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以下、景戒『日本霊異記』(『新編日本古典文学全集10』、中田祝夫:校注、小学館、1995年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー塔の階[こし]を減じ、寺の幢[はたほこ]を仆[たふ]して、悪報を得し縁第三十六正一位藤原朝臣永手[ながて]は、諾楽[なら]の宮に宇御[あめのしたをさ]めたまひし白壁[しらかべ]の天皇の御時の太政大臣なりき。延暦の元年の頃に、大臣の子従四位上家依[いへより]、父の為に悪しき夢を見て、父に白[まう]して言ひしく、「知らぬ兵士三十余
筆者は、藤原氏が、「皇位簒奪」を行って、「万世一系」の天皇を滅ぼす、最大の機会は、藤原仲麻呂の乱であったと考えている。藤原仲麻呂は、淳仁天皇を擁立した、張本人であり、その権力の絶頂期は、同様に、「皇位簒奪」を企てた、蘇我入鹿を越えていたと思われる。藤原仲麻呂が、叛乱を成功させていれば、淳仁天皇を廃し、「皇帝」になっていたであろう。筆者の個人的見解であるが、藤原仲麻呂の乱が、失敗したのは、孝謙上皇及び、吉備真備の存在が、大きかったと考えられるが、それ以上に、「藤原一族」が、結束しなか
同年3月、前述の通り、孝謙天皇が、皇太子の道祖王を廃すると、翌月、群臣を集めて、次の皇太子について、意見させた。藤原豊成、藤原永手は、塩焼王を推挙して、文室智努と大伴古麻呂は、池田王を推挙した。仲麻呂は、「臣下のことを一番よく知るのは君主です」と述べて、孝謙天皇の意向に従いたいと述べた。孝謙天皇は、皇室の長老であった、新田部親王か、舎人親王の子の中から、選ぶのが妥当と言うことで、新田部親王の息子、道祖王が、皇太子に選ばれたが、今回、廃された。次は、舎人親王の息子から、選ぶのが適
藤原北家とは、藤原不比等の次男房前(フササキ)を祖とする家系で、その邸宅が藤原南家の祖・兄武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことに由来する。房前は四兄弟の中で最も政治的な器量が高く政権を主導したが、天然痘により他の兄弟と共に病没してしまう。房前の次男永手(ナガテ)は、長男鳥養(トリカイ)が夭折して、実質的に北家の長となる。聖武朝では天皇の寵遇を得た同母(橘三千代の娘牟漏女王)弟・真楯(マタテ)とは対照的に昇進が停滞し後塵を拝した。孝謙朝に入ると南家仲麻呂が台頭し、仲麻呂に才
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第43回白壁王孝謙、称徳天皇は、弓削道鏡を天皇にすることに失敗すると不貞腐れたように、後継者を決定することをせずに死んでしまいます。天皇家の相続は、天皇が急死しても困らないように、皇太子を立てておくものですが、孝謙、称徳天皇は皇太子も立てず、後継指名も行わないで死んでしまいます。聖武天皇には子どもが5人いました。男子の基王、安積親王は早死にして、不破内親王は藤原仲麻呂の乱に加わった塩焼王に嫁いでいたので、まずそこで相続権を失い、その後
維日谷稚宮・藤原永手公之墓等(杜本神社境内)(いびやわかみや)河内国安宿郡大阪府羽曳野市駒ヶ谷64(杜本神社境内)(P有、杜本神社境内西側)■祭神[維日谷稚宮]反正天皇・伊波別命(イワワケノミコト)・遠登売命[南木神社]橘朝臣楠正成公式内名神大社杜本神社の境内には北端に維日谷稚宮・藤原永手公之墓などがあります。【維日谷稚宮】仁徳天皇が崩御し皇位継承を巡り争乱があった時に、反正天皇が石上神宮へ向かうも道に迷う。出会った少女(遠登売命)の忠言で一夜行在し禊を行ったの
杜本神社(羽曳野市駒ヶ谷)河内国安宿郡大阪府羽曳野市駒ヶ谷64(P有、境内西側)■延喜式神名帳杜本神社二座並名神大月次新嘗の比定社■旧社格村社■祭神経津主命経津主姫命「石川」が「大和川」に合流する少し手前、東岸の丘陵「宮山」の頂付近に鎮座する社。社前を「竹ノ内街道」が走ります。◎当社は式内名神大社杜本神社の論社の一。他に国分東条町の杜本神社と、国分神社の境内社杜本神社が論社として挙げられています。国分東条町の杜本神社の方は国分神社に合祀されていたものを、昭和
ご訪問ありがとうございます。今日は称徳天皇の崩御の際とその後の永手の動向をまとめて、永手編の最終章にしたいと思います。さて、前回お話ししたように称徳天皇の病中は、吉備由利だけがお側につき、道鏡は天皇にあうことすら叶いませんでした。そして崩御の際には白壁王の立太子が遺詔として発表されるのですが鎌倉時代に書かれた「水鏡」という歴史物語が吉備真備は文屋淨三(長親王の子、78歳)、文屋大市(長親王の子、67歳)を推したといいそれに対抗して永手と式家の百川モモカワが遺詔をでっち上げ、敗れ
ご訪問ありがとうございます。今回は道鏡が天皇の位につこうとした「道鏡事件」についてです。ざっくりといきさつを話しますと「仲麻呂の乱」のあと、道鏡は急速に勢力を伸ばしていくわけですが···Wikipedia(宇佐八幡宮神託事件)を引用しますと(段落分けは水無瀬)称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪
ご訪問ありがとうございます。さていよいよ道鏡の登場です。皇位を狙ったということで、戦前では「日本三悪人」だったそうで···( ̄▽ ̄;)ぜんぜん関係ないですが、大分県の高崎山自然動物園で、メスのボスが誕生した話を取り上げていました(TBS「ひるおび」)なんでもヤケイという名の9歳のメスが、「メス頭」だった母のビケイに勝ったあげくボスザルにも戦いを挑み勝利したとか···サルの群れではメス頭に認められてボスになるという話や、メスがボスになると発情期の三角関係が問題で、そこで認められたオ
ご訪問ありがとうございます。予告どおり入門編で(^_^;)とりあえずこの時期の皇位継承がややこしいので、ざっくり整理しておきましょう。さて継体天皇が北近畿よりヤマト入りすると、大和の大王の皇女であった手白香皇女が大后になり、嫡子の欽明天皇が成長するまで、庶兄の安閑、宣化天皇が中継ぎとして即位しました。その間、大后の手白香皇女も中継ぎの傍系天皇を後見したと思われます。それが顕著になるのが、欽明天皇の嫡子(大后の子)敏達天皇の崩後に大后額田部皇女が影響力を持ち、兄の用明天皇崩後に崇峻天皇を
ご訪問ありがとうございます。ついに駅鈴、玉璽をめぐって壮絶なバトルが開始された764年9月11日、高野天皇(孝謙上皇)の勅によって仲麻呂とその家族は官位を解かれ、藤原の姓を除かれ、封戸(給与として支給される人民と土地。そこの税収が給与になる)は国家に回収されました。しかし、これは仲麻呂の乱というより孝謙上皇から仕掛けた戦闘であり、遠山美津男さんのいうように、都督の職自体が罠だったのかもしれません。孝謙上皇側の動きに過敏になった仲麻呂の焦りが強兵化に走り、ひいては反乱準備のような印象
ご訪問ありがとうございます。少し話が進みましたね。少し戻って760年の正月のこと孝謙上皇が突然、淳仁天皇臨席の場で仲麻呂を太師(太政大臣)に任じる宣命を下します。皇族以外の初の太政大臣でした。仲麻呂に断る理由はありませんから、淳仁天皇が追認するかたちで、この任官は行われますが、しかし天皇が臨席する席で、上皇からこういった重大な任官の命令が下るのは不思議なことです。しかも淳仁天皇がその場で上皇の命令を追認したことで孝謙上皇には大臣の任命権があることを公に知らしめたという結果になりまし
ご訪問ありがとうございます。今年も古代史ブログ、よろしくお願い申し上げます。さて、今までは歴史の動きをざっと見て行ったわけですが、いよいよここから永手の暗躍?が始まります❗って言っても「続日本紀」にはなにも書いてないんですよね(^_^;)そもそも「続日本紀」というのも非常に簡潔な記録しか書いていないこともあるのですが、大炊王の立太子やら奈良麻呂の変のあった757年の「天平宝字元年紀」は奈良時代最後の天皇、光仁天皇の時代の「続日本紀」の編纂の際に、紛失してしまったということでまあ、
月岡芳年「吉備大臣」ご訪問ありがとうございます。さてこれからの永手を書く上で重要な人物、今回は吉備真備キビノマキビについてお話をしておこうと思います。吉備真備はもとは下道朝臣シモツミチアソミ氏の出身で、この下道氏はもともとの吉備氏の勢力が5世紀頃に強くなり、雄略天皇の時代に反乱を繰り返したため吉備に対して大和朝廷が強硬な対策を取った結果、律令制の確立過程で、吉備の国は備前、備中、備後、美作ミマサカに分割吉備氏も上道臣、下道臣、笠臣などの氏族に分けられたと考えられます。真備もも
ご訪問ありがとうございます。ずいぶん寒くなりましたが、まだ暖かかった11月末に奈良へ行きました。久しぶりというか何年かぶりです。しかし、東大寺は大きい(〃▽〃)往時は両脇に塔も2基、講堂などもあったのでさぞや威容を誇っていたでしょう。さて、ここの建立についての役所を造東大寺司といい佐伯今毛人サエキノイマエミシという人が実質リーダーをやっていました。その下には事務官だけでなく、仏師や大工やその他工芸品を作ったり写経をするための写経生などもおり、省に匹敵する大きな組織になって
ご訪問ありがとうございます。古代史に戻って参りました(o^-^o)さて、大仏の完成が見えたため、仏教に傾倒し「沙弥勝満」として聖武天皇が出家してしまい、あわただしく譲位が行われたあと、31歳の女帝の後見役として権力の中心に座ったのは、母の光明皇太后でした。彼女は聖武天皇治世下の橘諸兄を中心とした政権からは一歩引き、南家の次男坊である仲麻呂を抜擢します。「続日本紀」の薨伝に聡敏で書物のほとんどを読破し、算術を学んでその道に精通すると記されるほどの秀才であった仲麻呂は、746年に
ご訪問ありがとうございます。永手の謎に満ちた青春時代が終わりwこれからはいよいよ政治の表舞台に登場!となるわけですが広嗣の乱に端を発した聖武天皇の「彷徨」は多大な混乱を起こしていました。そこで永手とは直接関係ないのですが(なんせホサれていたもんですから^^;)その間の動きをまとめておきます。というか、こっちの方が謎なんですがw天平12年(740)、前年より橘諸兄の別業(別荘兼経営基盤みたいなもん)のある京都府の最南部を訪れていた聖武天皇は藤原広嗣の乱の終息が見えたと同時に始まった
ご訪問ありがとうございます。今回は想像の枠での結論で、まあドラマとしては成り立つけれどもみたいな話ですが、お付き合いのほどお願い申し上げます(*__)さて、たいていの方は聞いたことのないw藤原永手の生涯にはいるわけですが実はいろいろ活躍しています。まず、藤原仲麻呂の乱というか恵美押勝のの乱を平定しました!(^-^)ノノ☆☆パチパチそれから皇位を狙う法王道鏡を追放しました(∩´∀`)∩ヤッター跡取りのない孝謙・称徳天皇の後、天智天皇系の光仁天皇を立て、仏
ご訪問ありがとうございます。コロナが流行り出したころに一度パンデミックについて書いたのですが・・・まさかこんなに続くとも思わず、今読むと深刻度が全くない!∑(OωO;)お恥ずかしい限り(´-ω-`)幸い先週までに家族のワクチン接種は終わったものの、デルタ株のまん延でまだまだ不安が続きますね。感染者の減少もあって緊急事態宣言は終わりましたが、終わったらまた増えるのでは?と心配にもなります。私はいつもゴミ出しの日に家の外の掃除をするのですが、緊急事態宣言が終わると、必ずコンビニやパン
ご訪問ありがとうございます。今回からはいよいよ奈良時代になっちゃうんですが^^;脅すわけではないですが、ドロドロ(´`:)権力闘争がすごくて、パンデミックの嵐が吹き荒れ(今か?w)登場人物が多いので、ぐちゃっとしたイメージで、10年ぐらい前まで大嫌いでした>_<それがどうしてこの時代と向き合えるようになったかというと話が変わりますが・・・10何年か前に一匹の子猫が庭に迷い込んで飼うことになって、その子猫がめっちゃめちゃ甘えん坊💕💕💕どうも生後3ヶ月になっても親離れできず、母猫が
私は誕生日が「10月22日」であることから、自身の数霊を「22」と考えています。神のお導きをいただくようになってから、聖徳太子の御薨去日の「2月22日」、また復活された徳之島のダビデ王の御子の誕生日である「7月22日」から、王の御子にあたる方の数霊が「22」との気付きを受けて、藤原の子孫たる私の数霊も「11」で導かれる「22」で正しいという思いを強く持ってきましたが、藤原嫡流の人について、「22」を考えたことがなかったため、改めて調べてみました。1.藤原嫡流における「22」に関係する人