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ご訪問ありがとうございます今回から「日本書紀」も「敏達天皇紀」に入りますが、この辺りから、異母姉妹や叔母、姪との近親婚が増えてきます。なぜかというと、「嫡子」欽明天皇以来、天皇の血統がとかく重視され、「嫡子」つまり、雄略・仁賢・継体天皇の血を引く欽明天皇の血統が重視されていき、皇后も皇族から選ばれて、その子がまた血統を受け継ぐ、「嫡流」が形成されるからです。金色が嫡流だと思ってくださいそういう意味では、敏達天皇は継体天皇の嫡孫でもあり、母石姫皇后(宣化皇女)を通じて、継体天皇の最
近ごろ金の価格が高騰しているようですが、金色に輝く装身具は今も昔も人々のあこがれの品でした。日本では、古墳時代の中ごろ(5世紀)に朝鮮半島から金色の冠や首飾り、耳飾り、帯、履などを身に着ける装いが伝わります。このうち、銀や銅に金メッキを施した空玉〈うつろだま〉の首飾りは、はじめ河内(大阪府)や大和(奈良県)に暮らす渡来系の人たちの間で用いられていましたが、古墳時代の終わりごろ(6世紀)になると奈良県藤ノ木古墳の被葬者のような有力者にも広まります。それとともに、メノウやコハク、水晶などで作った石
蘇我氏と伊那・伊奈の石工は繋がっている石造物を調べていると、どうしても信州高遠にある伊那、あきる野市(東京都)伊奈の石工たちは国内の歴史書などに目を通しても蘇我氏に触れたものは皆無であるが、蘇我氏の中でも「蘇我稲目(そがのいなめ)」については稲目、伊那目、伊奈目というように三種の名前がつけられているところから、蘇我氏の家系について調べてみた。蘇我氏の家系図古代の蘇我氏については上の家系図の通りであるが、歴史に登場しだすのは古墳時代に活躍した稲目の時代である。この稲目については前
ご訪問ありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします🎍さて宣化天皇は4年の治世でしてすぐ終わるのですが、その前に蘇我稲目のことをちょっとだけ検証しておこうと思います。目次稲目の生年について稲目以前の出自蘇我氏と「蔵」(財政)蘇我氏と「額田馬」稲目の生年についてWikipediaには稲目の出生が506年(出典ブリタニカ国際大百科事典)とあり、確かにそう書いてあるのですが、典拠がよく分かりません。(コトバンクに出てくる他の事典類はすべて?になっています。)そこで他の人
最近、はまって観ているこちらのシリーズ。前の加来耕三先生のシリーズの方が楽しかったし、「敗北」というタイトルに無理矢理合わせていて違和感を感じる回もありますが、前シリーズで扱わなった歴史上の人物もあり、楽しいです。今回は、古代日本最高のインテリ、聖徳太子です。憲法十七条、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、仏教の振興と、いかにもインテリ政治家らしい事績を誇る聖徳太子。しかし、実際の聖徳太子は聖人君子、インテリ皇族政治家として観るよりも、当時朝廷において圧倒的な権勢を誇った蘇
4月19日~20日の日程で奈良県を観光しました。初日は博多駅から新幹線で京都に出て、橿原神宮まで近鉄で直行。一度は行ってみたいと思っていた神武天皇陵の橿原神宮を参拝したあとゆっくり境内を散策。思ったほど観光客は多くなくのんびりと時間を過ごす。昼食に三輪素麵を食べた後、周遊バスを利用しようと思ったがうまく時間が合わず、タクシー利用(1時間6000円で約3時間)を決心この決心が大正解で、運転手さんの効率的なルート選択と案内のおかげで、ガイドブックに紹介されている飛鳥地域の有名な古墳
『仏教とキリスト教』-ひろさちや※仏教の伝来について✪戦前の人々は「オイチニ、オイチニと仏教伝来」と言っていました。皇紀1212年、(西暦552年)に、百済の聖明王が、わが国に使者を遣わして、献上した、と『日本書記』に書かれています。これをもって、わが国への仏教の公伝としているのです。けれども、戦後の仏教学者・歴史学者の研究によると、この『日本書記』の552年説は誤りで、正しくは538年だとされています。ともあれ、いずれにしても、日本への仏教伝来は、6世紀の半ばのことです。もっともこ
物部大連・蘇我大臣は共に九州王朝の人物であった黒澤正延一,H・S氏から一通のメールが届いた。「乙巳の変」を巡る「蘇我馬子」について,氏は「近畿天皇家に対する目付け代官的な地位にいた」との見解を述べていた。この見解について,実は私も従来から同様な見解をもっていました。ただ,氏は,「九州倭国が推進していた仏教文化を(蘇我氏が)いち早く畿内に導入。(その結果)九州倭国の信頼を得ていた。」それによって「倭国の威光を背景に近畿豪族に君臨していた。」と論じています。しかし,
前回の梅園神社よりさらに山中へと入っていきます。■萩日吉神社・・・埼玉県比企郡ときがわ町西平1198狭い谷間の村を見下ろす神社でした。祭神は大山クイ欽明期に蘇我稲目により創建された、と。参道入り口のあったお社欽明期に蘇我稲目により創建された後、平安初期に日吉(大山クイ)が入った、と。読めませんねぇ。拝殿正面に三つ巴、大幡主の神紋、千木は外削(男神)鰹木は5本(男神)かな?本殿覆屋、中は見えません…境内
日本の石文化のルーツは蘇我稲目にあり!日本の歴史上、石文化の土台にあるものはルーツを辿っていくと「蘇我稲目」に辿りつくと思われる。蘇我稲目は古墳時代の豪族で、蘇我一族の祖と呼ばれている。その子孫にあたる蘇我入鹿、蝦夷親子が飛鳥時代645年に中大兄皇子、中臣鎌足らによって宮中で暗殺されたのが有名な「乙巳(いっし)の変」で、この後、蘇我一族は滅亡したと伝えられている。蘇我一族の祖と仰がれている稲目には他に「伊奈目」、「伊那目」という名も歴史資料に登場する。東京都あきる野市には信州伊那
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第23回近親婚ネットのなかでは、朝鮮は毎年美女3000人を2000年に渡って中国に貢いでいたので、女性不足になって強姦民族になり、近親婚を繰り返したので遺伝子が劣化して、世界最悪の劣等民族になったとされていますが、実際には朝鮮のような儒教の倫理で長年運営されていた国は近親婚を嫌います。なにもしなかったのに名前だけは有名な厩戸皇子の父親は用明天皇で、母親は穴穂部間人皇女ですが、このふたりは舒明天皇の子で異母兄妹なのです。用明天皇の母は
☆欽明天皇檜隈坂合陵(梅山古墳)(ひのくまのさかあいのみささぎ)大和国高市郡奈良県高市郡明日香村平田(P有)第29代欽明天皇と妃である蘇我堅塩媛(ソガノキタシヒメ)の治定陵墓。堅塩媛は蘇我稲目の娘。周濠を持つ全長140mの前方後円墳。築造当時から周濠があったのかは不明、前方後円墳であったのかも不明(双円墳の可能性も)。推古天皇の父というのが通り良いでしょうか。また蘇我氏から妃を迎え入れ、蘇我氏全盛の起点になったとされます。欽明天皇と言えば「仏教公伝」で有名。そもそも当て
令和5年6月30日出雲大社第154回目馬子の父、蘇我稲目蘇我氏は物部氏、大伴氏などよりは新しく、葛城氏から分離独立をした新興豪族でした。そこで初代の蘇我稲目は見目麗しく成長した2人の娘、堅塩媛きたしひめと小姉君おあねのきみを欽明天皇の后妃として後宮に入れました。欽明天皇が初めて姉妹を娶めとっていて、これが、先例となってその後も続きました。蘇我氏は天皇家と婚姻関係によって台頭したと言われますが、稲目の活躍で天皇家の財政が豊かになりました。稲目は王家の屯
5月3日に訪れました明日香村探訪紀第2弾をお送りしたいと思いま〜す!近鉄飛鳥駅から亀石、橘寺、石舞台古墳を通って歩いてきたすーやん石舞台古墳を少し超えた地点の案内板ここから少し進むとすーやんの目指す祝戸地区に突入です!石舞台古墳までは観光客も多いんですが、祝戸地区に入ると一気に数もまばらになりゆったりとした雰囲気が味わえますなんと言っても明日香村の景観を邪魔する車、バイクが激減しますので、散策にはもってこいの環境が広がります少し歩くと第一目的地に到着!石舞台古墳の南南
都塚古墳に行って来ました。続きは新しく作ったサイト「みくるの森」に移しました。蘇我稲目のお墓?!明日香村の都塚古墳都塚古墳に行って来ました。都塚古墳は明日香村阪田にある方墳で被葬者は蘇我馬子の父、蘇我稲目が有力視されています。都塚古墳は、正月元旦に金鳥が鳴く伝承があり、金鳥塚とも呼ばれている。横穴式石室に家形石棺を納めた、6世紀後半の後期古墳である。mikurunurie.com
みんな元気ですか聖徳太子の怨霊聖徳太子は蘇我氏と深いつながりがありました。その蘇我氏ですが、歴史上に初めて出てくるのは西暦500年代の初めの蘇我稲目です。稲目は蘇我馬子の父親とされている人物です。それまではまったく無名の豪族とされています。その出自が謎に包まれているのです。その家系図を見ると蘇我氏は非常に入り組んだ姻戚関係をもち実力者との関係を強めたように見えます。物部守屋を滅ぼしたのは蘇
前話へ_____________________________次話へ第18話一図で解る「九州遷都」今回は「一図」シリーズ(6)、「大和王権の九州遷都」です。細かくは「第一次(推古)、534~603年」、「第二次(舒明・皇極)、629~645年)」に分かれます(「一図全体」はこちら)このテーマは第1話で検証しましたが、ここでは「一図で直感把握」をお楽しみください。日本古代史(700年以前)の後半を彩る波乱と絢爛(けんらん)、宝の山です。大和王権は5
昨日は蘇我馬子が被葬者として推定されている石舞台古墳をアップしましたが、今日は馬子の父、蘇我稲目が被葬者として推定されている都塚古墳を取り上げます↑都塚古墳、北西側より元旦に金鳥が鳴く伝承があることから金鳥塚とも呼ばれています。場所はこちら:34.463655,135.827713↑都塚古墳の解説板東西41メートル、南北42メートル、6世紀後半築造の方墳。↑解説板を抜粋川原石を階段状に6段ほど積み上げている構造。日本の古墳では、極めて珍しい形状で
☆都塚古墳大和国高市郡奈良県高市郡明日香村(P無し、南へ伸びる道が広く停め置きしています)■形状方墳(6段以上の階段ピラミッド状)周濠有り■全長41×42m■築造時期6世紀後半■埋葬施設両袖式横穴式石室家型石棺木棺が追葬された痕跡あり■出土品盗掘済みでほとんど現存せず土師器、須恵器など■周辺の状況蘇我馬子とされる石舞台古墳から300~400m南東■被葬者蘇我稲目という説ありピラミッド状の方墳として話題になった古墳。馬子の墓とされる石舞台古墳からほど
☆推古天皇豐浦宮趾大和国高市郡奈良県高市郡明日香村豊浦687(P無し、「甘樫丘」有料Pや「あすか夢の楽市(明日香村埋蔵文化財展示室を併設)」から徒歩10分足らず)(民家の敷地内であるため要配慮)第33代推古天皇の「豊浦宮」の推定地の一つ。飛鳥時代はこの宮の造営によって始まったとも言われています。ここで即位(592年)した後、即位十一年(603年)に「小墾田宮」に遷宮しています。当地は母方の祖父であった蘇我稲目の「向原の家(むくはらのいえ)」のすぐ近く。欽明天皇の御宇、仏教受
先日、BSを見ていたら目から鱗が落ちるような番組をやっていた。それは、「仏教が日本に伝来した時、蘇我氏は受け入れに賛成し、物部氏は反対した。」と言われているが、それはあり得ない。というものだった。仏教は百済王から倭王へ公式に贈られたものだから、倭国側の都合で突き返すことはできない。また、それを一氏族が拒むことはできない。さらに、物部氏は仏教を受け入れることに反対ではなかった。物部氏の勢力圏であった大阪府八尾市の渋川廃寺という寺がある。これは、物部氏も仏教を受け入れていた痕跡ではないか。寺は
関裕二先生の奈良ツアー(12/5新潮講座)〜飛鳥編〜すんごいサーカスを観た後は、石舞台古墳のすぐ近くにある、もう一つの古墳へ行ってみました♪『都塚古墳』国史跡都塚古墳は明日香村中央部の石舞台古墳の南南東約400mの尾根上に位置する方墳で、国の史跡に指定されています。お正月の元日に金鶏が鳴く伝承があることから別名を「金鳥塚」ともいい、横穴式石室に家形石棺を納めた、6世紀後半(古墳時代後期)築造の古墳です。昨日ご紹介した石舞台古墳の被葬者は蘇我馬子と考えられていますが、この都塚古墳の
仏教の伝来~「神仏習合」とは何か(2)出典http://ozawa-katsuhiko.work/このいきさつはかなり知られており、仏教の「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年ということですが(19巻、欽明天皇の巻)、他の資料では538年となり、一般的には538年説となっています。...nyabecch.blogspot.com仏教の伝来~「神仏習合」とは何か(2)-日本思想nyabecch.blog47.fc2.com
(2011年時点のブログから)前稿のあとがきとして、こうして読み解くと、中大兄皇子その人が、もっとも政治的に聖徳太子の治世をなぞっているのが分かります。・長く皇太子の時期が続いています。(※実際には執政を取り仕切っている。)・(聖徳太子)生母・穴穂部間人皇女が異母兄・田目皇子に嫁する。⇔(中大兄皇子)同母妹・間人皇女が叔父・孝徳天皇に嫁する。(※記紀記載の姻戚関係は正しいか否か)実は聖徳太子に関しては、蘇我入鹿(記紀での穢名)が異名同体の人物で、本名は蘇我善徳とする説があります
パートから帰って夕御飯食べたら今朝見た妙な夢を思い出した💡といってもほとんど忘れかけてるけど💦近未来の帯屋町のMINiPLAのような場所にいたり私は髭を生やした軍司の姿で蘇我稲目が近い感じだった(古墳時代の人物)慕うお姫様があかりちゃん!!!アイコンそのまま!『ひろみ』という現代的な名前だったw泣きながら「軍司○○して下さい!」4文字やったけど覚えてない💦と責任をとるような事を訴えていました。何のこっちゃわかりませんが記録しておきます
真田広之、「昔とった杵柄」で忍者役『モータル・コンバット』インタビュー-北國新聞北國新聞【真田】ハンゾウの時には忍者の統領らしく、そして家族を大事にする男という時代劇に登場するキャラクターを演じていきました。家族とともに自分も殺され恨みをもって...女優キム・ユジョン、主演時代劇『紅天機』でのマルチな活躍が大好評!“どのジャンルも納得...スポーツソウル日本版女優キム・ユジョンが時代劇『紅天機(ホンチョンギ)』(原題)でロマンス、成長物語、ファンタジーを自由自在に演じる底
☆欽明天皇皇女大伴皇女押坂内墓大和国城上郡奈良県桜井市忍阪(アクセス、駐車は下部写真参照)桜井市「忍阪」(おしさか、現在は「おっさか」)の奥地、「外鎌山」南麓尾根の先端に築かれた古墳。「忍阪街道」を登ると見えてきますが、手前には舒明天皇陵と鏡女王墓があります。大伴皇女については下部案内板を撮った写真にて割愛。欽明天皇皇女であり、蘇我稲目の娘である堅塩媛(キタシヒメ)との間の子。推古天皇の妹であり、聖徳太子の叔母にあたります。「延喜諸陵式」には舒明天皇陵の域内とあるので、こちらで
曇天模様でしたが、雨には降られず、澄んだ空氣感に癒された2社巡りでした。【須山浅間神社⛩】【富士山の神社】~木花咲耶姫の神社~富士山の御祭神で、桜の神でもある木花咲耶姫にまつわる場所を紹介しています。www.fujisan-jinja.com【御殿場二岡神社⛩】二岡神社旅行観光旅国内13万件の全国観光情報検索サイト全国観るなび全国二岡神社のことなら、国内13万件の全国観光情報検索サイト全国観るなび全国www.nihon-kankou.or.jp