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25.11/09sun.10:21-15:45飛鳥水落遺跡から南に蘇我入鹿首塚を左折して、飛鳥寺西門から境内、右に鐘楼堂進んで左に、本堂本尊釈迦如来「飛鳥大仏」に参る本堂の左に、思惟殿(観音堂)新西国三十三所第9番札堂大聖不動明王像・聖観世音菩薩像・弘法大師像飛鳥寺山門鳥形山飛鳥寺宗派真言宗豊山派開基蘇我馬子創建596年(推古天皇4年)本尊釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)のうまくさんまんだぼだなんばく別称法興寺、元興寺
おはようございます・・(^_-)-☆今の奈良は、大雨で14℃と昨日より大分寒いですね。今日の最高気温も16℃と昨日より大分寒い日になりそうですね。奈良まほろばソムリエ奈良通2級の14回目の問題です。2奈良県の歴史に関する事柄について、最も適当なものを選びなさい。(10)蘇我蝦夷の「上の宮門」、蘇我入鹿の「谷の宮門」という邸宅があったとされる丘はどこか。ア.真弓丘イ.越智岡ウ.国見丘エ.甘樫丘(11)元正天皇と聖武天皇の血縁関係はどれか。
飛鳥寺あすかでらイナリスト西へ番外編舞台は飛鳥時代…飛鳥寺ラストです思惟殿新西国霊場御本尊聖観世音菩薩西国33もまだ道半ば…新西国を回りたいけど今は難しいですねーでも観音さま大好きなので参拝できて嬉しいです聖観世音菩薩の御真言おんあろりきやそわか地蔵尊お地蔵さんにも手を合わせましたそしてそして今回はココ❗️行きたかった❗️蘇我氏…日本史が大好きになるヒロ少年が最初に知った◯◯氏…それが蘇我氏であります小学校6年生のときの社会科で日本の歴史
蘇我天皇・・・古代の有力豪族蘇我氏が天皇位についていたという説があり、大和の天皇(大王)に対し、「蘇我天皇」と呼ぶ。実際に、蘇我馬子は天皇をしのぐ有力者であり、またその子蝦夷と孫の入鹿はそれぞれの邸宅を「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とされる。(蘇我馬子)今、海音寺潮五郎先生の『悪人列伝』という本をちょっとずつ読み直してます。海音寺先生は、大河ドラマの原作である『天と地と』(大河ドラマも同題)や『平将門』『海と風と虹と』(二作品を原作としたのが『
明け方まで雨は降っていた、こんな日は歩きやすい整備された甘樫丘がちょうどいい。最低気温は4°c日中は13度まで上がった風のない穏やかな日曜日。川原展望台から外周を回って推古天皇、聖徳太子ゆかりのお寺を見学して、甘樫丘展望台を回って、さらに菖蒲池古墳へ。朝9時頃でもすでに車は8分程度心旅で火野正平さんも訪れた川原展望台外周を回って一旦公園から出て豊浦にある甘樫坐神社蘇我稲目、推古天皇、聖徳太子ゆかりの地で推古天皇の豊浦宮があった場所とされている甘樫丘と雷の丘間
先週の金曜日、久しぶりに京都駅までバスに乗ってみました。今までならこの時期は観光客も少なくバスはガラガラだったけど、最近はいつ乗っても座れない。この日もほぼ満席でなんとか座ることはできたけど乗客の半分以上は外国人観光客。日本人ならこんな時期に京都に来ても寒いだけだと知ってるけど外国人観光客は季節関係なくやってくるみたい。来週末あたりから春節でアジア系の観光客が増えそうなので今のうちにとドラッグストアに寄ったけど、隣のレジではすでに薬やら化粧品やら日用品を爆買いする外国人。(たぶん中華系)
【推古天皇崩御後の皇位継承争い】『日本書紀』によると推古天皇の崩御後、田村皇子と山背大兄皇子の皇位継承争いが勃発している。推古が臨終の前に両皇子に伝えた言葉の解釈をめぐって群臣たちが二派に勢力が別れた。蘇我蝦夷大臣が阿倍麻呂臣と協議して群臣たちの取りまとめをしようと試みる。蘇我蝦夷大臣ははじめから田村皇子を支持しているようだ。田村皇子側には、大伴鯨連、采女臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の名が列挙されている。山背大兄皇子側には、蘇我蝦夷の叔父境部摩理勢臣(馬
2025年(乙巳)、当ブログの最初の古代史の記事のタイトルは、乙巳の変→大化改新乙巳の変と大化改新が最近の教科書ではどう記されているか、を確認しすることから始めようと思う。【大化改新の教科書の記述】(山川出版社、『日本史B書きこみ教科書詳説日本史改訂版』、2009年第1版第5刷から)大化改新「7世紀半ばに唐が高句麗に侵攻を始めると、緊張のなかで周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄皇子を滅ぼして権
桜井駅からスタート山岸凉子先生の「日出処の天子」を読み返してここに来た。厩戸皇子(聖徳太子)や額田部女王(のちの推古天皇)の宮がよく登場し、これらを行き来するシーンが随所にある。「この間を私も行き来してみたい」と思った。まず桜井駅を西へ向かって走り、訳語田幸玉宮を探す。「おさだのさきたまのみや」と読むようだ。ここは第30代敏達天皇が営んだ宮だか、漫画では第33代推古天皇となるまでの間、額田部女王としてこの地に登場する。「とにかく間人姫さまと厩戸王子の仲をとりもつ者は
☆菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)大和国高市郡奈良県橿原市菖蒲町池内(駐車は下部写真参照)甘樫丘より西側に伸びる低丘陵南斜面に築かれた古墳。大和の古墳時代終末期を代表する一基。国史跡に指定。一辺およそ30mの方墳、または多角墳の可能性も有り。7世紀中頃の築造とされ、この時期としては破格の規模。政権中枢人物の墓であろうと考えられます。また橿原市教育委員会は、「築造当時は赤褐色の斜面に灰色の石が帯状に巡る赤と白の色のコントラストが美しい古墳だったかもしれない」と推察しています。とに
はい!歴史大好きの奈央です。ひとつふたつみっつ・・・ってなに?シリーズでは、日本には漢字が渡来するまでは文字がなかった!という一般論に反対する立場で神代文字の紹介をしてきました。現存する日本最古の正史は「日本書紀」、「古事記」とされていますが、これらの正史もまたそれ以前の書を引用し参考にしたとされています。今回は、記紀以前の書で、一般的に偽書とはされていないものをご紹介したいと思います。***古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)645年
蘇我蝦夷【そがのえみし】蘇我蝦夷は飛鳥時代の貴族であり、推古天皇から皇極天皇の時代に大臣として権勢を振るった人物であるが、中大兄皇子と中臣鎌足によって子の蘇我入鹿が暗殺されると、自ら邸宅に火を点け、自害したと伝えられている。この蝦夷の霊が現れたという記録がいくつか残されている。『扶桑略記』巻四の斉明天皇の条にはこう記されている。斉明天皇即位元年(六五五)五月、空中に龍に乗る者が現れ、その容貌は唐人に似ていた。青い衣を纏い、笠を被っており、葛城嶺(奈良県御所市と大阪府南河内郡千
蘇我蝦夷の息子が、乙巳の変にて、中大兄皇子と中臣鎌足に撃たれた、蘇我入鹿である。前述の通り、蘇我入鹿は、中臣鎌足と共に、隋から、帰国した、僧の旻と南淵請安に学び、旻に「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿)に如くはなし」と言われる程の秀才であった。乙巳の変にて、敵対する、蘇我入鹿と中臣鎌足は、同窓の秀才であったのである。紀元642年、蘇我蝦夷が、大臣であったが、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。同年7月23日に、蘇我入鹿の従者が、白色の雀の雛を手に入れた。雀は
桜満開になりましたね↓記事とは縁もゆかりもない姫路城先日、ブログで仲良くしていただいているすてれんきょさんにお会いしました♪鶴林寺の鬼瓦の件→聖徳太子信仰→聖徳太子ってナニモノみたいなチャートのお話をするつもりが…ランチが美味しかったのと久しぶりにお会いしたので話が空を飛びまくり〜そうそう…聖徳太子の話をするのならやっぱり「飛鳥」やろ?ってラインしたら「明日香村の飛鳥か?」いやホンマうちの地元に明日香村あるんかいなって思ってしもたゎ(≧∇≦)「飛鳥」も久しぶりにランチし
【乙巳の変の背景】『日本書紀』に出てくる中大兄の最初の殺戮は「乙巳の変」である。乙巳の変に至るいきさつについては、書紀の記述を素直に読むことはできない。舒明天皇が崩御し皇后の皇極天皇が即位すると、山背大兄と古人大兄が皇極の次の皇位に就くための争いを始める。蘇我入鹿は古人大兄側に付いて山背大兄を攻撃し撲滅する。聖徳太子の血脈がここで途絶えることとなる。古人大兄を担いだ蘇我氏が、まるで天皇になったかのようにふるまうのはここから。その状況を見ていた中大兄は中臣鎌子(後に鎌足)と知己
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が中心となって蘇我大臣(そが・おおおみ)家の蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を滅ぼした古代の政変が大化の改新のクーデター。その年、西暦645年の干支をとって乙巳(いっし)の変とも呼ばれます。皇子は外交使節を迎える宮中の儀式の最中、皇極天皇が臨席する前でみずから刺客として入鹿に斬りかかり、見事に仕留めています。入鹿は息絶える前、天皇に「私に何の罪がありましょうか」と訴え出るが黙殺され、その後、父の蝦夷も自邸で自害して果て、飛鳥時代の朝廷
世界最古の木造建築「法隆寺」。その参道脇の駐車場にある“植え込み”が、実は古墳だったことが判明しました。この植え込みだけ国有地になっていて、看板には「古墳」の文字がありました。そこで、去年から奈良大学が植え込みを伐採し、発掘調査を進めたところ、地中から石室の一部を発見!さらに装飾性の高い珍しい土器も見つかり、法隆寺が建てられる前、6世紀後半に作られた直径約8.5メートルの円墳「舟塚古墳」だと分かりました。舟塚古墳は建設予定のホテルの庭に保存される方向
「法興寺の大仏」/aohitogusasabo法興寺の大仏|aohitogusasaboのブログ(ameblo.jp)一曰、「法興寺は高麗僧が中心になって造営した関係で、法興寺の話が高麗国に聞こえた。604年に尾治大王が即位し、新大王が宗教政策を変えたことが、高麗に伝わった。そこで605年に、高麗王から新任祝いとして、黄金300両が贈られてきた。高麗王が法興寺伽藍の拡大を望んでいることを知り、大王や太子・重臣たちは黄金を法興寺で使うことを認めた。四天王は
石舞台古墳YouTubechannel:明日香村公式チャンネル-石舞台古墳YouTubechannel:考古学チャンネル-「桃原陵と島大宮」/aohitogusasabo桃原陵と島大宮|aohitogusasaboのブログ(ameblo.jp)一曰、「用明大王は、池辺大宮の南側の道の南に、正方形の寿陵〔桃原陵〕を築いた。寿陵とは、生前に造られた古墳をいう。その寿陵に盛るために、大宮の庭を掘った土を使った。すると庭に大きい池が出来た。
『創世紀PART14-2』二部構成になってしまいました。それでは歴史学会が消そうとしている歴史入鹿と善徳を別人に見せるからくりこの部分です。やはり『聖徳太子は蘇我入鹿である』(新潮社フォーサイト)-Yahoo!ニュース飛鳥時代最大の規模を誇った方墳・小山田古墳(奈良県高市郡明日香村)に関して、奈良芸術短期大学教授の前園実知雄氏は、新たな仮説を掲げた。墳丘はこれまで考えられてきた想定よりも大きい約90メートル四方news.yahoo.co.jpどちらも下の部分を
本日、新作が公開されましたよ!!新ニッポンヒストリー第86話『もしも、日本書紀完成にあの人が反対したら』▼公開ページhttps://youtu.be/HjCbEhAh6ys蘇我蝦夷を演じさせていただきました。是非ご覧くださいね。EDが素敵なんですけど、本日の演技指導に、歌ってらっしゃる方が御一緒でした∑(๑ºдº๑)!!お声が素敵なんですよ〜o(>∀<*)oもっとお話したかったな〜。という事で、本日は新ニッポンヒストリーの演技指導でした。声は、出るんだけど、あまりス
さきだです。山背皇子をご存知ですか?聖徳太子の息子で蘇我入鹿に滅ぼされます。何故、滅ぼされたのか蘇我蝦夷、入鹿親子が自分達に都合のいい天皇をたてるためジャマになる山背皇子をはめたため山背皇子一族みんな自決したから。この後同じように、はめられそうになる中大兄皇子が、中臣鎌足ともに滅ぼされる前に起こしたのが大化の改新。山背皇子が事をおこさなかったのは聖徳太子の言葉「和を以て貴しと為す」決して争わない。だから自決したと書いてある本に出会いました。和を以て貴しと為す
住宅街の隠れ家に名店を見つけた
みんなの回答を見る日本書紀公文書と言われているが所詮、勝てば官軍の歴史書なので矛盾がでるその一人蘇我蝦夷についての一考察興味のある方は覗いてみてください
この投稿は新しく作ったサイト「みくるの森」に移しました。蘇我入鹿のお墓?!橿原市の菖蒲池古墳菖蒲池古墳は橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置する一辺約30メートルの二段築盛の方墳です。類例のない精巧な造りの家形石棺が2基あり、柵越しに玄室内を覗くことができます。被葬者は蘇我蝦夷が有力視されています。国史跡に指定されています。mikurunurie.com
さてさて……………【神籠石】を出発して、次に我々が目指したのは…………駐車場近くに案内もあった「あの場所」だおお〜〜〜〜〜っ見えてきたぞ〜っ久しぶり2回目の訪問となる【舒明天皇忍坂内陵(じょめいてんのうおさかのうちのみささぎ)】奈良県桜井市大字忍坂もちろん宮内庁の管理下にある。【舒明天皇(じょめいてんのう)】推古元年?(593年?)〜舒明天皇13年(641年)日本の第34代天皇である。先代の推古天皇が崩御した時、継嗣を定めていなかった。蘇我蝦夷(そがのえみし)は、群臣に諮
さてさて………我々は、奈良県御所市古瀬の『西尾邸』の敷地内にある【水泥北古墳(みどろきたこふん)】に近づいてきた…………『西尾邸』の桜咲く裏山の麓に、【水泥北古墳】があるイメージだ来たーーーーーっ『巨勢古墳ツアー②〜水泥北古墳〜』さてさて……西尾邸を訪ねてみることにしたココロ……玄関を入り……『こんにち………は』あっご主人が居られた『お宅にあるという古墳を見せて頂けますか』『はい、どう…ameblo.jpちょうど一年前のブログ記事も参照にはいっこちらはご主人が、鍵を開けて下さった