ブログ記事7件
「光る君へ」は越前編に突入して、私的には、また序盤のようなヘンテコな創作ストーリーが始まるのかと、憂鬱な気持ちで視聴したのですが第22回、第23回と、予想に反して面白かったですね(^o^)怪しげな宋の商人・朱仁聡(この人は実在人物らしい)と通詞・三国安麻呂胡散臭い在地官人、越前介・源光雅と大掾・大野国勝そして謎の男・周明まひろは早速、浜辺で見かけた周明とコンタクト「帰りましょう」と言う乙丸が、完全無視されててカワイソウでしたね(~_~;)一方、まじめ人間の為時は、越前介の源光雅に「
藤原兼通(カネミチ)は右大臣・師輔の次男、伊尹(コレタダ)の同母(藤原経邦の娘・盛子)の弟、三男・兼家(カネイエ)も同母で、二人の昇進争いは苛烈を極めた。伊尹が病に伏し、危篤に陥って辞意を示す上表を行ったが、それを知った兼通と兼家は早くも次の日には円融天皇の御前で後任を巡って口論を始めた。兼通は、天皇が幼い頃に亡くなった母后の安子(同母妹)から受けた書付"将来、摂関たることあれば、必ず兄弟の順序に従って補任すること"を見せ、円融天皇は亡き母の遺命に従うこととしたと云う。
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆第一期から断続的に楽しんでいる「女房気分de書写」。現在は『栄花物語』を読み、巻一から順にひとつずつ好きな場面を書写という形で一人密かに進行中です。本日は、巻二十五をご紹介いたします。◆巻二十五「みねの月」:寛子の死と顕光父娘の怨霊万寿二年(1025)3月~8月。小一条院の母・皇后藤原娍子ならびに女御で藤原道長の娘・藤原寛子の死が描かれる。怨霊の跋扈する中、赤痘瘡が流行、快方には向かうものの臨月の道長の末娘・東宮妃藤原嬉子をも襲
本記事は、2016年7月に投稿した記事に補訂を加えたものです。藤原顕光の嫡子重家は従四位下左少将となり、容姿が優れていたため「光少将」と称されたそうですが、25歳で官を辞し、親友の右中将源成信(藤原道長の第一夫人源倫子の甥(姉の子)で道長の猶子(父致平親王は兼家の再従弟)。こちらも美男子で「照る中将」と称されたとのこと)と相計って園城寺(三井寺)で出家してしまいます。左大臣(道長)の猶子と右大臣(顕光)の嫡子という前途有望な公達であるのみならず、若き宮廷女官たちの憧れの的でもあった二人のイ
本記事は、2016年7月に投降した記事に補訂を加えたものです。藤原顕光は藤原兼通の長男で、道長の従兄にあたります。無能な人物であったということで、官位の昇進も7歳下の弟朝光の後塵を拝していました。それでも父兼通が関白となるとその威光により中納言まで昇った(このとき朝光は大納言)ものの、兼通の死後は昇進がストップしてしまいます。ところが、長徳元年(995年)に天然痘の大流行等により彼の上席の公卿(朝光を含む)が次々と死亡したため、その空席を補充するために行われた人事異動で大納言に昇進します。
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆第一期から断続的に楽しんでいる「女房気分de書写」。現在は『栄花物語』を読み、巻一から順にひとつずつ好きな場面を書写という形で一人密かに進行中です。本日は、巻八をご紹介いたしますが、長かったので、2回に分けています(今回は後半)。◆巻八「はつはな」:敦明親王と顕光女延子の結婚長保5年(1003)冬から寛弘7年(1010)まで。中宮彰子は、敦成親王に続き敦良親王をも出産。道長の嫡子頼通は具平親王女隆姫と結婚、彰子の妹妍子は
前回予告していましたが、本日インターネットにて発売です。合同本出します。蒸し暑い季節が続きますね。私も参加する合同同人誌を二冊紹介させていただきます。藤原顕光千年忌記念アンソロジー平安中期、藤原道長の時代、左大臣が藤原道長なら、右大臣を長く務めたのが、藤原顕光です。伝説でnakuramayumi17.amebaownd.com今日は、藤原顕光が亡くなって丁度千年の日です。このような機会に立ち会えた希少さと共に、一千年の時代がもたらした変化の重みと、それでも彼の生きた事実を
【妹ブログ】藤原氏と古代史推進委員会更新情報超久しぶりの藤原氏系図シリーズ!!☆しかしなぜ顕光?いやだからなぜに顕光!??とみずからに問いたい気持ちでいっぱいですが……だいぶ過去の兼通編(父上です)の続きみたいな感じですかね。顕光は道長時代のえらい人ですが、思えば「無能」と言われて1000年……ってちょっと可哀想になってきました(´_`。)でももしかすると美形かもしんない。息子娘は美形のようだし、お父さんも凄みのある美形だったわ……なかなか波乱万丈の家族です!(リンクは