ブログ記事100件
2025年10月29日(水)の午前2時頃、CrusaderKings3の大型拡張DLC"AllUnderHeaven"がリリースされました。このDLCの目玉は、なんといっても東アジア世界の追加これまで範囲外だった中国、日本、東南アジアがプレイ可能勢力として追加されたことです。広いですうん、本当に。これまでのCK3に慣れているほど、そう感じると思います。日本方面は、北方領土も入ってます。東南アジアの東端はパプアニューギニアの西側でした。東南アジアもかな
★第八代孝元(こうげん)天皇は古代の国作りの時代の天皇です。御父は孝霊(こうれい)天皇、御母は細媛命(ほそひめのみこと)。御名は、大倭根子日子國玖琉命。(おおやまとひこくにくるのみこと)孝霊三十六年に十九歳で皇太子になり、七十六年に孝霊天皇が崩御され孝元天皇となりました。孝元四年の春には都を軽に移しています。(境原宮)孝元天皇は欠史八代(第二代から第九代までの天皇を非実在とする説)のうちの天皇として実在が疑われてきましたが、昭和四十三年発見の埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘に「意富比危
*9月14日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは応天門の変です。本日は、伴大納言絵詞のおはなし。あんみつ「先生、貞観八年(866)閏三月十日夜、応天門が炎上しました。伴大納言善男はこれを、門を造営した伴(大伴)氏への呪詛だと騒ぎ立て、政敵である左大臣・源信(まこと)に罪を着せようと企てます」ぜんざい「平安京の門を各豪族が造営献上したのは、むろん朝廷への追
*9月8日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは応天門の変です。本日は、応天門炎上のおはなし。🍚あんみつ「先生、清和天皇の貞観六年(864)正月、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に次ぐ大納言の地位に登った伴善男は、さらなる上の官職を欲します。最高権力者の藤原良房は7歳上で、清和天皇の生母の父。右大臣の藤原良相(よしみ)は良房の実弟です。善男より2歳下」ぜん
*8月30日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは応天門の変です。本日は、貞観の伴大納言のおはなし。あんみつ「先生、文徳天皇の斉衡二年(855)正月、伴善男は右大臣・藤原良房を総裁とする国史編纂係を拝命しました。六国史の4番目、《続日本後紀(しょくにほんこうき)》となるものです。見識からいって、善男が実質取り仕切ったものでしょうね。前回の五弁官疑獄事件も事細かに記
これまでの考察を振り返りますと桓武平氏の血脈封印や蝦夷の逆取り込みというテーマが実に一本の線でつながっていることがよくわかります。そこで、今回は「承和の変」の発覚から高見王の子・興我王の直叙に至るまでの時期の壮絶な暗闘の歴史を考察風にまとめてみます。なお、葛原親王の6歳下の異母弟・仲野親王の娘が高見王の妻であったとする系譜記述(『系図纂要』)も適切な箇所に織り交ぜて考察します。📜✨🗺️842年・承和の変の発端:物語の始まりは承和9年(842年)に起こった
実は、藤原氏の歴史において、天皇の外祖父が、摂関になったのは、藤原良房、藤原兼家、そして、藤原道長が、三人目である。歴代の藤原氏の摂関は、基本的に天皇の外伯父、即ち、姉妹が、天皇の母であった。無論、藤原氏を母とする、天皇は、藤原氏の外孫ではあるが、存命中に、外孫が、皇位を継承したのが、良房、兼家、道長であったのである。藤原道長は、995年(長徳元年)、30歳の年に、内覧の宣下を受け、藤原氏長者となった。藤原道長は、右大臣として、一上となったが、翌年、左大臣に昇進した。しかし
井沢元彦「逆説の日本史4/中世鳴動編」2/良房と天皇家編~平安中期の政治をめぐる血の抗争【再読】日本には「危機管理など政府のやる仕事ではない」という民族としての伝統が根強くある。では、その危機管理能力欠如という民族的伝統はいつの頃から始まったのか。それは平安時代からなのである。「平安」とは「平和」のことだ。この「平和」時代にこの伝統は始まり、藤原摂関政治がこれを完成させたのである。藤原摂関政治がどういう形で確立していったかを追っていく。この摂関政治の幕を開けた人物は藤原良房である。平
藤原良房は、その後、応天門の変によって、伴良男と同時に、弟の良相を失脚させている。太政大臣の藤原良房、右大臣の藤原良相、また、太皇太后の藤原順子が、共闘していれば、藤原氏による、皇位簒奪は、成功して、日本に「易姓革命」が起こって、「万世一系」は、断絶した可能性はある。その場合、「天皇」は、滅んでいたかもしれない。しかし、藤原良房は、清和天皇に禅譲を迫り、皇位を簒奪する気はなかったと考えている。その最大の理由は、藤原良房に息子がいなかったためである。皇位簒奪は、自身の子孫を、
橘広相は、橘氏長者で、藤原基経の養父、藤原良房と近い関係にあった。貞明親王、即ち、陽成天皇の東宮学士で、陽成天皇の即位と共に、正五位上に叙せられる。更に、同年中には、従四位下・蔵人頭と急速に昇進を果たす。しかし、橘広相は、879年(元慶三年)、蔵人頭を2年半程度で、辞任する。当時は、藤原基経と親しい関係にあった。橘広相は、884年(元慶八年)2月の光孝天皇即位後、従四位上に叙せられる。橘広相は、879年(元慶三年)以来、唯一、文章博士を務めていた、菅原道真の欠員補充の要
【Kohほぼ日刊】エナジーカウンセラーエナジーコーチKoh煌です。本日も皆様からのリクエストにお応えします。本日のエナジーチャート(気流図)は、平安時代初期の貴族、『藤原良房さん』です。https://ja.wikipedia.org/wi
藤原良房への「摂政」の詔は、左大臣の源信が、自宅で籠居して、右大臣の藤原良相が、病気で、出仕が滞り、それに次ぐ、大納言の伴善男に放火の疑いをかけられる中で、形式上、名誉職の太政大臣、藤原良房に太政官の政務を行わせようとしたと考えられる。仮に大納言の伴善男が放火の犯人の場合、善男の処分を判断できるのは上官の大臣のみとなる。しかし、応天門の放火の捜査とは、別に進行していた、大宅鷹取の父娘が、殺傷された、事件の捜査に関連して、8月29日に伴中庸が、左衛門府に拘禁され、同じく、善男の従者の生江
864年(貞観六年)冬、藤原良房は、大病を患って政務を退いいて、その間に太皇太后の藤原順子、その信任を得ている、良房の弟の右大臣・藤原良相、太皇太后宮大夫を兼ねる、大納言の伴善男の三者連合が、政権の中枢を担っていたと思われる。伴善男は、賜姓源氏の左大臣、源信とは、非常に不仲で、政情は、不安定であった。源信、その弟の中納言の源融、右兵衛督の源勤の兄弟が謀叛を謀っているとの投書があり、源信と対立していた、伴善男は、讒言していた。865年(貞観七年)秋には、藤原良房は、回復して、政務に復
承和の変により、太政官の上席は、老齢の左大臣・藤原緒嗣と大納言・橘氏公、そして、嵯峨天皇の皇子の若い、右大臣の源常のみになり、良房は、朝廷での影響力を一挙に強めた。変後、暫く、源常と良房の二人が、太政官の政務を領導していたが、843年(承和十年)、藤原緒嗣、847年(承和十四年)、橘氏公が、死去した。844年(承和十一年)、源常が、左大臣に昇り、太政官の首班となった、藤原良房が、848年(承和十五年)、右大臣に昇ると、事実上、良房の独裁体制に入った。前述の通り、源常は、嵯峨天皇の皇
藤原良房は、826年(天長三年)、淳和天皇の蔵人に補せられ、828年(天長五年)には、従五位下に叙せられた。妹の藤原順子は、皇太子の正良親王(後の仁明天皇)の妃として、道康親王(後の文徳天皇)を生んでいた。良房は、830年(天長七年)に正良親王の春宮亮に任じられていて、皇太子と非常に親しい間柄だった。また、父の藤原冬嗣に引き続いて、嵯峨上皇と皇太后の橘嘉智子に深く信任されていた。仁明天皇の治世に入ると、藤原良房は、自身の舅で、天皇の実父である、嵯峨上皇の支援を受けて、急激に昇進
しかし、実際に、皇女が、臣下に嫁ぐのは、前代未聞であり、平安時代中頃までにおいて、同様の待遇を受けた人物は、宇多天皇の皇女、源順子と結婚した、藤原忠平のみであった。嵯峨天皇は、藤原良房を気に入って、特別に勅命を下し、皇女を嫁がせたと言われる。長男の長良を差し置いて、良房が、降嫁の相手に選ばれたのは、個人の資質の差による。嵯峨天皇は、その治世において、藤原氏の一門に対する、強力な競争相手を創出している。賜姓源氏、即ち、臣籍降下した、元皇族である。臣籍降下は、皇族が、その身
同年、応天門の変が、発生し、伴善男は、流罪に処され、藤原良相及び、伴善男の太政官領導体制は、完全に崩壊した。応天門の変後、藤原良相は、失脚しなかったが、政治的影響を失っていた。867年(貞観九年)10月、藤原良相は、初めに直廬で倒れると、同月10日に死去する。享年55。遺言に従って、薄葬とし、一重の衾だけで、棺を覆わせたとされる。藤原冬嗣の六男、良門は、正六位上・大舎人に叙任するが、利基・高藤の二子を儲けた、直後に没したとされ、兄弟中、唯一、五位に昇る事がなかった。しかし、
参考文献1)黒板勝美・国史大系編修会編、『新訂増補国史大系22律』、吉川弘文館、1966年。p1412)律令研究会編、『訳註日本律令7』、東京堂出版、1987年。p362-3683)利光三津夫、『日本古代法制史』、慶応通信、1986年。p113-1194)黒田日出男、『謎解き伴大納言絵巻』、小学館、2002年。5)黒田泰三、『思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻』、小学館、2002年。6)倉西裕子、『古代史から説く伴大納言絵巻の謎』、勉誠出版、2009年。7)佐伯有清
Amazon.co.jp:応天門の変の真相~隠されていた法理と放火の真犯人~電子書籍:赤石土岐子:Kindleストア日本古代史のミステリー解明に挑戦してみようという多くの方々に是非お手に取っていただければ幸いです。(本のタイトル)応天門の変の真相~隠されていた法理と放火の真犯人~本書の価格を300円(税込)にいたしました。文書形式を縦書きに変更しました。難しい漢字には、ふりがなを付しました。文章を若干加筆・修正しました。『伴大納言絵巻』の絵姿、『宇治拾遺
ここからは自家用車で、京都郊外をまわりました。京都での大学生時代(1990年代)に数回訪れたことがある、鴨川(賀茂川)の源流域である北区雲ヶ畑(くもがはた)に、いつか時間に余裕があるときにチャンスがあったら行ってみたいと思っていましたので、賀茂川沿いに府道61号線を北上して、その念願をかなえてきました。(個人的に、三重県に転じた)2001年7月以来の訪問でした。この間、雲ヶ畑中学校が2011年3月に、雲ヶ畑小学校が2012年3月に廃校になっていました。惟喬(これたか)親王を祭神とす
今回は久しぶりに漫画のことですこないだBOOK・OFFへ行ったとき、前に少し気になった本が1冊110円で売っていたので買ってみることにしました応天の門(おうてんのもん)買ったのは110円で売っていた4巻までです😁10年ほど前に始まっているので、現在では19巻くらいまで出ているようです時は平安時代「光る君へ」より前の時代の話です主人公は最初の画像だと右手の少年若き日の菅原道真です左の人物は在原業平(ありわらのなりひら)二人が同時代の人で、仲が良かったという話は聞いたことがありま
【食育クイズ:Vol.1745】「京都府」の「石清水八幡宮」おさらいクイズ!宇佐八幡宮から八幡大神を勧請して石清水八幡宮を創建した僧侶とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)
Amazon.co.jp:応天門の変の真相~隠されていた法理と放火の真犯人~電子書籍:赤石土岐子:Kindleストア1冊300円(税込)にしました。日本史の謎解明に挑戦しようという方々におすすめします。本のタイトル応天門の変の真相~隠されていた法理と放火の真犯人~本書では、『伴大納言絵巻』の絵姿、『宇治拾遺物語』の説話、『日本三代実録』の記事などを、重ね合わせ推理していき、真相はこうではなかったかというところをまず物語風にして述べました。史実の基となる事実(真実)
「59第五十六代清和天皇」今日は、高田屋嘉兵衛みなさん、おはようございます8月14日は淡路島出身の高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられましたロシア人と堂々と交渉しゴローニンの釈放に貢献しました第五十六代清和天皇別名、水尾天皇(仙道)譲位後、滝で修行をして仙人になったためです母は、藤原良房の娘の明子九歳で即位しますこのため皇兄、惟喬(これたか)親王その母は記名虎の娘天皇になれませんでした藤原良房は太政大臣から摂政となります応天
「58第五十五代文徳天皇」今日は、徳川吉宗、八代将軍宣下みなさん、おはようございます8月13日は紀州藩主の徳川吉宗が八代将軍となりました財政改革で米の値段にまで気を使ったので米将軍と呼ばれます第五十五代文徳天皇仁明天皇の皇子そして、母は藤原冬嗣の娘の順子藤原は外戚として勢力をふるいます皇弟、のちの光孝天皇(五十八代)皇弟、人康(さねやす)親王(蝉丸)目が見えない琵琶の名手です太政大臣、藤原良房大納言、伴善男866年、応天門の変で伴善
足の引っ張り合い。。。陰謀、駆け引き、策略、暗躍。。。凄い時代…毎日毎日、こんなのが繰り返されるって、どんだけ?なんだろうか。かなりのストレスだろうね。。。そして今回も道真の「巻き込まれて体質」は治ってなかった、笑。あの牛はどこからきた?誰のもの?そして、どこへ帰って行った?消えた?衣は誰のもの?謎解きは面白い…けれど、今回は、あの男に感動したな。。。彼の壮絶な「覚悟」に。恨み?ハッ…恨まれて結構。恨むなら恨め、首元まで這い上がってこい、欲しいなら首の一つくらいいつでも
事件(応天門の変)の真相を知るためのキーパーソンが、右大臣の藤原良相だと考えています。藤原良房の弟で才気溢れる人物とされ、良房にとって、兄弟ながら最大のライバルです。一方、その右大臣の良相が大納言の善男と通じていることを窺わせる事実があり、善男と源信はもともと不仲でした。逆に良房は、源信が善男に讒言された際、清和天皇に奏上して弁護している関係です。以上の関係を整理すると、「右大臣藤原良相・大納言伴善男」派が「太政大臣藤原良房・左大臣源信」派の追い落としを謀るため
貞観8年(866)閏3月10日、大納言の伴善男が御所の応天門へ放火、炎上させたとして逮捕されました。事件は、犯人である善男が左大臣源信(みなもとのまこと)の仕業だと清和天皇に訴え出たことにはじまります。それが讒言だとわかり、事件はいったん振り出しにもどりましたが、『三代実録』によりますと、8月になって大宅鷹取(おおやかのたかとり)という下級官人が応天門を焼いた犯人として善男らの名をあげ、事態は急展開します。ここに、大臣の座を狙う善男が源信の失脚を図り、罪をなすりつける
清和天皇は母方の祖父藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8カ月で皇太子となり、文徳天皇の崩御に伴い、9歳で即位した。幼少のため良房が外戚として政治の実権を握った。まもなく良房は摂政に任命された。第56代清和天皇は第一皇子9歳の貞明親王(第57代陽成天皇)に譲位、2年半後に出家、畿内巡幸の旅に入った。丹波水尾の地では、絶食を伴う激しい苦行を行い、水尾を隠棲の地と定めたが、まもなく病により崩御。陽成天皇は生後3カ月足らずで立太子して、9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に