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大村城(別称:玖島城)(Ⅰ)大村市玖島郷創設年代・・・・慶長三年(1598)創設者・・・・・大村喜前形態・・・・・・平山城遺構・・・・・・本丸・二の丸・石垣・土塁・水堀・空堀・土塀・御船蔵ほかポイント玖島城は大村湾に面した大村扇状地南端の突出した半島の基部に構築された平山城。三方が海に面した丘陵にあり、地続きの東側に広大な空堀を設けて防備した。最高所の本丸は総石垣で固められ、塁線は複雑な折れを多様、南に一段低く二の郭、西側に空堀を挟んで三の郭を構えた
愛媛県歴史文化博物館(その1)こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、愛媛県歴史文化博物館の常設展を見てきたので紹介します。特別展では「ヨシタケシンスケ展かもしれない」が開催されていました。先日ブログで紹介↓↓↓『日常紹介(18):ヨシタケシンスケ展』ヨシタケシンスケ展こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、愛媛県歴史文化博物館で実施されている企画展、「ヨシタケシンスケ展」に行ってきたので紹…ameblo.jp愛媛県歴史文化博物館
期間:2025/10/07〜10/15天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)藤原純友:平安海賊王覇)藤原道長:栄耀栄華の極武)足利氏姫:志操堅固の姫呪)源博雅:月奏の風雅覇)徳川家光:泰平の礎©コーエーテクモゲームス
9月2日に90歳で逝去された吉行和子さんNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」海音寺潮五郎原作藤原純友の周りで蠢く謎の老婆と思いきや若い女性の姿でも登場その変貌ぶり変装ぶりに驚かされた勿論、創作の人物だが山の民、海の民の蠢く集団の後ろ盾を得た純友像を象徴してた平将門ほど有名ではなく史料もまた少なく天正の陣での焼失も大きい大阪近くまで攻め上りあと一歩という所でまさかの将門の突然の死京都への夢は断念しその後、瀬戸内で海賊働きをして太宰府を占拠、敗走して四国へ逃れたら
孀塚・鬼塚こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、平安時代中期に貴族政治の腐敗と庶民生活への圧迫に抗して政治の改革を目指し立ち上がった時代の先駆者、藤原純友(ふじわらのすみとも)に関係する遺跡を探しに行ってきました。藤原純友について書いた過去ブログです。『探検記録(61):藤原純友の館跡』藤原純友の館跡こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、前回ブログの久枝神社でも少し説明した、藤原純友(ふじわらのすみとも)について、「藤原純…ame
承平・天慶の乱とは?――律令国家がきしむ音、そして武士の時代の産声🤔まず“なぜ起きた?”を押さえる:5つの構造要因📉律令制の弛緩と「受領政治」🏞荘園の拡大と公地の空洞化⚔️軍事制度の形骸化(戦えるのは在地武士団)🚚交通・通信の制約(関東・瀬戸内のコントロール困難)🏯摂関体制の内向き志向(中央は地方を軽視しがち)🐎平将門の乱―関東に“もう一つの朝廷”を夢見た男時期:935〜940年主体:平将門(桓武平氏)叔父との私闘から始まり、関東の国府を次々制圧。939
藤原純友の館跡こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、前回ブログの久枝神社でも少し説明した、藤原純友(ふじわらのすみとも)について、「藤原純友の館跡」を紹介していきます。前回のブログ『探検記録(60):久枝神社』久枝神社こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、平安時代に起こった『藤原純友の乱』の藤原純友(ふじわらのすみとも)に関する史跡や、万葉集の和…ameblo.jp久枝神社に、藤原純友に関する遺跡が多数ありました。愛媛県松山市
久枝神社こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、平安時代に起こった『藤原純友の乱』の藤原純友(ふじわらのすみとも)に関する史跡や、万葉集の和歌で詠まれた地名の石碑もある、久枝神社(ひさえだじんじゃ)を紹介します。久枝神社愛媛県松山市古三津町1257(伊予鉄山西駅から東へ600m、徒歩6分)趣きのある神社名が刻まれた石碑久枝神社の由緒〔由緒〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~建武年間(1334~1336年)、河野通盛が高
「3歴代ノ天皇(その90)」今日は、藤原純友みなさん、おはようございますいよいよ明日は夏至です今日は上向きのピークという感じでしょうかしっかりとエネルギーを貯めましょう冬至に祈ったことは叶っていますか見極める水無月、六月いよいよ夏至です(笑)楽しく國史を学びご家族のためご自身のためにお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!6月20日は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友が亡くなりました平将門とともに民衆が重税と労役に苦しむこと
考古館の裏山こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、前回の続きです。『探検記録(33):松山市考古館』松山市考古館こんにちは、よっこん日記のよっこんです。今回は、以前ブログで紹介した、近所にある古墳(前方後円墳)について調べるために、松山市考古館に行…ameblo.jp松山市考古館と文化財情報館を訪れた後、登山道の入口らしき場所を見つけました。愛媛県松山市南斎院町乙67-6登山道の先へ進むとこの先へ進んでみます。竹林の中を
どんなジャンルのブログが好み?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう940年の今日は藤原純友の乱が始まった日です。承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされましたが、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格は異なることが指摘されてます。なお、この反乱は藤原純友が捕まるまで約1年半続
大河ドラマ風と雲と虹と原作は海音寺潮五郎海と風と虹と平安中期の平将門と藤原純友を描く地方を顧みず藤原摂政で貴族中心東西でほぼ同時に勃発した反乱は京の貴族たちを震撼させた共謀説が囁かれる二人が密議を図ったと伝承される海音寺潮五郎の短編に反乱前夜を描いたものがある海賊退治のために東武者達が訪れその中に平将門の若かりし姿と役人の藤原純友が実直素朴な好男子将門深慮遠望天下国家を見据える純友純友が情報網を持ち将門の動きに連動したという説には説得力がある鎌倉幕府も江
藤原忠平は、924年(延長二年)、正二位に叙し、左大臣となる。927年(延長五年)に、忠平は、兄の時平の遺業を継いで、『延喜格式』を完成させた。農政等藤原忠平の政策は、兄の時平の国政改革と合わせ、「延喜の治」と呼ばれる。930年(延長八年)9月22日には、醍醐天皇は、病が篤いため、朱雀天皇に譲位した。同時に、父の藤原基経の死後、摂政関白が、置かれなかったが、朱雀天皇が、幼少のため、藤原忠平は、摂政に任じられた。9月26日、朱雀天皇が、醍醐上皇の麗景殿を訪ねた際、醍醐上皇は、
将門記◇京中の騒動(2)詔して言うには、「畏れ多くも皇位につき、幸いにも帝業の基礎を受け継いで参りました。しかしながら、将門が乱悪を力とし、国主の位を奪おうと欲していると申します。昨日、謀反の報せを聞きました。今日にも将門は京へ攻めて来ようと欲しているに違いありません。早く名神に奉幣して、この邪悪をお止めください。速やかに仏力を仰いで、この賊難をお払いください」と。そして本皇は御座をおりて両掌を額の上で合わせ、百官は精進潔斎して千度の祈りを寺院に請うた。ましてや当然のことな
期間:2024/12/27〜01/17※星5武将のみ掲載覇)黒田官兵衛:不撓の軍師覇)藤原純友:平安海賊王覇)藤原道長:栄耀栄華の極覇)龍造寺隆信:厳格の巧智覇)今川義元:東海の覇者覇)織田信秀:覇業の礎覇)源頼光:朝廷の守護者覇)朝倉宗滴:武辺捨間敷覇)伊達政宗:奥州独眼龍覇)塚原卜伝:新當流の端©コーエーテクモゲームス
※こちらの記事は、平成20年11月15日に書かれたものです。こんばんは。今回はまた教育者歴史新書なんですが、林陸朗氏著の『古代末期の反乱』について。【歴史関係の本についてのこれまでの記事】・安本美典『卑弥呼の謎』・徳川主力軍は不在だった?関ヶ原合戦の意外な真実と豊臣家の行方―笠谷和比古『関ヶ原合戦』古代とはつまり3世紀ごろ(諸説あります)から平安(へいあん)時代末頃〔院政(いんせい)時代の前頃〕までの時代(※1)を指しますが、その頃の反乱といえば、「平将門(たいらのまさかど)の乱
9月6日忌日・亡くなった日893年(寛平5年7月19日)-在原行平、歌人、公卿在原業平の兄952年(天暦2年8月15日)-朱雀天皇、第61代天皇在位中、平将門の乱、藤原純友の乱、富士山の噴火など1998年-黒澤明、映画監督フィクション2200年-宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルより地球へ帰還。
将門記◇将門の上洛(2)そうして朝廷に参上して、事の次第を詳しく奏上した。幸いなことに、天皇のご判断をいただき、検非違使庁において簡単な取り調べを受けることとなった。理路整然と話すことはまったく苦手だったにもかかわらず、神がかり的に、そのときの陳述・答弁すべてに筋道が立っていた。さらに、主上のご同情をたまわった上に、百官のご恩顧をいただき、犯した罪が軽いことに鑑みて、あまり重い罪科にはならなかった。そのため、将門の武名は畿内に広まり、その名誉は京中で高まったのであった。
「63第六十一代朱雀天皇」今日は、八・一八の変みなさん、おはようございます8月18日は八・一八の変中川宮(青蓮院宮)は皇族決起し会津、薩摩を連れて尊王攘夷派、長州藩を追放しました青蓮院の孫娘は昭和天皇の后、香淳皇后です第六十一代朱雀天皇醍醐天皇(六十代)の第十一皇子です皇太子であった実兄保明親王が急逝し8歳で即位しました摂政、藤原忠平専横を極めます承平・天慶の乱が起こりました関東で平将門の乱西海で藤原純友の乱比叡山から平安京を見て
期間:2024/08/06〜08/21※夏!満喫20XXチケット2024が必要星5武将のみ掲載覇)黒田官兵衛:不撓の軍師覇)藤原純友:平安海賊王覇)藤原道長:栄耀栄華の極覇)龍造寺隆信:厳酷の巧智覇)今川義元:東海の覇者覇)織田信秀:覇業の礎覇)源頼光:朝廷の守護者覇)朝倉宗滴:武辺捨間敷覇)伊達政宗:奥州独眼龍覇)塚原卜伝:新當流の端©コーエーテクモゲームス
「あ゛~、やっちまった」と、見出しを見た瞬間に心の中で叫びました。福生市、別人の口座差し押さえ住所など確認不足【読売新聞】福生市は18日、市税などの滞納者と誤解し、別人の預金口座を差し押さえるミスをしたと発表した。市収納課によると、6月3日、市税などを滞納したとして、市外在住の男性の預金口座を差し押さえた。11日、男性から「福生市に住んwww.yomiuri.co.jp銀行預金に限らず、自動車登録を差し押さえるときも、口座開設者や自動車所有者の住民票と滞納者の住民票をそれぞれ
英雄たちの選択「藤原純友の乱」を見ました。早く寝たいので、ざっくり感想書きます。従六位で伊予掾(いよのじょう)国司、介の下の官職だった藤原純友。時の摂政・藤原忠平の甥。父・忠平のいとこ・良範は太宰府少弐だったが早逝。後ろ盾の無い藤原純友は低い身分のまま。瀬戸内で海賊討伐に紀淑人(きのよしと)が命じられ、伊予掾・藤原純友も参加していて、2500人の海賊を投降させた。紀淑人だけが従五位から従四位に昇進。藤原純友が従五位以上になることは無かった。そこで藤原純友は同じ六位クラスの
中学校の歴史の教科書に記載されている重要人物を紹介します。第28回は「藤原純友」です。☟詳細はこちら☟-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtube.com
期間:2024/04/23〜05/09※GWチケット2024が必要星5武将のみ掲載覇)黒田官兵衛:不撓の軍師覇)藤原純友:平安海賊王覇)藤原道長:栄耀栄華の極覇)龍造寺隆信:厳酷の巧智覇)今川義元:東海の覇者覇)織田信秀:覇業の礎覇)源頼光:朝廷の守護者覇)朝倉宗滴:武辺捨間敷覇)伊達政宗:奥州独眼龍覇)塚原卜伝:新當流の端©コーエーテクモゲームス
今日気になったのは「平将門」です。有名な方なのでご存じの人も多いと思いますが、関東で当時の天皇(あえて天皇と言います)に対して「新皇」と称し反乱を起こした人物です。なお、同時期伊予で反乱を起こした「藤原純友」の乱と共に合わせて、「承平天慶の乱」と呼ばれています。1.平将門の乱では、平将門は何のための反乱であったのか?ですが、平家一族の私闘と伝えられますが、私は違うと思います。平将門が「新皇」と自称したと伝わることから考えると、平将門は当時京都にいた天皇は「正統ではない間違っ
大河ドラマのオープニングで現在放送中の「光る君へ」、昨年の「どうする家康」、さらに一昨年の「鎌倉殿の13人」…全く覚えていません。えっ!毎週見て感想まで書いてるのに、オープニング覚えてないって変じゃね?録画したものを見るので、飛ばしてしまうんですね。過去の大河ドラマで今も「いいなぁ」と心に響いているのが…おっ、なんだ?「風と雲と虹と」えいたろうが1番最初に見た大河ドラマだねオープニングで笛や三味線、鼓の音がマッチして平将門を表している感じがとてもいいなぁと思います。こちらが実際の
おはようございます。今日は昨日の記事でのラストの衝撃的シーンを動画で🤭※Xよりお借りしましたいや、ビックらこいた今回、「魔界レジスタンス」のこのシーンが一番気に入った🤭しかしその後「魔界水軍」藤原純友が壮絶な最後を遂げる演者のTARUさんはプロレスラーです藤原純友の最後?だよな?⬆️純友、まだ寝とるそしてエンディング必ず歌う歌⬆️ここで純友、立つ⬆️歌わしの歌詞カード🎵そして終演次回作は未定のアナウンスが流れたおい、大丈夫か?ということで会場をあと
藤原純友について。この本から。平将門と藤原純友:天慶の乱、草創期武士の悲痛な叫び(日本史リブレット人017)Amazon(アマゾン)「藤原純友の乱」は、東国の「平将門の乱」と、同時期に起こったものですが、恐らく、「平将門」に比べて「藤原純友」についての関心は、薄いのではないでしょうかね。そのため、詳しく知っている人は、少ないということになるのかも。この「藤原純友」については、平将門についての「将門記」のような、まとまった文献が無いので、断片的な史料と、当時の状況
大河ドラマ「光る君へ」の時代は平安時代中期。この時期、武士はどこにいるのか?そもそも武士って呼ばれてたのか?この時代より前に平将門や藤原純友が乱を起こしています。平将門藤原純友の乱「光る君へ」の中で、盗賊と戦う者達がいました。それがいわゆる武士。この時代の武士には源満仲がいます。源満仲満仲は清和源氏の流れで父は承平天慶の乱で朝廷軍だった源経基。経基さんが武士の源氏の祖だなこの満仲の子が源頼信、曾孫が源義家にあたります。この後、藤原道長に仕えた4人の武士、平維衛、平致頼