ブログ記事355件
出遅れてしまった桜記事🌸京都で桜満開の一週間後…嵐山へ行った日は、ちょうど大覚寺で華道祭りの日でした。せっかくなので、いけばな嵯峨御流の展示へ。いけばな元祖らしい嵯峨御流が、なんたるかは全然知らないのだけど…一緒に行った人が、シャガの花が好きだって言うので写真を撮ってみました。水盆に生けて、ミニ池の風景を作っている作品が、かわいかったですお稽古仲間と思しき皆さんが、キャピキャピ楽しそうで、春めいた明るい雰囲気でした大覚寺の方では、大きい作品の展
2024年春の京都桜巡り。昨日の続き。大覚寺をあとにして、歩いて近くの清凉寺へ。嵯峨釈迦堂と呼ばれていて、わたしもここは何度か訪れたことがあります。でも、桜のシーズンははじめてかな。さらに歩いて、二尊院へ。ここは昨年大みそかに嵯峨野めぐりをしたときに通ったんですよね~また季節にいいときにぜひと思って、そのときはスルー。早速、桜の時期に来れてよかったです。なぜ、二尊院なのか?極楽浄土へ送り出す「発遣の釈迦如来」
京都・滋賀の重伝建を巡る旅の4日目は、早朝の人の少ない時間に祇園新橋伝建地区と産寧坂伝建地区を巡り、午後は嵯峨鳥居本伝建地区を訪ねました。嵯峨鳥居本に向かう前にお昼ご飯を食べに神宮丸太町に寄りました。11時にチェックアウトして高瀬川沿を北上、高瀬川一之舟入前の角倉了以別邸跡が、七代目小川治兵衛作庭の第二無鄰菴になり、現在はがんこ高瀬二条苑になってます。丸太町橋西詰のレトロ洋館は1923年竣工の旧京都中央電話局上分局、現在はフレスコが営業中。丸太町橋を渡ると目指すお店はすぐそこで
大河内山荘庭園から嵯峨野の小径を北へ左側に御髪神社さんです小倉池のふもと(小倉池の前)に鎮座。日本唯一理容・美容(化粧品・洗髪剤・育毛剤・カツラ等)にたずさわる業の始祖を祭神とする神社で、藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公を祀る。亀山天皇の御代(1259~1274)、宮中の宝物係であった藤原基晴卿が、宝物紛失の責任をとり、諸国行脚し文永5年に下関に居を構えた。その三男の政之公が生計を助けるため髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされ、後に彼らが仕えた亀山天皇の御陵に近いこの
朝食後は嵯峨野を案内して散策。「二尊院」から竹林の径、「野宮神社」「天龍寺」へ。今年の花手水はややおとなしい感じ。しだれ梅がきれいでした。途中で立ち寄った信楽焼のお店。個性的な狸のお出迎え。いつもこの辺は静かな「落柿舎」野宮神社の手前ぐらいから観光客が多くなります。平日でしたが、これまでにない参拝客。鳥居の中はお詣りする人で行列。何度も来ていますが、こんな光景は初めてです。源氏物語(紫式部)の影響?天龍寺は広いのでやや空いている印象。こち
コチラ、寺院の門をくぐる【伏見稲荷大社編】ブログ写真の続きです。いち早く写真を見たい方は下記のリンクをクリックしてください。スキップはコチラをクリック前回に引き続き、今回も京都の名所、嵯峨嵐山エリアの門を紹介します。21年12月までは、花灯路が目的で5年連続訪問してきました。おかげで、特定の寺院の門も撮影でき、今回個別に紹介することになりました。同エリアには沢山の寺院がありその数だけの門を見ることができました。出入口はもちろん、立入封鎖も含めて。嵐山自体は何度も訪問し
2024年-令和6年2月3日スタート最寄り駅は嵐山駅、駅前月受付場所、本日のマップ、渡月橋、天龍寺、竹林の小径、野々宮神社、落柿舎、二尊院、八体石仏、試(こころみ)峠、愛宕山登山口、今年は雪も無く、こんな感じ、黒門、登って来ました愛宕神社、下りて来ました、ゴールの清滝バス停、約13kmで300分、参加者は230名でした。バスで嵐山駅まで帰ります。嵐山駅から帰ります。
『あの娘はたあれ?』昨日の『思い出の京都』の記事で紹介した、私が京都で最初にデートした美女、俳人向井去来の草庵嵯峨野『落柿舎』にて。1981年5月2日彼女の名前が思い出…ameblo.jp上記のブログにて、女性とお客様へのアフターフォローの大切さが私の処世訓だと書いていますが、脳出血の発作に襲われて倒れたのが、2日続けてアフターフォロー営業で訪問したお客様宅での出来事だったのです。さぞ驚かれたことと思いますが、冷静に救急車を呼んでくださいました。教訓は生きていましたね⁉️
【48】がある。更に進むと「桜の馬場」「紅葉の馬場」で知られる二尊院に辿り着く。二尊院の名は、釈迦如来と阿弥陀如来の2体の本尊に由来すると云われている。常寂光寺の近く、向井去来が晩年を過ごしたのは、【48】落柿社である。去来は聖護院に住んでいたが、元禄の初め、嵯峨に1軒の古家を買い求めて移り住んだ。落柿社の名の由来は「家の周りに柿の古木があり、商人が立木のまま買い取ろうとして契約が成立したが、その夜のうちに柿の実は全て落ちてしまった。」去来自ら「落柿社の去
◯京都嵐山から渡月橋西口を経て、嵐電嵐山駅前を通り、天龍寺から野宮神社、常寂光寺、落柿舎、二尊院まで来ると、嵯峨野も、結構、奥まで来た観がする。ここから道はさらに狭くなって、その先、右手に見えて来たのが檀林寺になる。◯もともとの檀林寺は、日本最初の禅寺として、名高い。例えば、ウィキペディアフリー百科事典では、次のように案内している。檀林寺檀林寺(だんりんじ)は、平安時代初期に嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子が唐の僧侶・義空を招いて京都の嵯峨に開山させた禅宗の尼寺。今日では廃絶している
◯落柿舎からさらに西へ少し行ったところに、弘源寺境外墓地が存在し、そこに、去来の墓が存在した。落柿舎のホームページには、次のように載せる。去来先生墓落柿舎の裏、北へ百メートルの弘源寺墓地内にあり。遺髪を納めたという去来唯一の記念の墓である。四十センチほどの自然石に、ただ、「去来」とのみ刻まれている。尚、去来先生墓の近くには、四世庵主の吾同・八世の栢年・十一世の芝蘭子の墓がある。◯別に、「京都を歩くアルバム」と言うページでは、次のように案内する。去来の墓
◯2022年12月1日に、京都嵯峨野の落柿舎へ出掛けて来た。今日は2023年1月24日で、一年以上前の話を書いている。それだけ、書くことが多くて書き尽くせていない。何とも残念なことだが、中途半端に済ませることもできない。日々、頑張って書き続けるしかない。◯落柿舎について、ブログ『落柿舎』、『柿主や梢はちかきあらし山』と続けているから、今回は『嵯峨日記』になる。コトバンクの案内は、次のようにあった。嵯峨日記江戸前期、松尾芭蕉の日記。一編。宝暦三年(一七五三)刊。元祿四年(一六九一
◯京都、嵯峨野の落柿舎へ出掛けて来た。前回、ブログ『落柿舎』をものした。今回は、その続きで、落柿舎の様子を述べてみたい。その落柿舎の前には、次の案内板が設置してあった。落柿舎ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった四十本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。芭蕉も晩年、三度
◯渡月橋から天龍寺、竹林の小径、野宮神社と歩いて来て、やっと小倉山の麓、常寂光寺に着いた。その後、さらに西へ向かって行くと、すぐに落柿舎である。芭蕉が逗留した庵として著名である。前々から気にはなっていたが、やっと出掛けることができた。◯インターネット検索したら、ちゃんと落柿舎のホームページが存在した。それには、落柿舎について、次のように案内している。落柿舎について落柿舎らくししゃは元禄げんろくの俳人向井去来はいじんむかいきょらいの遺跡いせきである。去来は芭蕉ばしょうの門人にて
今回は京都府京都市右京区にあります落柿舎ですよ。神棚色々な御朱印がある中、2つ御朱印を選び頂きました。神棚を神社と言い聞かせて…それは無理あるんじゃ…やはり…そうですよね。御朱印に使ってる紙の色にトキメイていただきにいきました。神社やお寺以外にも御朱印あるのね。そーなんですよ!お城、鉄道、船……色々な所で御朱印みたいのが出てるのですよ。
昨日の続きです。1月5日、御髪神社に参拝したあと、あまり詳しくない道をだいたいの方角へ歩き出す。第二の目的地は清凉寺(嵯峨釈迦堂)。この辺りは観光客も疎らで、散歩にはもってこい😊紅葉🍁で有名な常寂光寺もお正月の装い。初めて落柿舎前を通りました。落柿舎は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵である。松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使用されていた場所であり、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。芭蕉も3度訪れ滞在をし、『嵯峨日記』を著した場所としても知られている。落
落柿舎と紅葉🍁昔ながらの懐かしい原風景です。渋柿なのかでしょうか?たくさんなってました😳風が吹くとチラチラと葉が🍁落ちてきて私の着ていたフードにも🥰入ってました。
おはようございますこんばんは~この時期になると思い出すのは此処ですね今年もやっているのかな?4年前のリメイク版です京都嵐山花灯路に行ってきました。花灯路この催しは2003年京都東山地区で始まり2005年から嵐山地区でも始まりましたずーっと以前から一度行ってはみたかったのですが冬の夜の京都は寒い事和歌山の自宅からは2時間半の行程なかなか行けませんでしたけどね今のうちに行っておかないともう行けないだろうと足腰弱った老体に鞭を討って行ってきました丁度お昼に嵐山
先週、幼馴染と嵐山の紅葉を見に行きました。天龍寺大河内山荘二尊院落柿舎化野念仏寺ジュリーが光源氏を演じたラストシーンに、この化野念仏寺が登場します。不義の子、薫を抱きながら立ちすくすシーン。夜明け真の撮影は、とても寒かったそうです。誰もが行く渡月橋は、観光客が多いのでパス!ジュリーの源氏物語に登場していますが、混まない所をゆっくり周りました。
次に向かったのは常寂光寺からすぐ近くの落柿舎でした落柿舎はまだ行った事がなかったし口込みなど評判がいいようだったのでどんな所か興味がありました紅葉は全然関係なしでのどかな平地を歩いて行くと右側に大きな柿の木がありました細い道路をはさんで反対側が落柿舎でした嵯峨野にある草庵松尾芭蕉の弟子向井去来の別荘として使用されていた落柿舎の由来は庵の周囲の柿が一夜にして全て落ちた事による芭蕉も3度訪れてい
京都の嵐山から嵯峨野の方をぶらり散歩してきました小倉池嵯峨野の散歩道紅葉がきれいです常寂光寺山門常寂光寺拝観受付小倉山二尊院拝観受付二尊院参道紅葉の人気スポット二尊院の境内唐門釈迦如来・阿弥陀如来の二尊を祀っています御霊屋京都の豪商角倉了以の墓が二尊院にあります落柿舎松尾芭蕉の弟子で豪商の向井去来の別邸松尾芭蕉が嵯峨日記を書いた場所~竹林の小径舞妓さんもお散歩野宮神社鳥居天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清めた場
…松尾芭蕉の弟子で嵯峨野にある落柿社を造った俳人は?「向井去来」は、貞享2年、嵯峨野に草庵を構え、元禄2年秋頃、草庵を落柿社と称する様になった。俳聖・松尾芭蕉の高弟10年を指す蕉門十哲の筆頭格として芭蕉の信頼が最も篤かったのが去来であった。芭蕉は落柿社を3度訪れて『嵯峨日記』を著した。去来はここで、俳諧集『猿蓑』『去来抄』などを著して芭蕉文学の神髄を示し、いずれも後世俳壇の手本となった。
落柿舎と…天皇陵っぽい?小倉あん発祥の由来考えた人にほんま感謝やな〜こんな美味しいもんをありがと〜!最近、よくよく気をつけて歩いているとこんなところに??天皇陵や皇族陵があってびっくりするここも知らなんだな〜南天が赤いと年末って気がする落柿舎を見るだけ(外から)のつもりが二尊院も近いと知って寄ってみることにたぶん初めまして?の二尊院参道の紅葉がうつくしすぎる…!小倉山山麓なので日が落ちるのも早い既に西日っぽい風格ある勅使門をくぐると本堂二尊院とはご本尊の釈迦如
月曜日の朝、紅葉が観たくなり主人の出勤と娘の登校を見送った後、電車を乗り継ぎ京都嵐山へ!タイムリミットは娘が帰宅するまで。と目標を立てて向かいました梅田9時42分京都行きの阪急電車桂駅で乗り換え到着!10時45分過ぎでした。お天気に恵まれ気持ち良い!!天龍寺曹源池庭園嵯峨野の竹林を抜けて。。常寂光寺落柿舎へよく歩きました帰ろうとすると雨☔!!帰りの渡月橋からの景色☔まさかの雨で、傘も持ってきて無かったのでそのまま歩きましたお腹が空いて渡月橋付近でおもちを食べて
二尊院の本堂に上がってみたが、本堂の中は撮影禁止なので裏側に回るこの撮影禁止は理解できる(ご本尊をパシャパシャ撮るのは、ちょっとね・・・)本堂の裏が小倉山♪さほど高い山でもなさそうだけど、歴史を感じる中庭のようなところでちょいと休憩♪さて、さすがに、もう撮るものも無くなったので引き上げるとしようてくてくと、紅葉のトンネルを引き返す♪ちょっと赤くなってるのは、この一角のみ
京都マムです。NHK「究極ガイド2時間でまわる嵐山」のつづき。↓地図はこちらからゲットできますhttps://www.nhk.or.jp/program/2hguide/arashiyama.pdfエリア3必見箇所は6カ所。二尊院までは上り坂を5、6分歩く。途中にある慈眼堂(じげんどう)の中には千手観音像(鎌倉初期、作者不明)がある。これは藤原定家がお祈りしていた仏像。藤原定家は百人一首を選んだ人物。小倉山のふもとで選ばれた歌だから小倉百人一首
向井去来は松尾芭蕉の高弟『蕉門十哲』のひとりです。父は当代最高峰の医学者で宮中儒医であった向井元升です。若い頃は武芸に秀でており、大藩からの招請もありましたが、これを受けず、しまいには武士としての身分まで捨ててしまいました。京都嵯峨野の草庵落柿舎は彼の別荘で、松尾芭蕉もここを訪れ「嵯峨日記」を残しています。
嵐山の紅葉だより奥嵯峨で下車。祇王寺から散歩。平家物語で知られる往生院祇王寺。控えの間の大きな丸窓。吉野窓。小倉山二尊院。九頭龍弁財天。総門からの「紅葉の馬場」弁天堂脇から二条家・鷹司家・三条西家あの角倉了以の角倉家の墓へ続く道。元禄の俳人向井去来の遺跡。落柿舎。落柿舎本庵。三帖・四帖半の間。柿の木と本庵。落柿舎の向こうは五山送り火鳥居形。竹林の小径は、この賑わい。雑踏を避け嵐山公園。亀山地区。紅葉見ごろ嵐山と
弟がいて、本当に良かった。弟がいなければ、たった一人で親の家を片付けるなんてことできやしない。ということは、一人娘に私たち夫婦のものを残してこの世を去るなんてことは、絶対にしてはならない。今回の里帰りで、老人ホームに入った親の残した実家にひとりで住んで、強く思ったことだ。弟は、私宛の郵便物の保管もしてくれていて、その中のひとつに、京都嵯峨野の「落柿舎」の情報誌が入っていた。4年前に、私は落柿舎を訪れた。落柿舎は俳句と縁があって、だれでも投句で
[落柿舎]-END-