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烏丸通と今出川通の交差点から烏丸通を少し南に下ると護王神社が鎮座している。神社の塀には拾圓札のパネルが掛けられている。明治23年から昭和20年まで発行された日本銀行券10円紙幣には一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれている。大日本帝国として、和気清麻呂がいかに重要な存在だったのかがわかる。この十円紙幣は「いのしし」と呼ばれていた。そう、この神社の祭神は、和気清麻呂だ。狛猪が迎えてくれる。護王神社は和気氏の創建による孝雄山神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。正
山口県萩市須佐に鎮座します笠松神社(かさまつじんじゃ)風水では、萩市で最強のパワースポットと言われているという「鏡山神社」の参拝を無事に終えて、帰路につく前に、もう一社参拝しました。「鏡山神社」の1回目の参拝の時に見かけた国道191号線沿いの神社です。萩市街地から向かうと、鏡山神社への分岐の、ちょっと手前に鎮座しています。それが、「笠松神社」です。萩市観光協会サイトからのコピペ益田親施を祀る神社笠松神社益田家第33代益田親施(ますだちかのぶ)を祀る神社で、慶
激戦地となった京都御苑西側の門の名を採り何と呼ばれるか?文久3年の「8/18の政変」で敗北した長州藩は、翌元治元年、宮廷守護の役を奪回するべく軍隊を入京させた。7/19早朝には山﨑・嵯峨・伏見の3陣地から一斉に御所に進軍、戦闘を開始したが、幕府・薩摩・会津・桑名・大垣の軍に阻まれ、敗退して長州へと撤退した。この戦いは激戦地の門の名から「蛤御門の変」と呼ばれ京都市街の大部分が焼失した。
逆説の日本史幕末維新編「長州の乱」禁門の変とか蛤御門の変とか歴史の授業で習ったが変ではなく乱とすべき変で有名なのが本能寺の変家臣の反乱信長を誅する自らこそが正義と盲信し天皇の真意も我らと共にある回りの取り巻きが悪いのだだから力ずくで天皇を奪い取り長州に拉致監禁しよう⁉️乱を変と書き替えたのが勝てば官軍新政府の中心となった長州そう云われて初めて、目が覚めるだって、あんなにハッキリと教科書に書いてあるんだもの云われてみるとこちらの方が納得できる最近覚えた言
さてさて……………【岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)】京都府京都市左京区岩倉上蔵町100こちらは【表門】建物は質素な平屋建て二棟で、うち南側(表側)の一棟は移住後の元治元年(1864年)に、増加する来客に対応するため増築されたもの。具視死去後の明治35年(1902年)に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたが、ほぼ当時のまま残され、その後昭和7年(1932年)に国の史跡に指定されている。その岩倉具視には、ある疑惑があるそれは、
廬山寺を出て、京都御苑へ。清和院御門から入ります。案内図。土御門邸跡。藤原道長邸宅跡「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」今年のテーマは藤原氏京都御苑には藤原氏の軌跡がいっぱい仙洞御所。以前訪れたましたねぇ。京都御所へと通じる建春門。建礼門。広大です。まっすぐ西へ抜けます。清水谷家の椋。長州藩士、遊撃隊の総督である来島又兵衛が蛤御門の
先日、KBS京都で放送されている蛤御門のヘンって番組を聴いていたら、最近、大阪朝日放送ラジオからムック本が出たとの話。その出版社は三才ブックス、この出版社は「DJ名鑑」というラジオパーソナリティの本を出している会社で、こラジオ関連のムック本で知られています。1/24真冬のサイキックミーティング2024|角田龍平の蛤御門のヘン|KBS京都・真冬のサイキックミーティング2024ゲスト:北野誠、竹内義和...www.kbs-kyoto.co.jpしかし、ABCラジオで2
昨日のブログでも書いていたように、今日こそは「京の冬の旅」で特別公開されているところへ行こうと思っていた。天気予報では、明日から数日間はぐずつく模様なので。ということで、今日は午前中に、東本願寺の〝飛び地境内〟という扱いの「渉成園(枳殻邸)」へ出掛けた。ここは広々とした池泉回遊式庭園が美しく、名勝に指定されている。そもそもこの地は、徳川家光から東本願寺が寄進を受け、以後は退隠した門主の隠居所となって来た。庭園はかつて徳川家康に使え、一乗寺の詩仙堂を作った石川丈山が作庭した
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡京都御所に行ってきました。行ってみて初めて判ったのですが、御所は二重の塀で囲まれてるのですね。そして敷地が広い!手荷物検査と許可証をいただいて中に入ります。御車寄諸大夫の間。参内者の控え室。新御車寄。約100年前の話ですね。つい最近ですよ。紫宸殿。昭和天皇は東京に居てもここで即位されたのですね。春興殿小御所外に出て、歴史上あまりにも有名な蛤御門に向かいます。長州藩が朝敵となった禁門の変=蛤御門の変の場所。弾痕があちこちに残ってました。天皇に
禁門の変前回「長州征伐に絡む久光の極秘指示」で、禁門の変をおこした長州を征討することについて、内戦を回避するように、島津久光が西郷隆盛らに指示していたという話をしました。禁門の変というのは、元治元年(1864)7月19日に京都御所周辺でおきた長州軍と幕府側諸藩との戦闘です。これは前年の文久3年(1863)8月18日の政変で京都から追放された長州が、京都守護職である会津藩主松平容保の討伐を名目として、京都市中に攻め入ったことで始まりました。激戦がくり広げられたのが、御所をか
関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は、日本海側の萩を居城地に定められたため、大内氏の時代に「西の京」とまで謳われた山口は、萩と三田尻を結ぶ萩往還に沿う「一寒村」に落ちていました。しかし、幕末の風雲急を告げる文久3年(1863)12月、長州藩は、藩庁を山口に移します。山口政治堂(山口藩庁)です。藩主:毛利敬親も萩から山口へ拠点を移し、翌文久4年には、御屋形と呼ばれる居館も建設します。文久3年とは、「八月十八日の政変」があった年で、七卿落ち、翌年には、池田屋事件、そして蛤御門の変と、事件が続き
年始用にお取り寄せ。文久2年創業の北尾さん。創業の翌年は八・一八の政変や、そのまた翌年は蛤御門の変と動乱の時代でした。この内乱で放たれた火が市中が火の海となり、今在る北尾さん近くの京極まで燃えてます。オープン早々災難だわ。火は逃れたけど(多分)、値上げの波は避け切れず。安定の美味しさは健在。
3連休の中日。晴れてかなり気温も上がった日になった。我が家から近い京都大学で、今日だけキャンパスの一般公開をしているということで、ちょっと面白い建物を見学してきた。行った建物は、「尊攘堂」という名前が付けられている。まさに「尊王攘夷」の「尊と譲」である。今日貰ったパンフレットには、次のように記載されている。「この建物は、明治時代の政治家、品川弥二郎(1843ー1900)の遺志にもとづき、本学に寄贈された吉田松陰や尊王の志士たちの遺墨・遺品類をおさめるため、1903年(明治36
こちらこそ歴史興味深いので続き調べてみました集団ストーカー現れる被害編も老舗歴史の名所的なところがいっぱいなのに気の毒早く解決しますように『巨勢金岡(こせのかなおか)は、平安時代前期の貴族・宮廷画家』ていねいに読んで下さりありがとうございます。ウイキによると、巨勢氏-Wikipediaより、大和絵巨勢派の祖である金岡は野足の曾孫。巨勢野足-…ameblo.jp私の先祖のこと、アップしてもらって、その後の系図は、蛤御門の変でも燃えてしまいました
蚊の対策グッズ教えて!A網戸と蚊取り線香くらいかな。まあ水が溜まってる場所を作らないなんてのもあるよね。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう✋おいっす✋今日の記念日はなんじゃいな?〜蚊の日〜1897(明治30)年8月20日、イギリスの医学者で細菌学者でもあったロナルド・ロス博士が羽斑蚊・はまだらか類の蚊の胃の中からマラリアの原虫を発見したことにちなんで記念日が設けられております。この発見により羽斑蚊がマラリア感染症を媒介している事実を突き止めたロス博士は、以後の
八月十八日の政変により京を追放となった長州藩。翌、元治元年6月の池田屋事件で藩士が新撰組に殺害されたことをきっかけに武力での京奪還に大きく傾き7月19日に挙兵、蛤御門付近で会津、桑名兵と開戦一時は御所内にまで兵を進めるものの薩摩藩の援軍により敗退、長州へと逃げ落ちることとなります八月十八日の政変から繋がる蛤御門の変これも、スカッとする事件の一つです(禁門の変です)
今日、皆さまへお届けしたいトピックスはやはり同じお話になります。日本の歴史=国史を通じて、この7月も日本人にとってはエッセンシャルに重要な出来事が続いた月となりますので、毎年同じトピックスを取り上げ、それへの想いをともにしたいと願っています。◇元治元年(皇紀2524・西暦1864)の「7月19日」に、禁門の変が起こります。「蛤御門の変」「元治甲子の変」ともいわれるこの事件は、文久3年(皇紀2523・西暦1863)の「8月18日の政変」で、京都における地位を失墜した長州藩が勢力回
7月19日「松坂牛の日」毎月19日に行われる松阪牛の記念日です。松阪牛は、三重県松阪市で生産される黒毛和牛で、そのきめ細かい肉質と豊かな風味で知られています。松阪牛の日には、松阪牛を提供する飲食店や販売店でイベントやキャンペーンが行われます。また、松阪市では、松阪牛の魅力をPRするイベントやセミナーが開催されます。松阪牛の日をきっかけに、松阪牛の美味しさを体験してみてはいかがでしょうか。パブリックドメインQ▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタン
松平容保が京都守護職に就任するのを政争なな巻き込まれると頑なに反対していて頼母は家老職を解任され謹慎結局は京都守護職就任がきっかけで会津藩預かりねや新撰組が池田屋事件を起こし、蛤御門の変と続きました。しかしその時に助けてくれた薩摩藩はいつの間にか長州と手を組み超敵となってしまった会津藩は徳川慶喜に従って降伏を考えていたのに新政府軍は容保や重臣の処刑を提示して頼母はプッツン‼️戊辰戦争の始まりでした。
さてさて……………割りと、しっかりした登山道を進むと山頂近くの目的地へと到着した……………登山道はきちんと整備されているこれかーーーーーっ到着したのは……………【十七烈士之墓】『禁門の変(蛤御門の変/1864年)』の際、戦いに破れ【天王山】山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名が眠る墓だ…………。久坂玄瑞や来島又兵衛などは知っていたが、恥ずかしながら真木和泉守については知識がない【真木保臣(まきやすおみ)】1813年〜1864年江戸時代後期の久留米水天満宮祠官、久留米藩士、尊
…繰り広げた戦いを何と云うか?幕末の京都で、長州軍と幕府軍が戦ったのは「禁門の変」と呼ばれる。文久3年8/18の宮廷クーデターで京都から追放された長州・方の軍隊は、翌元治元年7/19、失地回復を目指して山崎・伏見・嵯峨から進撃して御所に迫り、会津・薩摩・桑名の連合軍隊と戦って敗れた。蛤御門辺りの戦いが最も激しく、「蛤御門の変」とも呼ばれる。
Laporte"Hamaguri-gomon"dupalaisdeKyoto.----------2022年11月11日撮影。禁門の変で有名な蛤御門。この時初めて実物を見ました。見た感想……「ちっちゃ」。(^o^ゞだって、テレビや映画で、幕末ものといえば必ず蛤御門が出てきますが、会津藩や新選組が守っていて、大砲も据えつけられ物々しいイメージ。当時はもっと高い塀で囲んでいたでしょうが、それにしてもめっちゃ守りに適していない造り……。ここで長州軍と衝突したんですなぁ。
南から御苑に入り、建礼門を西に行くと、蛤御門の少し手前に大きなムクの木があります。この辺りに昔「清水谷」という名の公家のお屋敷がありました。それでこのムクの大木は「清水谷家の椋」(しみずだにけのむく)と呼ばれております。樹齢300年ほど。清水谷家は西園寺家の一門で、鎌倉時代、西園寺家の次男実有を祖として始まり、雅楽にて天皇家に仕えたそうです。長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛が、禁門の変において蛤御門より突入、薩摩藩の銃撃隊に撃たれ、この大木の辺りで最後には自刃したとも伝わっております。さ
2022年11月11日撮影。上本能寺前町をGoogleマップで見たのですが、ほとんど京都市役所ですね。上本能寺前町を市役所から寺町通を渡った所にこの石碑があります。秀吉の命で移築した後の本能寺も広かったんですねぇ~。市役所丸ごと入ってさらに大きな敷地ですから、現代でもその大きさが分かりやすいです。ここが上で、下本能寺前町もあるわけですから。蛤御門の変で本能寺が焼け落ち、それを契機にというと言葉が悪いですが、ごっそり官有地として持っていかれて現代にいたるそうです。まぁ、京都の寺社仏閣
上の記事の続きです。Y子が大江神社に呼ばれた翌日、ワタシにも『大江』のサインが3回もきました。😱スルーはできず、1月20日に参拝してきました。谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩5分ほど。大江神社は、四天王寺七宮の一社です。聖徳太子が四天王寺を創建した際、その外護として造営されたそうです。四天王寺七宮…なぜか2年前から、突然お呼びがかかるようになりました。四天王寺七宮とは?(まとめ)四天王寺七宮(してんのうじしちみや)とは、聖徳太子が四天王寺を創建した際、四天王寺の外護(
さてさて……………【護王神社】のすぐ近く。次の目的地へ向かうために【京都御苑】を横切り西に向かうのだが、その道中に気になる場所があった…………そこは、【護王神社】より徒歩わずか数分で到着した………これか〜〜〜っ【蛤御門(はまぐりごもん)】現在の【京都御苑】の外郭九門のひとつ本来の名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。門の形状は、高麗門型の筋鉄門だという。蛤(はまぐり)の名称の由来は、【京都御所】の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたことを「ハマグリ」にな
【食育クイズ:Vol.1120】「京都府」の「長州藩邸跡地」おさらいクイズ!禁門の変で焼失した長州藩邸跡地に立っている長州藩士の銅像とは誰?∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽【食育クイズ:Vol.1119】(「京都府」の「竜馬暗殺」おさらいクイズ!竜馬暗殺の舞台となった京都の場所とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】この「龍馬暗殺」事件だけでは無く、「幕末」から「明治維新」に到る
今朝は御所を散歩蛤御門と白雲神社が目的でしたが、🍁も素晴らしく100枚以上の🤳です。取り急ぎ駆け足で~蛤御門蛤御門の変戦いの傷跡が残ります九条邸跡紅葉に誘われて迷い子に足の向くままに歩いていたら奇跡的に白雲神社に到着西園寺邸跡です西園寺邸跡は花が綺麗京都とはお別れこれから別の場所に移動します朝からたくさん散歩や観光客もゆったりした御所を散歩できるのはいいですね❗
江戸屋横丁の円政寺土塀毛利家の菩提寺東光寺をお参りした後、萩城下町の木戸孝允と高杉晋作の生家跡を訪ねた。萩城下町の江戸屋横丁萩城下町の外堀より東の一角に、江戸屋と伊勢屋、菊屋という南北に3本の横丁がある。萩城下町の菊屋横丁この辺りは往時の町筋がそのまま残されており、白い土塀や石垣が美しい。円政寺(金毘羅社):高杉晋作や伊藤博文らが子供の頃に境内で遊んだという
木戸孝允の旧宅萩藩士で明治維新政府の要人となったのは、井上馨や山県有朋、木戸孝允、伊藤博文の4人。このうち木戸と伊藤の二人は、幸運に恵まれた人物とも言える。桂小五郎(木戸孝允)時代の肖像木戸孝允は、幕末動乱期、桂小五郎を名乗っていた京都において二度命拾いをしている。木戸孝允旧宅一度目は池田屋事件で、会合に参加予定だったが、時間が早く到着して対馬藩に寄っていて難を逃れた。