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☆仏陀寺古墳(伝蘇我石川麻呂墓)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町山田2900(仏陀寺境内)(P有)蘇我倉山田石川麻呂の伝承墓。古墳の概要は案内板を写した下部写真に委ねます。蘇我氏の根拠地であった河内国石川郡、その郡内の「磯長郷(しなが、古代は科長郷とも)」。「二上山」の河内側西麓、最古の官道「竹内街道」沿いに位置します。付近には蘇我氏と血縁関係のある敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。蘇我氏の本貫地は大和国高市郡の「曽我村」
☆植木家墳墓(伝蘇我馬子塚)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町太子(「太子1536」と「1520」の間)(P無し、近隣停め置き不可、「太子和みの広場」から徒歩10分ほど)蘇我馬子の墓と地元で伝承されている地。蘇我氏の根拠地であった河内国石川郡、その郡内の「磯長郷(しなが、古代は科長郷とも)」。「二上山」の河内側西麓、最古の官道「竹内街道」沿いに位置します。付近には蘇我氏と血縁関係のある敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。概要は
関裕二氏の『蘇我氏の正体』の興味深い点に係る記載を続ける。・丹波から朝鮮半島に旅立った脱解王(新羅王)と、その末裔の武内宿禰(天日槍)が日本に舞い戻ってきたという一連の歴史を「浦島太郎」という一人の人物に仮託して、「浦島太郎神話」に述べられている。・蘇我氏の祖は武内宿禰であり、天日槍である。武内宿禰(天日槍)は、新羅に渡った倭人、脱解王の末裔であった。蘇我氏は一度、ヤマト建国ののち没落していたようである。そして、6世紀から7世紀にかけて、不死鳥のように蘇っている。このとき、曾我や宗我
☆尼ヶ谷古墳(あまんたにこふん)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町太子2150(「太子和みの広場」内、大型P有り)「太子和みの広場」という、聖徳太子所縁の叡福寺に隣接して設けられた広場(公園)内に移設された古墳石室。平成十二年の道路敷設工事で発見され、その横穴式石室が移転されたもの。ほとんど削平済みで、石室の基底部のみが残っていたとのこと。大量の組合式家形石棺片が出土。いずれの資料を管見しても石棺材の産地は記されておらず不明。大量に出土しているので、判明しているように思うのですが。
蘇我氏に関する定説とは異なる内容だが、古代作家の関裕二氏の『蘇我氏の正体』を読んだので、興味深い点を以下のとおり記す。・ヤマト王家の弱い立場を強いものにしようと考え出されたのが、6世紀に登場した王家の直轄領「屯倉」であった。屯倉は7世紀から8世紀にかけて整備が進む律令制度の先駆けとなるものだった。6世紀の「屯倉制」を、王家が独自に進めたわけではなく、蘇我稲目や馬子といった蘇我本宗家が尽力したと考えられている。・ヤマト王家を守り、律令制度を整えたのは蘇我氏であった。藤原氏は始祖の中臣鎌
坂靖氏の『蘇我氏の古代学』の興味深い点について記す。・稲目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏四代は飛鳥に拠点をおき、渡来人生産者集団を統括しながら、政権の中心にあった。しかし、6世紀の大王は最初から飛鳥に宮などの政治、支配拠点をおいたわけではない。ようやく氏族としてのかたちができはじめた有力地域集団と大王が血なまぐさい権力抗争をくり広げながら、ようやく大王が実力をつけ、大王を中心とした専制的な政治体制が萌芽した。・飛鳥に大王を招きいれたのが、蘇我氏である。蘇我氏が渡来人のリーダーとなり、先進
「蘇我氏」の理解を深めることを目的として、坂靖(ばんやすし)氏の『蘇我氏の古代学』を読んだ。著書の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所の方であるが、残念ながら、2023年に61才で逝去された。同著作の興味深い点を以下のとおり記す。・645年の「乙巳の変」の本質は血なまぐさい権力抗争である。中大兄と中臣鎌足による武力による政権奪取として結実した。蘇我氏の本宗家は滅亡したが、滅亡したのは本宗家だけであった。入鹿暗殺に加担した石川麻呂が、まず蘇我氏を率いたが、649年に謀反の嫌疑から自害に追い込まれた
奈文研飛鳥資料館の『蘇我氏三代』における興味深い内容についての記載を続ける。・蘇我氏は、かって大伴氏が掌握していた外交の分野で異彩を放った。百済、新羅、高句麗の複雑な関係、巨大な統一国家を完成してゆく中国、激動する国際情勢をいち早くつかむという点で、蘇我氏に匹敵する者はなかった。推古朝には、隋との交渉がはじまり、中国の文物が直接日本に入ってくるようになった。こうした積極的な外国への働きかけも、蘇我氏の関与なしに実現したとは思われない。・内政について、蘇我氏は渡来人の能力の助けを借りて
奈文研飛鳥資料館の『蘇我氏三代』における興味深い点の記載を続ける。・舒明天皇崩御の後、后の宝皇女が皇極天皇に即位したが、皇極の後継者として、蘇我の諸分家は山背皇子、蝦夷・入鹿は古人皇子、旧勢力代表の中臣氏は中大兄皇子をそれぞれ推していた。天皇後継問題に決着をつけようと、入鹿は配下に命じて、斑鳩宮の山背皇子を襲撃し、山背はいったんは宮殿を脱出したが、結局斑鳩に戻り、一族もろとも自殺して滅びた。・中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我諸分家と本宗家は険悪なにらみ合いの状態にあることに気づくと共に、
奈文研飛鳥資料館の『蘇我氏三代』における興味深い点の記載を続ける。・推古天皇の後継者をめぐって蘇我氏で内紛が生じた。推古の遺志は、敏達天皇と広姫の孫・田村皇子を後継ぎにということだったらしいが、遺言はそれほど明確なものではなかった。蝦夷の叔父である境部摩理勢(さかいべのまりせ)は聖徳太子の子供・山背皇子を天皇に推し、田村皇子を戴こうとする蝦夷と鋭く対立した。・蘇我のどの家系とも血のつながりの強い山背皇子を天皇にたて、蘇我氏全体の立場を守ろうという摩理勢の方針と、本宗家と天皇の関係を常
奈文研飛鳥資料館の『蘇我氏三代』における興味深い内容の記載を続ける。・蘇我氏は、有力な各豪族、とりわけ天皇家との政略結婚をつうじて権力の基盤を固めようとした。馬子の母親は葛城氏の出とみられる。崇峻即位前紀には「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり」の記事があり、馬子が物部氏とも婚姻関係を結んでいたことが知られる。・欽明朝にて、馬子の姉妹、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(をあねのきみ)の二人が天皇の夫人となっている。欽明のつぎの敏達天皇は、堅塩媛の子供・額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古
奈良国立文化財研究所(奈文研)飛鳥資料館で購入した『蘇我三代』における興味深い内容を以下のとおり記す。・蘇我氏が歴史の舞台に登場してくるのはずいぶん時代がくだってからで、同じ飛鳥の大貴族といっても、物部氏や大伴氏などのように、神話・伝説の時代から様々な場面にエピソードを残し、連綿とした系譜を誇る諸豪族とは異なる。・蘇我氏の起源について、①それまで目立たなかった日本在来の一族が次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって政治の表舞台に躍り出たという見方と、②朝鮮半島から日本にやってきた渡来人
蛯原さまの考察シェアさせていただきましたありがとうございます蛯原春比古蛯原春比古さんはFacebookを利用しています。Facebookに登録して、蛯原春比古さんや他の知り合いと交流しましょう。Facebookは、人々が簡単に情報をシェアできる、オープンでつながりのある世界の構築をお手伝いします。www.facebook.com『蘇我氏四代の名前に隠された意味』完結編〜明日香の蘇我氏の四つの墓と名前蘇我氏の出自は葛城ですから、百済の道教と仏教、つまり渡来の土地
こんにちは。ハイ・パイン・サンキュー!です。いつもとなりのかがわさんをお読みくださり、ありがとうございます。昨日、四国南西部で大きな地震がありました。被害にあわれた方にお見舞いを申し上げます。家族三人ともスマホを眺めていたら、同時にびりびりと振動が起こり、「ビィビィビィ、地震です」と緊急地震速報が出たので、少し驚き慌てました。一応机の下に隠れたのだけれど、地震速報の数秒後に揺れが来ました。テレビをつけたり、金魚の水槽を持ってみたり、いざという時にはなかなかあれこれしてしまう
「閑話休題」(六四)一,昨年から「乙巳の変」の検討を進めてきたが,大きな壁にぶつかり,筆が止まってしまった。「変」の標的となった「蘇我氏」に対し,その立ち位置を示すための明確な論拠となるべき史・資料を見出すことが困難となっているためである。既に拙論:「物部・蘇我の抗争」論で,物部守屋が討伐された舞台は北部九州であり,その本来の目的は「九州王朝」による物部氏支配の「竹斯国」の奪還にある,との見解を述べてきた。この点から論を進めるならば,「変」のもう一方の主役である「
【中大兄の殺戮の先にある天皇家の安定政権】中大兄の殺戮のうち、蘇我倉山田麻呂事件、有間皇子事件の密告者は蘇我氏系だった。言うまでもなく乙巳の変で中大兄は蘇我氏本宗家を滅ぼした。この時も蘇我倉山田麻呂を味方につけている。蘇我氏の内部分裂を利用して乙巳の変を起こし、弱体化した蘇我氏残党を配下に入れて次々と政敵を倒していく構図が見えてくる。天武天皇は八色の姓を制定したが、最上位の「真人」を側近13氏で固めて、次位の「朝臣」に蘇我氏の血脈に近い氏族の多くを配当している。依然として強
斉藤実氏の冒険に関する記事をコピーしてて、そのついでにコピーされてしまったのがこちら。「小古墳つぶし建設?」蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳の近くに、さらに古い小古墳が発見された。という記事。石舞台に大型の古墳を建造するにあたり、もともとそこにあった古墳が邪魔だったためそれを潰し、新しく大きな古墳を造ったことがわかったのだそうです。昭和50年11月5日の記事。石舞台古墳は蘇我馬子の墓と言われ、ということは飛鳥時代以前に存在した先人の墓を蘇我馬子もしくは蝦夷辺りがそ
【中大兄による殺戮の共通点】中大兄の殺害というテーマで、古人大兄殺害、蘇我山田石川麻呂殺害、有間皇子殺害を取り上げて、共通点として、謀反をそそのかして→多少なりとも同意の意思を示すと→中大兄側に密告し→中大兄側は逮捕して→死罪にするか攻撃して殺害する状況を見てきた。さらにもう一つの共通点は、密告者がその後立身出世を果たしていることも付け加えることができる。【大津皇子刑死事件】『日本書紀』では、中大兄の死後においても同様な殺害事件がおきている。天武崩御後にすぐに起きた大
“聖徳太子の等身大の像”法隆寺で国宝の救世観音像を特別公開長年公開されなかった秘仏奈良(読売テレビ)-Yahoo!ニュース奈良の世界遺産・法隆寺で、飛鳥彫刻の代表作として知られる国宝・救世観音像が、11日朝から特別公開されています。午前8時、法隆寺の夢殿では、僧侶らが読経する中、救世観音像を納めた厨子の扉が開かnews.yahoo.co.jp奈良県の法隆寺で、国宝・救世観音像の特別公開が4月11日から始まった。このところ不思議な流れが続いている。4月5日の『す
大河ドラマ『光る君へ』ハマって見てますいつか大河ドラマにはとってもやって欲しい題材があります。それは…『大化改新』蘇我氏が勢力を振るう時代の中で中臣鎌足が中大兄皇子に近付き計画を練って実行に移すまでを1年掛けてじっくりやって欲しいなぁ中大兄皇子は…そうだなぁふと思ったのは神尾楓珠くんとか蘇我入鹿は…鈴木伸之さんそしてたぶん主人公になるであろう中臣鎌足には中村倫也さんなどはどうでしょうか…😅(あくまで個人の意見です)そもそも大化改新の時点で中大
奈文研飛鳥資料館に続いて、蘇我氏とゆかりがある「甘樫丘(あまかしのおか)」を訪問した。甘樫丘は飛鳥川西岸に位置し、東西数百m、南北1㎞ほどの標高140mの丘陵。古くは『日本書紀』にも記述が見られ、誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座し、允恭天皇の時に盟神探湯(くかたち)が行われた。甘樫丘には、己巴の変(645年)で滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅があったとされている。2007年、甘樫丘の東麓遺跡において、7世紀前半から中頃のものとみられる建物群や石垣が発見され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと推
藤原鎌足(中臣鎌子)は、NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長の時代に栄える摂関家の祖といわれます。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに大化の改新のクーデター(645年)を成し遂げ、朝廷の政治を有力豪族の蘇我氏から天皇家に取り戻した忠臣という扱いで紹介されることが多い人物です。ところが、そのクーデターの4年後の大化5年(649)、『常陸国風土記』に「大乙上(だいいつじょう)中臣□子」とあり、□の部分に「鎌」の字を入れると、クーデターの4年後に鎌足は、平安時代の制度でいう「正八位
【皇位継承の競合相手を殺害】大化改新で蘇我氏本宗家を滅亡させた中大兄は次々と有力者を殺害する。古人大兄→蘇我倉山田石川麻呂→有間皇子が刃の犠牲になった。古人大兄は蘇我馬子の息女を母とする舒明天皇の皇子、蘇我倉山田石川麻呂は蘇我倉麻呂(父は馬子)の息子、有間皇子は孝徳天皇の皇子である。乙巳の変で最大の勢力をもつ蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした中大兄は、蘇我氏残党の一掃を図る。舒明=息長氏に嫁いだ馬子の娘法提郎媛を母にもつ古人大兄と入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂を葬り去ること
■第34代舒明天皇の皇后は宝姫第35代皇極天皇37代斉明天皇となる女性である。舒明天皇との間に、天智天皇、天武天皇、間人皇女をもうけた■宝姫と舒明天皇の血統★宝姫の父→チヌノミコチヌノミコ→押坂彦人皇子の子チヌノミコ→舒明天皇の異母弟押坂彦人皇子→欽明天皇嫡男宝姫は舒明天皇の姪っ子にあたる★宝姫の母キビヒメ→桜井皇子の娘桜井皇子→欽明天皇の子宝姫は欽明天皇の曾孫であり、舒明天皇は欽明天皇の孫。二人の共通の祖先は欽明天皇。その先は継体天皇につながる。二人は蘇我氏
来世の嫁から逃れて敦賀まで来たが、ソースかつ丼のヨーロッパ軒の前で出合い頭にまた別の女とキスをしてしまった。その人は口にトンカツを咥えていた。キスしたとき、またまた互いの脳内に電撃が走った。「やっ!君は前世の前世の前々前世で大化の改新のときに私と夫婦だった蘇我氏の女!」「あなたはあたしと結婚したくせに逃げた藤原鎌足の従兄弟の姪の旦那が経営していた明日香村カフェの店員さん!」「なんという偶然。あの時は仕方なかったんだよ。中大兄皇子と藤原君が蘇我入鹿に対してクーデターを起こしっちゃったもん
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑歴史研究の成果を公表しています。このタイミングで何故、蘇我と物部の話題になるのか?実はしばらく前から気付いていた事ではありましたが、書くのが今日になっただけなんで、深い意味はありませんでした〜。↑生成AI「蘇我氏と物部氏の戦い」蘇我氏は「大臣(おとど)」と呼ばれる
蘇我氏の血が入り、血が抜けるまで■[第29代欽明天皇]まだ蘇我氏の血は入っていないが父は皇族の血を引いていないなので母方で皇族の血を引く父→継体天皇越前の人で皇族の血を引いていない母→手白香皇女(仁賢天皇の娘)で皇族の血を引く皇后→石姫(仁賢天皇の孫)でさらに皇族の血を引く石姫の父は宣化天皇だが、宣化父は新王朝の継体天皇、宣化母は越前の女。なので、宣化天皇は皇族の血を引いていない石姫の母は仁賢天皇の娘、橘中皇女妃→キタシヒメ(蘇我氏)妃→コアネギミ(蘇我氏)■[
蘇我稲目は娘を欽明天皇の妃に入れた。皇后ではない。皇后は石姫。石姫の祖父は仁賢天皇。父は宣化天皇。石姫の子が皇位を継ぎ第30代敏達天皇となる。敏達天皇の皇后は広姫。広姫は近江国坂田郡氏族の息長氏娘皇族ではない。何かおかしい。そしてまだ蘇我氏の孫の出番はない蘇我氏といえど、皇族の血を引いていない自分の娘を皇后にするのは畏れていたし、伝統は守りたかった。無知は畏れも知らない。天皇や皇后の何たるかをを知らない、息長氏に先を越されてしまった。蘇我氏しばらく静観。皇后に男児が
■仏教伝来時代欽明天皇509年生まれ571年崩御即位539年蘇我稲目506年生まれ570年没■仏教受容時代聖徳太子574年生まれ622年没推古天皇554年生まれ628年崩御即位593年蘇我馬子551年生まれ626年没1つの時代が終わるとき、時代を作った関係者も終わりを遂げる。■蘇我稲目は娘2人を欽明天皇の妃とした。稲目の孫は用明天皇、崇峻天皇、推古天皇など、曾孫は聖徳太子など、孫や曾孫にはたくさん恵まれた。ただやはり操縦できない孫もいた。崇峻天皇
みんな元気ですか聖徳太子は蘇我氏と深いつながりがありました。その蘇我氏ですが、歴史上に初めて出てくるのは西暦500年代の初めの蘇我稲目です。稲目は蘇我馬子の父親とされています。それまではまったく無名の豪族でした。その出自が謎に包まれているのです。家系図を見ると蘇我氏は非常に入り組んだ姻戚関係をもち実力者との関係を強めたように見えます。物部守屋を滅ぼしたのは蘇我馬子でしたが実は馬子の妻は物部守屋の妹でした。その子供の蘇我