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あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。「塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノ
板橋区赤塚にある東京大仏乗蓮寺へ参拝に行きました浄土宗別挌本山です正式名は赤塚山慶学院浄蓮寺と号します別称東京大仏と呼ばれています創建は応永年間(1394-1427)開山は了賢無的ご本尊は阿弥陀如来です山門由緒板橋区仲宿から当地に移転山門の仁王様寺の紋章境内正面が本堂東京大仏坐像で青銅製の鋳造大仏としては奈良・東京都日の出町・鎌倉に次ぐ日本で4番目の大きさとなる。高さは基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートル(
津城跡を訪ねた後、藤堂家ゆかりの所を訪ねます。まずは大天守台の西隣に建つ…㊟余湖くんのHPより借用。赤線枠は加筆。外堀、内堀の多くが埋められ、赤線枠内が現在の城跡。「高山(こうざん)神社」です。鋳物製の手水鉢があります。これは津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)が、安政3~4年(1856~57)に、先に記事にした偕楽公園に山荘を造り、鎮守として両社八幡社を奉斎した。その時に奉納した手水鉢といわれます。明治9年に藤堂高虎の霊を祀るため両社八幡宮境内に高山神社が創建され
前回の続きです。今回は白鳳門から崇高堂までです。下図④付近から③方向です。左側は上野高校です。右が北です。④から⑤に歩く途中で、⑤の手前で生垣を伐採して、幹の中心にドリルで穴を開けて、枯葉剤を注入している人がいました。さらに進むと上野高校の正門前です。正門から見た明治校舎です。背景に天守が見えます。横光利一が5年間旧制上野中学(上野高校の前身)で学んでいます。この石碑横にある解説板では解説板です。横光利一の古写真です。国粋主義者
(。・x・)ゞクポ今日は土曜日クポ土曜日は短いのクポ~もーぐりが目を覚ましたら夕方になってたクポヾ(。`Д´。)ノ彡日が短くなってるクポ日が沈んでも合戦クポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポまた城が焼かれたクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポ城が焼かれるのクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポお正月で敵が多いのクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポ復活すると直ぐ焼かれるクポ~
(。・x・)ゞクポあけましておめでとうクポヾ(。`Д´。)ノ彡お年玉よこすクポ―ヽ(*´∇`)ノ合戦始まるクポ対面戦ももうすぐ終わってしまうクポヾ(。`Д´。)ノ彡兵を使い切るクポ合戦頑張るとすごろくも出来るクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿すごろくとは?クポ行き止まりのあるすごろくクポ行き止まりでは弓で撃たれるクポヾ(。`Д´。)ノ彡どういうルールなのクポ
(。・x・)ゞクポ11月も半分終わったクポ今年ももうすぐ終わってしまうクポそう、11月なのにヾ(。`Д´。)ノ彡蚊にかまれたクポ寝てたら耳たぶを噛まれたのクポヾ(。`Д´。)ノ彡ガッテムクポヽ(*´∇`)ノ対面戦始まったクポ藤堂家なのクポ築城の藤堂高虎クポヾ(。`Д´。)ノ彡城硬いクポ藤堂高虎の城も大雨で石垣が崩れたりして来てるクポ運良く残ってただけなのか、想定外の雨なのか、ヾ(。`Д´。)ノ彡想定外な気がするクポそれはそ
板橋区赤塚にある東京大仏乗蓮寺へ行きました浄土宗別挌本山です正式名は赤塚山慶学院浄蓮寺と号します別称東京大仏と呼ばれています創建は応永年間(1394-1427)開山は了賢無的ご本尊は阿弥陀如来です山門由緒板橋区仲宿から当地に移転山門の仁王様寺の紋章境内正面が本堂東京大仏坐像で青銅製の鋳造大仏としては奈良・東京都日の出町・鎌倉に次ぐ日本で4番目の大きさとなる。高さは基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートル(wi
どもども!!昨晩お寿司を食べてバーに行った私ですそして今日は世田谷パン祭りに行きましてパンを何個か見繕ってそのままラグビーを見に行きました初観戦!結構見に来てますよ風味を出す私昔から応援してる古参雰囲気を出す夫婦(タオルは無料で配ってた)逆転に次ぐ逆転で面白かった!
***スタイル***やっと涼しくなってきたわね💛《少し秋色を♪》⇒ブラウンのスカート、足元もブラウンです。でも、名張はお日さまががんばるお天気だったので日傘をさしても汗をかきました(9月までの大汗ではありません^^)***朝ごはん***上本町から特急に乗るのでチャオプレッソで朝ごはん。以前冬に来た時、暖房テラスが嬉しかったのよ~♪(ルポ17)。私は行き交う人たちをなんとなくぼーっと眺めてるのが好き💛/チャオプレッソ***アーバンライナー***
板橋区赤塚にある東京大仏乗蓮寺へ行きました浄土宗別挌本山です正式名は赤塚山慶学院浄蓮寺と号します別称東京大仏、赤塚大仏と呼ばれています創建は応永年間(1394-1427)開山は了賢無的ご本尊は阿弥陀如来です閻魔大王ガラスが反射してうまく写せません奪衣婆さん山門由緒板橋区仲宿から当地に移転山門の仁王様寺の紋章境内正面が本堂東京大仏坐像で青銅製の鋳造大仏としては奈良・東京都日の出町・鎌倉に次ぐ日本で4番目の大きさとなる。高さは基壇が地上2メートル、
是非,一度は観てみたい茶道具ですね(ღ✪v✪)!!豊臣秀吉の作らせた「黄金の茶室」は有名ですね。僕が子供の頃には「無教養な成り上がり者による悪趣味の極み」という否定的な意見が多かったこと,現代では「照明の未発達だった当時の仄暗い光の中,黄金の鈍く光る茶室は幽玄の美を感じさせたに違い無い」という再評価の声もあること,一方で僕は少年時代から既に「黄金の茶室が金ピカで悪趣味というなら,同じく金ピカの金閣寺はどうなるのか。同じことをやっても成り上がり者の豊臣秀吉は馬鹿にされ,室町幕府の3代将軍だっ
紀勢本線・近鉄名古屋線の津駅から1km程の神社に神社名;比佐豆知神社所在地;三重県津市鳥居町210-1TEL;059-225-4966【主祭神】火之迦具土神比佐豆知神社は凡そ1200年前から現在の地に御祀りされてました当社は延喜式内社で神饌幣帛料供進指定社となって特別の取扱いをされてまいりました。又、藤堂家代々から御供米等寄附され毎年の大祭には藩主を始め領内の人民多数の篤い崇敬がありました。一の鳥居二の鳥居手水舎拝殿扁額明治2年(
松坂城を巡った後は同じ三重県の100名城伊賀上野城へ伊賀上野城は大きく分けて三つの時代に分けられます。①筒井定次の時代豊臣秀吉の命により大和郡山城から伊賀上野城に転封。三層の天守を築きまます。関ヶ原の戦いでは東軍につき所領は安堵されますが後に豊臣家と近いという立場(諸説あり)から家康ににらまれ改易となります。②藤堂高虎から始まる藤堂家の時代筒井定次改易後に伊賀上野城を任されたのは藤堂高虎。伊予国今治城城主からの国替えとなります。徳川家康は伊賀上野城を豊臣に対する
板橋区赤塚にある東京大仏を参拝してきました赤塚山・慶學院・乗蓮寺と号します別称東京大仏と呼ばれています浄土宗別格本山、ご本尊は阿弥陀如来応永年間(1347~1427)に創建旧藤堂家染井屋敷にあった石像があります山門本堂東京大仏高さ12.5m青銅製鋳造柔和なお顔です大黒像恵比寿像弁天池弁財天旧藤堂家染井屋敷の石造物他にも古い石仏がたくさんあります七福神布袋尊観音堂福寿観音像北村西望の作品☆ご覧いただきありがとうございました
2021年12月5日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は常福寺の津藩(伊州藩)藤堂家家中、広島藩(芸州藩)浅野家家中の「戦死供養塔」について検討してみました。戊辰戦争の戦況については「太政官日誌」に掲載されていて、そこに戦死者や怪我人が記されています。そこで昨日から「太政官日誌」の津藩(伊州藩)と広島藩(芸州藩)の記事を探しているんですが見当たらず。。。😥ここでは『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940)の「伊州藩届書」から、まずは津藩(伊州藩)藤堂家家中の戊辰戦争
浅草橋で通りかかった都立忍岡高校同じ忍岡の台東区立忍岡小は池之端、台東区立忍岡中は鶯谷駅近くと・・・台東区内でも、皆離れた場所にありますさて・・・千代田稲荷神社にやってきました台東区台東と千代田区神田和泉町との境目、凸版印刷㈱西側の入り組んだ細い路地の中程。江戸時代は、伊勢津藩藤堂家の屋敷だった辺りです住所台東区台東1-13-1江戸三座のひとつ・市村座の守護神として祀られていた「千代田稲荷神社」明治期に、渋谷宮益坂にあった千代田稲荷神社の御分霊を勧請し台東区内
(。・x・)ゞクポ合戦終わったクポ日中は結構あったかいけど、夜は冷えるクポ寒くなって動きの弱くなった蚊を倒して、もーぐりの実力を見せつけるクポヾ(。`Д´。)ノ彡冬でも強いクポガーンヽ(´Д`;≡;´Д`)丿合戦は負けたクポまた負けたのクポ盟主焼いたのに負けたクポ。゚(゚´Д`゚)゚。重いのクポ~報告書が来ないクポヾ(。`Д´。)ノ彡月に引っ張られてるクポスクエニが経費をケチってるクポ秋くじも値上げされたクポヾ(。`Д´。)ノ彡値上げ反
(。・x・)ゞクポ阿蘇山が噴火して火山灰が飛んできてるクポ目がかゆいクポ。゚(゚´Д`゚)゚。クポ~目薬が買いに行きたいクポくしゃみも出るクポヾ(。`Д´。)ノ彡攻めるクポー!合戦は僅差なのクポ(。・x・)ゞ藤堂家に勝っておくクポヾ(。`Д´。)ノ彡もーぐりは防御も強いクポー!加勢パンパンだったクポ同盟の加勢を全部集めて守るクポ!(。・x・)ゞ他の人は一人でも強いクポ攻撃して戦功を稼ぎたいクポヾ(。`Д´。)ノ彡盟主を攻めるクポ!
(。・x・)ゞクポさむいクポもう真冬クポヾ(。`Д´。)ノ彡ストーブはどこクポ山に柴刈りに行くクポ!もーぐりは合戦に行くクポヽ(*´∇`)ノ藤堂家と合戦クポ藤堂高虎って、お爺さんだったクポ(。・x・)ゞ1556年生まれ……じじいクポ武器は……手りゅう弾と見せかけてライトセイバーの柄クポ最近もーぐりは疑問に思っているクポ(。・x・)ゞ武田勝頼は速いクポもーぐりの部隊もなかなか早くなったクポでも、勝頼のスキルを模倣してると、速度はど
(。・x・)ゞクポ寒くなったクポ風邪ひきそうクポヾ(。`Д´。)ノ彡罠クポー!(。・x・)ゞルパン三世がまたやってたクポネットに頼るとリアルタイムから遅れるクポ(。・x・)ゞ好きな時間に見れるクポ次元の声優さんが変わるらしいクポもうただの爺さんの声だけど、「タバコの吸いたくなる声」ってのが……まぁ、伝わらない人の方が多いクポ昔から、ルパンのテーマとして時代の変化があるクポルパンが最先端から時代遅れになったまでは良かったけど、それから毎回、時代が~時代
(。・x・)ゞクポ合戦中クポ雨降ってきたクポヾ(。`Д´。)ノ彡一騎打ちクポー!負けてるクポみんな天限して強くなってるクポ。゚(゚´Д`゚)゚。クポ~影もーぐりは水谷がいるので負けないクポヽ(´Д`;≡;´Д`)丿クポ負けてるくぽ加勢に出してたクポヾ(。`Д´。)ノ彡加勢クポー!加勢は別の城クポヾ(。`Д´。)ノ彡ちゃんと守ってるところに攻めるクポもーぐりのmyPick楽天モバイル株式会社楽天モバイル楽天市
(。・x・)ゞクポ今日も熱かったクポ日曜日から寒くなるそうクポヾ(。`Д´。)ノ彡毛布を出したクポ!暑いクポ。゚(゚´Д`゚)゚。クポ~ヽ(*´∇`)ノ合戦も始まるクポ藤堂がいつの間にか、大殿になってるクポヾ(。`Д´。)ノ彡誰に人気があるのクポ!(。・x・)ゞヘビーアームズとおなじクポウイングより多い気がするクポヾ(。`Д´。)ノ彡エクシアは多いクポいつも玉沢山撃つだけで攻撃パターンも変わらないのになんで、何種類も出すのクポ?どれ使って
駒込の近くにある豊島区立公園の門と蔵のある公園は染井村の植木職人の丹羽家の屋敷跡ですその公園には腕木門と蔵が残っていますこの門は丹羽家の屋敷の門だったのですが江戸時代津藩藩主藤堂家下屋敷の裏門を丹羽家が移築したんだって・・・そしてなんと藤堂家の下屋敷は染井屋敷と呼ばれていて染井通りを挟んで向い側にあったらしい。また蔵の方は丹羽家の八代目当主茂右衛門が昭和11年に鉄筋コンクリート造りで建てたらしい立派な蔵だね。公園の雰囲気
20日美濃地方の最低気温予想は-4℃だって同じ岐阜県内でも飛騨高山の観光地では-11℃北海道よりも厳しい高山市荘川地域は-22℃貴方くれぐれも風邪に・コロナにご用心*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆浄明院から南西へ500m程のお寺に来ました寺院名;潮日山寒松院(かんしょういん)宗派;天台宗御本尊;阿弥陀如来所在地;三重県津市寿町5-24TEL;059-229-3170寒松院は寛永8年(1
四天王寺から西へ700m程の神社に来ました神社名;比佐豆知神社所在地;三重県津市鳥居町210-1TEL;059-225-4966【主祭神】火之迦具土神比佐豆知神社は、凡そ1200年前から現在の地に御祀りされてました当社は延喜式内社で神饌幣帛料供進指定社となって特別の取扱いをされてまいりました。又、藤堂家代々から御供米等寄附され毎年の大祭には、藩主を始め領内の人民多数の篤い崇敬がありました。一の鳥居二の鳥居手水舎拝殿扁額明治2年(18
安濃川に架かる「御山荘大橋」を渡りました。江戸時代、津藩主の藤堂家が津城から(現在の津偕楽公園にあった)山荘へ鷹狩に向かうために利用した橋が由来です。「平成八年八月竣工」の表示がありました。日常的に自家用車ではよく通りますが、ランニングで通過するのは久しぶりでした。17~20時台に、23㎞走(5分52秒/㎞)。[写真は、三重県津市の御山荘大橋(南向き)](2020.8.19撮影)
今年(2020)は新型コロナウィルス感染防止で外出を自粛しています去年(2019)7月31日に訪問したときの写真です東京大仏の柔和なお顔に癒されます旧藤堂家染井屋敷石造物など興味深いものがたくさんあります旧藤堂家石造物文殊菩薩旧藤堂家石造物奪衣婆旧藤堂家石造物がまんの鬼旧藤堂家石造物役の小角旧藤堂家石造物鉄拐仙人説経浄瑠璃五代目若太夫の墓板橋信濃守忠康の墓福寿観音北村西望作
<4月21日>「EricClapton日本公演」の翌朝、秋葉原周辺の散歩。JR秋葉原駅前を通り、ヨドバシカメラの脇を抜け、道路を渡るとそこは「神田和泉町」でした。江戸時代、このあたりには伊勢国津藩藤堂家の上屋敷があり、藤堂家が代々「和泉守」を名乗っていたので、町名もここに由来するとのこと。ビルの前にある植込みにも何か書かれています。「藤堂和泉守の上屋敷を彩った樹々」だそうです。藤堂家の植木職人だった伊藤伊兵衛に所縁のある樹々を植えているとのこと。江戸の名残が随所
薩摩藩士が京で集めた噂話をまとめた『京師騒動見聞雑記録』の中に藤堂平助に関する以下の記述があります。藤堂和泉守の浪人にて、壬生組に入り候由。実は和泉守の妾腹の末子とやらの噂の者に御座候由。至って美男士の由御座候。~藤堂和泉守の(津藩を脱藩した)浪人で壬生浪士組に入ったらしい。実は和泉守高猷の妾が産んだ末っ子だという噂の者のようだ。至って美男子だという話だ。壬生浪士の内、藤堂平助と申す者、別けて盛んなる壮士の由。当年十七歳。これ以前より度々の鎮静の砌も、いつも先掛けいたし候者の由。(