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名称:向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)別名:岩崎城、巌館城郭:山城築城年:1568年築城主:蘆名盛氏改修者:蘆名氏、上杉氏、蒲生氏主要城主:蘆名氏、上杉氏、蒲生氏所在地:大沼郡会津美里町船場指定文化財:国史跡続日本100名城一曲輪へ虎口一曲輪眺望二曲輪へ二曲輪地形図
名称:角館城(かくのだてじょう)別名:小松山城城郭:山城築城年:不明築城主:戸沢氏(角館氏?)改修者:蘆名氏主要城主:蘆名氏、佐竹氏所在地:仙台市角館町古城山主郭へ主郭主郭眺望
現在、限りなくみぞれに近い冷たい雨が降る郡山ですが昨日は貴重な晴天の1日でした用事で須賀川市長沼に行ってきましたが奥羽山系側も8日の雪が残ってますね。一見雪が少なそうにも見えますが・・・樹木の下の山道は雪に覆われていると察します南側の甲子山系は雪で真っ白連なる那須山系も含めて日本海側の積雪が傾れ込む特異的な気象条件の場所です甘く見て冬季に登るとヤバい場所ですな畑の中に長沼南古館なる館跡の標示あり15世紀中頃~16世紀初頭頃の短い間にここに城郭(平館)が
裏磐梯地区から下って赤井の大イチョウを見学しました。場所は猪苗代湖のすぐ傍ながら会津若松市にあります。会津蘆名氏の家臣赤井氏の屋敷跡に立つとのこと。黄葉真っ盛りで大迫力周囲を巡りながら撮影しました。大木に寄っていき、アップのカットを狙います。足
天海④それでは天海のもう一つの家紋である「輪宝紋」について、通説ではどのような説明をしているか、見てみよう。「輪宝紋は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。」つまり、天海の家紋ではなく、お寺の装飾だと言っているのだ。輪宝紋自体は確かに装飾として寺院に飾られることはある。とくに真言宗ではよく見られるのだ。ただ、天海は天台宗で、その輪宝は菊輪宝という全く異なる意匠である。そもそもWikipedia自身が、天海の家紋が「丸に二引き
天海③「Wikipedia」『蘆名説の問題は曖昧な根拠しかないうえに、天海と蘆名氏を結ぶ人脈が何もないことである。例えば、蘆名氏の家紋は三浦であるから「丸に三引き両」である。しかしながら天海の用いた紋(今日においても喜多院あるいは上野の両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる)は「丸に二引き両」と「輪宝紋」であり、蘆名氏のものとは明らかに異なる。しかし、最有力説の船木説であれば問題はない。』Wikipediaにおいても家紋の問題は記載されているが、残念な
天海②「天正日記」(内藤清成)『十月一日かのへうまはれる王子の御寺御出小田原引付持参也。(中略)せんばのきたいん参る、志のたの、ふどういんこれは京将軍おとしたね也ふどういん、めしるへと仰出されど、宇田川源七出る地わりの事申し付ける。』上記は天正18年(1590年)10月1日に小田原の陣で書かれた徳川家臣の日記である。仙波の喜多院の不動院は将軍の落し胤である、と言っている。つまり、「足利氏ご落胤説」である。これは同時代の一級史料である。同時に天海が小田
天海①「東叡山開山慈眼大師縁起」『慈眼大師(諱天海)陸奥国会津郡高田の郷にて生れ給ひ、蘆名修理大夫平盛高の一そくとなむ、又将軍義澄の末の御子といへる人も侍り、海師いますか内、俗氏の事、人のとひしかと、氏姓も行年もわすれていさしらす、一度空門に入ぬれば、なににもあれ、しりてよしなしとて、の給はさりけれは、その實しりかたし、』僧侶といっても天海ほどの大物になれば伝承に事欠かない。これほど有名で事績の多い人物なのに、不思議なことに出自が不明なのである。通説によ
都道府県別索引へ三曲輪に北曲輪、二曲輪、そして一曲輪と続く広大な曲輪群の大半をここまでで押さえたが…この城、まだ終わりでない…😨一曲輪群と林道を挟んで北側に、さらに西曲輪群が隣接している。入口は、一曲輪への西側の登り口から少し林道を戻ったところで下に降りてゆく道が現れるので、そちらへ入ってゆく。位置は、このあたりだ。西曲輪群も斜面の広い範囲に多数の曲輪などが造成されているが、他の曲輪群と違ってピークが無く斜面一帯に広がっているので、ヘソとなる場所が無い感じ…で、
都道府県別索引へ一曲輪群は向羽黒山の頂上一帯を占めていて、林道から長大な竪堀を眺めつつ登ると主稜線に出る。右に折れるとすぐに主郭を中心とする盛り上がりが見える。その足元には、またまた見事な空堀✨外側の土塁がしっかりしていて、しかも深い。主郭に登ってゆく道は、南端で土橋となって渡ってゆく。寄せ手を一列縦隊にさせて、上の曲輪から矢弾を浴びせられるキルゾーンになっている😨空堀を北に入ってみる。外側の土塁が低く、浅くなりながらも一直線に西に伸びている。しばらく進むと最初の竪堀のてっ
都道府県別索引へ三曲輪、南曲輪、そして二曲輪と登ってきて、いよいよ城の中心たる一曲輪群へ💨ここだけは4年前の夏に見て歩いているが、見逃したものがあるかも知れんので、キョロキョロ周りを見ながら歩くことにするか…二曲輪の下にある駐車場から林道を西に進むと、100メートルも行かないところに説明板と登道が現れる。ここにも、あの詳細な縄張図がっ😮→縮小前の写真取り付きは、ヤマツツジも咲く新緑の道…少し行くと左にカーブして、そこから登りだな…と思いながら登り始めまで行くと…いきなり隣
都道府県別索引へ二曲輪群の北東に広がる曲輪から、虎口や竪堀状通路に誘われて車を停めた白鳳山公衆トイレの近くまで降りてきてしまった…😂ここには「石列」という案内がある帯曲輪が南に向かって続いている。これを奥まで行くと、水の手曲輪の下を通って二曲輪群の南西の方に通じているらしいので、まずは進んでみることにした。200メートルぐらい進んだか。上の方から、これまた立派な竪堀が降りてきている😮竪堀が帯曲輪と交差するところ。細い通路で越えて、さらに向こうへと続いている…下には、同じく立派
都道府県別索引へ城内では最北端の北曲輪・伝盛氏屋敷から、普通の人は登らないようなルートを辿って林道に出ると、二曲輪への登り口はすぐ。この『みかえり坂』が登道。入ってゆくと、かなり急な階段道がクネクネと続いている。一段々々が高くて、けっこうキツイ💦左右両側とも急斜面。これはもともとの登道ではなくて切岸の跡にムリヤリ拓いた道だろ…?まぁこの急な斜面が城を守ってた、ってワケね🤔この石段をひとしきり登り切ると、帯曲輪のような平坦な場所に出る。凸凹しているなと思いながら山側の裾を見る
都道府県別索引へ向羽黒山城は阿賀川が会津若松に入る少し上流の左岸に盛り上がる白鳳三山の一番南、向羽黒山一帯を占めている巨大な山城。永禄四年(1561年)に戦国大名蘆名盛氏が築城し本拠地とした。天正十七年(1589年)に蘆名義広が摺上原の合戦で伊達氏に敗れると伊達氏に接収され、その後は蒲生氏郷、上杉景勝と会津の支配者が交代する中でも使われ続け、上杉氏の転封により廃城となった。Wikipediaに記事がある。国指定史跡、続日本百名城の111番。4年前の真夏に一度訪問していたが、そのときは
所在地〒969-6133福島県大沼郡会津美里町船場特徴蘆名氏の最盛期を現出した盛氏が、隠居城として築いた山城で、二の丸と三の丸は公園になっている。全山が城塞化されていたが、現在確認でき
所在地〒965-0825福島県会津若松市門田町特徴相模三浦氏の傍流である蘆名氏が、黒川城(現若松城)の詰城と築いた山城。蘆名氏の墓所と戊辰戦争時の西軍砲台跡を過ぎて登ると、郭跡に会津藩家老の墓があり、その先の山頂が物見台で背後に堀切が残る。戊辰戦争では西軍がここから若松城を砲撃した。感想山頂の地形は曖昧で、
相模三浦氏の一族だった佐原義連が、奥州合戦の功で会津に所領を与えられ、本家の三浦氏が北条氏に滅ぼされた後も、子孫は蘆名氏を名乗って存続し、戦国時代には伊達氏と奥州の覇権を争う有力大名となった。会津若松市花見ケ丘2丁目に残る墓所は、蘆名氏最盛期の当主だった盛氏から2代の墓で、円墳の上に五輪塔が建つ神式と仏式が融合したような造りになっている。
所在地〒966-0402福島県耶麻郡北塩原村大塩大道上特徴黒川城(後の若松城)を本城とした蘆名氏が、米沢の伊達氏に備えて築いた山城。広大な城域を有する山城で、登城口から辺縁の郭を観
佐原義連は相模三浦氏の一族で、奥州合戦の功で会津に所領を与えられ、本家が北条氏に滅ぼされた後も子孫(蘆名氏)は存続し、戦国時代には伊達氏と奥州の覇権を争う有力大名となった。墓の場所は喜多方市熱塩加納町宮川墓ノ西で、墓石はかなり大きな宝篋印塔になる。
今回から久保田藩領内の角館紹介です。2022年4月29日に訪問しました。かなり以前に職場の同僚と角館を訪れましたが、以前より賑やかになっていました。桜まつり期間ですが、すでに桜はほとんど散っていました。地球温暖化の影響なのでしょうか?初めに今回は角館の歴史です。角館の武家屋敷通りです。火事のことを考えて道幅が広いです。角館城は14世紀に菅氏による築城と考えられています。城は、桧木内川と院内川の合流地点ちかくにそびえる急峻な城山(標高166メートル)に築かれま
【問題】蘆名氏の家督を継いだ蘆名盛隆とは、次のうちどの家の出身か?【選択肢】田村家二本松家二階堂家大崎家【正解】二階堂家【解説】蘆名盛隆は二階堂盛義の子である。父が蘆名盛氏に降伏した際、人質として蘆名家に入れられ、盛氏の子が早世したことにより、盛氏の養子となって同家を継いだ。
さてもうひとつだけ会津の思い出を...蘆名氏第七代当主蘆名直盛が小田垣の館、または、東黒川館という館を造ったのが今にある鶴ヶ城のはじまりのようその蘆名氏の家紋が丸に三つ引きで、会津での菩提寺が天寧寺さんになるその天寧寺さんに土方歳三が建立した近藤勇の墓に刻まれている近藤家の家紋もまた丸に三つ引きなるほど、、そういう意味合いもあったんだなぁ天寧寺さんには...そして、その天寧寺さんの境内に隣接するお社が、会津愛宕神社表参道から
老後の資金はいくら必要なのか~もはや2000万円では足りない|ねとらぼ調査隊ねとらぼ和泉昭子(いずみ・あきこ)/生活経済ジャーナリスト.横浜国立大学卒業後、福武書店(現・ベネッセ・コーポレーション)に勤務。退社後、日本短波放送(ラジオ...このコロナ禍でどうやって老後資金2000万円を貯めるのか?すでに多くの人が忘れている。生活が苦しいのはコロナのせいだと勘違いしている。原因はコロナ前からあったのである。消費増税のせいだということを忘れているのである。そのため、「コ
※2021年3月1日訪問※続いてこちらは【第十七代葦名盛興公之墓】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天文16年(1547年)、第16代当主葦名盛氏の嫡男として誕生。生年については異説もあるが、概ね1547年生で正しいとされる。母親は盛氏の正室である伊達稙宗の娘。結婚後10年目にしてようやく授かった世継ぎであった。父と同様に智勇に優れ、永禄4年(1561年)、家督を譲られて蘆名氏の勢力拡大に奔走した。ただし、この一連の家督相続については、働き盛りの盛氏がまだ15歳
※2021年3月1日訪問※福島県会津若松市の【旧会津領主葦名(芦名・蘆名)家花見ヶ森廟(竹厳廟)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼葦名氏は、初代の佐原義連が文治年間に会津を領して以来、20代の義広が天正17年(1589)に伊達政宗に滅ぼされるまで、約400年続きました。小田山の北麓一体に葦名家の墓がありましたが、現在は16代盛氏、17代盛興、18代盛隆の3基の墓が残っています。墓の形は3基とも円墳状で、高さ3メートルの大きさを有しており、頂上には五輪
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尚宗(ひさむね)が伊達家当主になって5年が経った明応3年(1494)、突如として尚宗は出奔してしまう。尚宗に不満を抱く家臣団が尚宗の庶弟を担ぎ出す事件が発生した。この擁立運動は周到に準備されており、尚宗が気づいた時には、周りに味方がいなかった。彼はやむなく、蘆名(あしな)家を頼って会津へ落ち延びた。尚宗の要請を受けた蘆名当主・盛高(もりたか)は兵3千騎を引きつれ、まずは伊達領・長井に出陣し尚宗を復帰させた。さらに蘆名盛高は、伊達家本拠・簗川(やながわ)城を奪回すべく
今は6月真っ盛り6月といえば!「結婚式」が多いですよね♡ということで、今日明日は私の出身地である宮城県のめでたい民謡をご紹介します(^^)今日は梅雨の今の時期にピッタリの祝い唄『さんさ時雨』この唄は私が一番好きな民謡です♪宮城県民はほぼ皆さんご存知と思います実はこの曲は私の先祖である会津蘆名氏と伊達政宗の戦いに由来するんです1589年に伊達政宗は会津の戦国大名である蘆名氏を「摺上原の戦い」で撃破。これにより蘆名氏は滅亡。私のご先祖は落ち武者になり新潟へ橋を落とされたりと、逃
【問題】蘆名義広は、次のうち誰が夭折したことから蘆名氏の当主として迎えられたか?【選択肢】亀王丸田王丸竺王丸劉王丸【正解】亀王丸【解説】陸奥蘆名氏は、盛氏の死後、盛隆が不慮の死を遂げたのに続き、その子である亀王丸も夭折したため、養嗣子を佐竹氏から迎え、蘆名義広が当主となった。