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先日、ある方から、司馬遼太郎の短編小説「おお、大砲」が、面白いと教えて貰ったので、早速、購入し、読んで見ることに。人斬り以蔵(新潮文庫)Amazon(アマゾン)この本に、収録されています。司馬遼太郎の小説を読むのは、もう30年以上ぶり、と、いったところ。もっとも、小説ではない司馬遼太郎の本は、その間も、いくつか、読んでいて、最近では、ロシアによるウクライナ侵攻の後に「ロシアについて」という本を買って、読みました。この本もまた、面白い。ロシアについて北方の原形
おはようございます過去のブログでも何度か触れていますが、久しぶりに天誅組について。昨日、天誅組三総裁の吉村虎太郎、藤本鉄石、松本奎堂の志士印(勝手によんでいる)を奈良県五條市の五條市立民俗資料館(NPO法人維新の魁天誅組)に納品に行ってきましたぱぱさん(夫)のルーツを調べていたら天誅組の変に辿りつき、その後は一冊の本になるぐらいドラマチックなネタが。NPO法人維新の魁天誅組とのご縁は、2017年6月、東吉野村天誅組顕彰会の阪本先生から和歌山県立図書館のメディアアートホールにて、陸奥宗光伯
佐藤寛(有限会社トーク(TA・OK)人財開発代表取締役)/山岡鉄舟幕末・維新の仕事人「井上清虎、山岡静山、清河八郎、益満休之助、石坂周造、西郷隆盛、勝海舟、明治天皇」「小倉鉄樹『俺の師匠』」(初版・2002/7/20)(光文社新書050)735円-光文社254p本庄/
9月15日(土)16日(日)奈良県御所市にて明治維新150年記念事業が開催されます‼️明日の前夜祭は五條市新町の五條代官所長屋門(民俗資料館)、明後日のシンポジウムは五條市民会館にて開催します。紀州戦国屋はシンポジウムに出店参加させていただきます。市民会館前にて、記念グッズの他、紀州九度山真田グッズなど販売しますので、是非是非お越しくださいませシンポジウムは事前に参加申し込みが必要でしたが、当日受付もするそうです‼️歴史を感じる五條市新町周辺に、歴史散策も兼ねて是非お越しください〜
藤本鉄石は清河八郎の絵や思想面での師匠でしたが、剣術に関しては鉄石が天心独明流であったのに対し、清河八郎は言わずと知れた北辰一刀流です。ところが・・・『高名像伝近世遺勲』より藤本鉄石の図一方、『義烈回天百首』より清河八郎の図ううむ、太刀筋が似とるなあ。でも鉄石先生「清河君、刃は寝かせて!」とか言いそうだ(笑)っていうかパクリですね、たぶん(笑)絵の方は明らかに清河図の方が緻密ですが、そもそも清河さん突撃して
文久三年九月二十五日、藤本鉄石の死と相前後して、総裁の一人松本奎堂が紀州藩兵に狙撃され戦死(自刃とも)。残る吉村寅太郎は傷が悪化して本隊から離れて行動していましたが、九月二十七日、鷲家村の駕籠茶屋にいたところを津藩兵に取り囲まれ、射殺されてしまいました(こちらも自刃説あり)。また安積五郎は戦地を脱出したものの間もなく捕らわれ、翌文久四年二月十六日、京の六角獄舎にて首を刎ねられました。こうして天誅組は壊滅し、残された彼等の同志たちは、やがて倒幕派へと身を転じざるを得なくなっていくのです
高取城の攻略に失敗した天誅組は、再び天の川辻に陣を張りましたが、紀州、津、彦根などの諸藩兵約一万四千がこれを包囲しました。津藩は天誅組に投降を呼びかける書簡を送ります。其許(そこもと)勤王の儀はもっともなれども、五条代官を討ち取り、山林に引き籠もり、みだりに干戈を勤め人民を苦しめらるる條、恐れながら叡慮を悩まされ候。何分、形にては朝敵同様の義に付き、早々降参に及びなば京師向きは如何とも周旋の仕様にこれ有るべし。さもこれ無きに於いては勅命を蒙りたる事なれば、やむを得ぬ事攻め潰し申すべく
京都守護職松平容保は、紀州・彦根・津など近畿諸藩に対して天誅組討伐を命じます。元中山侍従、去る五月出奔、官位とも返上。祖父以下義絶、庶人の身分に候ところ、和州五条の一揆、中山中将あるいは中山侍従と名乗り、無謀の所業これ有るよしに候えども、勅諚の旨を相唱え候故、斟酌致し候者もこれ有る哉に相聞き候。当時称え候官名は全く偽名且つ朝権を憚らぬ相勅諚候段、国家の乱賊にて、朝廷に従い仰せ出られ候者には一切これ無く候間、早々討ち取り鎮静これ有るべく、討手の面々へ洩らさぬ様達せらるべく候事。~元中山
文久三年(1863)八月十三日、孝明天皇が神武天皇陵に参拝し、攘夷親征(天皇自身が攘夷を主導すること)を宣言するという大和行幸の詔(みことのり)が発せられました。この大和行幸の先駆けとなるべく、吉村寅太郎(土佐郷士)、松本奎堂(三河刈谷脱藩)ら30数名の浪士は、中山忠光卿を擁して一路大和国を目指します。ちなみに隊名ですが、彼等関係者の書き残したものは、ほぼすべて「天忠組」となっており、幹部の一人伴林光平の『南山踏雲録』の文中にも、高野山門徒が彼等を「天忠正義の方々」と称したとある事な
飯居簡平は備中(現・岡山県)の出身で、京に出て尊皇攘夷の志士として活躍した人物です。その居宅は三条河原町の長州藩邸のすぐ近くにあり、軒先に連木(れんぎ=すりこぎ)をかけ、自ら連木堂と称していました。『会津藩庁記録』に「浪士頭藤本鉄石、井伊勘平」とある事から、「飯居」の読みは「いい」だと分かりますが、「飯」も「居」も、よく使われる漢字のわりに、意外にも「飯居」はかなりの珍姓のようで、もともとは「いいい」と読み、その出自は備州禅洞山永祥寺(現・岡山県津山市)の寺侍で、食事に関わる仕事をしていた
殿内義雄、清河八郎に続き、家里次郎(文久三年四月二十四日)、同新太郎(同年五月十九日)の兄弟と、鉄石の同志と思われる人々が次々と暗殺もしくは自決に追い込まれていました。「次は自分の番だ」鉄石はそう感じていたに違いありません。幕府は表向きには依然として攘夷実行を謳っていましたが、その一方で幕府を動かして攘夷を実行させようとしていた彼ら同志が次々と葬られていったのもまた事実です。幕府の本音がどこにあるのか、鉄石は大いに失望した事でしょう。ただし、幕府側を一方的に非難するわけにも行き
『京都町触集成』にこんな「お触れ」がありました(原文読み下し)。(慶応三年一月)米価をはじめ、諸食未曾有の高値にこれ有るに付き、必至窮難の者共を御救いなさんと、去る九月十日以来、追々日継ぎをもって一、小川頭報恩寺境内一、西陣本隆寺境内一、寺町妙満寺境内一、五条御影堂境内一、祗園林下町御救い場一、壬生寺境内右六ケ所において粥をお炊き下され候ところ、今もって万価同様(の高値)については、左の名前有志の施財をも御差し加え、当節窮民およそ一万六千七百五十人へ、来月二日よりなおまた実
壬生浪士組がその後、新選組となって活躍する事になるのは今さら説明するまでもない話ですが、一方で藤本鉄石が在京浪士を中心に集めた浪士たちに関しては、史料がほぼ残っていないので、あるいは計画倒れになってしまったのではないか、募集はかけたものの、活動実態はなかったのではないか、と考えたりもしました。しかし、どうもそうではないのではないか、鉄石率いる「もう一つの浪士組」も壬生浪士組同様に活動していたのではないか、と思える史料がありました。『京都町触集成』文久三年松平肥後守殿御預浪士、市中昼
さて、少し時間をさかのぼって再び京の「2つの浪士組」の話に戻りましょう。江戸からやって来た浪士組のうち、京への残留を希望する者に対して、浪士組取締鵜殿鳩翁から以下の達しがありました。『密事会津往復留』文久三年三月一の印有志の者、相募り申し候はば、京都江戸の内へ罷り出候義はその者の心次第に致すべく候。京都に罷り在りたき旨申し聞き候者は、会津家々中へ引き渡し、同家差配に従うべき旨談ざれるべく候。亥三月鵜殿鳩翁殿内義雄殿家里次郎殿(意訳)志ある者を募集したのである
三月二十八日、浪士組は16日間の旅を終え江戸へとたどり着きました。ところが、それからわずか三日後の文久三年四月三日、幕府は誰もが「呑めるはずがない」と考えていた英国の三ヶ条の要求を受け入れ、10万ポンドの賠償金支払いと謝罪文の提出に応じ、薩摩への艦隊派遣も事実上黙認したのです。これによって、清河八郎や藤本鉄石が目指し、ようやく実現目前まで漕ぎ着けていた「幕府主導の攘夷」は「なかった事」となってしまったのです。この幕府の“弱腰”に対して、浪士組は独自に横浜を襲撃して攘夷を決行する
文久三年三月三日、関白鷹司輔熙(たかつかさすけひろ)より、江戸浪士組に対しこのたび横浜港へイギリス軍艦渡来、昨戌年島津三郎(久光)儀、江戸表出立の節、生麦においてイギリス人両人打ち果たし候儀に付き、三ヶ条の儀申し立て、いずれも聞き届けがたき筋に付き、その旨応接に及び候間、速やかに戦争に相成るべきことに候。よってその方引き連れ候浪士共、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候様致さるべく候。とする達しが下されました。英国軍艦が横浜にやって来たが、生麦事件に対するイギ
清河八郎率いる江戸の浪士組が京都へやって来た一方で、京都守護職松平容保の命令により浪人頭に任命されていた藤本鉄石の同志集めも着々と進んでいました。幕府目付杉浦正一郎の手記によれば、当初そのメンバー候補として坂本龍馬、真木和泉、宮部鼎蔵らの名前も上がっていた(※)ようですが、さすがにこれは実現しませんでした。そうして集められた関西の浪士たちでしたが、江戸で同様に編成された浪士組が上洛する事は知らされていなかったらしく、一時的な両者の対立があったようです。清河八郎は関西の浪士、こな
藤本鉄石と、彼が頭目に推される事になった、いわば“在京浪士組”に関して調べているうちに、ある事に気が付きました。それは吉成勇太郎の寓居に関する事です。吉成勇太郎は水戸藩士で神道無念流の剣客。新選組の芹沢鴨や新見錦ら「玉造勢」と近い人物であり、なおかつ長州の桂小五郎とは江戸練兵館の同門でした。特に新見錦の出自を探る上でのキーマンとなる人物なのではないかと目されています。その吉成勇太郎は、上洛当初長州藩の保護を受けていましたが、文久三年五月に備前岡山藩などの援助を受けて寓居を構えています。が
文久三年二月二十三日、浪士組はついに十六日間の旅を終え、京の都の土を踏みました。宿泊地となった壬生の地へとたどり着いたのは正午頃。浪士たちは定められた宿割に従い、それぞれの宿舎に旅装を解きました。清河八郎は浪士組本営となった新徳寺に入ると、すぐさま浪士組一同に夕食後、新徳寺に集合するよう触れを出しました。浪士一同が新徳寺の本堂に集まったのは午後八時頃だったといいます。清河八郎は浪士たちを前に「我々は幕府の求めに応じて集まったものの、幕府の禄を受けているわけではない」という有名な演説を
文久三年二月四日、小石川伝通院に浪士組参加を希望する浪士が続々集まりました。その数およそ三百五十人。この中に、のちに新選組として京の都にその名を轟かす近藤勇、土方歳三ら天然理心流試衛館の同志もまた含まれていた事は説明するまでもありません。翌五日、再び伝通院に集まった浪士一同に対して、浪士組取締役鵜殿鳩翁から道中規則の説明などがありました。そして翌六日に隊の編成が完了するのですが、その夜、清河八郎は故郷の父宛に手紙をしたためています。公儀においても、こなたは別段の御扱いにて浪士頭
江戸で浪士組が動き出したのに呼応して、京都においても有為の浪士を集めて幕府の為に働いてもらおうという動きが出て来ました。動いたのは京都守護職に就任したばかりの会津藩主松平容保その人でした。『再夢紀事』(中根靱負=福井藩士。春嶽の側近)文久三年二月五日肥後守殿(松平容保)来邸せられたり。さて肥後守殿、公(松平春嶽)に対面をと申し入れけれど、発熱中なりしゆえ断られしかば、中根靱負と対面せられこの節、過激の浪士多人数京中に寄り集まり、種々の暴行に及べり。しかるにこの輩、多くは諸藩の邸内に潜
幕府政事総裁職であった前越前藩主松平春嶽は、清河八郎の建言「急務三策」を容れ、幕府は有為の浪士の罪を赦(ゆる)す事を決めました。清河自身、幕府の下役人を無礼討ち(文久二年五月二十日)にして追われる身となり、やむなく大谷雄蔵などの変名を用いて潜伏していたのですが、そんな清河の進退に関して幕府内で協議が持たれていました。『浪士組取扱申渡書』(東京大学史料編纂所・原文読み下し)(松平)主税之助より申し立て出羽庄内清河八郎右の者、有名の英士にて文武兼備尽忠報国の志(こころざし)厚く候
将軍家茂の上洛は、現在では新選組誕生物語のプロローグとして語られる事が多いかも知れません。しかし、家茂が上洛する目的は、孝明天皇の望むとおり攘夷を決行すると約束する事であり、それはこれまで外圧に屈して開国政策を取り続けていた(と庶民には見えた)幕府が、いよいよ方針を転換して列強排除のための戦争を始めると宣言する事に他なりませんでした。幕府は文久二年九月七日に、翌年二月の将軍上洛を正式に公示します。『昭徳院実記』(原文読み下し)(文久二年七月)九日一、来二月御上洛遊ばされるべ
江戸へ向かった清河八郎は、途中甲州で同志土橋鉞四郎(のちに森土に改姓)に会い、相模平塚宿では江戸から帰国途中の薩摩藩の行列を見、同志の益満休之助と秘かに会いました。益満は前日の文久二年(1862)八月二十一日に起こった生麦事件について説明し、清河に再度の決起を促します。この時、清河が詠んだ歌のひとつ御国守(も)る剣佩く身の如何なれば夷(えびす)に屈む腰やあるべき江戸に戻った清河は、同志山岡鉄太郎、松岡万、村上俊五郎らと語らい、今後の方策を練ります。そして清河
さて、少し時間をさかのぼります。文久元年十一月、本間精一郎は薩摩の樺山三円に手紙をしたためています(『本間精一郎事歴』~「精一郎が樺山三円に与えたる書」国立公文書館デジタルアーカイブ)。ちなみに、この書簡には日付が記されていませんが、「西郷君の義、御心配」という記述や、十一月を表す「仲冬念有四(十一月四日の意味か)」から、西郷隆盛が僧月照と入水自殺をはかった文久元年十一月に書かれたものであろうと思われます。つまりは島津久光が藩兵を引き連れて上京する文久二年三月よりもずっと前の話
本間精一郎が暗殺された事は、彼の同志たちに大きな衝撃を与えました。のちに天誅組総裁となる三人の志士のうち、松本奎堂は霊名社において神式の、吉村寅太郎は某寺において仏式の葬儀を営み、本間の霊を弔いました。一方、藤本鉄石はこの頃、不可解な行動をとっています。断末魔に喘ぐ幕府の志士に対する圧制は、日を逐うて峻烈となり、鉄石も身辺に危険を覚えるようになったので、御幸町三条の居を脱し、東山今熊野妙法院近くの農家に身を潜め同志との連絡を保ったのである。『維新の史蹟』(星野書店/大阪毎日新聞
寺田屋騒動のあと、伏見義挙計画に関わった浪士たちは、あるいは謀殺され、あるいは捕縛の憂き目に合いましたが、舟遊び事件で事前に離脱を余儀なくされていた藤本鉄石・清河八郎らのグループは、土佐に強制送還となった吉村寅太郎を除けば、幸運にも難を逃れる事が出来ました。そしてひと月ばかり過ぎた文久二年(1862)の六月六日、清河八郎は一旦京を離れる事になります。安積五郎も京を離れ、河内の勤王家でのちに天誅組に参加することになる水郡善之助のもとへ。一方、伏見義挙の失敗と寺田屋騒動における血の
藤本鉄石は南画を良くした画人でもありましたが、絵に限って言うならば、その第一番の弟子は越後国三条出身の村山半牧と言えるかも知れません。村山半牧は、文政十一年(1828)二月四日、三条古城町の学者村山左内と妻奈加との間に生まれました。十九歳の時に画家長谷川蘭渓に弟子入りしましたが、師の蘭渓に盗みの疑いをかけられた事に憤慨して越後を飛び出し、長崎に出て木下逸雲のもとで絵の修業を続けました。そして安政二年(1855)、京にやって来た半牧は鉄石と出会い、彼に師事する事になるのです。
京都大学附属図書館の維新資料画像データベースに、藤本鉄石が書いた書状が公開されています。『藤本鐵石書状』(京都大学附属図書館所蔵)絵入りで、見ていて楽しくなるような手紙ですが、何が書いてあるのか、この画像を元に作ってみました。やっぱり鉄石、目の描き方が不気味だ・・・。さて、これまで紹介してきたように、藤本鉄石は清河八郎や山岡鉄舟、あるいは本間精一郎、内藤豊前守などに影響を与えた“先生”だったわけですが、この書状を見ると、そういう大人ぶったところがない、
「舟遊び事件」で鉄石や清河八郎、本間精一郎らが薩摩藩邸を追い出されたのは文久二年四月十三日に事でしたが、それより少し前の文久二年四月八日、南国土佐である事件が起きていました。藩参政吉田東洋の暗殺です。土佐勤王党の首領・武市半平太は、同藩の吉村寅太郎や、吉村に変わって土佐入りした本間精一郎らの「脱藩して伏見義挙に加わるべし」との説得に応じず、「一藩勤王」つまり土佐藩を尊皇攘夷論で統一し、藩をあげて上京させてみせる、として土佐勤王党脱藩の勧めを拒否していました。しかし、この武市の論