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本日は金田龍之介です!毛利敬親もうりたかちか1819(文政2)年、萩藩の江戸麻布邸で生まれました。萩藩の藩主となると、村田清風を抜擢して藩政を改革し、富国強兵を進め、藩校明倫館を移転・拡張して教育を充実させます萩藩は尊王攘夷派の雄藩となり、1863(文久3)年、関門海峡で攘夷を決行しかし、朝廷の態度が急変し、萩藩は京都から追放されます再起を図ろうと1864(元治元)年京都で禁門の変を起こしますが敗退。幕府から征長令が出され、苦境に陥り、家老を処罰して幕府
2023.11.7.萩巡りで是非とも訪れときたかったのが、萩藩と言えば毛利家です。その藩主の菩提寺&墓所です先ずは、萩藩初代藩主の眠る「大照院」から本堂横を抜けて墓所へ霊椿山大照院は、臨済宗南禅寺派の寺院で、荒廃していたものを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために、承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建しました。隣接する萩藩主毛利家墓所は国指定の史跡で、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族、秀就に殉死した7藩士の墓
2023.11.7.今年の秋は、京都行きを変更して、山口県の萩へ勿論!前夜に出発しの、車中泊です車中泊した「美東SA」ここまで3時間半走り、萩まで残り1時間の距離そして出発途中寄った「道の駅萩往還」長州出身の偉人の銅像がたくさん!「松陰記念館」も在りましたが、早朝の為、スルーそして出発まず最初に『萩城跡』へ観光客も、まだ居ない(毛利輝元の像)後ろにある山は「指月山」戦時の時の詰所となります。雁木
清水宗治主従の供養塔真言宗高松山清鏡寺、清水宗治菩提寺山口県光市浅江2丁目1−142真言宗清鏡寺、備中高松城主清水宗治の供養塔(菩提寺)参考山口・キラリンク(2019.4.26、参考)秀吉の水攻めで自刃した備中高松城の城主と光市の高松山清鏡寺・正義霊社秀吉の水攻めで知られる岡山県の備中高松城。その城主だった清水宗治ゆかりの寺社が山口県光市にあります。どんなつながりがあるのか、紹介します。--------------------------------光市浅江の「高松山清鏡寺」
今日までの分析と高信頼度の情報を解析した結果やっぱりそうだったかと確信し納得できた金を吸い上げる所得移転と政府ぐるみの独裁制度もう騙されないもう二度と政府・マスコミの報じる「パンデミック」「テロ」を信じないこれには特殊利害に所得が移転するようなからくりがあった必ず事業利害と結託している特殊権益に乗っ取られた政府を奪回するにはクーデターもあってもいい寿命200年時代に入ったと自分と他に一部の人間が思っているがたかだか200年の歴史でそうそう社会DNAは変わらない明治以来日本
ふと、『うっせぇわ』という歌を歌いたくなったRieruです★【サンシャイン池崎】うっせえ奴がうっせぇわ歌ってみたAdo/うっせぇわ本家様https://www.youtube.com/watch?v=Qp3b-RXtz4w音源制作:伊東先生Twitter:https://mobile.twitter.com/h2sweYouTube:https://m.youtube.com/channel/UCrtMrEzso...youtu.be・・・サンシャイン池崎さんの替え歌バージョン。
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」高野山・武将の墓めぐり、萩・毛利家の墓の紹介です。武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅は少しお休みです。youtubeはじめました。甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。チャンネル登録よろしくお願いします。人物名墓のある施設住所萩・毛利家高野山奥之院和歌山県伊都郡高野町高野山誤字やリンク切れ等がご<ざいましたら、コメントにてお知らせくださいますよう、よろしくお願
49泰平諸侯御船監略西国大名56家の帆印·船印·船幕を描いたもの。瀬戸内海の出入口にあたる下関海峡には、参勤交代などで九州の諸大名をはじめとする多くの御座船が行き交った。50無三四岸柳仕合之図歌川芳虎筆慶長7年(1602)に厳流島でおこなわれたと伝わる宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘を描いた錦絵。江戸時代中期以降、巌流島の決闘は錦絵のほか、歌舞伎や人形浄瑠璃などの題材として広く親しまれた。51下関図巻江戸時代の赤間関の景観を描いたもの。前田村から伊崎·巌流島までを一望することがで
59趙厳書帖宝暦13~14年(1763~64)に来日した朝鮮通信使の正使趙厳が帰路の対馬において、中国の古詩をさまざまな書体で揮毫し、前対馬藩主の宗義蕃に贈ったもの。趙厳はサツマイモの苗を朝鮮国に持ち帰り、救荒作物として広めた人物として知られている。また、この使行では長府藩9代藩主毛利匡満が江戸御馳走役を務めており、江戸浅草の東本願寺において、およそ1ヶ月にわたって朝鮮通信使を応接している。60延享5年朝鮮通信使登城行列図(部分)延享5年(1748)に来日した朝鮮通信使が朝鮮国書を将
昼食後は、まず江戸屋横町を歩くことにする。この横町には、高杉晋作や伊藤博文ゆかりの円政寺、青木周三旧宅、更に木戸孝允旧宅などがある。まず、円政寺に入った。この寺は1254年に山口に創建された頃は大内氏の祈願所であった。大内氏が滅亡した後、毛利輝元が長州藩を治めていた1604年ごろに萩城の築城とともに城下の塩屋町(現在の多越神社の地)へ移転されて毛利氏の祈願所となった。さらに1870年の神仏分離令により現在の場所にあった法光院と合併、現在地に移転した。円政寺の境内には子ども時代の
昨日まで晴天だったが、今日は朝から雨降りで、晋作君の生誕の家に入っても相変わらず雨は降り続いている。受付で見学料を払って、再び生誕の家の敷地内を歩いて行く。晋作君は1839年9月27日に長門国萩城下菊屋横丁のこの家で、長州藩士の高杉小忠太(大組200石)とみちの長男として生まれる。受付の隣の部屋まで歩いて行くと、晋作君の自作の刻んだ歌碑が立っていた。こういう歌である。西へ行く人をしたひて東行く心の底そ神や知るらむこの石碑に刻まれた歌は、晋作君が1863年3月に時事に関して痛
萩博物館から旧町人地に行った。ここには、商家や中・下級の武家屋敷が軒を連ねていて、萩きっての豪商だった菊谷家や、高杉晋作誕生地や木戸孝允旧宅などがある。まず、菊谷家に行った。菊谷家は1604年に毛利輝元の転入国に従い山口から萩に移り、城下の町づくりに尽力して呉服町に屋敷地を拝領して家を建てた。その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤め、度々御上使の本陣を命ぜられ、その他御究場所・恵民録役所等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。観光客が大勢いるが、ここは通りに面した菊
これから萩博物館を見ていくが、博物館の造りは萩市特有の武家屋敷風の広大な造りとなっている。主要展示棟にある展示ゾーンは有料、一方、屋外展示や別棟の展示室は交流ゾーンとして無料で観覧できる。展示ゾーンは萩学なんでもボックス(萩学)と名付けられた萩の歴史・文化・産業・自然などに関する様々な資料を、観覧者が気軽に手を触れてみることができる体験型展示である。歴史展示室・高杉晋作資料室・萩の人物コーナー萩城・長州藩・長州戦争・明治維新など萩の歴史、高杉晋作に関する収蔵品、萩市にゆかりのある100人以
萩の朝松陰先生が幽囚させられていたお部屋の前に立ちましたおっ?振り返るとお日様がさしてきました先生も幽囚の身でありながら差し込むお日様と会話なさっていたのだなあと思いました松下村塾何度来ても幸せな心地になります東光寺歴代奇数の藩主と奥様方が眠られています外側にもお墓が建っていて、頭を下げて失礼しようとしたら強く引き留められる感覚そこにはこの看板がありましたあぁ、周布政之助さんこの方面倒見がよくてステキな方そして萩藩の急な路線変更によって責任を取らされたご家老方
電動自転車を借りたのはスマイル貸自転車という店で、1日1500円の料金だった。午前中1番に赤字アの萩反射炉と赤字イの恵美須ケ鼻造船所跡を見学し、続いて赤字ウの松陰神社・松下村塾を見学することにした。この電動自転車に乗り、萩反射炉まで15分で到達、時間は午前8時40分くらいとなっていた。祝世界遺産登録と書かれている場所の上に世界遺産萩反射炉があるらしく、そこまで導く階段が左手にあった。階段手前に萩反射炉の説明があったので読んでみた。世界遺産「明治日本の産業革命遺産」は、岩手県から鹿
本日は山口の紅葉④ですⅰ御神幸祭寛弘元(1004)年10月15日、勅使を迎えて祭を行う。これが御神幸祭の始まりといわれ、ずっと陰暦の10月15日に行われてきた。(現在は11月の第4土曜日)御神輿と御網代輿は満月の光をあびて本殿を出て、勝間が浦の菅公繁船の旧跡に至り、還幸は深更になったという。殿様も国分寺前の桟敷で拝観された春風楼萩藩10代目藩主毛利斉熙(なりひろ)は社頭に五重の塔の建立を思い立ち、文政5(1822)年、地鎮供養の祈祷を行ったが、諸事情で中
山口県萩市のお土産『夏みかんの砂糖菓子』を頂きましたなんでも夏みかんは、江戸時代に山口で生まれ、明治期に入って萩藩の奨励で盛んになった萩の特産品だそうです。肉厚の夏みかんの砂糖漬けと爽やかなライムの砂糖漬け集中力の切れてくる3時のおやつにピッタリのお菓子濃いめの緑茶と一緒に頂きました。ごちそうさまでした。それではまた!
こんにちは。連日のんきに山口県の旅行記を書いていますが、山口県も九州と同様大雨に見舞われているようです。今日、明日もまだまだ大雨が降るようです。これ以上、大きな被害が出ませんように。祈るしかできなくてごめんなさい。山口家族旅行4日目。一番に向かった先は萩焼会館。家族3人で陶芸体験です。予約なしで電動ろくろ、手びねり、絵付けの中から選べます。私たち家族は手びねりを選択。3年生の娘が一番難易度の高いカップ。夫と私は使いやすさ重視して平皿。
お友達女子数人と、奈良の京終にあるレストラン「明倫館」にランチに寄せていただきました。ずっと気になっていた「明倫館」。その名前が、いたく気に入りました。何故なら、江戸末期、萩藩にて初めて楠公祭が斎行されたのが藩校・明倫館で、その楠公崇敬の地と同じ名を冠するレストランだから。外観は、明倫館という名に相応しく、レトロな趣きです。内装も、期待通りのレトロ感満載。やはり、明倫館という名だけあって、相当、こだわって設計されたのかと思いきや、こちらのご主人に命名の由来をお尋ねしたところ、萩の明倫
8月13日は、萩の風物詩である万灯会があり、地元では盆が来たなあ‼️と言う感じかな。萩藩主毛利家の菩提寺である、『大照院』を紹介したいと思います。萩藩初代藩主と、2代から、12代までの偶数代藩主が、祀られている。大照院では、迎え火として、菩提を弔う為、約600基余りの石灯籠にろうそくの灯がともされます。とても幻想的な世界を体験出来ますよ。8月15日は、『東光寺』で送り火があります。萩藩主3代から11代までの奇数藩主が祀られています。約500基の石灯籠にろうそくの火が灯され、幻想的
海が見える高台の旅館へ宿泊しました。夜ごはんはフグしゃぶや、新鮮なお刺身、あわびが柔らかくて、ものすごくおいしかった♡パックツアーだったので期待していなかったけど、大満足でした翌日は萩市内の観光へ。萩市は江戸時代に毛利氏が治めた「長州藩」の本拠地となった城下町です。幕末には明治維新の原動力となった志士たちを多数排出しました。当時のまま残る街並みや武家屋敷など、見どころがたくさんある街並みです。広すぎて全部はまわれないので、城下町エリアへ。とにかく暑いので、1時間100円のレン
金子みすゞは住まいを転々と変えている。初めは職場である上山文英堂に夫と一緒に生活した。上山文英堂を辞めた夫と共に、初め近いところに住んだが、とんでもなく遠い上新地から新地あたりに転居して、最後に離縁して上山文英堂に戻って亡くなった。その間、遊郭通いの夫と子供との生活であったと言う。実は、ここ新地あたりは今も建物が残っているが遊郭の立ち並んだ地域であった。とんでも無い夫であった!新地の旧遊郭の現存の建物の一つ(参考)ところで、ここら辺りは明治維新の立役者の高杉晋作ゆかりの地でもあった。例
【山陰の僻地に位置する…】山口県萩市が「明治維新胎動の地」となりえたのは何故でしょうか。関ヶ原で敗れた後も幕府への対抗心は脈々と受け継がれていたようです。更には吉田松陰が(歴史上)タイミングよく生まれてきたことも大きな原動力となった【松下村塾】幕末の志士の多くがこの小さな「小屋」で松陰の講義を受けた。松陰は「実行」することに重きを置いていた。30歳(満29歳)で処刑され生涯を閉じるが、その志は途絶えることなく塾生達に受け継がれた「親思ふこころにまさる親ごころきょうの音づ
城下町萩萩藩(長州藩)の本拠地であり、晋作の生まれ育った町。晋作にとっても本丸といえるところ。4月1日、春とは言えない寒風が吹きすさぶ中、やっと訪れることができました。晋作生家1839(天保10)年8月20日、萩藩大組士高杉小忠太の長男として晋作はこの家に生まれました。晋作や両親の写真、遺品などが展示されています。産湯に使ったと言われる井戸晋作の句碑「西へ行く人をしたひて東行く心の底そ神や知るらん」菊屋横丁生家周辺は「菊屋横丁」と言わる武家屋敷が並
先月「ラジオ久坂村塾」第4週「アウトスタンディングな仲間たち」にご出演いただいた多田多延子社長の「ピンクパーティ」にお招きいただきました。じゅんちゃん、ありがとう(๑>◡<๑)http://ppp.holy.jp/tadataeko/2019/03/22/post-1210/。。。。。。。。。。奇しくもリッツカールトンホテル周辺は、安芸の太守・毛利公のゆかりの場所。(ミッドタウンは萩藩毛利家の下屋敷)「ヒロシマ」ご出身の多田社長に、この上なくふさわしい場所かと(^_^)
土曜日朝一番の便で羽田空港から山口宇部空港へ。高速バスで萩市に昼過ぎに着きました。萩ではどこか凛とした雰囲気を感じました。その一つの理由は街の多くの建物が美しい瓦葺きだった事でしょう。写真は左上から明倫小学校、看護学校、萩博物館ですが、小学校や看護学校まで瓦葺の建物にするところに、地元の人々の心意気を感じました。右下は萩藩の頃の街並みの模型ですが、当時の地図が今も使えるほど、街並みを維持しているそうです。こういう美しい街並みから、美しい精神を持った人々が育ち、そういう美しい精神を持った人々が美
ただ今、司馬遼太郎作品の花神を読んでいますがちょっと休憩がてらに…読みました!明治維新という名の洗脳150年の呪縛はどう始まったのか?1,512円Amazonオススメ度…★★★響いた内容…明治維新の謎というか、闇というか…色々と知る事が出来ました。特に萩藩とイギリスの存在は大きいですね。ますます幕末〜明治維新に興味が出て来ましたよ(°▽°)!!
萩市内を歩き始めました風が強くなって寒いです雪もどんどん降りしきり髪が濡れてきました菊屋横丁という中・下級武士の屋敷が並ぶ一角を歩くと、晋作広場があり、銅像のそばに梅の花が咲いていました萩焼のお店が点在していますこの日は雪と寒さで観光客もほとんどおらずお店も閉まっていますブラタモリで見たのですが明治になって生活に困窮した武士が、殖産のために屋敷に夏ミカンが植え、それが大いに役だったと---その通りに白壁の中には大きな夏ミカンがなってましたここが高杉晋作旧居です寒いので入りま