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娘の婿に手をつけてしまった魔性の女・藤原薬子の末路妖艶さで天皇を虜にして悪行三昧妃となるべき娘を初めて目にした安殿親王(平城天皇)が一目惚れしたのは、娘ではなく、その背後に付き添いとして控えていた娘の母の方であった。その名は藤原薬子。親王を色香で虜にした挙句、ついには本性を発揮して、兄・仲成と組んで専横の限りを尽くしたのである。親子ほども年の離れた二人が、いったいどのような経緯を経て世間を騒がせていったのか、詳細に見ていくことにしたい。■妖艶さをもって娘婿を虜に!娘の
夏冬・・・夏と冬。通常は、一年を四季で分けるが、大まかに夏季・冬季で分けることもある。服装などは、衣替えを境に夏服・冬服と言われることがある。時々思い出したように、海音寺潮五郎先生の『悪人列伝』を読んでます。古代篇では、蘇我入鹿、弓削道鏡と続いて、3番目に藤原薬子に関して紹介されています。藤原薬子・・・平安時代初期の女官で、藤原氏式家の種継の娘。藤原氏南家の継縄と結婚し、3男2女を産む。薬子の娘が、桓武天皇の皇太子安殿皇子(後の平城天皇
私ね、前から思ってたんですよ。奈良時代と平安時代の女性の装束って違い過ぎません?<奈良時代><平安時代>か、変わり過ぎだろ~よッ!一体どうしてこんなに変わったの?って思うわ。特に目立つのが髪型よ。髷(まげ)を結って簪子でまとめ上げていた髪の毛が完全に下ろされているじゃないの!そう、それは「垂髪(すいはつ)」と呼ばれるスタイル。あとは衣装の下から沓が見えて動きやすそうだったのが、長い緋の袴で全く見えなくなってめちゃくちゃ
大河ドラマ“光る君へ”の時代より前、藤原氏の中でも“北家”が台頭するよりも前の頃、こんな事が…その解決の“詰め”の一手を打ったのは…あの人物…??「薬子の変」の録画、御覧下さい!↓↓↓↓↓https://youtu.be/vQkAvC1T7zQ?si=aEYnEjb6_l-kqJMB-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be※チャンネル登録も、どうぞ
藤原葛野麻呂は、藤原冬嗣と同様に、藤原北家の出身で、藤原小黒麻呂の長男であった。藤原小黒麻呂は、北家の祖、藤原房前の長男、藤原鳥養の次男で、鳥養が、早世しなければ、本来、藤原北家の嫡流的存在であった。藤原葛野麻呂は、妹の藤原上子が、桓武天皇の後宮に入ったために、天皇に重んじられていた。藤原葛野麻呂は、794年(延暦十三年)、正五位下・左少弁に叙任されると、翌年には、従四位下・左中弁、更に、797年(延暦十六年)に右大弁と、要職である弁官を務めながら、急速な昇進を果たした。また、
藤原内麻呂の長男、真夏は、803年(延暦二十二年)、従五位下・中衛権少将に叙任され、同年7月に春宮権亮、翌年、春宮亮を兼ねて、桓武天皇の治世末に同い年である、皇太子の安殿親王に側近として、仕えた。906年(大同元年)には、安殿親王が、平城天皇として、即位すると、同年、従五位下から、一挙に従四位下まで昇叙された。藤原真夏は、平城天皇の治世では、急速な昇進を果し、近衛中将、内蔵頭、中務大輔等の要職を兼帯し、平城天皇の側近として、近侍した。809年(大同四年)4月に嵯峨天皇が、即位すると
506年(延暦弐五年)に、平城天皇が即位すると、藤原内麻呂は、同年4月に藤原雄友と同時に大納言に昇進する。更に右大臣、神王の薨御を受けて、同年5月に、正三位・右大臣に叙任され、遂に藤原雄友を越えて、太政官の首座を占めた。藤原雄友は、平城天皇とは、微妙な関係で、後に謀反の罪によって、自害した、伊予親王の外戚であった。藤原内麻呂は、自身の長男、真夏を春宮坊の官人として、皇太子の時代から、平城天皇に近侍させていた。天皇と伊予親王の微妙な関係、そして、自身に近侍する、真夏の父、藤原内麻
嵯峨天皇は、平城京への遷都を拒否することを決断し、9月10日、使節を発し、伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。更に嵯峨天皇は、藤原仲成を捕らえ、右兵衛府に監禁し、佐渡権守に左遷し、薬子の官位を剥奪して、罪を鳴らす、詔を発した。嵯峨天皇は、造宮使であった、坂上田村麻呂を大納言に昇任させた。同時に藤原冬嗣は、式部大輔、紀田上は、尾張守に任じられた。9月11日、嵯峨天皇は、密使を平城京に送り、大官を召致した。同日、藤原真夏及び、文室綿麻呂等が帰京するが、平城上皇派と見ら
藤原式家の種継の長男、藤原仲成は、785年(延暦四年)、父の藤原種継が、暗殺される。藤原仲成は、父の功績によって、22歳で、従五位下に叙され、翌年、衛門佐に任ぜられる。桓武天皇の治世では、藤原仲成は、衛門佐・左中弁等を務めると同時に、出雲介・越後守・山城守・大宰大弐・大和守・伊勢守と地方官を兼ねた。藤原仲成は、797年(延暦十六年)、従五位上、翌年、正五位下、801年(延暦二十年)、従四位下と、順調に昇進した。平城天皇の治世では、藤原仲成は、妹の尚侍、藤原薬子が、平城天皇の寵愛
805年(延暦二十四年)12月7日、桓武天皇は、藤原緒嗣と同僚の参議・菅野真道に、天下の徳政について、論争させた。徳政論争である。藤原緒嗣は、「現在、天下の人々が、苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。この二つを止めれば、皆がな安心します」と述べた。蝦夷の平定及び、平安京の造営は、桓武天皇の治世の二代事業であった。菅野真道は、当時、65歳で、桓武天皇の生母の高野新笠と同族の百済系渡来系氏族で、長年、天皇に仕え、身分の低い学者から、抜擢された。菅野真道は、桓武天皇の意
平城上皇は旧都に平安京から役人らを呼び、嵯峨天皇が「二所朝廷」と危険視する情勢となったのち、大同五年(810)九月六日、ついに上皇が平城京へ還都する旨の命令をだすに至ります。嵯峨天皇はこれを上皇の政権奪取の動きと見たのでしょう。畿内の関所に軍勢を送って上皇の動きを封じ、平安京にいた藤原仲成を捕えました。上皇はやむなく薬子や役人、兵たちを連れて東国へ逃れようとしますが、一行は大和国を出ることもかなわず、京都の朝廷の兵に遮られて奈良へ引き返し、上皇は出家、薬子は自害しました
桓武天皇が平安遷都して間もない頃の話です。延暦25年(806)3月に桓武が崩御すると、第一皇子の安殿(あて)が平城天皇として即位しますが、病がちで3年後に弟の嵯峨天皇へ皇位を譲り、上皇となりました。当時、病気と土地は密接に関係しているという認識があり、朝廷の役人がどこに落ち着けば上皇の体調が回復するのか探し回った結果、旧都の奈良が最適だと判断されたようです。奈良で平城上皇の宮殿作りが始まり、藤原仲成(薬子の兄)らが造営にあたると、上皇の体調が急激に回復しました。
「安殿(あて)皇太子(のちの平城天皇)が臥戸(ベッド)の両脇に母と娘を侍らせ、夜ごと三つ巴(3P)の痴戯に耽っている」そう伝承される話に登場する「母」が藤原薬子(くすこ)。皇太子の后となった娘に付き添いの形で後宮に入った彼女は、娘以上の寵愛を得ます。そして、娘とその夫の皇太子と夜ごと、3Pに興じていたというのです。その後、即位した天皇の政治判断を誤らせ、平安京(京都)から平城京(奈良)への還都を企んだものの、その野望は挫かれ、自害して果てた――通説がそう語る日本
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、平城天皇と嵯峨天皇の間に対立を引き起こしたとされる藤原薬子の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は6月10日です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
藤原式家の無官位・清成の長男種継(タネツグ)は従妹・乙牟漏の立后を機に栄進した。乙牟漏の母で後宮の最高実力者であった安倍古美奈が、桓武天皇に強い推しを掛けたようだ。長岡京遷都の責任者であり、桓武天皇による信任も厚かったものの、遷都後間もなく射殺された。この暗殺事件は、直前に死去した大伴家持が首謀者とみられ、大伴氏関係者他多数が死罪・流罪に至った。その後、桓武天皇の皇太弟・早良親王の廃太子、配流と憤死にまで発展。事件関与が定かでない早良親王の死により、怨霊への恐怖から早々に
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそ今日も前回に引き続き、『藤原薬子』の物語の続きです安殿親王はもともと病弱で精神的にもろいところがあり、年上で美貌の薬子に頼りがいを感じ、精神的にますます薬子に依存し、彼女にとらわれていきました薬子も親王に寵愛され、宮中の華やかな生活を経験すると元の生活が平凡に感じられるようになり、出世したい薬子の兄、仲成と思惑が一致して、なんとか親王のもとに戻る機会をうかがっていたのですそしてついに806年、二人を引き離した桓武天皇が亡くなり、安
こんにちは今日も由希絵の『歴史の窓』へようこそもう3月に入り、時の流れは早いと感じる今日この頃です今日のお話は時代が変わり、いよいよ平安時代、舞台は奈良から京都に変わりますちょうどいま大河ドラマでも平安時代を取り上げていますよね『平安』という名とは裏腹に、相変わらず権力闘争は続いていきますもうこれはいつの時代でも変わらない・・・色々と考えさせられますね・・・・・今日取り上げる人物は、都が奈良の平城京から京都の平安京に桓武天皇によって794年に移されましたが、その頃登場した『藤原
…藤原薬子の処刑された兄は誰か?藤原仲成(ナカナリ)である。仲成は、平安初期の官人。藤原式家(シキケ)。贈(ゾウ・死後に位を下賜された)太政大臣種継と粟田道麻呂の娘の長子。桓武天皇の時には、父の暗殺、妹・薬子の宮廷からの追放など恵まれなかったが、平城(ヘイゼイ)天皇の即位後、薬子が天皇の寵を得た事により大同4年北陸道観察使、翌年参議となった。その後、薬子と共に長岡京造営中に倒れた父の名誉回復に努め、同4年、亡き父・種継に太政
【日本国記】第二章9平安京へ・長岡京4日本とは世界で最も特殊な国である―古くて新しい―土方水月9長岡京4平安京へ一旦仏門に入っていた早良親王は父である光仁天皇の希望で皇太子に迎えられた。同母兄の桓武天皇の即位と同時に還俗して皇太子となった。桓武天皇は大事は自分で決したが、平時の事務は早良親王と光仁天皇即位に関わった藤原百川の甥の藤原種継が行っていたといわれる。長岡京造営の過程で早良親王と藤原種継の仲が次第に悪くなっていき、早良親王の直属であった大伴
知らんかったわ。「薬子の変」だけど。藤原薬子が服毒自殺したけど。あれが日本初の服毒自殺だったのか。9世紀の頃の話。おっかないなぁ~ところで、藤原薬子は男性?女性?小野妹子は男性だもんな。ややこしいや。
長岡京跡大極殿公園京都府長岡京市は文字通り、昔、「長岡京」という都があったところである。「長岡京」は延暦3年(784)から延暦13年(794)までの10年間、天皇が政治を行った日本の首都であった。囲碁が日本へいつ伝来したのか諸説あるが、当初は宮中で広まり、その後、僧侶、武士、庶民にまで普及したと考えられており、長岡京でも碁が打たれていたと思われる。長岡京跡の碑天応元年(781)に即位した桓武天皇は70年以上都であった平城京からの遷都を計画した。理由は諸説あり、既存仏教勢
https://youtu.be/Pbk81SpPQ94親子で学ぶ偉人伝第13回文字通り、時代の薬となった女性!藤原薬子【CGS小名木善行(ねずさん)】#CGS#小名木善行#藤原薬子
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆最澄と空海という、平安初期仏教二大スターを鮮烈に描いた漫画『阿吽』も最終巻が出ましたね!きちんと終わりまで描き切るのは好感が持てます。とにかく画力というか、画面からあふれる迫力に圧倒される作品で、正直浅学のわたしとしては、「なんか凄い」ってのはわかるものの、一回読んだくらいでは到底理解が及びませんでした。全14巻、堂々完結です!完結を記念して、小学館からいくつか記念の商品が出ていました。そのひとつが、完全受注制作の複製画。迷いに迷
倉山満氏「旧宮家の皇籍復帰、できれば300年に1度の功績」iza(イザ!)現在は「神武天皇以来の伝統を、悠仁さまが独り背負っている」という状況だ。皇位の継承が安定的に続く保証はなく、皇統の危機をどう回避する...【承久の変と令和】困難の中でも豊かな文化築かれた時代800年の時を経てコロナ禍の令和を...ZAKZAK後鳥羽天皇は建久9(98)年に、第一皇子の第83代、土御門天皇に譲位し、上皇として院政を開始した。その後鳥羽上皇が承久3(1221)年に...承久の乱1.史上最
不思議な水彩画家龍令です。先日、Huluで気にはなっていたけどレンタルするほどでもない映画(失礼)『空海〜美しき王妃の謎〜』を見ました。興行的には大コケだったらしいけど。私はこの時代のコスプレが大好き、空海リスペクト、夢枕獏の原作を読んで内容を知ってた、ので・・・ありえない展開もまぁまぁ、映像美として楽しめました。でもね、その後に見た北大路欣也主演の「空海」がね・・・色んな意味で最高でした(笑)知りたかった事のヒントを教
名古屋のシンゾウです昨日の掲載問題で、不備がありましたので次のとおり訂正してください。【07728】明治18年に知事が○○となり、日本最初の○○が走った。【07729】京都のならわしで、多くの家では○○と書かれた護符が貼られている。見直しているんですけど.....注意します。本番試験でイージーミスが減らないわけです。気長にお付き合いください。―――――――――――――本日の問題(141)《漢字書取り》【07751】なでうし【07752】うきふね
受賞が多い訳・川端康成原作だった!美しき誘惑―現代の「画皮」私は、音楽関係だけでなく、意外にSF小説や歴史小説や、お芝居やドラマ、映画も好きなので、この原作も面白くて、引き込まれまして、一気に読めましたよ!尚、この書籍の表紙には、映画は7カ国45冠、となっていますが、今では、10カ国59冠と、海外評価もめっちゃ高いですね~!早く観たくて、寝不足になりそう~~~~(笑)
もう15年も前に買った本なのですが、久しぶりに読んでみました。こんな本です。いろは歌、いろはにほへとちるぬるをわかよたれそつねならむうゑのおくやまけふこえてあさきゆめみしえひもせす漢字を入れて書くとこうなります色は匂えど散るぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見し酔ひもせずこれが暗号というのですよ。全部かなで書かれた物の、各行の最後の文字を読んでいくと「とかなくしてしす」つまり「咎無くして死す」とな
【奈良帝・平城天皇(ならのみかど・へいぜいてんのう)】🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨古典和歌を「和歌コード」に翻訳する時、無視できない要素があります。それは…◉作者のプロフィールや人物背景◉その時代に起こった出来事◉その『和歌集』掲載の前後の歌とのつながりこれらを抜きにしては「和歌コード」に翻訳することができません。…ということで和歌作者の詳細を見ていこうと思います。🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨🌟✨『古今和歌集』
51stEmperor"Heizei"第51代平城天皇祝皇紀2680年「日本賛歌祖国の命」令和という新しい御代替わりに制作しました。心ある方々、是非とも御覧ください↓Name:Heizei平城天皇日本根子天推国高彦天皇YamatonekoAmeoshikuniTakahikonoMikotoFather:Emperor"Kanmu"桓武天皇Mother:FujiwaranoOtomuro藤原乙牟漏Spouse:Fujiwarano