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771年(宝亀二年)2月、光仁天皇の即位の翌年には、左大臣の藤原永手が、死去する。永手の死後、式家の藤原良継が、内臣に任じられ、右大臣の大中臣清麻呂に次いで、太政官の次席の座を占める。藤原良継の内臣は、藤原一族の内、最高位の官職であり、藤原式家の良継が、藤原氏の中心的存在になったのである。藤原良継の弟の藤原百川は、白壁王の立太子に貢献して、右大弁に任官する。光仁天皇の即位に伴い、正四位下に叙せられ、翌年の771年(宝亀二年)年、は大宰帥、次いで、参議に任ぜられた。光仁天皇の
時刻は夕暮れも近いのですが正覚寺さんにやってきました。正覚寺さんには五色椿と西行法師の歌碑があり西行法師は平安時代末期から鎌倉時代の初期にかけての歌人でもあり武士でもあり法師でもあった御人で藤原魚名を祖とするそうでですが西行法師の西行も当時の西方信仰からそう名づいたのかもしれませんね。西行法師の歌碑が刻まれた大きな石なのかなかなか岩の表面が古くなり荒れていて私
先に魚名の家系は、氷上川継の乱で上流貴族から没落すると記したが、その後裔は地方官等を歴任する中級貴族として続いていく。式家・良継の娘を母とする鷲取(ワシトリ)の子藤嗣(フジツグ)は参議に任ぜられ公卿に列す。また、北家・真夏の娘を母とする高房(タカフサ)の子山陰(ヤマカゲ)は従三位中納言まで至る。その子中正(ナカマサ)の娘時姫(トキヒメ)は、藤原兼家に嫁いで、道隆・道兼・道長・超子・詮子らを生むが、兼家が摂政になる前に死去した。NHK大河ドラマ『光る君へ』では登場してい
藤原北家とは、藤原不比等の次男房前(フササキ)を祖とする家系で、その邸宅が藤原南家の祖・兄武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことに由来する。房前は四兄弟の中で最も政治的な器量が高く政権を主導したが、天然痘により他の兄弟と共に病没してしまう。房前の次男永手(ナガテ)は、長男鳥養(トリカイ)が夭折して、実質的に北家の長となる。聖武朝では天皇の寵遇を得た同母(橘三千代の娘牟漏女王)弟・真楯(マタテ)とは対照的に昇進が停滞し後塵を拝した。孝謙朝に入ると南家仲麻呂が台頭し、仲麻呂に才
「足の神様」豊中の服部天神宮金澤成保大阪豊中に、「足の神様」とよばれる服部天神宮がある。阪急宝塚線に乗ってその名前の服部天神駅を降りると、すぐ東にある。創建の年代は明らかではないが、朝廷に織物を納めた服部蓮が当地に本拠を置いた允恭天皇の御世(412-453年)、医薬の神である少彦名命(すくなひこのみこと)を祠に祀ったのが始まりとされる。その後、太宰府に左遷された川辺左大臣藤原魚名が当地で病没し、少彦名命の祠の近くに葬られた。延喜元年(901)、菅原道真公が太宰府に左
紫野瀨﨑家の先祖は?今回は、藤原魚名です。藤原魚名(ふじわらのうおな)は、奈良時代の公卿です。藤原北家に属し参議でした。藤原房前の五男です。官位は正二位・左大臣です。図引用:藤原魚名【今上天皇の直系祖先】出典:藤原魚名、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』【ふるさと納税】【天才アートKYOTO】オリジナルクリアファイル・Aセット楽天市場9,000円【ふるさと納税】【コーリン】コーリンベルトデラックス・こしひもセット(Mサイズ)(ベルト
本日も、前々回からの続き。藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。魚名が見た夢(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html前回は、「武士系藤原氏の代表格」とも言える「藤原氏秀郷流」をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏秀郷流)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12730979360.html今回は、秀郷流の祖となった藤成の兄・鷲取の末裔をご紹介します。
先日、藤原北家傍流の祖となった藤原魚名をご紹介しました。魚名が見た夢(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html今日はその続き、藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。とはいえ、平安時代も初期の初期に枝分かれした家なので、その末裔は多岐に渡っていて、1回で語りつくすのは無理(言い切った)何回かに分けることにした中で、今回は藤原魚名の五男・藤成(ふじなり)の子孫をご紹介します。必要とはいえ盛大に脱
このブログ、関連として今までに何度か紹介しているけれど、本題に触れていない系図ってのがいくつかありまして…。一応、「ブログで触れようと思っている人は黄色」、「キーパーソンはオレンジ」というように、名前の札を色分けしたりしているんですが、肝腎の本題に触れてないから「何でこの人をこの色にしてるの?」ってなっているのが多数あったりします(^^;ほかにも、ちょっと触れるだけのつもりだから略系図の簡易版で、みたいにやっておいて、そのまま…というのも結構あり。ブログ開設から10年経ってこの
菅原道真をお祀りしている神社は普通は『天満宮』や『天神社』だったような気がするのですが…逆光で全く読めませんが…(笑)『服部天神宮』鳥居にもしっかりそう書いてあります♪創建は不詳ですが…5世紀前半の允恭天皇の時代に織部司が服部連が少彦名命をお祀りしたのが創始とも言われています…服部♪織部という名称はよく聞きますが…織物で布を織ったら服に仕上げる作業も当然にありますよね♪忍者ハットリくんで『服部』と書いてハットリと読むのは
私は「藤原家嫡流」を継ぐ者と徳之島の復活された万世一系の天皇家ダビデ王勝信貴先生を通して神様に認めていただていますが、常にその検証を行う必要はあると考えています。今日はふと気になったことがありましたので、以下まとめてみました。1.藤原家における嫡流の考え方について「藤原家嫡流」を含めて、「臣」の家において何を基準に「嫡流」を考えるかについて、ダビデ王が以前に指摘してくださったことは「最も官位が高い者が嫡流である」との基準でした。私は「俵藤太藤原秀郷」の子孫ですが、
昨日9月12日も大きな地震が起きました。先日来お伝えしてきた「越の国」ではなく、東北地方に起きた地震でした。マグニチュード「6.1」という大きな地震でした。これまで「数霊61」をあまり気にしたことがなかったのですが、本日になってネットを調べてみると次のようなことが書かれていました。「61はいのちの根源に関わる大切な数霊です。太陽とは太い陽のことでもあり、ダイナミックに発動する本質・真理からの太いパイプでもあります。あなたの大切なものを再び見直し、見極め、鷺や
こんにちは。新型コロナウイルス、感染拡大が止まりません。事態が1日も早く収束することを祈っています。さて話は変わって・・・先日記事を書かせていただいた中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)の山門の続きです。茨城県筑西市中舘にある観音寺は、八幡神社(伝・伊達朝宗奉斉)の桜などでもご紹介したとおり、鎌倉御家人・伊佐氏の城である伊佐城があったとされる場所です。寺は、南北に細長い境内地で構成されています(昭和54年3月茨城県教育委員会『国・県指定史跡調査報告書』より)↓茨城県教育委員会ホームペ
こんにちは、チャーリーです☆彡前回友人たち3人と宝当神社へ行ったあと、境内社の塩屋神社も行ってみることにしましたので、その模様を今回ご紹介します。第72社目塩屋神社宝当神社を出ると塩屋神社への案内板がありますので、それに従って進んで行きます。このような昭和レトロな民家の間を歩いていくと…↑開けた道に出ます。その開けた道からは、このような高台が見えてきて山の上から心地よい気が流れてくるその高台のふもとに塩屋神社はひっそりと佇んでおり
千佳「私見頼朝政権16」でお約束、お久しぶりのこのコーナー。351からです。351【大将に勝つ】牧政親(スパイの役割だったから)千佳意味がわかりません。長戸おそらくこれは・・・荀攸軍人将棋ってあるよなあ。「戦車」は「兵隊」より強いし、「戦車」は「地雷」に弱いんだ。ま・・・戦いの原則ってヤツよ。長戸つまり軍人将棋で「スパイ」は「大将」に勝つんだ。千佳なるほど。荀攸「銃は剣よりも強し」。名言だなこれは。長戸さっきからなにがいいてえんだ。千佳『ジョジョの奇
平安時代初期、第57代陽成天皇の皇子から、「万世一系の天皇家」は「清和源氏の棟梁の家」に隠されてきました。その事は、徳之島におられる復活された万世一系の天皇家であるダビデ王の勝先生が、ご自身のis6689ブログで詳細に明らかにされていますが、私は別の面から考えてみたいと思います。1.藤原家嫡流の隠蔽(1)新約の「三位一体」これは何度もお伝えしてきましたが、「神キリスト、ダビデ王、アロン」が「新約の三位一体」です。さらに、日本において「神キリスト、天皇、藤原家」として
千佳先生、大丈夫です?荀攸微熱感があるんだ。まあ、講義するには大丈夫だ。千佳私、病院でバイトしてた事もあるんで、何かあったら来てください。荀攸ありがとう。(あの時、ガチャ引いたなあ)長戸千佳のいる病院でダメなら、俺が骨拾うぜ。荀攸お前なあ。荀攸さて、前回【どっち】坊門姫が亡くなった話をしていた。その続きからだ。長戸骨拾う話じゃねえか。荀攸不謹慎だぞ。1190年4月22日、【落馬】源頼朝は【どっち】坊門姫の弔問の使者として【魚名流】藤原重弘を派遣した。千佳
藤原魚名奥州藤原氏の祖といわれるが、不明藤原秀郷藤原魚名流の人。この人の子孫に奥州藤原氏がいる。平将門の乱で平将門を討ち取った。俵藤太が別名藤原清衡後三年合戦では源義家という後ろ盾を得て勝利した。その後、東北で権力を握った。中尊寺金色堂を建てた↑中尊寺金色堂金色堂には藤原清衡、基衡、秀衡のミイラと泰衡の首が安置してある藤原基衡藤原清衡の子。毛越寺を建てた藤原秀衡都では平清盛が権力を握っていたが、秀衡は金や馬などに力を注ぎ、独立していた。奥州藤原
前回のブログでも書きましたが、鎌足が任命された「内臣」について、前回は特に自分で考えもせずに、ネットでの一般的な意味を書きました。自分で言っておきながら、実行できていないことに反省し、再度自分の頭で考え直してみました。1.漢字から考える「内臣」「内」は何を意味しているのかと考えました。普通に考えると、「内」「外」と考えがちですが、「外臣」という役職は存在しないので、違う意味と考えました。「内」には「内密の」という意味があります。中大兄皇子が内々に(私的に)「臣」とし
昨日、録画していた元旦に放映していた番組を見ていて、気付きをいただきましたので、お伝えしたいと思います。1.藤原家嫡流と「51」の数霊(1)元旦の番組その番組では、「藤原道長」を特集していました。平安時代の政治家で、次の和歌を詠んだことで有名なので、知っている人も多いでしょう。「この世をば我が世とぞ思うもちづきのかけたることもなしと思えば」摂関政治の最
こんばんは、カンサイです。さて、11月はとにかくグラウンディングをしたい!とそればかり考えていました。そして、週に一度だけ関西に仕事で戻っている時にふとシリウス君に「どこかおススメのパワスポある?」と聞いてみるとどうも十三駅の近くにあるらしい…。さらに絞っていくと服部天神駅との事。ほうほうと思いググってみると、まさかの神宮がそこにあるではないですか!!えっ?こんな所に何かあったっけ?と思いつつ(失礼)さっそく行って来ましたよーいわゆる地元の神社、といった感じでしたが、ここは何と!「
先程の続きです。葛井寺の参拝を終わったのが、お昼の12時ちょうどくらいでした。そのまま「第22番札所補陀落山総持寺」に向かってもよかったのですが、少し寄り道をしました。1.藤原魚名の墓折角大阪まで出てきたのだから、少し前に見つけた先祖のお墓をお参りしようと思い、阪急宝塚線へ乗って、服部天神へ向かいました。私は、平安時代の「藤原秀郷(俵藤太)」の子孫であり、この一流が「藤原家嫡流」と徳之島の万世一系の天皇に認められていますが、私の流れの始祖にあた
明けましておめでとうございます。本年も、よろしくお願いいたします。私は、元旦から仕事です。朝7時からだったので、出社前に初詣に行きました。足の守護豊中市の服部天神です。私の仕事は脚力が命なので・・・阪急宝塚線服部天神駅すぐです。ご由緒です。パネルで絵入りです。駅側の鳥居から入ってすぐのところにあります。菅原道真公の像です。ここには、牛の像はありません。こちらは、正面(国道176号線)からはいって、2の鳥居を入った後にあります。道真公の像の近くに、祖霊社があります。
昨日の講義の伝承特集に四篠隆彦様について学ばさせて頂きました。四條流四十一代當代四條隆彦(しじょうたかひこ)様。四條家の歴史は四條中納言藤原朝臣山蔭卿<824-888>を祖とし、1200年の歴史があり元侯爵の四條家は、藤原氏北家魚名流に属します。内藤家は子爵家なので、同じ魚名流ですが、四篠家は侯爵家なので、私の家よりも2つ位が高い貴族の位になります。内藤正成・戦国時代の武将。徳川氏の家臣。徳川十六神将。藤原氏北家魚名流・秀郷派。享禄元年(1528年)、内藤清長の弟・内
先日2016年5月5日の唐津散策レポの続き。「宝当神社」をお参りした後は、由緒書きにある通り、「塩屋神社」に向かいました。宝当神社のレポ。http://ameblo.jp/indyaki12/entry-12165219902.html「宝当神社」の境内には、「塩屋神社」への道案内がありましたよ。やはり、参拝する人が少ない!?(^^;「宝当神社」の社殿に向かって、左手にある路地を、北に進むと、「塩屋神社」に着くそうです。路地を抜けると、小高い山が見えて来て…。道す