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トップページ都道府県別索引へ薄衣城は一関の町から東に10km以上も入ったところ、川崎地区を流れる北上川左岸の段丘崖の上にある。一関から国道289号で行くと20分ぐらいかかる。平成の大合併で一関市と合併する前の川崎村中心地の近くになる。奥州藤原氏が滅んだ後に奥州惣奉行となった葛西一族の千葉胤堅が築き、豊臣秀吉の奥州仕置まで居城だったとのこと。GWも残り1日半となり朝から念願だった平泉の柳之御所を訪問、マップ上で見つけた一関城に続いて訪問した。→現在位置(Googleマップで)城
なにが?ってツッコミたくなる題名ですが。10月末に登米へ行っていた時(保呂羽城跡)※登米探訪10月26日の記事『【登米市】トヨマの土に物部のポロイワと平家葛西氏の足跡』ここ、気になっていたんですよ~。登米にある「保呂羽館」ホロハの保呂羽。この前行ってみました。宮城県にある保呂羽は、登米市のほか、南三陸(志津川)、東松島など…ameblo.jp他にも神社へお参りしてました。特に載せることもないかな~、と思っていたのですが、歴史を調べると、なかなかな神社でした。石巻~一関
仙台藩は,マタギなどの職業猟師や帰農した武士に鉄砲所持許可を与える代わりとして,その者に臨時的な軍役義務を負担させた。つまり,仙台藩から鉄砲所持許可を受けた人々は,自動的に仙台藩の非正規農兵に取り込まれることになったのである。マタギが手作りした鉄砲道具金山城伊達・相馬鉄砲館所蔵左から,切粉入れ,口薬入れ,玉入れ,玉(三匁玉),火打石入れ,火打ち金火打石切粉入れとは,鉛玉を作った際に出る鉛くずを入れる容器。戦国時代後期,宮城県北部や岩手県南部に
岩手県大船渡市から石巻市にかけての三陸沿岸と北上山地及び仙台平野北部に勢威を張った葛西氏は,その総石高は,十数万石に過ぎなかったが,財政力の豊かな戦国大名だった。当時,伊達氏と親交を結んでいた葛西氏は,天正17年(1589)の伊達氏と葦名氏が争った摺上原の戦いに,伊達氏を応援すべく鉄砲衆200を派遣したとの記録がある。親交大名への軍事支援として,これだけの鉄砲衆を送れるということは,葛西氏全体ではその倍から3倍近くの鉄砲を所有していたと考えるのが自然だ。葛西氏領内で,鉄砲を生産し
所在地〒029-0523岩手県一関市大東町摺沢但馬崎特徴陸前高田と内陸を結んだ街道に位置する山城で、奥州の名族葛西氏の配下にあった。北側に城主の供養塔がある。登城口は南西の神社で帯郭が残るが、主郭方向は深い藪だった。感想大手は供養塔のある北側だが、どこも藪に覆われて登れなかった。
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【鉤形小路】を訪れました武家屋敷通りの南側がクランク状になっていますが、これは城下町特有の鍵形の道路ですね道路脇のフェンスには【鉤形小路】の案内板が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼クランク状に構成された道路割りは、城を守る為、戦いに備え迎え撃つ防衛としての構造である。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲下の画像は武家屋敷通りの北側から鉤形小路を見た構図で、右側に道路折れ曲がっている事がお
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の【熊谷邸表門(伝・寺池城搦手門)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼熊谷家の表門は案内板によると「中世の豪族、葛西氏居館の裏門を移したもので、江戸時代初期以前のものと伝えられる。四脚門の変形か薬医門に似ており、もとは茅葺、素朴で安定した古風な門ながら堅実な建築で、昔日の威容を偲ぶことができる。」とあります。熊谷家表門は切妻、銅板葺き、三間一戸、潜戸付、外壁部は真壁造白漆喰仕上げ、案内板には四脚門の変形、又は薬医門
※2021年12月23日訪問※本丸跡を見学し、登城路を降りて、寺池城址公園を迂回して、城跡の西側にやって来ましたこちらにも【切岸】と見られる高低差を確認する事が出来ます現在通っている道路はかつての堀の跡と推測されますが、城の有る高台部分との高低差がすごいですね登米要害(寺池城)散策は、ここで終わりにし、このまま【覚乗寺高台院霊屋(登米伊達第4代・伊達宗倫霊屋)】に向かいます
※2021年12月23日訪問※登米要害(寺池城)の【本丸跡】へと向かいます二ノ丸跡に建つ登米簡易裁判所の脇に、林道のような道が続いているので、先に進んで行きます道の東側は、かなり旧な崖地になっており、城が有った当時、本丸東側から侵入するのは、かなり難しそうですね林道を進んで行くと少し開けた場所に出ました【秋葉山】と彫られた石碑が建てられており、周囲は本丸へと入口(虎口)のようにも見えるような地形が残されています【本丸跡】まで登って来ましたが、現在では畑や林になっており、恐らく私有地か
※2021年12月23日訪問※坂道を登り、登米要害(寺池城)の【二ノ丸跡】まで登って来ました二ノ丸跡には現在《登米簡易裁判所》の施設が置かれており、城跡らしさを感じる事は難しくなっていますね登米簡易裁判所の駐車場から、城跡の西側を臨むと、この場所が高台に有る事を実感出来ますこちらは、登城路から二ノ丸跡に入る箇所の【土塁】と【切岸】のようにも見えましたが、詳細は不明登米要害(寺池城)跡は、案内板などが模擬石垣の前の標柱や石碑だけなので、もう少し城跡の各所に設置されていると、お城ファンとし
※2021年12月23日訪問※かつての三ノ丸に位置する寺池城址公園から、今度は二の丸跡へと向かいます模擬石垣沿いに登る車道が整備されていますが、この道がかつての登城路なのかは不明です坂道の途中に、何やら封鎖された入口部分のような箇所が有りましたが、これはかつてこの登米要害(寺池城)跡に建てられていた《登米懐古館》という博物館への入口のようです※現在、登米懐古館は、現在武家屋敷通りに移転※旧登米懐古館入口部分には、麓から長々と続いている模擬石垣とは積み方が少し違う石垣も有りましたが、これ
※2021年12月23日訪問※三ノ丸跡の南西部分では【切岸】の遺構と思われる巨大な土手を見る事が出来ます寺池城址公園の南西部分の出入口から、公園の外に出て行くと…公園出入口の道の両側に土塁を確認する事が出来ます✨切岸沿の現在道路に場所は、かつての【水堀】の跡と推測されています◆陸奥国・登米要害(寺池城・臥牛城)登城路◆に続く
※2021年12月23日訪問※登米要害(寺池城)の三ノ丸跡は【寺池城址公園】となっています【寺池館跡】の標柱・石碑から西側に進み、二つの模擬門を越えた先には、公園の広場が広がっています公園の中を進んで行くと、広場の中心に何やら四角く区切られたスペースを発見周囲に説明版などは有りませんでしたが、こちらはかつての【井戸】の跡井戸跡の有る広場から、北側を臨むと、高台の上に《旧・登米懐古館》の建物を確認する事が出来ますねちなみに、旧・登米懐古館に至る階段は封鎖されていました公園の南西部分の
※2021年12月23日訪問※では早速【登米要害(寺池城・臥牛城)跡】へと向かいます城跡を訪れて、まず目に飛び込んで来るのがこの【寺池館跡】の標柱です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼寺池城は、寺池館別名『臥牛城』と称し葛西氏、伊達氏居住跡で本丸と二の丸と区別される。本丸は北方の一段高い処にある。当時の建物は、明治維新後とりこわされ今は、二の丸跡に登米簡易裁判所がある。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲そして、標柱の隣には【史跡寺池城址】と彫られた
※2021年12月23日訪問※宮城県登米市登米町の登米要害(寺池城・臥牛城)跡を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼築城年代は不明ですが、一説によると、奥州藤原氏討伐の際、軍功のあった葛西三郎清重が次男朝清に所領を分与し、奥州に下向した葛西氏が寺池の地に築城し居住したと言われていますその後葛西氏は清貞の代に国府・多賀城に近い石巻に移り、鎌倉幕府滅亡により関東の所領を失った葛西氏嫡流の高清に登米の所領を分与し、高清が登米に居住。南北朝の乱の際には、清貞・高清ともに南
天文10年、伊達家と隣接する田村家より使者が来た。「これより田村家は、伊達家臣と同様に伊達家より要請がありましたら必ず軍を派遣いたします。」と伊達家の傘下に入ることを誓ったのである。稙宗が目指した“伊達版”奥州探題の支配地域は、外縁部にあたる最上家、岩城家、葛西家、そして大崎家が伊達家の武力に屈する形で組み込まれた。それに対し支配地域の内側、つまり伊達領に近接する家々には、稙宗は武力を使わず、自分の娘を嫁入りさせることで伊達家一門への取り込みを図っていった。
宮城県東北部には、胆沢(いさわ)、江刺、磐井、気仙、牡鹿(おしか)、本吉(もとよし)、そして桃生(ものう)の7郡をを有する葛西家がある。尚宗が伊達家当主だった頃、葛西家の当主・尚信が亡くなった。尚信には伊達家から養子に入った宗清(むねきよ)がいたが、彼が葛西家の跡を継ぐことを快く思わない一派がいた。それが尚信の叔父である葛西政信(まさのぶ)であった。葛西家当主の座を巡り、宗清派と政信派が争った。決着はすぐにはつかず、宗清は寺池城、政信が日和山(ひよりやま)城を拠点として、
前回のブログの続きで大國魂神社。例祭日が、きょう5月5日なので、今、例大祭の「くらやみ祭」が行われています本殿の周りには、お社がたくさんありました。『水神社』御祭神は、水波能売命加茂別雷命玉依姫命加茂別建角身命境外社『滝神社』の御分霊を祀っているそうです『松尾神社』御祭神は大山咋命大山咋命は醸造の神様なので、武蔵国の醸造家の懇請により京都の松尾大社より勧請されたそうです『巽神社』御祭神は市杵嶋姫命も
2017年が始まったばかりで鬼が笑うが、来年は明治維新150周年となる。(明治維新1868年)明治に入って、長らく続いた暮らしの、様々な習慣も急激に変わっていく世の中に、当初は色々と混乱もあったようだ。暦が変わって、庶民は、「ええい、ややこしい」となったし、通貨については制度の整備が追い付かず、偽せ金も横行する始末。ちょんまげも切る切らないで大騒ぎ。そんな中、明治8年(1875年)2月13日に、国民はすべて姓を名乗ることを義務付ける、太政官布告(だじょうかんふこ
上杉禅秀[氏憲(うじのり)]を総大将とする伊達氏討伐軍は、敵の本拠地・西山城[福島県]に向け進軍中であった。そこに討伐軍先発隊である勅使河原(てしがわら)兼貞の敗報が伝わった。伊達大膳大夫(だいぜんだいぶ)政宗の策にはまったことを知った上杉禅秀は、敗残兵を収容しつつ北への進軍を続けた。その上で伊達氏を北方から牽制すべく、今だ去就が定まらない葛西氏、和賀氏に対して出兵を促したのである。奥州探題・大崎氏に対抗心を燃やす葛西氏は、その重い腰
所在地岩手県奥州市前沢区白鳥舘特徴北上川の湾曲部に張出した丘陵に築かれ、安倍氏や葛西氏の支配下にあった城とされる。遊歩道が整備され、主郭から三の郭までとその間の堀切や周囲の帯郭、櫓台に土塁などを見ることができる。感想城跡の入口まで車で行けて登山は必要ないので、手軽に中世の山城を楽しめる。欲を言えば、郭内の樹木を間引いて平面的に歩けるようにしてほしい。
所在地岩手県一関市花泉町金沢字西川特徴平安時代に奥州藤原氏の影響下にあった山城で、鎌倉時代以降は葛西氏の支配下にあった。感想主郭には神社があり周辺は公園として整備され遺構の残存度合いは低い。
宮城の県北と、岩手県南とは古くから繋がりがありました。古代から集落があったようですが、それが同じ一族だったり親しい間柄だったりして、点在する集落同士が交流していたかもしれません。江戸期には、一関や水沢で伊達家の親戚筋が城主となり、北上まで仙台領となっていたし、東の沿岸部も、宮城県北の気仙沼から、さらに北へ行った岩手県南の陸前高田、大船渡、釜石辺りまで仙台領となっていたそうです。そして、一関から気仙沼にかけて「気仙沼街道」がありますが、そこには江戸時代や、それ以前からの古城や館跡