に二重の櫓がはっきりと確認出来ます海岸線へも近く、津軽海峡を臨める軍事的にも重要な櫓であった事がわかりますねその名の通り、平時は太鼓を打ち、時を知らせる役割りを担っていたそうです確かにこの場所からなら、城内だけで無く城下まで太鼓の音が届きそうですね櫓跡から臨む津軽海峡こちらは五番台場跡
※2018年8月1日訪問※搦手二ノ門をくぐった先には、かつて【搦手門】が建てられていました江戸時代の絵図を見ると、とても立派な門であった事が伺い知れます現在は何も残っていませんねさて『松前城の搦手門』と聞いて、幕末ファンの方々は、ある人物を思い浮かべるのではないでしょうか??そうです、御存知、新選組副長・土方歳三です1868年(明治元年)秋、新政府軍に追われた旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、官軍の拠点である箱館の五稜郭を制圧新政府軍に恭順の意を示していた松前藩を制圧すべく、18
※2018年8月1日訪問※松前旅行二日目前日は夕方に松前に到着し、沖之口坂~湯殿澤口~三ノ丸~台場跡~馬坂~天神坂と、城への登城路や三ノ丸を中心に散策宿泊した旅館の温泉に浸かり、ぐっすりと睡眠を取り、旅館のおいしい朝食を頂き、英気を養う事が出来ましたさて、松前城散策2日目は、【搦手枡形】からスタートです現在、搦手二ノ門をくぐると、目の前には天守への入口が見えて来ますが、かつてはこの場所は石垣に囲まれた枡形になっていたようですこちらは、江戸時代の松前城の縄張り図ですこの絵図を見ると、
※2018年7月31日訪問※三ノ丸番所跡の脇にある木橋を渡ると、目の前に飛び込んで来るのが【搦手二ノ門】です2000(平成12)年に木造で復元された、高麗門形式の立派な門ですね門の脇の石垣は、隙間無くキッチリと積まれていますねそして、この搦手二ノ門の目の前には【三本松土居】と呼ばれる円形状の土塁が置かれていました文字通り三本の松が植えられた土塁ですね攻め手から搦手二ノ門を見えにくくする工夫なんだそうですよこの後、日が暮れる中、本丸方面へ向かい、ライトアップされた天守を堪能松前城散
※2018年7月31日訪問※天神坂を登った先には【天神坂門】が建てられています門の脇を固める立派な石垣2002年(平成14年)に木造で復元された立派な門ですね松前城といえば、屋根が銅板葺のイメージが有りましたが、この天神坂門は普通の屋根瓦で葺かれていますね◆蝦夷国・松前城(福山城)搦手二ノ門・三本松土居/国指定史跡◆に続く
※2018年7月31日訪問※馬坂から一度城跡の外に出て、本日お世話になる旅館にチェックイン夕食時に、ご丁寧に挨拶に来てくれた宿の女将さんから、『夜はお城がライトアップされていますよ』というお話を伺い、夕食後の散歩に再度城跡へ今度は城の南東部の【天神坂】から城内へ向かいます石垣に囲まれた登城路ですね先程の馬坂は直線的で広々とした印象ですが、この天神坂は狭い道をジグザグに登って行きますしかし、石垣は見事ですね◆蝦夷国・松前城(福山城)天神坂門/国指定史跡◆に続く
※2018年7月31日訪問※馬坂を下ると、木橋がかけられた【大松前川】が見えて来ます城のすぐ東側を流れる大松前川は、松前城の天然の外堀の役割を担い…と御説明したいところですが、名前とは裏腹に、細い川筋です橋の側には【馬坂】の由来についての案内板が設置されていました◆蝦夷国・松前城(福山城)天神坂/国指定史跡◆に続く
※2018年7月31日訪問※馬坂門跡から坂を下って一度城外に出てみますこの緩やかな坂が、馬坂門の名前の由来にもなった【馬坂】ですね藩政時代、松前藩士達はこの馬坂から登城したと言われていますちなみに、馬坂の名前ですが、本来は【数馬坂】というのが正式な名前だそうで、【数馬坂】と呼ばれていたのが縮まり、現在の馬坂と呼ばれるようになったとされています松前家五世・初代藩主の松前慶広の四男・数馬之介由広が、大阪冬の陣(1614)が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ、
※2018年7月31日訪問※三ノ丸番所跡の脇の木橋を渡ると、二ノ丸・本丸への道なのですが、あえてこちらには向かわず、城の東側、馬坂門方面へ向かいたいと思います整備された【二ノ丸・三ノ丸南東部案内図】が設置されていましたそして、こちらは馬坂門跡周辺の堀の石垣です堀というよりは水路といった感じで、城外への排水の役割も担っていたようですねこちらの写真奥の木の柵が有る当たりが【馬坂門跡】です門に続く登城路は、石垣や土塁でしっかりと固められていました蝦夷国・松前城(福山城)/国指定史跡馬坂