ブログ記事107件
新撰組で好きな隊士はいる?▼本日限定!ブログスタンプおはようございます。本日、2月27日は、「新撰組の日」だそうです。1863(文久3)年2月27日に上洛する将軍徳川家茂を警護するために、「浪士組」と呼ばれる浪士たちの集まりが結成されたことが由来のようです。しかし、この「浪士組」に含まれていた、のちに「新撰組」となるメンバーは全体から比べると少数であり、その大多数は当初の目的を果たさず江戸に戻ってしまい、結局消滅したことを考えると、この日を「新撰組の日」とするのには違和感を感
つづきのつづきです猪苗代湖畔をぬけ大好きな会津の街へ飯盛山入口の交差点画像右端の黒のインプレッサが逆走暴走の末民芸品屋の"松良"さんとこのブロック塀に突っ込んでました最近はどこからミサイルが飛んでくるか予測できないので怖いッスね(´・ω・`;)なんか最先ワルかったので飯盛山には登らず大久保のおばちゃんとこでかき氷を食べながら近況報告ルーティーンになってるソフビ赤ベコ買って飯盛山をあとにしますてか会津は盆地なので暑い暑い💦"道の駅あいづ湯川・会津坂下"で明日の宿を探し
おやつ赤べこマメしばミニパイ白虎の梅ミルクティー(豆乳タイプ)お好み焼きは好き?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようコナモンが、どうしてもシナモンに見える🤭2024年の同日記事『コナモン』お好み焼きは好き?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようコナモンの日この子は、シナモンコナモンでは無いね😅コナモン・・・粉…ameblo.jp2023年の同日記事『前世診断やってみたGW終了』あなた
4月3日、号外ネット品川区が「品川総合福祉センターが運営する『パン工房プチレーブ』が2025年4月1日(火)に」八潮にオープンしたと報じていました。場所は八潮橋を渡って直ぐの同センター内だそうですが、東急大井町線下神明駅前に在ったお店がこちらに移転して来たようですね。その品川区。「わしながわ」として平成27年度から実施して来たシティプロモーション事業は昨年度で終了して、新たに《都市ブランディング》の取組を推進して行くのだそうです。品川区都市ブランディング「しあわせ多彩区」|
このブログは、私(鯛)の元に現れてくれた様々な偉人・神々との会話を記していくものです。現れた偉人たちは皆、口をそろえて現代の日本人に伝えたいことがあると言っています。神々には日本の行く末が見えてはいますが、あくまでも人間の意志を尊重していると言います。神々に救ってもらおうと考えるのではなく、人間が自分たちの手で社会をどう変えるかが大事なことのようです。信じる、信じないはあなた次第。一つの物語としてお楽しみください。斎藤一シリーズ前回のお話はこちらから『斎藤一(藤田五郎)②
が私宅に届きました。「斎藤一こと藤田五郎の生涯(九)」を執筆しています。斎藤一ではなく、近藤勇の書状が多いです。最初に吉田勝美のことに触れて、次は『塘報録』における古高俊太郎の自供文、次は『孝明天皇実録材料』に記録された近藤勇の池田屋報告文、その後は近藤勇の書状や動向が書かれた記録文。1点は来年、初公開の方に回します。秋月悌次郎の新選組記録文を活字化しておりました(^^ゞ近藤が面会を求めた後藤象二郎の戸籍も掲載しました。
新撰組で好きな隊士はいる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう新撰組はアニメや漫画等の影響もあって少しは知識はあるが、好きな隊士と言われると…(旦那様は「るろ剣」の影響もあって、よく斎藤一の名前を出してきたが…)とりあえず、土方歳三はイケメンだと思う…。
「るろうに剣心」の中で藤田五郎は上段に構える技を見せている。実際の藤田五郎はというと、子孫間では「上にも下にも何もつかない一刀流」と伝えられてきたらしい。赤間倭子氏によると、「推測」とはしつつも、ある本の中に大阪のある人の話に「五郎は若年から会津藩関係の道場に出入りして、会津藩に多い一刀流溝口派を習得していた。つまり一刀流溝口流が彼の剣流名である」といったような記載がされていた記憶がある(「歴史読本」1997年12月号赤間倭子「斎藤一」)伝え
2023.10.3.斎藤一のお墓参りへ会津東軍墓地へ。こちらは、会津藩など幕府軍の戦死者の墓地です。そして、ここへ新選組三番隊組長、斎藤一のお墓があります。東京にて72歳の生涯を終える。会津藩と共に戦い抜いた斎藤、遺言通り仲間たちの眠る会津の地へ埋葬され眠っています袖章と一緒に
明治乙女物語【電子書籍】[滝沢志郎]楽天市場鹿鳴館の華やかさに陰りが出て来た頃のお話です。華族という身分に胡座をかいているようなボンクラでも威張ることができる社会。女子教育に力を入れていると言っても、寿退学がまだまだある時代。婦女子の地位が低いのは、大元帥である伊藤博文の女癖の悪さもあるようで、同じ舶来帰りでも潔癖な森有礼とは対象的です。衝撃的だったのは妾は別に普通の時代だったと認識していたのですが、その表記。「畜妾」と書くのです。読み方は「家畜」を表すのと同じ「ちくし
今日6月5日は、池田屋事件の日です。(旧暦だけど)6月5日。覚えやすいですね!!なぜなら、わたしの誕生日だからまあ要するに、自分が覚えやすいだけです。誕生日なのに、今日はロクでもないことばかり起こる日でしたチエッ。さて気を取り直して、『警視庁草紙』新刊。すっかり主人公になり変わってしまったような藤田五郎(斎藤一)ですが、本当は主人公の敵なんですけどね・・・ガンガンかっこ良くなってます。ポリスマンの生活をしてたのですが、昔の知り合いに会うたびに覚醒
ひとつ前の当ブログで、『仁義の墓場』(1975深作欣二監督)で渡哲也さんが演じた「石川力夫」を、1971年の時点で日活で映画化しようとしていたというエピソードを書きました。日活ニューアクションで先に「石川力夫」を描いていたら、のちの『仁義の墓場』(1975深作欣二監督)は無かったかもしれないのです。そういえば、『仁義の墓場』が公開されたとき、これは「遠く年を隔てた『無頼』の完結編だ」と書いている映画評論家がいたなあ。単に、同じ藤田五郎さん原作で渡哲也さん主演ということで言われたと思っていま
4つ前の当ブログで、渡哲也さん主演『大幹部・無頼』(1968小沢啓一監督)の中で二谷英明さんが殺され、その死体の横に子供へのおみやげのケーキがグチャグチャに踏み潰されているシーンは、後年『仁義なき戦い』(1973深作欣二監督)で、松方弘樹さんが子供に買ってあげようとオモチャ屋さんに立ち寄って殺されるシーンと似ているという話を書きました。『無頼』シリーズは、『仁義なき戦い』に始まる「実録路線」の遠い先駆ではないかということも書きましたが、その頃に興味深いエピソードがあります。園田郁毅さんと
みんなの回答を見るAmazonの在庫がなくなってから1年。出版社の在庫はすぐなくなってしまいました。現在、中古本が4,5千円で売られているようです。
斎藤一の出自ははっきりしないが、山口家に生まれ名前は一だった。江戸で刃傷沙汰を起こして京都へ逃れ斎藤に改名した。その後、新撰組に入隊して副長助勤となり、戊辰戦争では鳥羽伏見、宇都宮、白河口、会津と転戦し、戦後は斗南藩士となって下北へ移住した。この時結婚して藤田五郎に改名している。廃藩置県後は東京に移住して警視庁に勤め、西南戦争では抜刀隊に属して薩軍と戦った。72歳まで生きて大正4年に亡くなったが、本人の希望で会津若松市の阿弥陀寺に
今日はですね。あまりにも自分的にツボったので、ちょっぴり日常生活のお話をしてみたいと思います。先々週なのですが、夫の親の7回忌の法事をお寺でやりました。先祖の菩提寺になってるこのお寺の前住職さんはかなりのご高齢で(確か90歳近いのじゃなかったか、)前からヨボヨボしてて大丈夫かなーって感じだったのですが、ついにお亡くなりになったのです。後継ぎはいなかったのですが、しばらくして、東京から雇われお坊さん(?)みたいな方が新しいご住職として入られました。お若い方でしたね。しかし寺
小石川隆慶橋の近くで剣術道場を開いていたのは直心影流藤川派の酒井良佑(りょうすけ/よしすけ)、諱(いみな)を成大(しげひろ?)という人で、越後高田藩榊原家の江戸詰め家臣でした。酒井良佑は天明四年(1784)に越後高田藩士酒井総右衛門憲福の子として江戸下谷(※)の藩邸に生まれました。「人となり魁偉にして雄略あり」と称され、幼少より剣術を好んだ良佑は、直心影流藤川派の祖である藤川弥司郎右衛門近義の道場(下谷長者町)に学び、文政年間(1818-1830)に独立して小石川隆慶橋に道場を開き、大
斎藤一の父山口祐助が仕えていた直参旗本鈴木家の屋敷は、神田小川町(現在の千代田区富士見一丁目)にありました。その鈴木家の屋敷を出て、ほんの5分ほど歩くと牛込御門がありました。※.『江戸切絵図』駿河台小川町絵図より。四角く囲んだのが鈴木家屋敷。その牛込御門を抜けて外堀を渡り、そのまま直進して肴町の角を左に曲がると、あとはその道をまっすぐ行けば天然理心流の試衛館にたどり着きます。一方、牛込御門を抜けたあと、右折して外堀沿いに歩くと、すぐに江戸川(現在の神田川)
斎藤一の主人だった鈴木万次郎は親之輔の養子となって家督を継いだのですが、ただ単に養子として迎えられたのか、それとも親之輔に娘がいて、その婿養子だったのかはわかりません。ただ、婿養子だったとすると、親之輔には年頃の娘がいたことになります。それはつまり、主従の関係ではありながらも、一と親之輔の娘は同じ屋敷で一緒に育ったということで、淡い初恋の話など想像してみたくなるものです。そこに万次郎という恋敵があらわれて、縁談が決まって鈴木家の当主となってしまったのですから、一にしてみたら面白いわけが
少し話がそれます。斎藤一の父山口祐助が仕えていたのは直参旗本の鈴木家で、神田小川町(現在の千代田区富士見一丁目)に屋敷がありました。鈴木家は三河鈴木氏の支族のひとつで、三河国則定(現在の愛知県豊田市則定町)に一千石の知行を持っていました。ちなみに祖先の三河鈴木氏は戦国時代に三河国の覇権をめぐり松平家と抗争を繰り広げ、今川義元に臣従したのち松平家の家臣となった家柄で、天草の乱の終息後に天草代官となり、善政を敷いて「鈴木さま」と領民に慕われた鈴木重成が有名です。※.赤枠
斎藤一が十九歳の時、江戸小石川関口において旗本を殺害し、「父祐助の相年世話をせし吉田某が京都において剣道場を開き居りし所に添状を持て至り、同家に寄寓す」という「藤田家文書」の記述から、その吉田某は誰なんだろうと調べてみたのですが、調べているうちに一つ思ったことがあります。その「藤田家文書」には父山口祐助について山口家は江州佐々木氏より出づ。何れかの時代か明石侯に仕へ、足軽なりしが、山口祐助は二十一、二歳の折、青雲の志禁じがたく、家督を妹にゆずってヒョウゼン江戸へ出づ。神田小
赤報隊において相楽総三の片腕的存在となり、明治維新後に兵部大輔大村益次郎を襲撃して刑死した金輪五郎は、本名を志渡長治といい東北秋田は久保田藩の家老渋江内膳の家来でした。主人の渋江内膳厚光(内膳は通称で名は「としみつ」)は同じ秋田の国学者平田篤胤と親しく、早くから尊皇攘夷思想に傾倒していたので、長州の吉田松陰がわざわざ訪ねてきたりしたものですが、一方で剣をとれば直心影流の達人であり、屋敷内に道場を構え、藩の内外を問わず広く門人を集めていたといいます。その渋江の道場を訪ねてきた小
江戸小石川関口で旗本を殺害してしまった斎藤一が、京都で身を寄せていたという剣道場主吉田某なる人物について、赤間倭子先生は著書『新選組・斎藤一の謎』の中で、吉田山という所で聖徳太子流の道場を経営していて、のちに信州へ移住した「吉田勝美という人物ではなかろうかという説」を紹介しています。その吉田勝美に関して、作家で自らも無外流居合道の有段者だった戸部新十郎先生は『明治剣客伝』の中で以下のように記しています。ところで、京都の“太子流“吉田某とは、“聖徳太子流”として第一回(明治二十
新選組・斎藤一研究のパイオニアである赤間倭子先生は、新選組の研究会である三十一人会に所属しており、昭和五十年(1975)に同会が出版した『新選組隊士ノート』の中に「藤田家文書」を公開していて、あさくらゆう先生は『新選組を探る』の中にその「藤田家文書」を引用されています。この「藤田家文書」は斎藤一(藤田五郎)の長男勉氏が昭和三十一年(1956)に病に伏した際に、妻のみどりさんに口述筆記させたもので、ノートの切れ端や便箋などに鉛筆で走り書きにしたものだそうです。そんな「藤田家文書」の中に以
大鳥圭介の『幕末実戦史』に出てくる、大鳥圭介や榎本武揚ら箱館政府軍首脳を取り調べた「小栗」なる人物が、実は小泉則忠のことではないのか、「小栗」は「小泉」の誤記ではないのかという話を前々回したわけですが、実は誤記ではない可能性も考えています。そもそも小栗氏は三河以来の直参旗本の家柄で、幕末には小栗上野介忠順という傑物を排出した名門の家柄ですが、小栗忠順を見ればわかるように、代々受け継ぐ偏諱のひとつに「忠」の字があります。そして小泉則忠は無論、その孫も忠澄であって「忠」の字を受け継いでいる
変わった人ではあったけれども、警視庁で撃剣世話掛をつとめたほどの剣客であった小泉則忠ですが、彼の剣術は果たして何流だったのでしょう。実は小泉則忠、明治十八年十月十四日に藤田五郎と試合をしているだけでなく、その後も毎年のように弥生神社の武術大会に参加しています。その中で明治二十年十一月に開催された試合の対戦表には各人の流派が記載されており、小泉則忠については板橋屯所柳剛流小泉則忠と記載されています。柳剛流は別名岡田柳剛流とも呼ばれ、心形刀流から派生した剣術流派です。脛(す
戊辰戦争の際に小泉則忠が何をしていたのか、『大鳥神社神社を中心としたる雑司谷郷土史談』の中に、そのヒントになりそうな話があります。語っているのはやはり秋田雨雀です。何でも、はっきりは覚えないけれども、榎本武揚が函館から降参して帰順して帰る時に、あの人が連れて来た。そうして弘前の牢へ榎本武揚を入れたという話を聴いたように思います。説明するまでもなく、榎本武揚は戊辰戦争時の幕府海軍副総裁であり、江戸開城による幕府艦隊の引き渡しを拒否して脱走、蝦夷箱館を拠点に新政府軍を迎え撃ちま
明治十八年十月十四日、弥生神社創建記念の武術大会で藤田五郎(斎藤一)と試合をした小泉則忠ですが、『改正官員録』から警視庁勤務時代の経歴を見ると明治十六年十二月巡査部長東京明治十八年十月歩兵少尉試補明治十九年二月同明治二十二年三月板橋署外勤警部補明治二十二年十一月同警部明治二十四年三月同警部※.『改正官員録』明治二十二年甲三月版より。板橋警察署の欄。となっており、明治二十四年六月以降の官員録には記載がありません。おそらくはそれまで
矢島昌郁は雑司が谷の屋敷に一人で暮らしていました。家族はいなかったわけですが、実は親戚がひとりいました。隣の家に姪夫婦が住んでいたのです。姪の名はおいねさんといい、こちらは薙刀の名手だったと伝わります。キリッとした顔立ちの美人で、なかなか洒落た人で酒好きでもあったので、色恋の噂も少なからずあったようです。なんでも、いっとき雑司が谷を離れて京橋で煙草屋をやっていた時分には、『金色夜叉』の尾崎紅葉が、おいねさん目当てに足しげく通っていたとか。※.尾崎紅葉(ウィキペディアより転載)
前回の記事でちょっと書き忘れていたことがあるので、こちらに書いておきます。警視庁撃剣世話掛は管轄内の警察署を剣術の指導をして回るのが日課となっており、警察官としての公務、つまり市中警らや事件捜査などの任務には就いていなかったらしいのですが、藤田五郎が試合で撃剣世話掛の対戦相手に選ばれるほど実力を認められていたのに、自らは世話掛にならなかったのは、なってしまうと公務に就くことが出来なかったから。生涯現役を望んだから。・・・という考えは「元新選組」を意識しすぎでしょうか。・・・という推測で