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これは実在の人物のお話なんだね。藤岡屋日記-Wikipediaja.m.wikipedia.org情報屋の元祖だ。小説はシーボルト事件にかかわることに特化した形で進められていく。事実って何?、情報って何?いろいろな視点を持てる。それにしても江戸時代っていうのはかなり進んだ時代だな。面白い。人気歴史小説家・梶よう子が描く、「噂」で身を立て江戸を生きた男|レビュー|BookBang-ブックバン-書店の店頭で藤岡屋由蔵の名を目にして迷わず購入、
歌川國芳源頼光公舘土蜘作妖怪圖(国立国会図書館蔵)天保の改革で浮世絵にも多くの厳しい規制が掛けられてしまいます。天保十三年(1842)の役者似顔絵禁止、遊女芸者絵の禁止、錦絵は三枚続まで、色摺りは7~8度摺まで、価格を16文以下、等々。錦絵での役者絵や遊女などの美人画の禁止は、まさに浮世絵の人気商品ですから浮世絵師だけでなく板元、摺師、彫師など関わる人全てに大きな影響が出た事でしょう。そんな中で浮世絵師歌川国芳は、幕府の禁令を笑い飛ばすかのよう
今日は「藤岡屋日記」の内容について少し書いていきますが、まず恒例の作品紹介から。唄野桃翠(バイノトウスイ)の作品で、糸巻をしている二美人を描いています。作者については良くは分からないのですが、団扇やカレンダーなどで作品が良く使われているようです。とても気品のある女性を描いていて、私が言うのもおこがましいですが、これ程に上手い人なのにウィキペディアにも載っていないのは不思議です。この作品は工芸画の掛け
絹本に描かれた作品ですが、無落款の為に作者は分かりません。横幅が70㎝程あり、横長の大幅の作品ですが、大黒と恵比寿と福禄寿の三福神が遊郭にて楽しそうに遊興している図になります。作品はかなり日焼けして全体に、茶色になっています。所々に絹本にも破れが出ていて、絵の具の剥落も見えます。実はこの作品は肉筆浮世絵に興味を持ち始めた頃に手に入れたものなのですが、この頃は全く知識がなかったので、焼けていたり破れていたり
先々週に書いた浮世絵師の菊川英山の時に、晩年に挿絵を担当した「江戸大節用海内蔵」という江戸時代の百科辞典の中の付録とも言える木版画を紹介しましたが、この世界地図も同じ本の中の木版画になります。江戸時代も幕末になると、ここまでの世界地図があったなんて、凄くないですか。それも一般の人向けの本なのですから。この本の絵の担当は英山ですが、この地図は英山が描いたのかは分かりませんが、描いたとしても海外から来た洋書の中の地図を基にしたのでしょう。
弘化二(1845)年四月のこと。江戸は下谷の藤堂藩上屋敷の門前に、江戸城奥坊主をつとめていた杉田昌悦という二十二歳になる若者が住んでいました。この杉田昌悦の元に、下谷和泉橋通りの同じく江戸城西の丸坊主頭、竹内長庵の娘いわが嫁いで来たのです。いわは十七歳でした。婚礼の儀は整い、盃事も滞りなく済ませた新婚の二人は、やがて床入りとなりました。行灯打ち消し、物静かに致しくれ候様申し候に付、初縁の義にて、定めて恥ずかしくもこれ有るべきや、とその意に任せ、行灯吹き消し候ところ、何となく物凄
文化九(1812)年のこと。下総国相馬郡藤代宿(現・茨城県取手市藤代町)に同国の荒川宿(=荒川沖宿か)から、ある一家が引っ越して来ました。この一家にはとやという八歳になる娘がいましたが、引っ越して来て以来、どんどんお腹が大きくなっていったので、親の忠蔵とよのはまさか懐妊したのではと心配になり、本人に聞いてみましたが、悪戯をした様子もなく、医者に診せてみましたが、「まさか、この年で妊娠はしないだろう」と医者はいうのみで、結局原因はわからずじまいでした。そこで念のために領主の土屋家へ申し
天保十三(1842)年の五月頃の話。東北は会津藩領内、大沼郡の吉田村(横田村=現在の福島県大沼郡金山町南西部の事か)付近の山中に盗賊の一団が住み着いていました。盗賊団がアジトとしていたのが、村の北方へ五里、幾度も谷を越えた先にあったという相禁山。おそらく、現在で言うと新潟県の御神楽岳のことではないかと思われます。この盗賊ども、白昼堂々周辺の村々を襲っては手当たり次第に物を盗み、田畑を荒らし、娘を連れ去るという悪行三昧でした。困り果てた村人たちは相談の末、血気盛んな若者たちを選抜して盗
文政六(1823)年十月八日の夜のこと。江戸は現在で言う新宿区の牛込に、直径一間半(約270cm)の石が、空から降ってきて大騒ぎになりました。その日は昼間に雷鳴があり、夜になって空に一筋の光が走っていくのが目撃されているので、おそらくは隕石だと思われます。実は前年には多摩の八王子にも同じ様な石が飛んできたので、江戸庶民の間では「異国より員数を計る為ならんや(外国が江戸の人口を調べるために飛ばして来たのだろう)」という噂で持ちきりだったようです。文政六(1823)年といえば、黒船
久しぶりに『藤岡屋日記』から。天保六(1835)年頃の話。駿河の国は藤枝宿に、ある女性がいました。その女性、元は結構な家柄の娘でしたが、どういうわけか幼年期を男の子として育てられました。そのせいか、いわゆる性同一性障害となってしまったらしく、大人になってからも男ものの衣服を身にまとっていました。いいとこのお嬢様という事もあったし、キレイな人でもあったのでしょう。縁談もたびたびあったそうですが、すべて断ってしまったそうです。とまあ、そんな話の主となれば、こんな感じの男装の麗人を想
江戸時代の平均寿命は30歳から40歳くらいだった、と言われます。これは幼児死亡率が高かったため、つまり子供のうちに死亡してしまう割合が大きかったためだと考えられているのですが、では実際に長生きした人の具体例はどうなのかと言いますと、実は『藤岡屋日記』には現在では信じられないような「ご長寿」の話がいくつも出てきます。・天保元庚寅年十一月二十九日大坂百寿庵尚歯会百二歳中ノ島住医業谷川寿仙九十九歳玉造口与力湯浅覚五郎九十六歳難波医師志摩由哲九十六歳
天保四(1834)年十二月二十六日の朝のことです。姫路藩酒井家の江戸屋敷御金蔵番・山本三右衛門は、屋敷表門で小使を勤めていた亀蔵という男に呼び出されました。何事かと思い尋ねると、手紙を持参したので取り次いでほしいとの事でした。三右衛門はさっそく手紙を受け取り、役目がらその内容を確認しました。すると何を思ったか亀蔵、いきなり背後から三右衛門を斬りつけ、三右衛門がそれでも抵抗すると、そのまま逃げ出してしまいました。深手を負った三右衛門は翌二十七日に息を引き取ります。思いもかけない事態によ
天保三(1832)年のこと。江戸は四谷に忠蔵という男がいてそば屋を営んでいました。その忠蔵のそば屋に竹次郎という二十歳になる若者が働いていました。竹次郎は出前持ちで、近所の家や新吉原その他の遊郭などへそばを運んでいました。ところが、この年の八月二十九日の昼過ぎ頃のことです。竹次郎にわかに腹痛を訴え出しました。苦しい様子なので忠蔵は店の二階に竹次郎を寝かせて介抱していたところ、なんと竹次郎、赤ん坊を生み落としました。男の子だったそうです。実は竹次郎、その正体は山王町の町火消二番組人足長
文政三(1820)年の十月頃のこと。麻布十番のあたりに夫を亡くした後家と娘の母子二人暮らしの家がありました。働き手のいない女二人暮らしではあまりの貧乏ゆえ、母は娘を品川宿に勤め奉公に出しました。が、そのおかげでまとまったお金を手にした事が運の尽き。母は次第に博奕に手を出すようになり、ついには箪笥や家財道具などはほとんど博奕のカタに持ち去られてしまう始末。そのうち娘は年季が明けて家に帰ってくるのですが、愛おしい娘の顔を見ても一度魔がさしてしまった母には、もはや悪い考えしか思いつかなかっ
文化三(1806)年の話です。下野国足利郡上川崎村(現・栃木県足利市川崎町)に「はつ」という30歳になる百姓の女性がいました。はつの家では10年以上前に夫の逸八を亡くし、前年には舅の堪左衛門も亡くなってしまい、残されたのは病身の姑と10歳になる息子の堪弥、それにはつの3人だけでしたが、はつは一人で農業に従事するかたわら、日雇いの仕事や洗濯雇いなどの副業にも勤しんで貧しい家を一人で支えていました。この年の十二月六日の夜のことでした。はつが夜なべの仕事を終えてウトウトしかけた頃、隣の部屋
天保八(1837)年の江戸の住宅数及び人口が『藤岡屋日記』に掲載されています。それによると、天保八年当時の江戸は【町数】5723町【家屋数】表店(表通りに面した家屋)121万5638軒裏店(裏通りに面した家屋)204万7651軒【人口】表店男性263万5491人女性297万3613人裏店男性144万7651人女性152万8497人合計897万6148人その他盲人8697人尼4869人出家6万4
ネット上では江戸時代以前に双子や三つ子を生む事は「畜生腹」などと言われて忌み嫌われていた、という話をよく目にします。しかし『藤岡屋日記』をみるかぎり、そうではなかったようです。文政三(1820)年、武州久良岐郡中里村(現・神奈川県横浜市南区)に住む百姓の三左衛門(60)の妻こよ(47)は三つ子を出産しました。高齢出産でしたが、こよ自身も生まれた三つ子(男の子1人と女の子2人)も共に元気でした。こよは母乳も普通に出ましたが、それでも三つ子ではなかなか大変なので、村内や近隣の村々の子を生
天保四(1833)年七月十五日、仙台藩江戸留守居役伊藤要人へ宛て、国元から一通の書状が届きました。同年五月十日のこと、宮城郡小川村に住む杣(そま)浅右衛門という者が、暮れ七つ時過ぎ(夕方5時頃)に高嶋山(高森山のことか)からの帰り道、白猿谷というところに差しかかった時、身のたけ一丈(約3m)もある人間の形をした猛獣が突然あらわれ、浅右衛門に向かって猛然と突進してきたというのです。浅右衛門は手に持っていた斧を振り回しながら信仰していた塩竈明神の名を何度も唱えましたが、猛獣が目の前まで迫
文政三(1820)年六月のこと、伊予国の桜井村(現在の愛媛県今治市桜井)から一人の男が京・大坂見物にやって来ました。男の名前は磯次郎といい、年は二十四歳。この磯次郎、なんと身長が八尺五寸(2.6m)もあったといいます。しかも類まれな美男子でもあったと言われ、その評判は江戸にまで伝わりました。『藤岡屋日記』にいわく大男、大力にて世にたぐいなく美男。その力の程を知らず、背高さ八尺五寸、手長さ一尺二寸(46cm)、貫目(=体重)三十九貫五百目(148kg)、足袋十七文半(42cm)、もっ
公家の日野家と言えば、かつては足利歴代将軍に正室を送り込み栄華を誇った、名家の格式を有する家柄であり、徳川の世になってからも日野輝資が家康の側近に迎えられ、堂上家でありながら幕府高家にも列し、知行高は一千石を越えたという名門です。さて、その公家の日野家とは縁もゆかりも無いはずの、武州秩父郡小鹿野村(おがのむら。現・埼玉県秩父郡小鹿野町)の話です。時は文化四(1807)年、この山に囲まれた小さな村に数ヶ月前から巡礼姿の女とその家来を名乗る中年の男が滞在していました。女の名前は「こと(琴
藤堂平助に関する噂話の在り処を確かめるために、図書館で『藤岡屋日記』の第一巻を借りていました。残念ながら探していた逸話は載っていなかったのですが、目を通してみると、さすがに興味深い話が色々とあります。そういう話を少しずつ紹介していきたいと思います。天保二(1831)年、上州利根郡小川新田小八村(現・群馬県利根郡みなかみ町か)のこと。「とみ」という農家の嫁がいました。とみの夫は長蔵といいましたが、長年病気に苦しんでおり、とみはその看病に疲れ果てていました。そしてついに夫長蔵の殺害を計画