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大河ドラマで注目の武田信玄。その武田信玄に勝ったことのある武将、村上義清。まぁ結果的には、真田幸綱に親戚を調略されて上杉氏を頼って糸魚川で亡くなるんですけどねぇ。前々から村上氏ゆかりの葛尾城はいってみたいとは思っていたのです。下調べは、中嶋豊氏著『いざ!登る信濃の山城』信濃毎日新聞社私が中嶋氏を知ったのは20年以上前のこと。長野県警山岳救助隊所属の方が、趣味で登った山の絵地図をブログに掲載していた時のこと。その絵地図は本にまとめられブログは閉鎖。その後も長野県内の里山を中心に絵地図の楽
2022.12.09上信越自動車道の五里ヶ峰トンネルで知られる五里ヶ峰へ葛尾城跡ルートでしなの鉄道坂城駅からほど近い五里ヶ峰登山口駐車場トイレは冬季閉鎖中五里ヶ峰登山口はGoogleMAPでは鏡台山との鞍部の笹平登山口を示されるので注意!笹平からは何度か登っているが葛尾城跡ルートは個人的にも初めてだ(^^)「そんなには歩きませんので安心してくださいw」登りコースタイム《2:30》8:50スタート♪千曲川対岸の大林山がよく見える👀序盤はコンクリート舗装の遊歩道鷹岩経由の遊歩
都道府県別索引へ長野県の索引この記事は、時系列で言うと『葛尾城支城岩崎城』の続きとなる。麓からのアプローチは『信州葛尾城へのアプローチ』に示した。(電子国土webに加筆)比高400メートル弱は、軽登山と思ってまっすぐ登ってくればソコソコなんだが、姫城、岩崎城と標高差のある支城を漏らさず攻略して来ると、けっこう体力を使う💦それでも何とか姫城分岐まで登り詰めると、主郭までは大人しくなった段郭の連続となり、磯辺方面への分岐まで来れば、すぐ上が主郭になる。自然地形を上手く利
都道府県別索引へ長野県の索引岩崎城は葛尾城から西に伸びる尾根上を500メートルほど降りたところに構えている城で、葛尾城の支城として北西側の守りを担っていたらしいとされる。葛尾城本体からの比高は200メートルほどと姫城よりもさらに大きく、やはり相当な急傾斜の尾根を登降することになる💦(電子国土webの地図に加筆)主郭の南側の裾から分岐して磯部方面へ降りてゆくが、これがまた…道あんのか?😨そういえば、地理院地図にも道が描かれてないワ…🥶落ち葉の積もったつづら折れの急
都道府県別索引へ長野県の索引姫城は葛尾城の南600メートルほどにある標高646メートルのピークにあって、葛尾城の支城と考えられている。葛尾城本体からの比高は160メートルほどもあり、姫城との間をつなぐ尾根は急角度で落ち込んでいるので、甲冑を着た武者が往来するのはかなり大変だったろう…(電子国土webの地図に加筆)姫城分岐からは急な下りが続くというので覚悟して突っ込んだが、現物を見て息を呑んだ🥶土の斜面の安息角に近くね?💦ま,そこまでは無いだろうけど…💦写真では傾斜は
都道府県別索引へ長野県の索引葛尾城は北信で大きな勢力を持っていた村上氏代々の居城で、戦国時代の村上義清のときに侵入してきた武田信玄の軍勢を二度撃破するも、真田幸隆の調略により寝返った一族により搦手から攻められて落城したという。城は標高805メートルの葛尾山頂を中心とした尾根上に築かれ、麓との比高は370メートルほどある。途中には岩盤が露出した急斜面などもあって、軽登山の装備はあったほうが良いだろう。また、支城である姫城や岩崎城も見て回るとなると、相当な体力も必要になる。(電子
姫城は葛尾城の支城群のひとつであり、葛尾城とは尾根続きの小ピーク上にあります。尾根続きとはいえ、その尾根はかなりな急斜面。葛尾城への道をふうふう登っている途中で姫城との分岐点がありますので、「帰りに立ち寄ればよいわな」とまずは葛尾城を目指すのが普通でしょう。で、戻ってきたところで「さてどうするか」となって、いわゆる「お城の人」ならばとりあえず姫城を目指すことになると思うのですが・・・これがめっちゃ急な下り坂で、尾根筋を直滑降するかのように急激に高度を下げていきます。そういう時、何を思うかと
葛尾城の北側山腹には駐車場があって、車である程度のところまで登れるようになってはいます。ただ先達たちの記録を見る限り、決して安全に登れる道路ではないようなので、麓の坂城神社から歩いて登ることにしました。神社の裏手に大きな駐車場もあって、こちらの方がいろいろ安心感があります。悪路や傷を気にせず走れる小さな車をお持ちの方は山腹駐車場までお越しください。もっともそんな車を駆使する猛者たちは下から登るような気がしなくもないのですが・・・(笑)。葛尾城は村上義清のお城として世に知れ渡っています。知れ渡っ
天文十七年(1548)というから、かなり昔のことである。坂城の葛尾城主村上義清は上田原で武田信玄の武将板垣信形と戦い、板垣を斬って葛尾城に引き揚げることになった。ところが葛尾城に火の手が上がっているのが見えた。誰が火を放ったのかわからない。武士たちが合戦に出ているすきの出来事で、城内はさぞや混乱しているだろうと案じるけれど、手の施しようもなく千曲川の西にとどまった。義清の夫人は葛尾城に在って上田原の戦いの状況を聞き安堵していたが、突然の城内に怪しい煙が噴き出したので仰天した
☆信濃村上氏の城下町から北国(ほっこく)街道の「天領・坂木宿」へ(坂城町のお雛様)享保雛(県内最大級、国内でも数少ない大きさ)武田氏から真田氏の支配下となった「さかき宿(坂城町)」、それ以前は、清和源氏・村上天皇の血をひく「信濃村上氏」の「城下町」で、千曲川一帯を支配し、信州守護代の居城「葛尾城」と「居館」がこ
葛尾山に登山した後、登山口から近い満泉寺に行きました。このお寺は旧村上氏の館跡だそうです。このお寺の本尊として石で作られた釈迦如来坐像があります。見た目は木彫にしか見えないという話なので実物を見るのが楽しみでした。普段は締め切られているので見ることができてラッキーです。坂城町周辺の古城配置が描かれた屏風などもありました。メインの釈迦如来坐像は、、、本当に木彫のようでした。これが石像とは思えないほど滑らかなつくりです。職人の技術が高かっ
紅葉が美しくなってきました。千曲川から見上げるように聳え立つ葛尾山(標高805m)に登ってきました。葛尾山はかつて山頂に山城がありました。それらの遺構も残っているために里山ファンのみならず山城ファンにも人気の山です。メジャーな登り口は麓の坂城神社からです。ここには参拝者とは別に登山者用の駐車場があるのでありがたいです。麓の神社からも見えますが鳶岩という岸壁が山肌にみえます。ここからは坂城の町が一望できました。けっこう高度感があります。この岩を登って
今回の長野trip飯山まで行くつもりで、珍しく資料をコピったりして準備していたのに…予定外の雪により、急遽上田~長野エリアへここも突発的に決めたコース村上義清じゃ旅が終わっての感想は…村上にやられたぁ~~~って感じこの1城目がババァの体にダメージをはい、前置きはこのくらいにしまして毎度のごとく安易な気持ちで散策start近道をGO遊びのない山道でしてねひたすら上ります休み休み歩いて飽きてきたところでやっと終わりが見えてきた見てこの眺めゴーーーール葛尾城本
本日1番で出向いたのは…村上義清居館跡この館跡跡があるのは満泉寺さん東信濃の勇将と謳われた村上義清の居館は、葛尾城の南山麓、とその周辺一帯であった。満泉寺は村上氏代々の菩提寺で、寺伝によると応和3年(963)の創建。当初は修善寺という天台宗の寺であったが、永正元年(1504)に曹洞宗に改宗、満泉寺と改めた。uの目的はbackに見えるお山武田贔屓としては、散々苦しめられた村上さんを巡るのもなんだけど…郷に入れば郷に従えとねははは天文22年(1553)、武田軍に攻められた村上義清
〇村上義清・・・奴は敵にとっては最悪の存在人間だれしも得手不得手、苦手とするものがいます。武田信玄は村上義清に2度も大敗を喫して、ついぞ戦場で勝利を手にすることはできませんでした。その相手、村上義清は城郭ウォッチャーにとっても難敵でした。まるで崖を登るような苦難を強いられた砥石城、登山道の川登を強いられた根知城、どれもこれも2度と行きたくはない城でした。しかし、まだ本番が残っていました。そう肝心の村上義清の本拠地であった葛尾城が残っていたのでした紅葉の秋、万全の状態を整えて葛尾城を目指
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©2010-2018SQUAREENIXCO.,LTD.AllRightsReserved.(戦国IXAWikiより拝借)村上義清(むらかみよしきよ)/1501年~1573年北信濃の戦国大名で、”北信の雄”の異名があるらしい。武田信虎(武田信玄の父親)や諏訪頼重らの近隣諸国の大名達は村上義清の勇猛さに恐れ、あまり手を出さなかった。武田晴信(のち、信玄)を2回ボコボコに打ち負かした話は有名である…。【生涯】1501年(1歳)信濃国の
皆様、今晩わm(__)m本日は、北信濃・最大の領主にして武田信玄を二度も破り川中島の戦いに導いた男、村上義清の居城・葛尾城のご紹介です。葛尾城・登山口の様子です。葛尾城は、長野県坂城(さかき)町にあります。こちらは本格的な登山になりますので、登山靴・トレッキングポールを装備することをお勧めします。途中に姫城跡と葛尾城に別れる道がありますが今回は葛尾城一本に絞りました。このような尾根伝いをひたすら進みます。標高800メートルでようやく葛尾城の主郭部に到着です。主郭部付近の掘切り跡
にほんブログ村天文24年7月、北陸地方の高岡城における長尾家と本願寺家の戦いは長尾家の勝利に終わった。長尾家はこの勝利により、越後に続き越中も支配する、大大名へと名乗りを上げた。天文24年8月、南部晴政は兵1600にて高水寺城へ侵攻した。対する斯波家は雫石詮貞が兵500にて出陣した。戦いに明け暮れる南部晴政だったが、諸勢力をも味方につけた南部家が圧倒的優位に戦を展開した。北陸戦線で早々に勝利した長尾家は、本願寺家から降った下間頼廉を先陣に、武田家の葛尾城に向け
氷見の古墳どんな形?市立博物館、企画展で紹介中日新聞出土品では、加納南9号墳のよろい「挂甲(けいこう)」は、小さな鉄の板と革で作られているとみられ、鉄と革の併用は全国的に珍しいという。加納南10号墳で...「黒曜石」に焦点県立歴史館で遺跡発掘展長野日報今年度のテーマ展示は「黒曜石」で、下諏訪町や箕輪町の遺跡から出土した黒曜石を見比べることができる。6月25日まで。黒曜石の展示では、地名に「星」が...1500年前の職人たちの厳しい暮らしと労働を覗くTheHan
二郭の西尾根先に向かい、石積を伴う通路と小郭が段々に連なります。福原圭一作図現地設置葛尾城跡案内図より(茶字ブログ説明用に加筆)茶字呼称は宮坂武男『信濃の山城と館2⃣』に拠る。その先、北の磯部に繋がる道が尾根上に上がるところに竪堀ソと大竪堀で土橋をつくり、関門としています。北斜面には二条の竪堀タ、チを設け警戒、進路を限定しています。二郭先(西)、石積を伴う通路が走り、右に小郭が段々に連なります。左(南)斜面には、主郭、二郭から出た道が併走します。南に一段低く併走する道
岩崎城は、葛尾城に西に降る尾根に築かれている岩崎城の北(写真左)、磯部から葛尾城搦手へ登る道があり、武田、上杉による二度の落城は、この搦手への攻め上げだったと伝わる。宮坂先生は、二度の落城の弱点を補うため、武田によって搦手筋を側面高地から補強、かつ根小屋、水の手防衛を担う葛尾城西の出城として築かれたものとしている。岩崎城へは、葛尾城主郭南下、堀コを西へ降ります。こんな斜面を急降下していきます。帰り、私にとって平成25年最強の試練でした。ところどころいちおうロープで道は示してあ
姫城は、葛尾城の南尾根先、千曲川に臨む急崖上に在り、存在そのものが堅固宮坂先生は、建武2年(1335)薩摩氏が籠城した「北条の城」がこの姫城で、村上氏が葛尾城を本拠とするに及び、葛尾城の南と根小屋を守る出城として改修したと推定している。姫城と岩崎城の間の崖上が根小屋と考えられている。天文22年(1553)、武田が義清を越後落ちに追い込んだ際の攻め口が、岩崎城写真左の沢から搦手で、義清夫人が姫城から「灯の松」にタイマツを崖を降り、「笄の渡し」で千曲川を渡河した落城伝承が頷ける。
福原圭一作図現地設置案内図に加筆(茶字)その3では主郭以南を辿ります。郭は、地形の制約があり狭く、また防御戦闘を意識した工夫は見られない。2の郭からは西尾根中段に構えられた岩崎城へ至る道がある。城域南端竪堀スの先の一郭に、南尾根を降った先端、姫城に至る道と居館(満泉寺)からの大手道が集まっている。葛尾城主郭(北東部)その2で辿ってきた、堀切で幾重にも遮断し警戒した北東搦手方面には、土塁が設けられている。北東端土塁
福原圭一作図現地設置案内図に加筆(茶字)●地点堀ウ城内側からスタートします。搦手方面、主郭から北東方向にはウを含めて6(7?)本の堀切を設け警戒している。警戒の対象は、真田か。宮坂本では、二度の落城は、この方向からとされていて、現況にも警戒の心理が顕れている。堀切ウ(城内側から)最低鞍部で、左から岩崎城北の沢からあがる道が入っている。堀切ウ左(北西)側二度の落城は、寄せ手がここを攻めあがってきたのか。越後勢に討取られた武田の守将於曽源八郎は、ここをどのような形相で睨