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昨年そっくりな人達を紹介した。今回、遺伝で受け継がれそうな特徴を持っている(と思われる)人達を挙げる。なお私は医療関係者ではなく、ネットのみの情報を元にしている。🟠下唇の下に影上下顎前突症や前顎前突症、いわゆる“口ゴボ”に似ている。・明治維新の志士(フルベッキの写真)・これまで報道で見かけた治安関係者の一部・羽生結弦氏(スケーター)・岸信介氏・ロスチャイルド家・ニュージーランドの元首相🟠口の右側が上がり気味・池田氏(創価)・内海氏(医師)・前原氏(政治家)・
幕末・維新の大政奉還と王政復古クーデター後に生まれた明治新政府は、薩長土肥4藩による藩閥政権だった。肥前(佐賀藩)は、鳥羽伏見の戦いにも参戦せず、出遅れたが、江藤新平の尽力で何とか新政府の一員に割り込めた。松平春嶽侯に見出されその薩長土肥藩閥政権に、他藩出身で入れたのは、わずかだった。紀州藩だったが脱藩し、坂本龍馬の率いる海援隊に加わった陸奥宗光は、その「わずか」の1人だったが、他に親藩の福井、越前藩でただ1人、新政府に加えられたのが、由利公正(ゆり・きみまさ)である(写真)。
天保の大飢饉の後、幕府が改革を打ち出しましたが、諸藩でも藩政改革が、行われてました。以下、山川出版、高校日本史教科書より引用。(引用開始)諸藩ではこれまでにも財政難を打開する方策をいろいろ実施してきたが、専売制反対の百姓一揆など、領民の抵抗がしだいに強まってきた。また藩政を支配してきた門閥層への下級武士の批判が高まり、藩政は動揺していた。諸藩では有能な人材を登用し、財政の再建をはかり、国力の充実と藩権力の強化をめざした。薩
昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た?今さら聞けない「満州国の裏面史」(現代ビジネス[講談社]|最新記事)90年前の1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。これを端として関東軍は満州を占領――「満州事変」である。newspicks.com日本の総理大臣は、山口県出身者が多いのを、ご存知でしたか?安倍元首相もそうですね。安倍元首相の祖父に当たる岸信介も、山口県出身でした。岸は戦前の満州
おはようございますーAnera&Kanoaーです。9月も中旬というのになかなか涼しくなりませんね。今月23日は秋分の日、秋彼岸ももうすぐですが、以前は『暑さ寒さも彼岸まで』と言われてましたが、ここ数年この言葉が当てはまらなくなってきてる気がします。前回のブログで乗り放題キップについて書いたけれど、その後3日間毎日どこかしら出かけてました。月曜日はお盆の時出来なかったお墓参りを兼ねて仙台~石巻へ。東京駅の新幹線ホーム、はやぶさは仕事へ向かう人で満席でした。
天皇家の紋はご存じの菊の御紋で、後鳥羽上皇の時代から使われるようになりました。戦国時代から天下安寧に導いたのは江戸幕府を開府した徳川家康で、その家紋はお馴染みの葵の紋です。さて、内閣走路大臣の家紋は?そうです、桐紋です。桐紋はそもそも天皇家、公家、有力武士などが使っていた家紋でした。この前、YouTubeでこの辺りの歴史トークを見ました。そのトークでは、なぜ、明治政府は内閣総理大臣の家紋に、この桐紋を使ったのか?と言う都市伝説的な話が成されていました。簡単に言うと、明治
MN@panderbird関ヶ原後、西国に押し込められた外様「薩長土肥」が翻した反旗#SmartNewshttps://t.co/0lAT7qmgfO2022年09月11日17:54そーゆー見え方もあるか。なるほど。戦国時代のサバイバル術を260年間維持してきたってほうを顧(かえり)みるべきだったのかもね。まあ、しないだろうけどね。記事の言うように家康の深謀遠慮の伏線が明治維新の発奮の礎(いしずえ)と思うと、さぞかしの熱量と鬱憤だわね。牛耳られる側はたまんないもんな。なんか一
100名城スタンプ帳。名護屋城で久しぶりに押したら、また、押したい気持ちが沸き上がって近場のお城に行ってきました。佐賀城本丸歴史館。佐賀城本丸跡に、佐賀城本丸御殿が復元されています。鯱の門(こちらは当時のまま)をくぐって中に入ると本丸御殿の建物があります。平屋建ての建物で中は、45mの畳敷きの廊下や、320畳の大広間などが広がっています。訪れた日は、かなり暑かったのですが、中は空調も効いていて涼しい。靴を脱いで畳を歩くのでとても気持ちが良いです。平日なので、ほぼ貸
ひろめ市場でお昼を済ませた後、すぐそばにある、高知城へ。※前回のお話し『【行くぜよ土佐へ②】日本三大名所はりまや橋~ひろめ市場で高知グルメ☆オントリップJAL』さて、高知に上陸しました。※前回のお話し『秒速決戦【行くぜよ土佐へ①】お宝クーポン出現か❓✴情報戦に勝利せよ✴年度末✴交付金✴️予算消化』※最下部にクーポ…ameblo.jp実は、自分、両親ともに、高知県出身なので、100%高知人このカラダには、土佐の赤い血が流れています。すぐに、高知城に到着。
るそんべえです。2年前の9月に父が、亡くなりました。父は本当に読書が好きで、時間があれば、本を読んでいました。そんな父の遺品本の中に、こんな本を見つけました。「風雲の人小説・大隈重信青春譜」いくつかある本の中で、今年になって、この本に手を取り読んでみました。というのも、大隈重信の出身の佐賀は、父と母の生まれ故郷でもあります。そして、明治維新に活躍した藩として、”薩長土肥”と言われます。西郷隆盛、大久保重信の薩摩、木戸孝允の長州、坂本龍馬の土佐は、大河ドラマでもよく登場す
友人は以前のブログのことから話し始めました。不祥事、不正、改ざん、不正延々と続く問題にまことに怒っていたと。。言葉も、乱暴ですし、、この不正の、繰り返しで日本は、「没落が早くなる」のだと思います。半藤一利氏が亡くなりさまざまな書籍のブームは、今もなお続いていると聞きました。半藤一利氏の言葉に日露戦争の誇りだけを背負って、実際の戦闘を知らない軍人たちがでかい声を出していた満州事変のころと、今は非常によく似ています。と強く危惧していました。ノンフェクション作家の保阪正
先日、カムカムエヴリバディを見ていた時の話です。稔さんが学徒出陣で徴兵され、戦場に送られて(恐らく特攻させられたのではないかと思われ)戦死しましたが、戦後の日本の現状、特に政財界のトップが自己の利益しか眼中になく、他人を使い捨ての道具のようにしか考えないエゴイストの集団になってしまったのは、戦時中に大学で社会を担う人材として教育を受けた人々が、戦争で命を落としてしまったからだと言われています。働き盛りの成人男性が戦場に駆り出され、国内に残っているのは年寄りと女子どもばかり、という状況は、まさ
昔から、私は納得がいかなかった。すべての子どもが、大学に進学する時代。私たちは、6+3+3+4=計16年も学校教育を受けている。けれど、習ったことを見事に憶えていない。「因数分解って、なんだったっけ?」同感の方は多いと思う。私たちは、学校で勉強したことを綺麗さっぱり忘れているのだ。心あたりが、まず一つ。学校で習ったことは、大人になるとまず使わない。というより、使い物にならない。使わないから、忘れてしまうのだと思う。ではなぜ、学校教育で習ったことは、社会生活で役に立たないのだろ
大正十一年当時枢密院顧問官であった九鬼隆一が、学制頒布の頃を書いている。題目は「海外留学生の引上げ」である。これが実に面白い。最初に出てくるのは各藩が送った海外留学生のことではなく、明治になって日本にきた外国人のこと。当時、医学教育を中心としていた東校にきたドイツ人の医師について、その給料を減じたという話である。彼はその時東校の「副長心得」だった。年は22,3歳だったいう。そのくだりを以下に引用しておく(新字体に修正)。「ことにドイツの教員達の我儘は言語道断で、無断欠勤、
(つづき)●元勲・元老幕末の志士は、大勢いますが、ここでは、長州藩の吉田松陰(1830~1859年)・高杉晋作(1839~1867年)、土佐藩の坂本龍馬(1835~1867年)・中岡慎太郎(1838~1867年)や、新撰組の主要メンバー等、ほぼ幕末で死去した人物を除外し、それ以降も活躍した元勲・元老を、みていくことにします。元勲は、維新政府の樹立・安定に貢献した大功労者で、薩長土肥が大半なのは、薩長同盟(1866年)・薩土同盟(1867年)で、倒幕・開国を連携し、薩摩・
*近世の開物思想と近代の文明開化1~6~・~・~明治維新は、薩摩・長州・土佐・肥前4藩が主導した倒幕運動と、天皇中心・一君万民の新政府樹立+近代化の総称ですが、藩として武力倒幕を決断したのは、長州藩が功山寺挙兵(1864年)後、薩摩藩・土佐藩が四候会議(1867年)後、肥前藩が王政復古の大号令(1867年)後でした。倒幕を実現するためには、第1に、各藩の大名達が、藩政を執行する家老(上流藩士)より、有能な家臣(下級藩士)を、起用する基盤がなければならず、脱藩した浪人も、雄藩の下級藩
さて、現在の‘’春帆楼”です。日清講和会議が行われた頃の看板。昭和天皇も訪問されています。河豚の像ははずせない。何度か建て替えられましたが、山口県出身の全ての総理大臣の書があります。・伊藤博文初代総理大臣です。憲法制定や内閣制度創設などを行いました。明治18年に44歳(最年少)で総理大臣となったのを最初に、通算4度総理大臣に就任しました。(光市出身)・山県有朋大村益次郎亡き後、近代軍隊の基礎確立に尽力しました。総理大臣には2度就任し、日清・日露戦争を乗り切りました。
明治零年[加納則章]楽天市場1,980円やっぱり幕末は苦手です。「明治維新」を「明治零年」と捉えることには目から鱗でしたが…。派手なところではない裏側というか、物語にならない人物たちの物語というか…。ドラマチックでない史実があって成り立つものではあるけれど、そういう意味では本気の革命が成ったことのないこの国ではこういう根回し的な出来事の積み重ねが庶民の預かり知らないところで繰り返されているのだろうなと思いました。
早いもので9月っすね。「防災の日」・・・・・なにか特別なことをするわけでもなし。↑台風10号が心配だ9月最初の「ランチ」はなにを喰おっかなぁ?「冷やしたぬき」でもと思い、「梅そば」さんに行ったら定休日。しゃ~ないなぁ、「中華丼」にしよっかな。てなわけで、「広東」さんにやってきたおいら。たまには、別のものを喰おうと思ったけど・・・・・「日替わり」のイメージが浮かばず。「3密」を避けて、カウンター端っこに陣取るおいら。当初の予定だった「中華丼」以
Jリーグの再延期が決定し、寂しい毎日を過ごしている、、、ロバートですこんにちは今日は、東日本大震災から9年という事で皆さん、色んな思いを抱え過ごしていると思います。私も当時は横浜に住んでいて、初めての震度4以上の地震を体験し、地震、天災の恐ろしさ、人間の無力さを感じました。弟が東京タワーの下で帰宅難民になり、車で迎えに行った私も渋滞に巻き込まれました。夕方の5時に横浜を出て、東京タワーの下で弟を拾い、横浜に戻ったのは朝の5時。。。12時間の渋滞の旅
明治維新と言えば薩長土肥ですが、薩摩、長州、土佐程は評価されては居ません。しかし肥前佐賀藩の鍋島直政公は類い希なる経済感覚と国際感覚、そして科学技術に関しては日本最初の反射炉を作り、蒸気釜の自藩での生産最新のアームストロング砲の生産などで日本で一番進んだ藩でした。最も凄いのは当時に、香港との通信を海底ケーブルで繋いでいて、イギリス経由ではあったが世界情勢を掴んでいた点です。その大賢人である鍋島直政は、長州が大村寅次郎なる、どこの馬の骨ともわからない人間を、明治天皇となるべき睦
今日の全国紙(朝日、毎日、日経、読売)朝刊を見ています。関西在住なので大阪本社版です。昨日、15日は全国戦没者追悼式でした。今日の全国紙1面トップは揃バラけました。朝日は『黒潮大蛇行長期化』のヨコ見出しと『カツオ和歌山豊漁・気仙沼激減』(金山龍太郎)、毎日は『戦争「反省といふ字入れねば」/憲法「再軍備の点堂々と改正』のヨコ見出しとと『昭和天皇政治的「肉声」』【和田武士】、日経は中国のGPS網について(貴田和宏、橋本慎一、久能弘嗣)、読売は『不登校学校介さず調査』ほかでした。
主治医の時間。臨時で診察。施設に行って、久々にマスターのお店。女将さんから頂いたレモン、って、ホントにレモンなのか?というほどに野生的で、凄みのあるレモンさん。朝に絞り出して強力なの作るしかないな。で、臨時の診察が必要なほどに、やはりおかしかったのであるが、どうも、音楽もあるが、その場の人たちというのが大きいのではないか?というのが、主治医との診察だった。音楽については、主治医は、「それは、音楽に対する愛がなかった演奏なんだろーねー」という事で、その通りではある。ただ、周りの人については、
<第122代明治天皇2>1868年鳥羽・伏見の戦い。五箇条の御誓文。彰義隊〔上野・寛永寺壊滅〕。1869年薩長土肥・版籍奉還。東京遷都。蝦夷地〔北海道〕五稜郭での戦い〔榎本武揚、土方歳三〕。
私が福島の自衛隊に在籍していた頃は、【銃剣道】という戦技を主にやっておりました。その当時、私は『片倉』さんという上司に出会う度に「お前は必ず強くなるから、頑張れ!」と励まされました。あの頃は今みたいにインターネットが普及している時代ではありませんでしたので気づかなかったのですが、『片倉』という名前を検索すると伊達政宗公の右眼と言われた名将、片倉小十郎景綱の名前が出て参ります。私の母方の先祖は伊達政宗公の家臣だったと聞いておりますので、もしかしたら先祖や前世の繋がりによって、私
「翔んで埼玉」という映画が上映されていて、話題になっています。漫画パタリロの作者が原作者です。映画が出来るずっと前から、ださいたまという言葉があるように、さいたまというと田舎っぽいイメージはありました。しかし、私はよく考えてあることを思いつきました。それは、明治の新政府が薩長土肥の藩閥政治だったことです。そのことは今でも尾を引いています。なぜなら、安倍首相は山口県出身で、麻生財務大臣は土佐の吉田茂の孫。明治維新に徳川は薩長土肥に追われて埼玉や東京以北に追いやられたわけです。現
こんにちは今日は雨上がりからの青空の1日鹿児島はポカポカでウォーキングしたら汗かいてしまいましたさて昨年明治維新150周年大河ドラマや観光キャンペーンなどいろいろな企画で盛り上がった1年でしたが今日その観光キャンペーンプレゼントの当選品が我が家に届きました「平成薩長土肥連合2県制覇賞偉人グッズ」です(1県につき3ヶ所のスタンプを集めての応募)鹿児島は地元だからすぐ行けて佐賀の分は去年唐津、
私は【フェアプレー】を第一とするスポーツの世界にあって『サッカー』ほど《小ズルイ事》を平気で正当化するスポーツは無いと思っています。だから、私はある時からこの『サッカー』の試合を一切見なくなりました。私はこの『サッカー』の試合を見ていた時の事ですが、試合に負けた時には観戦者が様々な事を言うくせに、《小ズルイ事》をして勝った時には、そのプレーに対して誰も苦言を言わないというのが不思議でならないのです。それはまるで《小ズルイ事》が出来る選手はプロフェッショナルなのだと言わんばかりなのです。こ
諸藩とその支配層(大名や門閥家老ら)が戊辰戦争を経て、その権威を失墜させていたからこそ、新政府が廃藩置県の前段階として明治二年(1869)に行った版籍奉還の際にもたいした混乱は起きませんでした。版籍奉還というのは、諸大名から天皇へ領地(版図)と領民(戸籍)を返還させることをいいます。のちに藩閥政治と批判される薩長土肥の四藩が範を示して新政府に願い出ますと、諸藩もこれに従いました。藩政のトップである知藩事にはそのまま藩主が任じられましたが、彼らの地位は世襲されず、天皇からみた