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次の日…いつも通り先祖供養をしておりました…【昨日源九郎義経さんが現れた】と書きましたが…今日もまた現れました!馬にまたがり『さぁ!!!皆の者行くぞ!ついてまいれ!!』みたいなポーズをとって物凄くカッコいい!!義経さんを神々しく白い光が包んでいます✨『わぁー!!!凄い…綺麗✨』すると今度は…シーンが変わって…ん?貴族?平安時代で貴族が乗る牛車がみえましたえ?え?貴族??一瞬チラリこういう感じのお顔がみえました…貴族…だなぁ誰だろう…うーん…あ!!!藤
城峯神社の参拝記その5です。今回は参拝記というより、考察編になります。狼信仰と北辰信仰はワンセットのはず、という確証バイアスに満ちた「こじつけ論法」を駆使しますので、噴飯しながら生温かい目でご覧ください。城峯山頂より下山した私の目にとまったのは、向拝柱に刻まれた文様でした。赤丸で囲ったところです。これ。秩父の神社めぐりの最初の方で見た記憶があるな……。秩父神社の手水舎の柱と同じ模様ですね。並べてみました。同じものです。秩父神社の案内板に名前が書いてありま
城峯神社の参拝記その3です。謎のおじいさんとの邂逅により、境内探索という〝不審な行動〟の出鼻をくじかれた私は、逃げるように神社横の山道を登り始めました。別に悪さをするつもりはなかったのですけどね。「山奥の神社をひとり占め!」とはしゃいでいた胸の内を見透かされた気になり、恥ずかしくなったのでした。クマ注意。目指すは「将門の隠れ岩」。登ります。途中にあった案内板。要点を書き出してみると――。・平将門は謀反をおこし「新皇」を名乗った。・藤原秀郷は将門とのいくさに勝った。
城峯神社の参拝記その2です。境内。社殿の向かって左側に登りの道があり、「将門の隠れ岩」や「天狗岩」「中宮」へ行くことができます。その前に参拝しましょう。鳥居。石灯籠、手水舎。石段の先に社殿。石段の両脇に狛犬さん。狛犬さん(阿形)。阿形。これは狼だよねえ。吽形。金目、牙。肋骨の浮き出ている造形――三峯神社の狼さんも肋骨が浮き出ていたような気がします。狛犬造形界隈には、狼を表現する際の共通の様式みたいなものが存在するのでしょうか?石段の
平将門は多摩地方まで逃げていた平将門は一般的には天慶3年(940)に常陸の国で討伐された、と学校の教科書などで説明されているが、ところがどっこい、多摩地方(東京都)では方々に平将門伝説がある。特に日の出町(東京都)に伝わる勝峰山(かつぼやま)合戦を調べてみると、教科書では教えていないが、確かに平将門は多摩地方に逃亡していたのは間違いないと感じさせるものがある。朝廷方の将軍、藤原秀郷が平将門を追って多摩地方に進軍していたのである。平将門は常陸の国から武蔵国まで逃亡していた藤原秀郷が
「中島与五郎重次の墓」。能済寺に。(静岡県浜松市中央区(旧南区)若林町1881-1)駐車場あり。トイレ・自販機なし。中嶋氏(中島氏)は藤原秀郷流士族でありもともと尾張・三河の出で徳川家康と共に浜松に来て家康に200石を与えられていました。時に武田氏の水軍は遠州灘海上から現れる様になり1576年家康の命で様子を見に舞阪の湊から海に出ました。しかし相良の浦で武田氏の水軍に敗れ白羽の湊から鎧橋まで遺体が運ばれ能済寺に葬られました。墓地の一
今から書くのは9月21、22日に夫と群馬に旅行した記録のうち、22日の記録のはじまりです🎵せっかく赤城山の麓に宿泊したのだから、今日は赤城山の山頂の大沼のほとりにあるという赤城神社まで行ってみよう❗️とチェックアウトの時に夫と私が話していると、お若いお宿の方(おそらく館主の息子さん)が、「三夜沢の赤城神社様にはもう行かれましたか」と私達にお尋ねになったのです。「三夜沢の赤城神社…いいえ、まだ行っていません。」と私達がお答えすると、「大沼にある赤城神社
令和4年(2022年)4月1日歩いた距離約20km前回終了した「高宮町大北」信号交差点から始めます。高宮駅からここまで道を間違えて30分も掛かってしまいました。先が思いやられます。中山道高宮宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から六十四番目の宿場町になります。天保14年(1843)の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間(約800m)総戸数835軒、人口3,560人、本庄宿に次ぐ中山道第二の大きさで、本陣1、脇本陣2、旅籠数23などの施設を持つ宿場でした。ま
ちょこちょこと国内旅行をして、そのことをアップしていますが・・・あっちこっちに書き散らして、系統だった書き方をしていませんでしたので、それを旅毎に纏めたのが「公紀行」です。でも、最近旅をしてなく・・・このブログ以前に行った場所の画像がありましたので、「公紀行」過去編としてご紹介しようと思います。今回は、2012年に数度訪れた栃木県佐野市です。実際に回った順番は忘れてしまいましたので、順不同のご紹介になります。惣宗寺・・・いわゆる佐野厄除け大師です。もともとは藤
俳優の露口茂さんが亡くなられたとのこと。引退されてるという噂もあったのでどうされたかと思ってました。昭和40年生まれのおっさんとしては、何と言っても「太陽にほえろ!」の山村刑事です。ですがあえて思い出すのは、大河ドラマ「風と雲と虹と(1976年)」の藤原秀郷役。私の大好きな大河ドラマベスト3に入る名作です。主役は平将門(加藤剛さん)なのですが、露口さん演じる藤原秀郷は、関東での独立王国を築こうとする将門を追討する役。最終回では秀郷自身の弓矢で、将門を討ち取ります。あっ!当時小学生
瀬田の唐橋。京からこれやこの行くも帰るも分かれつつ知るも知らぬも逢坂の関の逢坂を越えて、西へ向かうと瀬田川。唐橋(勢多の長橋)は、勢田川を渡る唯一の橋でした。壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱等、この橋を舞台に多くの戦いが行われています。鎮座地:大津市瀬田2丁目1-9渡ってすぐ右に折れると、竜王宮秀郷社の参道です。右に手水舎。奉納年月不明の狛犬、平成期以降と思われます。ーーーーー
こんにちはココロカラダハッピーLABOまこです日光東照宮の翌日平将門さんの首塚に行かせて頂こうと思っていたのですが朝目覚めてふとお布団の中で浮かんできたことは首塚ではなく「神田明神」でした。まったく下調べもせずとりあえず行ってみることに。するとHome|江戸総鎮守神田明神神田神社(神田明神)は、東京都千代田区外神田二丁目に鎮座し、2年に一度神田祭を斎行しています。神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原
読者のみなさま、おこんばんわm(__)m本日もご訪問ありがとうございます。たった一度で一生開運神仏融合アチューメント4,000名以上の実績逢うだけで運気爆上げ代表競泳選手専任ヒーラー神仏融合師坂田暢悠(skipper)ですこれまでのラジオ放送はプロフイール欄最下部より昔の盛り上がりは今はコチラリアルタイム更新facebookお友達申請待ってまーすおばんでやんす。言ってもしゃーねーけどさー今日もあちかったね夏至&冬至の代理祈願
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さて、本堂から行きましょう。豊臣秀頼さん寄進。国宝金堂ですか。ご本尊は近江京を作ろうとされた天智天皇の御持仏ですか。これはすごい。弥勒さん。建物は1599年といいますから関ヶ原の前年ですね、に完成。日本史の生き証人のような寺院ですね。いかつい石垣相変わらず。こちら側がより中心なので高く堅固ですねえ下段へ下り切った所にありました。こんなん、城ですやん。仁
(前回からの続き)磯山弁財天・涌釜神社・出流原弁天池をあとにして、一瓶塚稲荷神社へ。一瓶塚稲荷神社は、名前だけは以前から知っていたものの、正直に告白すれば、所在地すら気にかけていないありさまでした。この度、佐野市に目を向けたのは、藤原秀郷公の本拠地であるからで、神社の由緒などに目を通すだけでも将門研究に資するところがあるのでは、という目論見があったからでした。今回の神社めぐりは、門田稲荷神社へのお礼参りが主目的でしたが、足利市へ行くためには佐野市を通過します。ならば、帰路、佐野市を探索す
(前回からの続き)樺崎八幡宮をあとにし、佐野市へ向かいました。目的地は、名水百選にえらばれている出流原弁天池と、すぐそばの磯山弁財天。参拝者用の駐車場に車をとめ、まずは磯山弁財天から見学します。門前。風鈴が涼やかな風情をかもしています(熱中症警戒アラート発令中)。山門。山門(別角度)。山門をくぐり見上げると、山腹に朱塗りのお堂が見えます。あそこが目的地です。大蛇が睥睨していました。左手に弁天様と風穴洞。風穴って、これかな?手をかざして
一夜明けまして今回から二日目。続・掛川市。リアルタイム旅行記。『実刻旅記・遠江国二日目』リアルタイム旅行記二日目本日も静岡県。十九首塚掛川古城掛川城小山城諏訪原城三方原古戦場浜松城ameblo.jp掛川城へ行く前に…前回から気になってた十九首塚へ。この二股に分かれる川の右が掛川城から続く逆川、左が小川(後述)十九首塚こちらは日本全国に伝わる平将門首塚伝説の一つで、将門と家臣十八名の首級がこの地に葬られたというもの。これ、前にも書いたと思いますが
20日の秩父観音霊場巡礼から21日は修験道基礎講座今年度は男性の受講希望が増えました。昨年までは圧倒的に女性でしたが…22日は先に修験基礎講座を受講された方のフォローアップで対応させて戴きました。午後の時間はフィールドワークの一環で祝詞や読経選択を如何に実践するか。そんなテーマで秩父曼荼羅小屋から程近い城峯山山頂近くの城峯神社へ。城峯神社は古の時代、平将門軍と藤原秀郷軍が戦をし、秀郷が将門の霊を鎮めるために建立した神社と伝わります。ご祭神は春日の神々となります。山の
最近、はまって観ているこちらのシリーズ。前の加来耕三先生のシリーズの方が楽しかったし、「敗北」というタイトルに無理矢理合わせていて違和感を感じる回もありますが、前シリーズで扱わなった歴史上の人物もあり、楽しいです。今回は、承平天慶の乱の一方の主人公、平将門(もう一人は藤原純友)です。平将門、平忠常、平清盛で知られる桓武平氏。※小学舘漫画日本の歴史より桓武平氏は、その名の通り、桓武天皇の血を引く家系で、平氏には他に仁明天皇系の仁明平氏、文徳天皇系の
7月11日(金)バームクーヘンTシャツを着てここはまだ琵琶湖琵琶湖と瀬田川の境瀬田の唐橋龍王宮秀郷百足退治伝説の藤原秀郷三上山をグルグル八巻き半するほどの大百足をビワイチモニュメント飛び出しポーズ14:00前にS&Tさんに戻って
🗺ご先祖ツアー1日目:大阪で中臣鎌足ゆかりの地へ午前:大阪空港または新大阪着→高槻市へ移動午後:“阿武山古墳”(大阪府高槻市/茨木市)を訪問大化の改新のキーマンである中臣鎌足の墓とされる古墳X線写真などによりミイラの存在も裏付けられ、中臣鎌足本人の可能性が高いです。現地では古墳の構造や石棺のレプリカなども見学可能夕方:大阪市内へ移動し、地元グルメを満喫2日目:佐野へ移動、藤原秀郷公に感謝朝:新幹線で東京経由→栃木県・佐野市へ(飛行機+レンタカーも可)昼〜午後:“
【歴史と信仰】藤原秀郷の子孫は神田明神に行かない方がいいという話前回藤原氏の子孫で綴った、◯藤さんの殆どの方はご先祖が藤原秀郷公です。そして平安時代の武士・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、関東の英雄として知られています。一方でそのご子孫は、「神田明神には行かない方がよい」とも言われる、少し不思議な言い伝えがあるのをご存じでしょうか?■藤原秀郷と平将門の因縁940年、関東で「天慶の乱(てんぎょうのらん)」が勃発しました。武士・平将門(たいらのまさかど)が朝廷に反旗を翻し、新皇を名
藤原氏屈指のモテ男藤原秀郷公アンサイクロペディア流に言えば、「平安時代トップクラスのイケメン武将」クールな京言葉と親しみやすい方言を使い分けるギャップで、紫式部やAKB48メンバーまで“虜にした”という伝説が語られていますいとをかしですね藤原秀郷生没年:生年不詳〜天慶9年(946年)ごろ没とされる出身:下野国(現在の栃木県)の豪族氏族:藤原北家(藤原鎌足の子孫)別名:俵藤太(たわらのとうた)家系:のちの「秀郷流藤原氏」の祖主な子孫:藤原千方、長野氏、結城氏、伊達氏、宇都宮氏、
読者のみなさま、おこんばんわm(__)m本日もご訪問ありがとうございます。たった一度で一生開運神仏融合アチューメント3,900名以上の実績逢うだけで運気爆上げ代表競泳選手専任ヒーラー神仏融合師坂田暢悠(skipper)ですこれまでのラジオ放送はプロフイール欄最下部より昔の盛り上がりは今はコチラリアルタイム更新facebookお友達申請待ってまーすおばんでやんす。毎日、あぢーやねぇー今日は六月の晦日。上半期も今日で終わりです。
栃木県佐野市富士町に鎮座する唐沢山神社に参拝しる。こちらの神社の由緒は以下通りです(大修館書店刊『日本の神仏の辞典』による)。「【唐澤山神社】栃木県佐野市富士町の旧別格官幣社。神社本庁別表神社。祭神は藤原秀郷。例祭は10月25日。近江の三上山のムカデ退治で知られる藤原秀郷は、平将門の乱を平定した。維新後にその裔である佐野家が旧臣とともに秀郷が築城した唐沢山山頂に奉祀した。明治四十一年(1908)に本殿が完成した。」また、東京堂出版刊「神社辞典」によると次の通りです。
ハイ、今回から本庄に入ります。■若雷(わからい)神社・・・埼玉県本庄市東五十子(いかつこ)10小山川と女堀川の合流点の傍に若雷神社はあります。右上に見えている大河は利根川で東(右)へ流れています。川の合流点は本来氾濫原です。そのかつての氾濫原と思われるエリアを半透明青で塗りつぶしてみました。若雷神社は川の合流点の岬のような小高い土地にあります。ある種の灯台、天神川・女堀川の水上交通を制約する位置にあったと思います。「電」を「いかづち」と読ませてます
栃木県佐野市出流原町の磯山辯財天の続きです8時半過ぎに着いたので、まだ世話係の人と数人の参詣の人しかいなくて動きやすいです銭洗してから辯天堂に向かいます辯天堂天暦2年(948年)唐沢山城主である藤原秀郷の創建と伝わります藤原秀郷の勧進により、弘法大師が江ノ島辯天にて護摩修行の時の護摩の灰で造られたものと伝わります当時は一帯に七宝伽藍が林立して隆盛を極めていたそうですが、その後に幾度かの火災🔥で寺宝は焼失🔥現在の本堂は、鎌倉時代に再建された懸造です入口にも蛇本堂では開帳法要が始
5月10日御園座で舞台「IMPACT」観劇してきました。あまり大きな声じゃ言えませんが、まんま「滝沢歌舞伎」でしたオープニングで「春の踊りはよーいさぁ♪」と聞こえてきそうだったよ。この際だからさ逆に言って欲しかった(笑)IMP.のメンバーは当たり前かもしれないけどやっぱり成長しましたね。平将門をまさか新がやると思わんかったし藤原秀郷を奏が演じるとも思ってなくてすごく新鮮でした。奏は映画できれる演技を披露して一皮むけたかな。将門を討伐するまでの苦悩も討伐してからの
江東区亀戸にある香取神社の「勝矢祭」を見学に行きました香取神社は天智天皇4年(665)に藤原鎌足が千葉県の香取神宮の分霊を勧請して創建と伝えられていますご祭神は武功の神さまの経津主神です天慶年間(938~947)に藤原秀郷が平将門討伐の祈願をして戦に勝利し「勝矢」を奉納しています例年5月5日の「こどもの日」に武者行列が行われ武者行列が香取神社に宮入をします近年はスポーツ振興の神様として人気です鯉のぼりがでています大鳥居勝守ご利益スポーツで勝つ・病気に勝つ・自分に勝つ