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《新古今和歌集・巻第十三・恋歌三》1167題知らず実方(さねかた)朝臣明(あ)けがたき二見(ふたみ)の浦(うら)に寄る波の袖のみ濡れて沖(おき)つ島人(しまびと)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず実方朝臣夜の明けがたい二見の浦に寄る波のように、長い感じの夜を、格子(こうし)の開けがたいあなたの家でこぼした涙で、袖ばかりが濡れて、起きていた、沖の島人のような私で
《新古今和歌集・巻第十三・恋歌三》1158題知らず実方(さねかた)朝臣なかなかのもの思ひ初(そ)めて寝(ね)ぬる夜(よ)ははかなき夢もえやは見えける☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず実方朝臣なまじっかの恋の物思いをしはじめて寝た夜は、ちょっとした夢も見ることができたか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
JamesSetouchi2025.2.20読書会資料『枕草子』(清少納言)令和7年4月19日(土)9時半~(予定)その1清少納言を取り巻く人びと1著者清少納言966?~1025?没後千年?平安中期の女性。本名不明。清原諾子(なぎこ)という説がある。近親者に少納言がいたはずで、それで清少納言と呼ばれたのだろうと言われている。清原氏は名門。天武天皇の皇子・舎人(とねり)親王の子孫という。曾祖父(そうそふ)は清原深養父(ふかやぶ)。父は清原元輔(もと
《新古今和歌集・巻第十一・恋歌一》1062女の、杉の実を包みておこせて侍りければ藤原実方たれぞこの三輪(みわ)の檜原(ひはら)も知らなくに心の杉のわれを尋ぬる☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆女が、杉の実を包んでよこしましたので藤原実方この杉の実を贈ってくださったあなたは、どなたなのですか。わたしは、まだ、あなたをよく知っているわけではありませんのに、素直で、変わらない
頼光橋を渡って斜め向かいにある更雀寺(きょうしゃくじ)。通称:雀寺(すずめでら)。ここに着いたのは朝8時半少し前でした。朝日が気持ち良かったです。浄土宗西山禅林寺派のお寺で793年に桓武天皇の勅願により賢憬が開創。1977年(昭和52年)に四条大宮からこの地に移転しました。平安時代中期の貴族で歌人としても有名な藤原実方(ふじわらのさねかた)とゆかりのあるお寺です。かなり女性にモテたそうで、20人以上の女性と関係があったとか。その中に清少納言もいたそうです。源氏物語の光源氏のモデル
《新古今和歌集・巻第十一・恋歌一》1061女に遣はしける藤原実方朝臣いかにせん久米路(くめぢ)の橋の中空(なかぞら)に渡しも果てぬ身とやなりなん☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆女に詠み贈った歌藤原実方朝臣どうしよう。私の身は、久米路の橋が中途までで渡し終わりもしなかったように、恋が遂げられないで、中絶してしまう身となることであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
わたしは先々週から体調崩し、約2週間ろくに仕事にも行けず。アイスショーも近づいているのでまず身体治さないとなチケットはやはり厳しく、3日間とも当たるには当たったのですが、すべてA席でした。1日だけ行ければよかったんですけど、なかなか1番行きたい12月7日が当たらず、他の日も申し込んだらこんな結果に。できればせっかく遠くまで行くので、もっと良い席でみたかったです。でも12月7日は席はどこでもその場にどうしてもいたかったので、とりあえずよかった。しかし、他の2日については正直厳しいなぁ。12月7
11月15日(金)国立能楽堂狂言『箕被』(和泉流野村万蔵家)シテ(夫)野村萬アド(妻)野村万蔵(休憩)復曲能『実方』(観世流銕仙会)シテ(藤原実方の霊)大槻文藏ワキ(西行法師)宝生欣哉アイ(所ノ者)茂山千五郎笛:竹市学小鼓:大倉源次郎大鼓:山本哲也太鼓:前川光長地頭:浅井文義面:前シテ「小尉」後シテ「皺尉」今月3回目の国立能楽堂。あと1回あるノだ。◎水面に浮かぶ老木の花、という題の付いた企画公演。能のこと。狂言『箕被』。みかずき、
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆美しくみやびな日本語を使うための、雅語(歌語)シリーズ。◆あふひ【葵】万葉集の葵は、当時の蔬菜である「フユアオイ」という別種だったそうです(平安時代には、賀茂祭の蔓に用いる二葉葵)。また表記も、古くは「阿保比」なので「アホヒ」であったことがわかります(『新撰字鏡』9世紀末~10世紀初より)。「あふひ」と転訛したことから、「逢ふ日」と掛けて用いられることが多くなった、というわけ。以前、式子月次絵巻4月で見た、藤原実方が賀
藤原実方朝臣の和歌「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」作者は"光る君へ"の清少納言の恋人で、光源氏のモデルと言われる。"お慕いしているとは言いたくても言えません。貴方はご存知ないでしょう、この燃える想いを"と熱烈な恋の歌ですよね。
《新古今和歌集・巻第十・羈旅歌》916敷津(しきつ)の浦(うら)にまかりて遊びけるに、舟(ふね)に泊(とま)りてよみ侍りける実方(さねかた)朝臣舟ながら今宵(こよひ)ばかりは旅寝(たびね)せん敷津(しきつ)の波に夢は覚(さ)むとも☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆敷津の浦に下って遊びました時に、舟に泊まって詠みました歌実方朝臣舟に乗ったままで、今夜だけは旅寝をしよう。敷
府中市でのお試し暮らし体験記。府中市民俗資料館(以下、資料館)にて、館長さんと様々なお話をしたのですが、個人的にとてもおもしろかったのが、私が(無知なだけかもですが)全然知らない東北の話を館長さんに教えてもらったことでした。しかも、私達が訪問する前まで話していた人は岩手に旅行に行ってきたという話をしに来ていたということで、、なんともすごいタイミングでいろいろな話を聞かせてもらえたものだなと思うなどしていました。館長さんに教えていただいた話は「東北陸奥の国府は多賀城」という話で、そこに藤
《新古今和歌集・巻第九・離別歌》875返し藤原実方朝臣とどまらんことは心にかなへどもいかにかせまし秋の誘(さそ)ふを☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し藤原実方朝臣これからも、できることなら都にとどまるということは望みにかなうことですが、どうしましょう、どうしようもないことです。秋が誘って、行かせることを。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第九・離別歌》874実方(さねかた)朝臣の陸奥国(みちのくに)へ下り侍りけるに、餞(はなむけ)すとてよみ侍りける中納言隆家別路(わかれぢ)はいつも嘆きの絶えせぬにいとど悲しき秋の夕暮(ゆふぐれ)☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆実方朝臣が陸奥国へ下りました時に、餞別をするというので、詠みました歌中納言隆家別れ道はいつも嘆きが絶えないものですのに、いよいよ
上賀茂神社の橋本神社は、和歌・芸能の守護神・衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀る社。そこに合祀されているといわれるのが、歌人として知られ清少納言と交際していたともいう藤原実方。実方は、藤原行成に対して起こした不祥事により陸奥守に左遷され、都へ帰ることなく任国で没しますが・・・『徒然草』によると、死後、その霊が御手洗川に映ったのだとか。☆☆☆☆☆
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》761返し道信朝臣あかざりし花をや春も恋ひつらんありし昔を思ひ出(い)でつつ☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆返し道信朝臣見飽きのしないうちに散ってしまった桜の花を、春も恋い慕っているのでしょうか。過ぎ去った、円融院様ご在世時の、めでたかった昔を思い出し続けて。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎
《新古今和歌集・巻第八・哀傷歌》760正暦(しやうりやく)二年、諒闇(りやうあん)の春、桜の枝に付けて、道信朝臣に遣はしける実方(さねかた)朝臣墨染(すみぞめ)のころも浮世(うきよ)の花盛(はなざか)りをり忘れても折りてけるかな☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆正暦二年、諒闇の春、桜の枝に付けて、道信朝臣に詠み贈った歌実方朝臣墨染の衣を着て過ごすつらいころでも、この世の
雀宮地区市民センターJR雀宮駅下車。宿場印購入の為、雀宮地区市民センターへ行くとロビーに展示品が・・📷雀宮の宿場印を購入。仮本陣芹谷家の宝芹谷家仮本陣上段の間の写真日光街道を雀宮神社へ向かって進む。雀宮宿仮本陣・高麗門仮本陣芹谷家石碑雀宮神社源義家創建の神社が日本書紀に記載されているという事はないだろうから主祭神に関わる記述なのだろう・・確認しなければ。此処には藤原実方にまつわる伝説がある。奥州街道
『書道技法講座17高野切第一種』(伝・紀貫之西谷卯木編/二玄社)より選句、習字みちのくはいづこはあれどし保可まのうらこ久ふねの徒奈で可なし旡陸奥(みちのく)はいづくはあれど塩竈(しおがま)の浦漕ぐ舟の綱手かなしも陸奥(みちのく)は、どこにでも良い場所がありますが、特に、塩竈(しおがま)の浦を漕ぐ舟に綱をかけて引く光景は心に沁み入ります。TherearebeautifulplacesalloverMichinokuRegion,butthesightof
更雀寺は、清少納言と交際していたという藤原実方の供養塔がある寺。雀塚雀塚は、陸奥国に左遷となり、都に帰れぬまま没した藤原実方の供養塔。勧学院の観智上人の夢の中に雀が現れて、実方だと名乗り、自分の為に読経をしてほしいと頼んだのだという。翌朝、その雀が死骸が見つかり、観智上人は雀塚を建てて実方を供養したのだとか。更雀寺は勧学院を前身としています。更雀寺
清少納言と交際していたといわれる藤原実方は、995年(長徳元年)、陸奥守に左遷されます。そして、998年(長徳4年)12月13日、陸奥国の佐具叡神社の前を下馬せずに通ったため落馬して亡くなります。佐具叡神社に祀られていたのは女神。都の一条の北に鎮座する出雲路道祖神の娘。幸神社は「出雲路道祖神」とも呼ばれた社。幸神社
陸奥総社宮は、陸奥国府が置かれていた多賀城に赴任した歴代の陸奥国司が参拝した社。平安時代、陸奥・出羽の按察使として下向した源融や、陸奥守として下向した藤原実方も参拝したと思われます。鎌倉時代には、源頼朝の命により陸奥国留守職として多賀城に入った伊沢家景が社地を寄進しています。陸奥総社宮
藤原行成の冠を投げ捨てたことが原因で陸奥守に左遷されたという藤原実方は、鹽竈神社で白髪の老人と出会い、阿古耶の松の所在を知った。さっそく駆け付けようとしたが、佐具叡神社を通る際に下馬しなかったため、神罰によって落馬して亡くなったのだと伝えられている。実方は、中古三十六歌仙の一人。一条天皇から「歌枕を見て参れ」と言われていたらしい。鹽竈神社
多賀城は、蝦夷討伐のために築かれた城柵。陸奥国府や鎮守府もここに置かれていました。紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルといわれる源融や藤原実方が赴任した地です。奥州征伐を行った源頼朝も立ち寄りました。多賀城跡
藤原実方の墓藤原実方は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルといわれる者の一人。995年(長徳元年)、藤原行成の冠を投げ捨てた罰で陸奥守に左遷されたのだといいます。そして、3年後の998年(長徳4年)12月13日、陸奥国で死去。佐具叡神社を通る際に下馬しなかったため、神罰によって落馬して亡くなったのだと伝えられています。佐具叡神社は佐倍乃神社に合祀されていますが、跡地には実方の墓があります。
君待橋の碑995年(長徳元年)、宮中で藤原行成の冠を投げ捨てたことが原因で陸奥守に左遷されたという藤原実方。陸奥に向かう実方が、この橋にさしかかって里人に橋の名をたずねたところ「君待橋」と答えたので「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだのだとか。
百人一首その2と平安時代大地震#宮城県名取市愛島に#藤原実方朝臣の墓が🪦あります。#名取駅の通りも「#実方通り」と名前がつけられていて碑もあります。平安時代の出自がよい藤原実方が何故に名取?と思ったことがありますが、多賀城には平安時代では国府がありましたし、奥州には阿倍貞任や藤原経清からの藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡と続く奥州藤原がいるからと最初は思っておりました。そしてこの実方朝臣、清少納言とは双方想い人で枕草子にも少し出てくるほど。とってもイケ
もう少し喜多院の歴史を。(喜多院のサイトより参照)喜多院の山号は星野山(せいやさん)で「星」。平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所で、1296年に慈恵大師(元三大師)をお祀りしました。その元三大師の本地仏が、如意輪観音様で、天体星神たちを従える存在であると教えて頂き、驚きモモノキでございます・・・。そんで、1599年、天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎます。喜多院第27世住職。慈眼大師。会津に生まれ、比叡山
搾取子のカリンです源氏物語を読みつつの毒親育ちのツブヤキですが今回は毒親関連では全然ありません受験生の長男は今日も朝から晩まで元気に部活動でも黙っています口出し禁止お口にチャック難しいけど辛抱辛抱(3)の続きです前回ご紹介した名取市のガイドブックはダウンロードして見ることができます「冠ハタキ落とし事件」(被害者は藤原行成)などのポピュラーな伝説の他清少納言との贈答歌も載っていて楽しいです宮城県行ってみたいな藤原実方のガイドブックを作
搾取子のカリンです源氏物語を読みつつの毒親育ちのツブヤキですが今回は毒親関連では全然ありません(2)の続きです百人一首中で光源氏のモデルと目されている方々似ているポイントはどこでしょう今回は③と④の方々です①河原左大臣(源融)(822~895)②在原業平朝臣(825~880)③元良親王(890~943)④藤原実方朝臣(960頃?~998)③元良親王元良親王は臣下(基経)に辞めさせられた天皇であられる陽成院の御子です(陽成院の母は基経