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『政治のウラに潜む、男が詠んだ歌...①』『もう、一首の「わた」から始まる歌...①』2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔…ameblo.jp前回のブログの続きです。「前大僧正慈円」の百人一首の歌における、先生の解説を御衣黄なりにまとめてみます。気になる方は調べてくださいね。よろしければ、お付き合いくださいませ。---参照チャンネルむっちゃん百人一首篇【95番】「
『もう、一首の「わた」から始まる歌...①』2024.5.5のブログを一部訂正致しました。『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...②』『表と裏の顔を持つ...男が詠んだ歌...①』『2024…ameblo.jp前回のブログで「法性寺入道前関白太政大臣」=「藤原忠通」の歌に関して、記載しました。その続きです。---参照チャンネルむっちゃん百人一首篇【76番】「百人一首」かるた大会で勝つための本「百人一首」なんでも辞典もう一度、歌に戻りまし
今年のテーマは、藤原氏紫式部も藤原氏春日大社の摂社へ向かいます。御間型燈籠。遥拝所。振り返って。一童社(三輪神社)。若宮神社に到着。八房藤。巻きついてますねぇ。若宮神社本殿、写真禁止です。若宮紅梅。紀貫之若宮神社は1135年(長承4年)関白藤原忠通公により創建された春日大社摂社の一つです。第三神(天児屋根命)と第四神(比売神)の間にお生まれになった若宮・天押雲根命がご祭神で、五穀豊穣、健康長寿、学問芸能の神として今も多くの信仰を集めています。若宮さまを里宮(お旅所)にお迎え
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の長兄、源義朝(みなもとのよしとも)は正室、由良(ゆら)との間に男子、鬼武者(おにむしゃ)を設けました。これが後に鎌倉幕府を開く源頼朝(みなもとのよりとも)です。源頼朝鬼武者くんは義朝さんの三男で、義朝さんには既に別々の側室との間に2人も男子がいるんだよ八郎は義朝の館に通い、鬼武者を可愛がっていました。義朝「八郎、今日も鬼武者に会いに来たのか?」八郎「はい、生まれて1
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》686内大臣に侍りける時、家歌合に法性寺入道前関白太政大臣御狩(みかり)すと鳥立(とだち)の原をあさりつつ交野(かたの)の野べに今日(けふ)も暮しつ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆内大臣でありました時、家の歌合に法性寺入道前関白太政大臣み狩をするというので、鳥立の原をあさり続けて、交野の野辺で、今日も暮らした。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。八郎(はちろう)の父、源為義(みなもとのためよし)は藤原摂関家の大殿、藤原忠実(ふじわらのただざね)に懸命に仕えていました。その藤原摂関家は康治2年(1143年)関白の忠通(ただみち)に待望の男子の実子が誕生したのです。それが後の藤原基実(ふじわらのもとざね)です。藤原基実基実さんが生まれた時、忠通さんは40歳を超えていたんだよそれまで忠通は20歳以上離れた弟の頼長(よりなが)を養子に
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。「八郎(はちろう)!この戯け!!」源為義(みなもとのためよし)の居館に怒鳴り声が響きました。源為義怒鳴られた八郎は平然としていました。為義「お前!何をしたか、わかっておるのか!?」八郎「悪いことをしたものを退治しました。」八郎くんは牛車を倒したんだよね為義「馬鹿者!お前が倒した牛車に乗られていたのは関白の藤原忠通(ふじわらのただみち)様ぞ!!」八郎「誰であろうと人に泥水をかけて謝
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。「百合(ゆり)〜!」八郎(はちろう)は洛中を歩く百合とその父を見かけ、側に駆け寄りました。すると、百合は泣いていました。八郎「百合!どうしたんだ?泥だらけではないか?」父も泥だらけで額からは血が出ていました。父「採れた作物を道端で売っていたら…通りすがりの牛車がはねた泥水をかけられて…あの牛車はどこぞの貴族だろ。」八郎「牛車!?貴族!?どこの貴族か、おわかりか?」父「わからぬが…大
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》656題知らず法性寺入道前関白太政大臣さざなみや志賀(しが)の唐崎(からさき)風冴(さ)えて比良(ひら)の高嶺(たかね)に霰(あられ)降るなり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆法性寺入道前関白太政大臣志賀の唐崎は風が寒く吹いて、比良の高嶺に霰が降っているようだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。康治2年(1143年)、源為義(みなもとのためよし)と光(ひかり)の子、八郎(はちろう)は4歳になり、すくすくと…「コラーッ!八郎!また、いたずらしおって!」怒鳴る為義の声をものともせず、八郎「知らん!我は知らぬ!」為義「あっ、待て!八郎!」八郎は走り回って為義から逃げていました。すくすくと…わんぱくに育った八郎でした。この時期、為義は藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)に仕え、家政警
今熊野観音寺から、鳥居橋の下をくぐって北側へすぐに、御寺泉涌寺霊園。進みます。霊園への階段を上がります。到着。藤原三代の墓見渡しても何の説明書きも無いです💦左から、藤原長家、藤原忠通、慈円僧正の塔と伝わります。(ネットから)藤原長家(ふじわらのながいえ)1005年8月20日~1064年11月9日平安時代中期の公卿・歌人。太政大臣藤原道長の六男。御子左家の祖。『千載和歌集』の編者として知られる藤原俊成の曾祖父に当たり、自身も勅撰集に44首の作品が入首するなど、歌壇の中心的人物で
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》388法性寺入道前関白太政大臣家に、月歌あまたよみ侍りけるに太宰大弐重家月見れば思ひぞあへぬ山高みいづれの年の雪にかあるらん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆法性寺入道前関白太政大臣の家で、月の歌を数多く詠みましたときに太宰大弐重家月の光見ると、あまりにも清らかで美しくて、月の光とは思えない。山が高いので残っている、いつの年の雪であ
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》386題知らず法性寺入道前関白太政大臣風吹けば玉散る萩(はぎ)の下露(したつゆ)にはかなく宿る野べの月かな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず法性寺入道前関白太政大臣風が吹くと玉がこぼれるように散る萩の下葉の露に、はかなく宿る野辺の月の光であるよ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》373法性寺入道前関白太政大臣家歌合に、野風藤原基俊高円(たかまど)の野路(のぢ)の篠原(しのはら)末(すゑ)さわぎそそや木枯(こがら)し今日(けふ)吹きぬなり☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆法性寺入道前関白太政大臣の家の歌合に、「野の風」藤原基俊高円の野道の篠原では篠の先がざわめいているが、さては、木枯らしが今日吹き始めているらしい。
名古屋のシンゾウです結婚してから44年も過ぎると、お互いに相棒的な存在になります。月誕生日(月命日ではありません?)を設けました。それぞれの誕生日の月・日を月誕生日としました。月に2日、年24回、お互いの好きな物を食べます。チョット値が張るもの、女房は1日でケーキ(ショート、ロール)、私は14日で高級和牛肉に決めました。月に2回、美味しいものを食べられる、単にそれだけで、他に狙いはありません。愛情を深めるとか....そんな大それたことは微塵も考えていません。一病息災の日々が長く続きますよ
《新古今和歌集・巻第四・秋歌上》302中納言、中将に侍りける時、家に、山家早秋(さんかのさうしう)といへる心をよませ侍りけるに法性寺入道前関白太政大臣朝霧(あさぎり)や立田(たつた)の山の里ならで秋来(き)にけりとたれか知らまし☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆中納言で近衛中将を兼ねておりました時、家で、「山家の早秋」といった趣を詠ませました折に法性寺入道前関白太政大臣
朝霧や立田の山のさとならで秋来にけりとたれか知らまし中納言中将に侍りける時家に山家早秋といへる心をよませ侍りけるに法性寺入道前関白太政大臣新古今和歌集巻第四秋歌上(302)朝霧が出ている。──風の神が人の世界に、謎をかけているのだ。朝霧は神々の山を隠し、季節の女神の姿を隠し、──隠されているものを、誰が知ることができるだろう。だが、風の神をまつる山の里だけは知っている。秋が訪れたことを、──たとえ朝霧で隠
前回からの続きです(令和元年9月28日のことです)東洞院通りを下って行きますそのまま四条通りも越して、前にその辺りの散策したときに行き逃していた場所へ向かいました神明神社住所・下京区綾小路通高倉西入ル神明町祭神天照大神駐車場なし駒札当地は平安時代末期、近衛天皇(在位1141~1155)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(ただみち・近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸宅にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神を祭神とし、創建年代
お散歩道に秋の七草の一つ萩の花が咲いていました風吹けば玉散る萩の下露にはかなく宿る野辺の月かな藤原忠通1092-1164現代語訳風が吹くと玉のように散る萩の下葉の露その露に映る野辺の月も儚く砕け散っていく儚く消える露に一瞬の間月の光が映るのを見る感性は日本人ならではのこと好きな和歌の一つです:::Todayismyspecialday.Happybirthdayonthenewwrinkl
七十九法性寺入道前関白太政大臣わたの原こぎいでてみれば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波作者は藤原忠通(ふじわらのただみち)、平安後期の公卿。摂政・関白・太政大臣・藤原忠実の長男である。最終官位は従一位・摂政・関白・太政大臣で、異母弟に藤原頼長がいる。父・忠実が白河院の勅勘に触れ、関白を辞任した後、若干二十五歳にして、藤原氏長者となり、鳥羽朝の関白となる。その後、崇徳・近衛・後白河の三代に渡って摂政・関白を務めた実力者だ。娘の聖子を崇徳天皇の中宮に冊立するなど、王家との関係をも築いた。
1156年に保元の乱は勃発します。意外かもしれませんが、戦闘は3日ほどで終わっています。主に権力争いが武力闘争になったことで、この乱以降は武力で物事を決めるといった、武家社会になってきます。権力闘争が血なまぐさい闘争に発展していくという感じでしょうか。保元の乱の主人公であり勝者は後白河天皇です。後白河天皇はこの時代にちょくちょく登場する、重要なファクターです。この人、29歳まで遊び呆けています。鳥羽上皇からも見捨てられており、皇位継承は無縁のことから、田楽や猿楽、特にはまっていたのが、今様とい
この地にあった藤原忠通邸は近衛天皇が皇居としたことから四条内裏と呼ばれていました。天照大神をお祀りする神明神社は、その鎮守社でした。戦後には、菅原道真を祭神とする文子天満宮も合祀されました。※文子天満宮は道真の乳母多治比文子による天神信仰発祥の神社社伝によると、近衛天皇の時代、京の夜空に鵺が現れヒョーヒョーという気味の悪い声で鳴き、人々に恐れられていました。頭は猿、尾は蛇、手足は虎、胴は狸という物の怪で弓の名手であった源頼政によって退治されました。その時に使用した2本の鏃(
さて、保元の乱の敵味方並びです。ホント、弱りましたよ、ええ。No.76わたの原漕ぎ出でて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白波法性寺入道前関白太政大臣雄大で広々のびのびとした歌ですわ。海原に漕ぎ出して遠くをみれば、雲のように沖の方に白波が立っているよ。という歌なんですけどね。わたの原というと、小野篁先生の【聞かれたら、篁はわたの原に漕ぎ出して行ったって言うといてくれ】っていう捨て台詞和歌がありましたが、こっちは気持ちが余裕のヨになってます。それで。法性
藤原忠通は、父忠実が娘勲子(後に泰子)の鳥羽天皇への入内問題を巡って白河院の勅勘を蒙って関白を退いた後、大叔父(忠実の叔父)家忠にその座を奪われそうになったものの、「夜の関白」藤原顕隆の奔走(?)により、辛くも関白の地位を父から引き継ぐことができました(こちらを参照)。忠通は、正室藤原宗子との間に儲けた男子が早逝して後継者が不在となるおそれがあった(宗子と結婚する前に非嫡出の男子2名を儲けたが、正室の子でないため仏門に入れていた)ことから、天治2年(1125年)に異母弟の頼長を養子とします
<第76代近衛天皇>短命の天皇。(関白)藤原忠通。(左大臣)藤原頼長〔氏長者〕人事権掌握、ホモ日記。忠通(兄)VS(弟)頼長の対立がキッカケで保元の乱が始まる。
●所在地・・・京都府京都市東山区本町●山号・・・大悲山●宗派・・・浄土宗●本尊・・・千手観音菩薩●創建年・・・924年(延長2年)●開基・・・藤原忠平924年(延長4年)藤原忠平が建立した氏寺です。藤原忠平は延喜の治を行った人物で、朱雀天皇の在位中に関白となりました。藤原氏の氏寺としては興福寺(奈良)が非常に有名ですが、この法性寺は当時、現在の東福寺、泉涌寺辺りから東山の方まで、非常に大きな寺院だったようです。藤原忠通の頃には、金堂、五大堂、潅頂堂、三昧堂など100棟以上
こんにちは。今回は古代史・・・と言っても平安時代の内乱のお話です。応仁の乱、関ヶ原の戦い、戊辰戦争に続く内乱シリーズの第4弾になります。いつの間にかシリーズかしていましたが、今回お話しする内容は平安時代・・・まだまだ貴族たちが政治の実権を握っていた時代です。後、源頼朝による鎌倉幕府以降、江戸幕府の崩壊まで、その実権は武士の手に委ねられるのですが、この内乱ー保元の乱は武士政権が誕生するきっかけとなったとも言われています。保元・平治の乱合戦図屏風絵そもそも保元の乱とは、一体何が原因な
以下、『エッセイで楽しむ日本の歴史(上)』(文春文庫)より引用&作成p.516~521定家は「百人一首」に何を隠したか織田正吉『百人一首』は単なる和歌のアンソロジーではなく、用いられた語句によって全歌が縦横に連鎖するいわばクロスワードの構造を持ち、後鳥羽上皇への鎮魂の思いを隠す歌集『百人一首』には「船・船出」の歌が4首ある。そして、「袖をしぼりつつ」「袖の濡れもこそすれ」「袖だにも濡れにぞ濡れし」「わが袖は……かわく間もなし」という共通の語句をもつ歌が4首あり、この4首は、
76わたの原漕ぎいでて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白浪〔法性寺入道前関白太政大臣〕(読み-歴史的仮名遣い-)下の句(赤色)はかるたの取り札と同じわたのはらこきいててみればひさかたのくもゐにまかふおきつしらなみ(読み-現代仮名遣い-)太字部分はきまり字わたのはらこぎいでてみればひさかたのくもいにまごうおきつしらなみ【意味】海原