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これが決まっていたので、必死でコロナを治したんだ~!藤の季節限定の春日大社「藤まもり」をいただきたかったのだ……!無事落手!数量限定のためハラハラしたけど、おおむねGW前に行けば大丈夫かなと思ってた。(写真は、春日大社で撮り忘れたので興福寺)春日大社の藤は全盛にはもう少しといった感じだったけど。リニューアル後の国宝殿は初めての訪問だった。春季特別展「平安王朝の栄華ー源氏物語の時代ー」が開催中!(~8/4)国宝の和琴など見られて感激!そして春日
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、悪左府の呼び名でも知られる藤原頼長の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は、4月8日(月)です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。関白、藤原忠通(ふじわらのただみち)の館、東三条殿(ひがしさんじょうでん)を源為義(みなもとのためよし)の兵が襲いました。東三条殿跡(現在の京都市中京区辺り)為義は忠通の父、忠実(ただざね)の命で藤原氏の宝物、朱器台盤(しゅきだいばん)を奪ったのです。朱器台盤は藤原氏の長者が代々継承しているんだよこれに対し、為義の長男、義朝(よしとも)は家臣を忠通の守備に命じており、忠通は辛うじて東三条
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の父、源為義(みなもとのためよし)は藤原摂関家の大殿、藤原忠実(ふじわらのただざね)に懸命に仕えていました。その藤原摂関家は康治2年(1143年)関白の忠通(ただみち)に待望の男子の実子が誕生したのです。それが後の藤原基実(ふじわらのもとざね)です。藤原基実基実さんが生まれた時、忠通さんは40歳を超えていたんだよそれまで忠通は20歳以上離れた弟の頼長(よりなが)を養子に
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。康治2年(1143年)、源為義(みなもとのためよし)と光(ひかり)の子、八郎(はちろう)は4歳になり、すくすくと…「コラーッ!八郎!また、いたずらしおって!」怒鳴る為義の声をものともせず、八郎「知らん!我は知らぬ!」為義「あっ、待て!八郎!」八郎は走り回って為義から逃げていました。すくすくと…わんぱくに育った八郎でした。この時期、為義は藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)に仕え、家政警
天狗の日本国に其名高きは天南坊は○○○○、大郎坊○○○○○、歓喜坊○○○○、普賢坊宇治左大臣(藤原頼長)、三密坊獻山法務大僧正、火乱坊は三井寺頼豪法印、光林坊鎮西八郎為朝、東金坊は六条判官為義、是を八天狗といふ。藤原忠実には2人の息子がいました。藤原忠通と藤原頼長です。藤原忠実が白河法皇によって政界追放された1120年の翌年(1121年)、長男だった藤原忠通は、追放された忠実に代わり摂関家の家督を継ぎ、氏長者となります。そして、当時天皇だった鳥羽天皇の関白に就任します。1125年、藤
執事殿は、師泰殿に、猫の奥方の件が尼君の依頼だったことを説明する。今回でこの巻のお話は終わります。最初はこちらです。足利家の執事1694このおはなしのまとめはこちらです足利家の執事(56黒猫の奥方)-乱Fのマンガ-pixiv
左府殿は、子猫は「淋しがっている」というが、執事殿のところに、奥方の侍女が訪ねてくる。
子猫は直虎にくっついていたが、御霊の左府殿に、うれしそうに寄ってゆく。
こんにちはバルコアです。政事要略百二十巻は、今はその大部分を佚し、纔か二十六巻を残存するに過ぎない。しかし残巻中には、法制史研究の貴重な資料を留めると共に、中国、日本の佚書、佚文を少なからず引用している。その一つとして、五行大義を年中行事、服色、医疾を説く重要な典拠としていることは、五行大義の当時における極めて高い評価を示すものとして、注目してよいであろう。また年中恒例の行事や臨時の公事を記した藤原公任(歌人、漢詩人、966-1041)の北山抄、第一、年中要抄、元旦拝天地四方事の
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆別ブログに書いていた過去記事リニューアル、猫の日企画です。藤原頼長といえば、某大河ドラマの影響で(笑)鸚鵡が思い浮かぶかもしれませんが、ほっこりエピソードとしては、むしろ猫!あの『台記』に、少年時代の思い出話として、こんなおはなしが。◆康治元年(1142)8月6日条(…)僕少年養猫、猫有疾、即画千手像、祈之曰、請疾速除癒、又令猫満十歳、猫即平癒、至十歳死、裹衣、入櫃葬也、(…)『増補史料大成第23巻台記1』臨
山寺の僧は御所様から褒美をもらって帰るが、御舎弟の家では、水無瀬さまが少々ご不満?この物語は一応、今回で終わります。最初はこちらです。まとめはこちら。足利家の執事(54百鬼夜行の巻)です。
水無瀬さまたちは、蹴鞠大会の帰りということでご機嫌で去ってゆかれた・・・。
あわわの辻に現れた、怪しい火に老僧は逃げようとするが、登場したのは水無瀬さまご一行の「本物の御霊」だったが・・。
御舎弟が家に帰ると、奥方も「あやかし事件」のことを知っていた・・・。夜中に御霊たちが誘いに来る。
毎年恒例のツイートかも肉きじ肉もも肉八條忠基@EeoduLzbYVjTprk本日はクリスマスイブ。いまはフライドチキンが主流ですが、かつてはモモ焼が食べられたものです。骨の部分には飾り紙が巻かれ、「褻」ではない「晴」が演出されました。これは平安時代から「別足」としてあったものです。画像は『正月三節會御膳…https://t.co/NDde1BCkiq2022年12月24日08:19八條忠基@EeoduLzbYVjTprk『台記』(藤原頼長)「仁平二年(1152)正
無事芝居は終わり、巨大行者像は街中を練り歩き、崇徳院は讃岐にお帰りになる。(今回で、この巻は一応終了します。今回の物語の始まりはこちらからです。)足利家の執事1558|座乱読―別荘(ameblo.jp)この巻の全体のまとめはこちらに。足利家の執事(51飛び出す役行者)-乱Fのマンガ-pixiv
人間は巻き上げ機を使い、御霊たちは霊力を駆使されて倒れた行者像を立てる。
八郎は行者像の修理方法で悩み、夜中に水無瀬殿が力仕事を秘密でされる・・?
続きです。ランチの後「小さいホテル奈良倶楽部」さんに初めて泊まりました🎵画像お借りしています。画像お借りしています。奈良北町にある可愛らしい、居心地の良いホテルです。チェックイン後、夫が行ったことがないと言うので近くにある般若寺へ。コスモスの有名なお寺です。私は友達と、何度か行ったことがあるのですが内部の撮影は禁止でしたが、ここには後醍醐天皇第三皇子・大塔宮護良親王が敵に追われていた時に身を隠したと言われる唐櫃が残されています。あんまり有名な人じゃないけど
都の上空に崇徳院が現れ、現世は竜巻や強風が吹き荒れる・・。
執事殿は芝居にお嬢を連れてきて、御霊方は夜、三条殿に集まられる。
抜け出す巨大行者の芝居が初日。御霊方はこっそり桟敷で見学。
御所様たちは宴会だが、道誉殿は何か御舎弟に頼みがある?そして芝居が完成し・・・。
御舎弟も含めて、御所様一行は道誉殿の宴会へ・・。巨大人形に興味深々の水無瀬さまと左府殿が現れる・・。
水無瀬殿は、飛び出す役行者にも、芝居にも興味深々。執事殿のお札には何の怪異もないと宮様も確認したが・・。
行者(義嗣)は執事から、水牛と戦った話を聞くが半信半疑・・。ついに水無瀬殿が興味を持たれる。
やはり宮様は、義嗣に思うところがあるようで・・・。本人は後鳥羽院と月見飛行中・・・。
御舎弟の悪夢の話を聞いて、左府殿は面白がっているけれど、義嗣がお札を渡したと聞くと、宮様は・・・。