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ご訪問ありがとうございます。自称:火星の母?!(↑かなり気に入ってます)伝統風水師、虹羽(こう)です。本日3月11日、東日本大震災から14年となりました。比較的災害の少ない群馬県にいて、初めて命の危険を感じるほど大きな地震を体験したのを、一生忘れることは無いと思います。改めて、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。さて昨日、母が新聞に載っていた漢字パズルでわからない言葉がある、と言うので、問題を見たところ
#痩我慢の説#川勝徳重#藤枝静男#漫画と珈琲#漫画喫茶#笹塚#漫画#manga#comic#幡ヶ谷#初台#代田橋#永福町#方南町#コーヒー#coffee#喫茶店#カフェ#cafe漫画と珈琲は地域に愛される居心地のいい空間を目指して日々営業しておりますのでよろしくお願いします笹塚、幡ヶ谷、西原、初台、代田橋、新代田、永福町、松原、南台、方南町、中野新橋、中野富士見町、下北沢、東北沢、大原、代々木上原、代々木八幡
昨日、上演した演目のひとつに「シャーベット・ホームズの華麗なる推理」があった。水木しげるの『不思議時間旅行』というエッセイ集の中の一編「器物に宿る霊」を分析してみたもので、「霊が宿っていると見るのも人間の心理のなせるわざ」と断定するのだが、最後になって、(物足りない)とおもっているだろう観客の前で、少々オチャラケた。しかし、次回つまり来年の上演では、大真面目で通すというのもアリだと気づいた。つまり、オカルト指向への冷静な分析、解明を最後まで通し、痛罵してみせる。シャーロック・ホ
昨日11月30日に一回限りの独り芝居を終えた。前半一時間のお笑いネタに、どちらかというとお客さんたちは乗り切れない反応。五分間の休憩を挟んだ後半「鏡花二題」は、終了後、頂いたメールでは高評価という結果だった。ならば、次の独り芝居は、いっそのこと、お笑いネタはすべてなくして、文芸物ショート・ショートに特化して演目を組んでもいいかも知れない・・・などと考え始めている。たとえば、プロレタリア作家の黒島傳治の「脚の傷」という短篇がある。以下、以前に読んだ際の要約と感想があるので
地元飯能市の秘境(笑)上直竹上分(かみなおたけかみぶん)には、国際興業のバス停「間野黒指(まのくろざす)」がある。その少し手前には、樹高48メートル、樹齢300年を超えると言われる大杉を見ることが出来る。今日は、ここに行った。大杉にびっしりと生えた苔がまるでジュウタンのようだ。厚さは優に1㎝を超える。一台目の相棒と夏に来た時に同じように対面した。苔がしっとりとして涼しくて心地よかった。今日も、何とも言えない手触りだ。しばし、こんなことをして
藤枝市郷土博物館文学館で曽宮一念と藤枝静男展、「武士のめし」を観てきました。大代ジャンボ干支にも寄ってたい焼き等を購入。大代ジャンボ干支物販購入
地理学者水野一晴の『世界がわかる地理学入門』『自然のしくみがわかる地理学入門』『人間の営みがわかる地理学入門』をざっと読んだ。三冊それぞれから初めて教えられることも多かった。とりわけ最も刺激的だったのは『自然・・・』の一冊である。例えば世界の温帯気候はいくつかに分けられるが、西岸海洋性気候や地中海性気候に属するヨーロッパの植生が極めて単純なのに対して温帯湿潤気候に属する東南アジアや日本の植生は実に多種多様らしい。しかも、ここで決定的に重要なのは、そうした多種多様の植生環境だからこそ
最近の私の本棚事情はというと、とうとう背表紙を向けて普通どおり並べられなくなってしまい、並べた本の上に本を積み重ねるという状況になっている。そこでどのような不都合が生じるかというのは想像に易いと思われるが、読みたい本がどこに収められているか分からなくなるという点である。今朝もある一冊を捜索したのであるが、思った場所からなかなか出てこないので、色々探し回った挙げ句、自分が思ってもない棚から出てきたというケースもある。とにかく、自分の積み上げたもので埋もれてしまうという良くないスパイラ
仕事はリタイアの身で、日中猛暑下を外出する必要もない日常ながら、夏風邪をひいた。喉が痛くて仕方ないので、檀家となっている寺に寄ったついでにドラッグストアで風邪薬を買って飲んでいる。黄色い鼻汁が出始めたので遠からず快癒するだろう。それにしても、仕事をしている人たちは大変だと思う。ところで、「神はいると思いますか」と問われたとすれば、こんな風にこの人たちは答えるだろうという好き勝手想像を続けてみたい。私がぞっこんの作家藤枝静男は、こう言うだろう。「神だの仏だの預言者
27~29日の二泊三日、小豆島、松山の観光旅行に行って来た。パックツアーである。帰ってから、藤枝静男の随筆「小豆島文学散歩」を読んで気づかされたことがあった。それは、俳人尾崎放哉が生涯を終えたのも、ここ小豆島だったことである。より正確に言えば、小豆島と世界一狭い海峡を挟んだ土庄町である。西光寺の南郷庵で放哉は最期を迎えた。墓もこの寺にあり、近くには句碑も建てられているとのことだった。吉村昭による放哉の伝記『海も暮れきる』もかつて読んだことがあったのに、まるで忘れていた。ただ、当
以下、二年半ほど前の駄文ですが、とんでもない間違いがありました。既に故人の西村賢太氏は「直木賞作家」ではなく「芥川賞作家」でした。また、西村氏が生涯にわたり師と仰いだのは藤澤清造でした。藤澤清造については、西村氏の解説文のある文庫を読んだ記憶があり、その内容が葛西善蔵とごっちゃになったまま、ここに書き流してしまいました。改めて訂正してお詫びします。なお、本文については「その程度の認識と適当さ、総じて人間のレベル」である自分は依然として変わらないので、手直しはしないことにし
「文学文芸において、ホンモノとは?」的なテーマでお送りしています。本日は荒川洋治さん鈍感だとホンモノになれないのですね。あるいは自分に甘いとホンモノになれないのですね。厳しい世界です。文芸時評という感想Amazon(アマゾン)2,427〜20,871円※一粒で二度美味しい企画笑昨年の本日の日めくりから藤枝静男さんこの人ももちろんホンモノですね。この言葉、すごいなぁ。きっと多くの女性がこんな風に思ってきたんでしょうね。ドキッとします。『謹製日めくり藤枝静男さん
藤枝静男はこのように述べる。「私は中国古代の彫刻土中物ということになると、その文様器形などの奇怪さと強さにいきなり圧倒されて興奮するが、むしろ、そのおそろしい抽象性がこちらを寄せつけない力で迫ってくるので、息が苦しくなって、翌々日くらいまでは縛られたような緊張感に締めつけられて身動きできないような精神状態が続くのが常である」。このように藤枝にとって対象は、それが彫刻であれ、絵画であれ、文学作品であれ、身体的な手ごたえとしてそこにある。もちろん対象がそこにあるということは僕たちにとってもそう
こんにちは、塾長です作家の阿刀田高さんが長年書き継いでいる『◯◯を知っていますか』のシリーズがあります僭越ながらそれをもじってタイトルにしてみました受験や勉強から少し離れて今こそ読み返したい作者・作家を紹介していこうと思います「藤枝静男」という作家をご存知でしょうか昭和期に活躍した、私小説作家【自分の身の回りの出来事を小説として書く作家】です「藤枝」は、出身地から(静岡県藤枝市)「静男」は、旧制高校時代の友人から採っ
本禁色三島由紀夫誰でも速読ルサンチマン浅川日本人が知らない中国の民族抹殺計画ガープの世界(上)アービング愛国者たち藤枝静男アメリカ民主党の崩壊2001-2020昭和の名将と愚将ドラマ前略おふくろ様2#1,2,3,4,5,6.7.8.9.10.11.12できちゃった婚#1-11サーペントNetfixサムの息子たちNetfix止まらない男柳家小三治キャビンヘリディディージョーブラックによろしくDVD苺とチョコレートウィスキーステ
「小説は純文学か大衆文学かじゃなく、面白いか面白くないかだ」、だの「必ずどこかに連れて行ってくれる文学にしか価値はない。それは鏡花作品しかない」(三島由紀夫)だの、うーん、そうかも知れないが、うーん・・・と逡巡し、愚考も行き詰まる延長で、しかし、自分が繰り返し読む、読みたくなる小説または戯曲というのは、少なくともこういうもんじゃなかろうかという、ささやかな発見をしたので、以下、少しばかりそれを綴ってみる。それは、主人公(たち)が、内的にも外的にも極めて危うい状況にありながら、何ものにも
先週の一週間、じっくり「田紳有楽」を再読した。面白れぇ小説だなあと改めて思う。筆が踊っている。この悪乗りっぷりというのはどうだろう。作風も文体も描かれる世界も違うが、私はかつて、鏡花の「朱日記」と「山海評判記」に対して、同じように感じたことがある。いや、もしかして何か共通項があるのだろうか。まあ、そこらあたりは気長に宿題としておきたい。藤枝は他の自作で、ある作家の連載小説にいたく共鳴し高い評価をした際に「私小説どころか個小説と呼べるもの」と表現している。本作はその「個小
ひとは何故小説を書き、小説を読むのだろうか。藤枝静男は「役にもたたぬ昔話をくだくだと思い出して書」(『みんな泡』)く理由を、「自分に幼稚なセンチメンタリズムを許して、しかも自足しているから」(同上)だと云う。しかし、見ず知らずのオヤジの幼稚なセンチメンタリズムなど読むに堪えない。そこには自ずから方法なり工夫なりが求められるだろう。ではその工夫とはなにか。藤枝は『みな生きもの、みな死にもの』で初めて小島信夫に会ったときのことを書いている。そこで藤枝は小島に自分の「滲透圧」の理論を展開する。生
第四巻で完結したうちの第三巻は、一二巻以上に、冷遇され貶められた人間が主体的に状況を切り開く姿が描かれる。登場人物たちに「よくぞやった」とエールを送りたくなる。しかし、第四巻に至ると、作者自身が「猫好き」のためなのか不明だが、「猫話」に終始してしまうのだ。しかも、スケール感は落ちる。もう最後には、作者はすべてを猫に託しているかのようにさえ思えてしまう。これは一体どういうことか。人間の業を描くあまり、作者自身がそこから距離を取りたい。軽みを感じたい、そのために人間たちとは、そ
『あとがき』によると齢68になんなんとする藤枝は「何となく気分が衰え」、「書く小説も意気地のないものが多くなった」と云い、「この集にはそういうものを集めた」と述べる。もちろん、その言葉を文字通りに取ることはできない。いやいやどうして、『武井衛生二等兵の証言』には主人公がすぐそばにいるにもかかわらず来る夜も来る夜もひたすら性交している二人連れが出てくるが、藤枝にはそのようなエネルギーの燻りを感じる。実際、藤枝は続いて「勿論そういう小説家たる自分に満足していない。生きている以上そんなわけがない」と
生涯大切にしたい、小説家の言葉をご紹介します名言『被害者でいるほうが楽なのだ弱者だから不平を言うのではない、不平をこぼしたいからこそ弱者に身を置くのだ』タクティクスオウガ/四字熟語『誠心誠意』>>この言葉を書道で直筆、お届けします。名言『人は少年たちがスペルを学ぶように、反復によって主に意見を得る。』沢尻エリカ名言『志さえ失わなければ、困難や問題はすべて新たな発展の契機として生かすことができる。』松下幸乃助名言『落ちたらまた、はいあがってくればいいだけのこと』>>この言葉を書道で直筆、
昨日、ふらりと立ち寄った駅ビルの書店で、気になった本があった。佐藤愛子の『私の遺言』である。というのも、実は30年程前、ある悪友であり同僚でもあった人が、この有名作家の『こんな風に死にたい』を強く勧め、貸してくれたことがあった。『こんな風に…』は、作者の個人的な霊体験を中心に書かれたもので、読み物として面白かった。尚且つ、ここでも登場する美輪明宏さんという個人に類例のない凄さを感じたのだった(あの瀬戸内寂聴さんの導き手として現れた美輪さんは、佐藤愛子の前でも同じように立ち現れるのだ
「肉親への執着と性慾と左翼思想、この三つが統一されないまま、お互いに相反するものとして私の行動や心のなかに共存し束縛しあって私を苦しめた」。藤枝静男は「あとがき」でそのように書いている。そして、「この時分に較べれば今は楽なものである。それを喜んでいる」と藤枝は続けている。どうして楽になったのか。歳をとったということだろうか。そうでもあろう。それではこれは通過儀礼の物語に過ぎないなのだろうか。「女との交渉、いくらか恋愛らしいもの」も経験し、「左翼らしいもの」も経験した。その時代時代によって
藤枝静男さんの登場です。渋い良い作品が多いですね。この言葉の気持ちは、多くの女性が、言えずに思ってきた事かもしれません。田紳有楽空気頭(講談社文芸文庫)Amazon(アマゾン)880円悲しいだけ・欣求浄土(講談社文芸文庫)Amazon(アマゾン)753〜5,171円空気頭・欣求浄土(講談社文庫)Amazon(アマゾン)660円藤枝静男著作集〈第2巻〉(1976年)Amazon(アマゾン)2,315〜3,000円
『著作集」の後に発行され、小説が収められた単行本は少し前に紹介した『悲しいだけ』に続き、『虚懐』、『今ここ』の二冊になる。この二冊の小説の部のみを読み終えた。これで、とりあえず藤枝の小説はすべて読んだことになる。最後の小説「今ここ」が1985年の作品だから、当時77~78才。『虚懐』では、脳のCTスキャンを撮ってもらった上で、自身の脳その他の老化のありようを相変わらず醒めた目で・・・医者としての眼もそこにあるから、よりいっそう・・・実に冷静に分析観察している。この後、作家生
『藤枝静男著作集』は生前発行のもので、その後に出された小説集は、本書と『今ここ』『虚懐』の三冊になる。いずれも古本を購入済みで、内、本書を読了した。とりあえず今は、随筆、評論の類いは後回しにして(対談集は読んだが)、小説を全部読み切ろうという魂胆である。タイトルにある「悲しいだけ」は藤枝70才の時、10才下の妻を亡くした事実が、そのしばらく前と後の身辺を含めて、抑えられた筆致で描かれている。藤枝は、妻の臨終直後に死装束の準備を傍らの娘に伝えるが、その際、途中で声がつまってしまう
『あとがき』の藤枝静男の言葉が面白い。曰はく、「『愛国者たち』は客観小説で他は私小説ということになるのだろうが、私の考えでは同じ小説である。『私々小説』は文字通り私倍増小説という意味である。鰹のブツ切りに生薑醬油をかけて食ってもいいし、牛の生肉にニンニクと塩とチーズをまぶして食ってもいい。鰹のブツ切りは西洋にないから人間の食物ではないという人は馬鹿だと云われても仕方ないだろう。そういう人の云うことを信用して無理な小説を書いている人はずいぶんと割りが合わないと思う。第一もうそんな世の中ではない
藤枝静男は瀧井孝作の文章を「土臭い、訛りを含んだ、ゴツゴツした重い感じや、後戻りなんかして重ねて話すゆっくりした感じや、透明というよりは言葉の中身のつまった感じ」といい、それを好ましく思っているようだ。この文章の感じは当の藤枝自身にもあてはまっているように感じる。特にそのゴツゴツ感。決して飄々と透明に流れてゆかない。しかし、決して片意地らしく踏ん張っているわけではない。おそらく自分がこの世界に在ることにある種の違和感があり、その違和感をもっていること自体にも苛立ちを感じてしまう。そこにある
以前、読み散らかした鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』が何となく気になって、今日また手に取ってみた。戦後の漫画史の部分については強く印象に残っていたが、文学史については未読だった。(まあ、ふざけた読み方である。)で、鶴見は以下のように整理している。(例によって正確な引用にあらず。)戦後日本の文学は、・・・というよりも「独占資本体制下では」とひとくくりにしているのだが、1.企業コマーシャルの延長にある大衆文学※開高健、山口瞳が典型2.大学教授の研究の延長