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◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆「帝王学としての楽器演奏の実態に迫る!」吉川弘文館の歴史ライブラリーの一冊。2017年刊行、豊永聡美著。和楽器への興味から拝読。詳細不明だがコトを演奏していたと思しき古墳時代の大王(埴輪ありますよね!)、聴く側だった奈良時代までの天皇。そういえば、飛鳥・奈良の天皇の楽器エピソードは聞かないかも……比して、もっと古代の仲哀天皇や神功皇后の話は印象的です。本書では、そのあとの桓武から室町時代の後花園天皇までが詳細に検討されています。後花園天
ちょっとレアな本を手に入れました。メルカリで古書を買った時、出品者さんの他の商品も見てたらこの本があったのです。『バーチャルネットアイドルちゆ12歳』です。バーチャルネットアイドルちゆ12歳Amazon(アマゾン)テキストサイト全盛の頃の古のインターネットで有名だったサイトの書籍化です。こないだ読んでた森博嗣の『すべてがEになる』みたいな本です。当時のネットの空気感がよく伝わってきます。『バーチャルネットアイドルちゆ12歳』さんは今でもサイトが生きていて、実はネット上で全部読める
現在、Youtubeの動画で『保元の乱』を扱ってみようとおもい、その関連記事を書いてみました。保元の乱は平安時代の終わりごろに京の都で起きた合戦でしたが、「治承・寿永の乱」いわゆる「源平合戦」ほど知られていないかも知れません。しかし源平合戦を語るには避けて通れないほどの大きな出来事であり、日本史における大きな転換点になったことには違いないと思うのです。動画も制作しました。ご興味のある方はご覧いただけるとありがたく思います。-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽し
1108年(嘉承三年)の正月の除目において、武家の平正盛が、「最下品」でありながら、「第一国」の但馬国の受領となる等、白河法皇の近臣が、多く受領に任じられた。その際、除目を主催したのは、藤原忠実であり、白河法皇への従属は、決定的になっていた。そして、5歳で、即位した、鳥羽天皇が、1113年(永久元年)、13歳になった。藤原忠実は、摂政から、再度、関白に転じるが、立場の弱さは、変わらず、永久の強訴で、藤氏長者として、興福寺の説得を試みるが、効果はなかった。白河法皇の北面の武士達が
***コスモス咲いてた!***【公式】般若寺〜コスモス寺〜奈良にある飛鳥時代創建の古刹寺院です。現在は花の寺としても知られます。www.hannyaji.com『境内全~部コスモス💛💛(境内マップ)』の般若寺(一度その時期に行ったことがあるけど)《お見事!》でした。今回は率川神社にご挨拶した後(20年218-1)なぜか突然《冬枯れの般若寺にお参りしたい💛》⇒それがね(本堂前の片隅に)咲いてた子たちがいて驚きびっくり(@@)お出迎えありがとう~(^o^)6
2024-11-04トコトコ〜般若寺今日のまろんのメインはこちらのコスモスです拝観料を支払い〜入りましたぁもう終わりかけみたいだけど、まろん的にはギリギリOKお写真撮っていきまーすなんか、皆さんこちらの石に懐いてるんだけど…なるほどねまろんも、お腹をペタっとくっつけときました十三重石寳塔最初は聖武天皇が建てたのね〜藤原頼長公供養塔以前来たときもあったね17歳で内大臣てすごく頭のいい人だったんだね〜まだまだ般若寺続きます
本書は王朝時代を代表する貴族にして政治家、摂関政治の全盛期を築いた(その割には当人は関白に就任したことが一度もなく、短期間の摂政と関白とほぼ同等の権限を持つ内覧のみ)藤原道長の姿を、同時代資料ではなく孫の孫である藤原忠実(道長の長男・頼通の曾孫。長男もちろん摂関家当主)の談話を記録した資料から見ようと試みています。孫の孫というかなり離れた世代であることからも予想できると思いますが、忠実に道長との面識はありません。本書の情報源は道長の孫(頼通息女)にあたり、後冷泉帝の皇后となり「四条宮」と
ネットより武士の世の到来を告げ、貴族の支配を終わらせた平安末期の「保元・平治の乱」。長承三(1134)年。父を亡くした11歳の藤原忠雅は、白い花を携えて末茂流への婿入りの日を迎えていた。手に持つのは、明け方から夕方にかけて色を少しずつ変化させる「酔芙蓉」。その邸で完璧なまでに整った容貌を持つ美少年・藤原隆季と出会う。低い家柄である隆季は、やがてその美貌ゆえに権力者たちの我欲に翻弄されていく。だが龍のごとき男・平清盛と盟を結び、隆季は家のため、出世の階段を登り始める。守るべきは心か、
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。義朝(よしとも)は白河北殿の西隣にある藤原家成(ふじわらのいえなり)邸に火矢を放ったのです。藤原家成さんは既に病で亡くなっているんだよ義朝「放て!放て!」ところが火は風に煽られ、白河北殿にも燃え移ったのです。これに驚いたのは白河北殿にいた崇徳上皇(すとくじょうこう)や藤原頼長(ふじわらのよりなが)でした。崇徳上皇上皇の近臣らは、「上皇様、逃げましょう!」「皆、上皇様をお逃げ参らせ
「78第七十六代近衛天皇」今日は、藤原広嗣みなさん、おはようございます9月3日は藤原不比等の孫の藤原広嗣が大宰府で反乱を起こし鎮圧されました右大臣の橘諸兄に広嗣は左遷させられたと思ったのでした第七十六代近衛天皇鳥羽天皇(七十四代)の皇子わずか三歳で崇徳天皇(七十五代)の譲位を受け即位されました崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく白河法皇(七十二代)の子だったためです白河法皇の崩御により崇徳天皇は譲位されたのですまた、近衛天皇は短命の天皇であられ
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫の里子(さとこ)です。「敵が攻めて来た!」崇徳上皇(すとくじょうこう)や藤原頼長(ふじわらのよりなが)らがいる白河北殿に敵襲を知らせる声が響きました。頼長「敵とな…夜討とは卑劣な!!」崇徳「頼長、あの鎮西八郎為朝が申したとおりになったではないか!?どうするのだ!?」崇徳上皇頼長「……除目を行ない、為朝を蔵人に任じましょう。」蔵人って天皇さんの秘書みたいなんだよ為朝は敵の侵入を防ぐために西門へ向かっていま
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。保元元年(1156年)7月11日、白河北殿の崇徳上皇(すとくじょうこう)、藤原頼長(ふじわらのよりなが)側では集まった武士との軍議が開かれました。藤原頼長崇徳「平清盛(たいらのきよもり)は参じてはおらぬのか?」頼長「清盛はどうやら帝(後白河天皇のこと)に付いたようです。」崇徳「くっ、清盛の父、忠盛(ただもり)は朕の皇子、重仁(しげひと)の後見だったのに…」頼長「忠正(ただまさ)!清盛は
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。保元元年(1156年)7月2日…鳥羽法皇(とばほうおう)、崩御。崇徳上皇(すとくじょうこう)は臨終の直前に見舞いに訪れましたが、会うことは叶いませんでした。崇徳「全てを話したかった…朕はどうすればよいのか…」崇徳上皇系譜では崇徳上皇は鳥羽法皇の子なんだけど、白河法皇(しらかわほうおう)と鳥羽法皇の妃、待賢門院(たいけんもんいん)との子との噂があるんだよ鳥羽法皇崩御から京は慌ただしくな
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆GW前のことですが、春日大社へお参りしました。◆念願の<藤まもり>をいただく今年の目標のひとつに春日大社の<藤まもり>を頒けていただく!がありました。藤の季節に数量限定で頒布されます。藤原氏好きならば……やはり手元に置きたい!春日大社で撮り忘れたので、興福寺の藤棚で撮りました(笑)春日大社の「砂ずりの藤」はこちら、全盛にはちょい早かった。◆リニューアル後初めての国宝殿久しぶりの国宝殿は、実はリ
保元物語には、崇徳上皇方の源為義の息子の為朝が、夜討ちを提案すると頼長が口を出して、田舎の小戦ではない上皇と天皇が天下を争う合戦で行なうべきことではない、奈良から興福寺の宗徒も応援に来るから、それから戦いをやれば良いと、献策を退けてしまって、後白河天皇方は夜討ちという源義朝の意見を容れたのが勝敗の分かれ目となったと書かれています。もしも為朝の策を取り上げていたらどうなったのか、後白河天皇方も夜討ちに出ているのですから、路上での出会い頭の夜戦になったはずであり、後白河天皇方が600人を夜
右大臣で内覧を兼ねた藤原頼長は、始めのうちは学識で反論する者をやりこめて、朝廷の仕事を平安初期の状態に戻すのだとして、勢いが良かったのですが、朝廷で働く人たちの生活の現実を考えることなく、苛烈に仕事のやり方を変えるように命じたので、諸人の反発を買って朝廷のなかで孤立して行きます。崇徳上皇は、名目だけの父親、実際は甥の鳥羽上皇によって干されていて孤立していましたが、近衛天皇、鳥羽上皇が相次いで亡くなって、廃れ皇子の後白河天皇が即位したのを見て、今が憎い鳥羽上皇が作って行った朝廷の流れを変
『もう、一首の「わた」から始まる歌...①』2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024…ameblo.jp『もう、一首の「わた」から始まる歌...②』『もう、一首の「わた」から始まる歌...①』2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔…ameblo.jp現在「法性寺入道前関白太政大臣
2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024.1.23チノポス書道史③「趣味が功を奏して…」』前回のブログでも記載した通り三筆「嵯峨…ameblo.jp前回のブログで小倉百人一首に、選歌されている「小野篁(参議篁)」の歌に関して記載しました。実は、二十年位前、百首、暗記していました。*現在は、反復していないのですっかり忘れています...(^^;
これが決まっていたので、必死でコロナを治したんだ~!藤の季節限定の春日大社「藤まもり」をいただきたかったのだ……!無事落手!数量限定のためハラハラしたけど、おおむねGW前に行けば大丈夫かなと思ってた。(写真は、春日大社で撮り忘れたので興福寺)春日大社の藤は全盛にはもう少しといった感じだったけど。リニューアル後の国宝殿は初めての訪問だった。春季特別展「平安王朝の栄華ー源氏物語の時代ー」が開催中!(~8/4)国宝の和琴など見られて感激!そして春日
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、悪左府の呼び名でも知られる藤原頼長の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は4月8日です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。関白、藤原忠通(ふじわらのただみち)の館、東三条殿(ひがしさんじょうでん)を源為義(みなもとのためよし)の兵が襲いました。東三条殿跡(現在の京都市中京区辺り)為義は忠通の父、忠実(ただざね)の命で藤原氏の宝物、朱器台盤(しゅきだいばん)を奪ったのです。朱器台盤は藤原氏の長者が代々継承しているんだよこれに対し、為義の長男、義朝(よしとも)は家臣を忠通の守備に命じており、忠通は辛うじて東三条
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の父、源為義(みなもとのためよし)は藤原摂関家の大殿、藤原忠実(ふじわらのただざね)に懸命に仕えていました。その藤原摂関家は康治2年(1143年)関白の忠通(ただみち)に待望の男子の実子が誕生したのです。それが後の藤原基実(ふじわらのもとざね)です。藤原基実基実さんが生まれた時、忠通さんは40歳を超えていたんだよそれまで忠通は20歳以上離れた弟の頼長(よりなが)を養子に
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。康治2年(1143年)、源為義(みなもとのためよし)と光(ひかり)の子、八郎(はちろう)は4歳になり、すくすくと…「コラーッ!八郎!また、いたずらしおって!」怒鳴る為義の声をものともせず、八郎「知らん!我は知らぬ!」為義「あっ、待て!八郎!」八郎は走り回って為義から逃げていました。すくすくと…わんぱくに育った八郎でした。この時期、為義は藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)に仕え、家政警
天狗の日本国に其名高きは天南坊は○○○○、大郎坊○○○○○、歓喜坊○○○○、普賢坊宇治左大臣(藤原頼長)、三密坊獻山法務大僧正、火乱坊は三井寺頼豪法印、光林坊鎮西八郎為朝、東金坊は六条判官為義、是を八天狗といふ。藤原忠実には2人の息子がいました。藤原忠通と藤原頼長です。藤原忠実が白河法皇によって政界追放された1120年の翌年(1121年)、長男だった藤原忠通は、追放された忠実に代わり摂関家の家督を継ぎ、氏長者となります。そして、当時天皇だった鳥羽天皇の関白に就任します。1125年、藤
執事殿は、師泰殿に、猫の奥方の件が尼君の依頼だったことを説明する。今回でこの巻のお話は終わります。最初はこちらです。足利家の執事1694このおはなしのまとめはこちらです足利家の執事(56黒猫の奥方)-乱Fのマンガ-pixiv
左府殿は、子猫は「淋しがっている」というが、執事殿のところに、奥方の侍女が訪ねてくる。
子猫は直虎にくっついていたが、御霊の左府殿に、うれしそうに寄ってゆく。
こんにちはバルコアです。政事要略百二十巻は、今はその大部分を佚し、纔か二十六巻を残存するに過ぎない。しかし残巻中には、法制史研究の貴重な資料を留めると共に、中国、日本の佚書、佚文を少なからず引用している。その一つとして、五行大義を年中行事、服色、医疾を説く重要な典拠としていることは、五行大義の当時における極めて高い評価を示すものとして、注目してよいであろう。また年中恒例の行事や臨時の公事を記した藤原公任(歌人、漢詩人、966-1041)の北山抄、第一、年中要抄、元旦拝天地四方事の
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆別ブログに書いていた過去記事リニューアル、猫の日企画です。藤原頼長といえば、某大河ドラマの影響で(笑)鸚鵡が思い浮かぶかもしれませんが、ほっこりエピソードとしては、むしろ猫!あの『台記』に、少年時代の思い出話として、こんなおはなしが。◆康治元年(1142)8月6日条(…)僕少年養猫、猫有疾、即画千手像、祈之曰、請疾速除癒、又令猫満十歳、猫即平癒、至十歳死、裹衣、入櫃葬也、(…)『増補史料大成第23巻台記1』臨