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超高速!参勤交代2014年6月21日公開徳川吉宗が将軍を務めていた時代を舞台に、通常であれば8日間を要し、莫大な費用がかかる参勤交代をたった5日で成し遂げよという無理難題を押し付けられた小藩の殿様が難関を乗り越え、奇想天外な作戦によって超高速で参勤交代を実現させようとする姿を描く。あらすじ元文元年春、磐城国の湯長谷藩は徳川八代将軍吉宗の治める江戸幕府から、通常8日かかる道のりにも関わらず突然5日以内に参勤交代をするよう命じられる。湯長谷の金山を手中に入れようとする老中・松平信祝の策
佐賀漫遊2日目。雲ひとつ無い清々しい朝。城下町を巡ります。まずは、藩主を祀る神社から。<旅の行程>1日目:吉野ヶ里→みやき町→佐賀2日目:佐賀→嬉野温泉3日目:塩田津→鹿島・肥前浜宿佐賀城北側、通りに素木の鳥居が構えています。◆佐嘉神社・松原神社◆佐嘉神社・松原神社、元は別々の神社でした。今ではひとつの神社として、鍋島氏と龍造寺氏といった佐賀を築いた偉人らを祀っています。澄み渡った空気の中、神威を感じて鳥居をくぐる。参道の
物を贈るには、薄くして誠あるを要す。物厚くして誠なきは、人に接する道にあらず上杉鷹山(1751年-1822年)上杉鷹山(うえすぎようざん、寛延4年7月20日(1751年9月9日)-文政5年3月11日(1822年4月2日))は、江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩9代藩主。山内上杉家25代当主。諱は初め勝興、後に治憲(はるのり)であり、鷹山は藩主隠居後の号であるが、この名で知られる[2]。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として知られる。ウキペディア
なんと、今月はまだ1回しか、ブログを更新してなかったのですね。我ながら、びっくり!やっぱり、しっかり目標を持っていないと、意識から遠ざかってしまうのですね。今後は週2回、月に10回更新を目標にします!突然ですが、今日は江戸時代の話をします。莫大な借金を抱える藩の財政を立て直すため、それまでのしきたり・格式をうち破り、「倹約」「公平」「清潔」という新たな政策を掲げたお殿さまのことを、最近知りました。そういう改革をしようとすると、保守派の家老が黙っていません
江戸時代の藩主(大名)とその奥方の肖像です。
大山淳子角川書店2016年5月発行(第32回城戸賞入選作「三日月夜話」を改題したもの)大山淳子さんの最初の頃の作品のようです。大好きな猫弁シリーズ『猫弁まとめ読み(再読)』トラブル続きで気力が出ないので・・猫弁で元気をもらいました。第二部のシリーズ。3冊まとめ読み。先日、4冊目を読了したばかりですしね。『猫弁と狼少女』大山淳子…ameblo.jpあずかりやさんシリーズ『あずかりやさんまぼろしチャーハン』大山淳子ポプラ文庫2022年6月発行文庫になったので購入
何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず徳川斉昭(1800年-1860年)徳川斉昭(とくがわなりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。略歴寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男として生まれる。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教(まつだいらとしのり)、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。藩政改革に成功した幕末期の名君の
【問題】戸田氏信は、次のうちどの藩の2代藩主か?【選択肢】大垣藩厳原藩佐倉藩櫛羅藩天童藩【正解】大垣藩【解説】戸田氏信は慶長4年(1599)生まれで、慶安4年(1651)になって父の隠居に伴い美濃大垣藩2代藩主となった。天和元年(1681)まで生き、83歳で他界した。
今回は、讃岐高松藩藩主松平頼胤の墓参りです。松平頼胤とは8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏。幼名を雄丸、通称は都太郎、貞五郎。文政元年(1818年)、松平頼恕の養嗣子となる。天保13年(1842年)、先代・頼恕の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、幕命により若年の水戸藩主徳川慶篤の藩政を補佐した。安政4年(1857年)から翌年の将軍継嗣問題・日米修好通商条約の勅許問題においては、大老・井伊直弼につき、本藩である水戸藩を圧迫している。その後、桜田門外の変によ
介護旅行・終活・世界遺産のことはお任せ!小田原のアラベラです。今日は観光特産士検定クイズです。気がつけば、今日でもう150回目です。観光特産士検定を受けたいと思っている方の準備勉強(試験対策)としてクイズを出題してきました。もちろん、検定試験を受けない方も、<脳トレ>気分で解いていただきたいと思っています。試験準備を想定しているので、何回も同じようなクイズを繰り返し出題しています。同じような問題が何度も出てくるのはそういう理由です。悪しからず。問題1,
藩とは何か?国替えという事件を通して、藩の姿が見えてきます。下総高岡藩主井上正紀(いのうえまさのり)は、酒価の値上がりを見越して、自領で百姓たちから自家用のどぶろくの買い集めを命じました。その折、結果として、天領で、高岡藩が二升の酒を仕入れるという、松平定信の触(ふれ)に反した行いが起きました。それを理由として、松平定信は高岡藩を含む三藩の国替えを企んだのです。正紀は、尾張徳川家の付家老である兄から、その話を告げられました。今回の国替えは高岡藩に対する懲罰的な意味合いを持っているため
小雨の法然寺最近ローカル番組で放送されていた仏生山の法然寺を訪ねてみました。『仏生山(ぶっしょうざん)』文字から判断しても有難そうな地名ですがその由縁はさておき小雨の中を強行突破。お昼過ぎでしたが境内にあるうどん屋さん(竜雲)の繁忙時間を過ぎると人は殆どみられなくなりました。このお寺、松平家(高松藩の藩主)の菩提寺。高松城や栗林公園を築いた藩主です。近年(10数年前)できた五重塔も立派ですが数多くの御門が見られます。仁王門、涅槃門、本堂門、黒門・・・どれも立派なもの
「大名倒産」を観てきました。ストーリーは、江戸時代。越後・丹生山藩の間垣小四郎は、ある日突然、自分が徳川家康の血を引く丹生山藩主の跡継ぎだと知らされる。しかも実の父である一狐斎は、小四郎に国を任せて隠居してしまう。庶民から藩主へと大出世したかに思えたのもつかの間、丹生山藩が25万両もの借金を抱えていることが判明。頭を抱える小四郎に、一狐斎は「大名倒産」を命じる。しかしそれは罠であり、実は一狐斎は小四郎に全ての責任を押しつけて切腹させようと企んでいたのだ。というお話です。
最近公開された映画大名倒産を観てきました。この映画はあまり知名度がなく客が少なく不人気でした。そしてストーリーなどはこんな感じです。(公式サイトから)キャラクター相関図はこんな感じです。内容は江戸時代に越後丹生山で暮らしていた小四郎がある日松平の家系であることが判明して強引に丹生山の藩主にされてしまいそして藩の借金25万両(100億)を背負うことになり返済できないと切腹になってしまう。だが小四郎はさよや周りの役人たちと協力して節約生活を初めて無駄な出費を抑える。(シェアハウスや参勤
以前から気になってた場所に菖蒲を見に行きました。それが助任緑地。徳島市下助任町2丁目の一角にある広大な土地です。その正体は興源寺の境内にある蜂須賀家の墓所です。蜂須賀家といえば、徳島藩主を代々務めた華麗なる一族です。但し家祖とされる蜂須賀正勝の墓は一般の墓地のエリアにあり、極めて質素です。それに比べて代々の藩主の墓所はこないな感じで立派な造りになってます。この墓所の奥の方に池があり、その近くに菖蒲が植えられています。そこそこ咲いてる様に見えますが、行った
社員旅行シリーズもあと少しで終わります。三日目の日曜日に、特別史跡「名古屋城」に行って来ました。さすがは名古屋城、天守閣が大きいです。現在はコンクリート造りですが、今後木造で完全復元が図られるようです。有名な金のシャチホコ、輝いてました。天守閣に入ることはできませんでしたが、復元された本丸御殿を見学してきました。ここは、尾張藩主の住居かつ藩の政庁だったそうです。内部は、障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られています。金箔が多く使われていて光り輝いていました。WBCの壮行試合で名
歴史というのは、写真の発明を境に、俄然現実感を帯びてくる。明治以降が史実共に近代と感じるのは、写真の記録の多さなのではないだろうか。しかし、実は江戸後期にはすでに写真の技術はあった。「藩主とお姫様」という本には江戸末期の藩主やその家族の写真がたくさん掲載されていて、胸が熱くなる。江戸に生きた男達の顔は厳つい。それは女も例外ではない。大河ドラマで宮崎あおいさんが演じた「篤姫」なんかを見ても、江戸を生き抜いた女の凄みのようなものを感じる。第13代将軍徳川家定御台所、天璋院篤姫。
<2021年3月31日>放浪ドライブで訪れた福井市。朝の散歩で「福井城跡」へ入り、散策コースをひと回りして「山里口御門」の中を見学し、門をくぐぐります。枡形になっている門で、手前の「櫓門」から「棟門」へ。「棟門」をくぐって、白塀沿いに歩いて行きました。天守台の高い石垣、山里口御門、白塀の「狭間(さま)」が堅牢な防御態勢を物語っています。白塀の向こうに「御廊下橋」が姿を現しました。リーフレットの絵で行くと、向こう側から手前側へ歩いて来たことになります。
山形城(21/100城)に行ってきた東大手門はかなり立派ですその奥には、初代藩主の最上義光像がありますその奥に本丸一文字門かなり立派な本丸御殿があったようですが、今は雑草が茂った広場があるだけでしたホームページでは、本丸御殿がCGで再現されていますリアルな再建計画はあるのかな
名字の言沖縄の発展に尽くした2代目県令・上杉茂憲2022年8月29日明治政府による琉球処分後の1881年、2代目沖縄県令に就いた上杉茂憲。山形・米沢藩最後の藩主だった彼は、県令としてわずか2年の任期で沖縄発展への足跡を残した▼就任後、県内をくまなく回った上杉は、困窮する人々の実態を目の当たりにし、政府に窮状を報告。粘り強く働き掛け、小学校設立の奨励や若者の本土留学など教育に力を入れた。道半ばで退任するが、やがて新聞社、銀行の創業者や政治家が誕生。彼の志を継ぐ者たちが近代沖縄の道を開いた(『
尾張家当主徳川宗睦の甥であり、小大名の次男坊が、より小さな下総高岡藩一万石の世子となった。主人公井上正紀(まさのり)には、徐々に藩内の味方も増えてきた。藩主井上正国に心臓発作が二度続いた。当然隠居の話が進む。順当であれば、正紀が継ぐはずであるが、本家浜松藩、分家下妻藩が何か言ってきそうである。驚いたことに、老中松平乗完(のりさだ)の側用人村瀬晋佐座門が暗躍しているという。尾張一門の影響力を削ぐ、という意味合いからだ、というが、正紀の敵からの評価も、なかなかのものであるらしい。御三家
<2021年3月30日>放浪ドライブで訪れた福島県会津若松市。「松平家塋域」に足を踏み入れて、鬱蒼とした木立の中を延々登って来ました。かなり登ったあたりで、ようやく平らな場所へ出ました。「入峰墓所」と記されています。三代目松平正容から九代目容保まで、7人の墓所です。うち四代目と八代目は右へ90m行った先。見上げる斜面にも石灯籠が建てられています。平らな場所には、人の背丈の倍もあろうかという巨大な墓です。50m間隔ぐらいで並ぶ巨大な石の墓。後ろを振り向けば
大村藩主の居城であった玖島城跡のお堀跡を利用した九州最大規模の花菖蒲園に、江戸系、肥後系、伊勢系の171種類、約10万株およそ30万本もの花菖蒲が咲き誇ります。ここからは『南堀花菖蒲園』と書いていました。\(^o^)/綺麗なお城に花菖蒲、最高ですね。……続く
鳥取藩主池田家墓所初代池田光仲から11代慶栄までの鳥取藩主と東館、西館と言われる分家当主藩主夫人等の大小78基の墓碑が立ち並ぶ明治になり池田家は東京に移った為最後の藩主12代慶徳の墓は東京多磨霊園にあったが平成15年(2003年)鳥取市内の大雲院に移転改葬された
今回は、染井霊園を散策です。伊勢津藩12代藩主藤堂高潔・量子夫妻の墓参りです。染井霊園の外にあり、高い壁に囲まれています。岩崎弥太郎の墓も、近くにあるのですが非公開です。藤堂高潔墓所藤堂量子墓所藤堂高潔とは明治初期の津藩知事。11代津藩主高猷の子。伊勢国(三重県)津生まれ。文久3(1863)年上京して朝廷の守衛を命ぜられ,翌元治1(1864)年には父高猷の名代で上京,慶応2(1866)年にも朝廷の要請で上京,翌3年にも父に代わって上京するなど,京都守衛に努めた。明治
ツツジの花に包まれた邸宅は---旧秋元別邸だそうです。最後の館林藩主の家系ですね。旧秋元別邸の前の彫刻。網を投げて魚を捕るのが好きだったお殿様の記念でしょうか。近くの道路上から旧秋元邸方向を眺めます。
この時間はまだ暗かった⬆️ここには泊まってませんwもっと手軽で良いところ見つけたのでそっちに泊まりました♬この時の宿の決め手は「洗い場付きバス」が部屋にあったこと🤣最高です。長風呂男には最適なお部屋ですw初めての土地に来ると朝がたまだ人が動き出さないうちに散歩をしたくなる知らないところなだけに歩いてみたほうが色んな物を目にすることがある何度も訪れている場所でも「あれ?こんなのあったんだ」と気がつくことも多いそれに人が動いていてお店がやっている時間だとなぜが印象が残りにくい
これは4年前の3月に書いたものである。町名には町の歴史が込められている。金沢の町名をみると、そうしたもの(名称)が多い。昭和30年代の町名変更で、味気なくなってしまった町名がある一方、昔のまま残っているものが、もちろん多々ある。たとえば尾張町は、尾張名古屋の尾張からきている。加賀藩藩祖・前田利家が、尾張から七尾経由で金沢にやってきて、初めて開いた町だとされ、そんなことから気位の高い町とされた。曲がりくねった町が多い金沢にあって、この一帯の道路だけは碁盤目になって整
2022年2月28日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は西台共同墓地入口の「故従四位中村藩主相馬充胤公」碑を何故西台村(現在の浪江町西台)・藤橋村(現在の浪江町藤橋)の人びとが充胤の四十九日に建立したのかを考えるため、相馬充胤の「御巡村」を見てみました。そして、藩主就任直後から充胤は頻繁に「御巡村」(領内の村々を視察すること)を行っていることがうかがえました。それ以外に幕末の充胤が関わったこととして、二宮仕法の推進、蝦夷地開発、外国船警備、天狗党への対応、長州征伐へ
2022年2月27日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は西台共同墓地入口の「故従四位中村藩主相馬充胤公」碑を何故西台村(現在の浪江町西台)・藤橋村(現在の浪江町藤橋)の人びとが充胤の四十九日に建立したのかを考えるため、相馬充胤の誕生から藩主就任までを見てみました。天保7年5月には大和郡山藩主である柳沢保泰の娘との縁談がまとまりました。『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)には「永子夫人」と記されています(178頁)。また継室として陸奥守山藩主の松平頼升