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この変わり身の早さ。#維新は平気で嘘をつく#維新は自民党の補完勢力https://t.co/LOjgvTCcNdpic.twitter.com/cvTy7t5DEw—但馬問屋(@wanpakuten)October18,2025「言ったことはやる、それが維新」などという維新ですが、そんな維新の藤田文武さんが昨年の今頃「言っていた」こと「自公政権、一度引きずりおろして」ところが公明党が連立離脱したら、公明党にかわって「裏金」自民を下支えする補完勢力に。
あちこちからの借り物ですが縄張り図や地形図を見つけるとつい嬉しくなって地元神郷公民館だよりに掲載記事を見つけて、以下借用平成27年7月号城主藤田氏の始祖は藤原鎌足後々の孫(まご・そん?)友李が藤田姓を名乗る。後醍醐天皇に仕えた南朝の忠臣でした元徳3年1331伊予守に任ぜられて、伊予新居郡に正慶2年1333庄内に居を構え郷山に砦を築く文和元年1352砦を城に郷村・庄内村を本拠に、上泉川村・下泉川・船木村・角野村・上野村の七ヶ村を領有9代目芳雄10代目俊忠
新居浜駅から東に進むと城下橋がある🍀この橋です勿論、岡崎城の城の下だから町名にもその名を留めています中腹に、鉾前(ほこさき)神社がありその神社の横に四国征討由来の碑が高校の柔道部の練習でランニングと石段の登り降りでしばしば、この神社を訪ねていた柔道一直線を意識しながら鉄下駄であの日、この碑文を読んだことがこの郷土史探求の出発点❗だったと思う郷山(ごうやま)の山城標高84メートル郭と掘、石垣の遺構あり四つの曲輪城主藤田氏築城南北朝時代(1336~1392)
なんと、藤田氏がブログを更新しました笑みんなでブログを見に行こう♡わたし、太ってる風に写真に写ってるを笑笑むむむーー!!
東国原英夫「一人で死ぬべき」否定の藤田氏に「拡大自殺、誘発された事例がどれくらいあるか示すべき」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190531-00000143-spnannex-ent
2では、主郭からスタートします。白○囲い部の西北の尾根→二の郭から二の郭南東面の横堀→北東尾根の二重堀切を辿ります。二の郭南東横堀の下の三郭の郭・東の郭群は藪がひどく立ち入ることができませんでした。千馬山城主郭上段背後南西面は急崖、西北は尾根を堀切で処理している。一乱時、上杉方についた飯塚・桜沢・猪俣ら藤田有力被官は近隣で、日常的な対立があったかもしれない。また先に紹介した天神山城も上杉方であり藤田泰邦老母が在城している。泰邦後室
千馬山城用土業国が唯一北条方の牙城として尖った。高松城が落城すると、氏邦は高松城衆に人質を千馬山城の用土業国に出させている。登り口http://yahoo.jp/p44-Gj左の斜面上にお堂がある。個人のお宅を通過するので掲載控えます。お堂を二つ伝い、(写真は上のお堂)登ります。その1では、西の尾根道から門跡→肩の郭→物見郭→二の郭→主郭へと辿ります。門跡前面付近石積が見られる。石積石積線の背後に堀土橋左土橋右
天神山城概略図余呉くんのホームページ鳥瞰図を参考にブログ説明用にyahoo地図に加筆し作図(あくまでブログ説明用のための概念図です)東山麓には出郭と称される一郭があり、横堀・竪堀が複雑に絡む独特の構造を持っている。また虎口は枡形様で、土橋が前面馬出し様郭に接続し、馬出し様郭からは両側から城外に向かう。出郭へ降ります。二郭ごみ箱の脇から降りました。まじかよって思いましたが、るなさんも馬念さんも苦は匂わしていなかったので、意を決して降りました。どおってこと
天神山城一乱に際しては上杉についた泰邦遺族派が、反北条方として籠った。後、北条の反攻にあい、落城している。氏邦の入城先であった可能性もある城である。残念ながら昭和の観光開発で山上は破壊され模擬天守が建てられた。今その模擬天守は朽ちた状態で放置されている。が、一部遺構は残り、歴史に残る城の雰囲気を味わうことができる。氏邦鉢形領紀行一乱https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893841.htmlからお読みください。白鳥神社本殿左から登りま
2では、堀エより西をいきましょう。A関門よりA区域に入り、二郭、主郭、D区域の順で辿ります。B区域側(東)に折れた堀エからA関門こしにA区域を見るA関門からA区域に入ります。あがります左に、吸い込み口のようにA区域への出入り口が石積みで造作されている。右上が二郭方向。のちほど、ここから藪に突入し、二郭へあがります。吸い込み口のような出入り口A区域に入った郭左は南の山下方向で、城壁様の切岸となっている。右には小高く小郭があるが、その段差は
花園城氏邦鉢形領紀行序、一乱からお読みください。序https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893832.html一乱https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893841.html余湖くんのホームページ鳥瞰図を参考にブログ説明用に概要を記入(実際とは若干のずれがあり)山上を厳しく堅固な掘切で掘り切って、山麓に向かって竪堀として振り落し、箇所によっては二重に変化させている。また、要所で折れを設け、上の郭か
藤田氏に入婿した氏邦が、いつ藤田領へ入部したか、また入城先も花園城、天神山城、鉢形城と諸説あり、明確にはわかっていない。永禄三年(1560)、越後長尾景虎が上杉憲政を奉じて本格的に関東への進攻を開始する。翌4年関東諸将の参陣を得て大軍で小田原城を攻囲、鶴岡八幡宮で憲政から山内上杉氏関東管領を職を継承、上杉政虎となる。その時点での氏邦の藤田家での影響力(支配力)は、かなり脆弱なものであったようで、景虎の本格的越山に際し、藤田家は北条方と上杉方に分裂する。しかも前当主泰邦母をはじめ
鉢形城埼玉県寄居町鉢形に在る鉢形城は、北条氏康四男氏邦が居城し、その小田原北条氏の支城領・鉢形領の政治的軍事的中心地として機能した城として有名である。氏邦は(幼名乙千代)、永禄元年以前に、花園城を本拠とする藤田泰邦の嫡女大福御前に入婿し、藤田氏家督をを継承する。永禄五年10月から同7年6月までの間に元服し藤田氏邦を名乗る。天正10年7月以降同15年11月には北条名字に復し北条氏邦と称している。元亀三年閏正月以降天正4年2月までに受領
埼玉県氏邦鉢形領紀行序https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893832.html氏邦鉢形領紀行一乱https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893902.html★花園城1https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893902.html★花園城2https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496893969.html天神山城1https