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322年前の12月14日が赤穂浪士の討入りの日と云われているが、元禄15年12月14日は閏年の為1年が13ヶ月だったので此れを考慮すると、元禄15年12月14日は現代暦だと1703年1月30日になると云うのが歴史家の説、つまり討ち入りは12月でなく1月なのだ。従い、今月が正に四十七士が吉良邸討ち入りした月なのだが、ご存知の通り江戸時代から赤穂義士は忠義の鑑と敬われている。処が三島由紀夫の『葉隠入門』(1967年)に拠ると赤穂浪士と同時代を生きた葉隠武士の山
三島由紀夫の衝撃の自決から今日で55年となった、彼の自刃に就いては無数の論評がある、1958年3月号の雑誌「婦人公論」に三島は『心中論』という一文を寄せている。其処には自決の一つの理由になっていると思われる箇所がある。【山中湖村にある三島由紀夫文学館】三島由紀夫は、敢えて放言として曰く『若い同士の心中はいいもので、太宰治などの中年者の心中の不潔さはない。自殺でも心中でも若いうちに限るので、それが美男美女なら一層結構なのである。同じ腹切りでも
「もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにはいくだろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである」(三島由紀夫)最近は尊厳のないムダ死にが目立ちますがでは
日本人には古来から大切にしている『恥の文化』がある、例えば武士道がそうだが恥辱感というものを価値観の中心に置いている。しかし最近は、政界、財界を始めとして、こういう日本人の心を忘れた輩が増えていると思う。15年前、大手製紙会社「大王製紙」会長だった創業家のお坊ちゃん、井川意高(60)が106億円を不正に引き出し、カジノに流用、事件発覚で井川は会長を辞任同時に同社から刑事告発を受け、特別背任罪で逮捕された事件があった。【井川意高が小泉農水相を「やっぱりコイツはアホ
『葉隠』に就いては当ブログでは過去幾度も書いている、“恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからは恋のたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本意なれ”【葉隠武士を賞賛した三島由紀夫と、佐賀藩士の山本常朝(1658-1719)】此の一文が遍く知られているが江戸時代の鍋島藩士、山本常朝の「葉隠聞書」を、三島由紀夫は26歳の時に自分の座右の書であると明言した。他に2冊ある、ラディゲの「ドルチェ伯の舞踏会」と「
1970年9月、自刃2ヶ月前三島由紀夫の「革命哲学としての陽明学」が発刊された、口述筆記による作品だ。【三島由紀夫の「知行合一」の陽明学に関する著書】文藝春秋社雑誌「諸君!」の編集者、田中健五(後に同社社長)が書いているのだが、三島が『僕は今、陽明学の事しか興味が無い、陽明学に就いてなら喋っても良いよ、但し原稿を書くのはお断りだ。忙し過ぎるのでね』と、それで同社が用意した麹町の旅館に来た三島が、『それじゃ始めますか』と云うや否や「である」調の文章体で話し始めた
今に至る迄当方は数多の三島由紀夫に就いての評論集等も読んできたが、先日偶然書店で、浜崎洋介著『三島由紀夫、なぜ死んでみせねばならなかったのか』という新刊を目にし、著者が団塊ジュニアよりも若く三島自刃の8年後に生れた世代はどんな捉え方をしているのか興味あり、早速読んでみた。【三島由紀夫の「太陽と鉄」1968年初版本、と浜崎洋介の昨年末の新刊本】その当方の読後感だが、浜崎が三島の死の理由を探るについて『太陽と鉄』に目を付けたのは、三島自身が三島の生き様を知るにはこの著作が近道
2020年刊。この芥川賞作家は、人生を真面目に生きている人にとことん寄り添う作家なんだと思う。真面目でない人への厳しい叱咤(激励ではない)の一方、真面目に生きる人への賛辞が美しい。本作は、1970(昭和45)年以降に起こった出来事をルポすることで、当時の世相を作者が読み解いている。単なる史実の記録ではなく、作者としての解釈や意見がふんだんに盛り込まれているところが読みどころとなる。登場順に列挙します。①グリコ・森永事件(1984)②銀行人質事件(1985)
今日16日は「西行忌」だ、西行は旧暦文治6年2月16日に73歳で旅立った(1118年2月16日~1190年3月30日)、平安末から鎌倉時代にかけて鳥羽院の「北面の武士」だったが、出家して西行法師となった。俗名は佐藤義清。そして「北面の武士」の採用には容姿外見も重視されており、西行は文武両道で容姿端麗だったと伝えられている。余りにも有名な西行の辞世の句とも云うべきは、『願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃』(山家集西行)現代語訳👉「願う事が出来
昨日8日、日本近代文学館での「三島由紀夫生誕100年祭」が閉幕した。この展覧会は『暴流の人三島由紀夫』で読売文学賞を受賞した井上隆史・白百合女子大教授ら有志で結成された実行委員会が主催したもので三島由紀夫を私淑する端くれとして当方も過日展覧会に行って来た。【展覧会場は日本近代文学館(目黒区駒場)】三島文学を、ミシマニア(三島愛)、ビブリオマニア(書物愛)、ヤポマニア(日本愛)の三つのキーワードから回顧した形の展覧会だ。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」で有名な、江戸時代中期に武士・藩士であった山本常朝が口述したことを田代陣基という同じく藩士がまとめた書物である「葉隠」(はがくれ)の内容を作家の三島由紀夫が解説した『葉隠入門』という本をこの前読んでみました。こちらがその「葉隠入門」三島由紀夫はこの本の中で「いつも自分の机の周辺に置きこれほど感銘を受け事あるごとに読み返した本は『葉隠』のみである」と綴っています。「葉隠」とは三島の解説によればこの本は「武士道とは死ぬことと見つけたり」の逆説、つまり生きる
三島由紀夫が26歳の時から座右の書としている「葉隠聞書」に就いては、当ブログでも様々な角度から書いているが、江戸時代後期に生きた佐賀県鍋島藩士の山本常朝(1659-1719)口述の『葉隠聞書』に就いて三島由紀夫は、「小説家の休暇」(1955)に『葉隠が私の中ではっきり固まり、以後は葉隠を生き、葉隠を実践する事に情熱を注ぎだした』と、自分が葉隠精神の実践者たらんとする事を書いている。【三島由紀夫著「葉隠入門」1967年光文社刊】そして自決3年前の昭和42年9月、『葉隠
三島由紀夫に、或る文芸評論家が一番嫌だと思っている事は何ですか、と尋ねたに対し、三島は『人間関係のネバツキです』と答えたので更に続けて屡々言及される義理と人情に就いてのお考えは、と質問した。【三島由紀夫の「葉隠入門」にも人間関係の記述が多い】三島はこう答えた、『義理はマナーであって、モラルではないと思います。私の場合で云うと、一度でも恩義を感じた人、親しくした人の悪口は、口では言っても文字にはしません。私は物書きだからね。人
三島由紀夫が自刃する3年前の1967年に出稿した“葉隠入門”に、『戦争中に読みだして以来、座右の書とした山本常朝の”葉隠”こそ私の文学の母胎である』と書いている、そして更に、『初めて”葉隠”が私の中ではっきり固まり、以後は”葉隠”を生き、”葉隠”を実践する事に情熱を注ぎだした』と葉隠精神を賞賛している。【右は1967年9月、光文社から刊行の「葉隠入門」と全集版】”葉隠”は1700年代初頭、佐賀県鍋島藩藩士、山本常朝が語るところを、若い藩士の田代陣
三島由紀夫「葉隠入門」「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」があまりにも有名で、死こそ美学という過激思想と思いきや、加えて三島由紀夫が取り上げるとさもあらんと思いきや、そうじゃなかったということでした。死ぬ気でやればなんでもできるということでしょうか。死こそ恐れなければ、他に恐れるものがあるはずもない。。。それよりも以外だったのは葉隠では恋愛論も述べているということ。恋の至極は忍恋と見立て候。逢ひてからの恋はたけが低し、一生忍んで思ひ死する事こそ恋の本位なれ葉隠入門(新潮文庫)A
文武両道の硬派文士のイメージの強い三島由紀夫は、実際に葉隠武士や大塩平八郎的な陽明学を実践していた。しかし以前当ブログで触れた事があるが、三島の日常生活は実に多彩だった。【1967年発刊の「葉隠入門」、1969年の「若きサムライのために」】半世紀以上前の1966年6月29日午前4時前”TheBeatles”が羽田空港に降り立った。5日間滞在し、5回コンサートをした。三島由紀夫は、公演2日目の武道館に行った。【1966年6月29日午前4時に羽田空
赤穂浪士の討入りは、今から略320年前の元禄15年12月14日と言われている、処が元禄15年は閏年だった為、1年が13ヶ月あったので、これを考慮すると、元禄15年12月14日は現代の暦だと、1703年1月30日と由だ。従い、今月が正に、四十七士の吉良邸討ち入りした月なのだが、ご存知の通り江戸時代から赤穂義士として忠義の鑑と敬われている。処が、三島由紀夫の『葉隠入門』(S42)に拠ると大石内蔵助と同年の葉隠聞書の山本常朝(1659-1719)は、こう語っているのだ。【三島由紀
昭和37年に或る雑誌で、45歳で自刃した三島由紀夫が『遮二無二長生きしなければならない、(中略)そして遮二無二生きる他ない』と語っており、しかも“遮二無二”を二度も繰り返している、これは自死への気持ちが徐々に強まってきている事への自戒の為だったのかも知れない、全文引用する、『私も2,3年すれば40歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき時が来た。芥川龍之介より長生きしたと思えば好い気持ちだが、もうこうなったら、遮二無二長生きしなければならない。古来の
2023/9/26(火)、親戚宅に呼ばれて昼食会。老夫婦2組と若夫婦、つまり娘と倅の両両親と。手作りピザなどのご相伴に預かった。(自分以外の)人が作ったものは何でも美味しい。毛並みの良い猫が飼われていて、人とは別の動きをしているのが面白い。娘の嫁ぎ先のお父さんに『葉隠入門』(写真左)が聖書だと曰われ、何と奇遇にも私も同書(写真中右)がバイブルであり、座右の銘が見事一致して驚いた!氏は蹴球愛好家であられても西洋被れでなく安心した。そして、昼下がりに4人で徒歩で野毛辺り散策。
当ブログでも葉隠に就いては何度か触れているが、三島由紀夫は、エッセイ「小説家の休暇」(昭和30年)の中で”葉隠聞書”に就いて『私は戦争中から読みだして、今も時折読む類の無い不思議な道徳書』と。【葉隠の口述者、山本常朝】【葉隠入門(S42)+若きサムライのために(S44)+行動学入門(S45)】そ
三島由紀夫は森鷗外の文体を理想としていたが、『森鷗外の情澄な知的文体に魅入られ、其処で私は鷗外の文体模写によって自分を改造しようと試みた』と、自ら心情を吐露している。そして三島は鷗外の著書「大塩平八郎」を読んで、そこに日本的精神の神髄を見た、即ち「大塩中斎的陽明学」を会得した訳だ、要するに三島の行動原理だ。【三島由紀夫1925-1970】【森鷗外1862-1922】【大塩平八郎1793-1837】1837年、元幕臣の大塩平八郎は天保の飢饉で苦しむ貧民救
老眼なので、眼鏡はかけず、めちゃくちゃ目と本を離して通勤中に読んでます、たぶん。実はそれでもあまり見えてない(笑)今読んでいるのは、一部本文は文語体なので、余計に意味不明。そんな中、次の文章が今朝の私に刺さりました。(略)不仕合わせの時草臥(クタブル)るる者は、益(ヤク)に立たざるなり。人々は、けっしてしあわせのとき、くたびれない。です。その本は、葉隠入門。三島由紀夫著。そう、武士道といふは、死ぬ事と見付けたりの一句で名高いあれです。購入したのは、平成23年だったの
【1/2からの続き】三島は学習院時代からの8歳年上の友人、坊城俊民にこう話している(坊城著、焔の幻影回想三島由紀夫)『五十になったら定家を書こうと思います』と、三島は同じ事を林房雄(「悲しみの琴―三島由紀夫への鎮魂歌」を書いている)にも言っていた由だが、三島の”豊饒の海”は夢と転生のストーリーの”浜松中納言物語”を典拠としていると明らかにしている如く定家に就いては能舞台”定家”をベースに書こうとしていたのではないか。
平安時代の歌人・藤原定家(1162-1241)の『明月記』に、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ」と云う世に知られた一文がある。【藤原定家の19歳から56年間に亘る漢文日記”明月記”】源平乱世の時代。紅旗(朝廷の旗)による、朝敵の征伐など、私の知った事ではない、という定家の芸術至上主義を表している。三島由紀夫は定家の歌の持つ妖艶且つ巧緻な雅そのものに憧れ30歳頃までは、この”紅旗征戎吾ガ事二非ズ”そして”歌道の極意
葉隠に就いては当ブログでも過去、様々な側面から書いているが、江戸時代後期、佐賀の鍋島藩士、山本常朝の『葉隠聞書』を三島由紀夫は26歳で既に座右の書として、その後昭和30年に「小説家の休暇」に『葉隠が私の中ではっきり固まり、以後は葉隠を生き、葉隠を実践することに、情熱を注ぎだした』と自分が葉隠精神の実践者たらんとする事を吐露している。そして昭和42年9月、自決3年前に『葉隠入門』(武士道は生きている)を著した。“武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つ
今から丁度52年前の今日、昭和45年11月25日の三島由紀夫自決前の経過は、次の通り、当日11月25日朝8時起床、10時過ぎに三島が楯の会の制服を着て出掛けて行く後ろ姿を、父の梓が見ていた。妻、瑤子は2人の子供(長男、威一郎と長女の紀子)を学校に送った後、乗馬練習の為に馬事公苑に行った。三島の母、倭文重は家庭裁判所の調停委員の仕事で出掛け既に不在だった。梓の著書「倅・三島由紀夫」にこう書いている、『また訓練をやりにゆくのか、と思っただけで、その儘見送った』と。三島は出掛ける前
以前当ブログで少し触れたが、三島が昭和37年に或るPR誌に『遮二無二長生きしなければならない、........そして遮二無二生きる他ない』と語っているのだ、厳密に修辞法が好きな三島には珍しく二度も同じ文言“遮二無二”と書いているのだ、これは自死への要求が徐々に強まってきている事への自分自身に対する戒めだったのかも知れないので、参考まで全文引用する。『私も2,3年すれば40歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき時が来た。芥川龍之介より長生きしたと思えば、いい気持ちだが、
【三島由紀夫座右の書、鍋島藩(佐賀県)山本常朝の”葉隠”】雑誌『諸君』(昭和60年1月号)で、三島由紀夫の瑤子夫人が語っている。曰く、『主人は、どんな事があっても必ず午後11時で切り上げ、11時半には帰っていました。唯一の例外は、お芝居の舞台稽古がある日です。帰って先ず食事です。座談会等で、外で淡泊な日本料理を頂いた日にはビフテキを、西洋料理の時は私が心掛けて和食を用意しましたが、兎に角1年365日、殆どが午前零時から1時迄の食事でした。深夜の料理を食べ終わ