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11月16日は鎌倉市浄明寺の旧華頂宮殿下御邸を見学(16日迄一般公開)昭和四年建築の洋風住宅、フランス式庭園古典的で整然とした佇まいで、モダン鎌倉の奥ゆかしさを感じることができる同敷地内には無為庵という茶室もある
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥、旧華頂宮邸の特別公開へ。裏庭の奥、無為庵を出て…↓↓↓庭を通り…↓↓↓洋館の側面へ。↓↓↓↑↑↑旧華頂宮邸側面から。↓↓↓洋館側面から表門に戻る途中、木の扉で塞がれた穴?中世の横穴墓“ヤグラ”を倉庫として流用したのか、壁面に倉庫を造る目的で掘った物なのかは不明。↓↓↓小さな池と石橋。↓↓↓こちらも…?↓↓↓ヤグラの流用なのか?倉庫を造ろうとして新たに掘られた物なのか??以上、旧華頂
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥、旧華頂宮邸の特別公開へ。庭の奥の茶室・無為庵。その側面へ。↓↓↓玄関から一直線上に見えた8畳間。↓↓↓そして、増築部分。(写真右側)↓↓↓右奥が増築部分。↓↓↓増築部分前(裏?)の庭。↓↓↓下図平面図の左上が増築部分。↓↓↓鎌倉本新版今まで無かった鎌倉を愛する街ラブ本。(エイムック)楽天市場1,017円るるぶ鎌倉'26(るるぶ情報版)[JTBパブリッシング旅行ガイ
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥、旧華頂宮邸の特別公開へ。庭の奥の日本家屋、茶室・無為庵。玄関の左脇には、潜り戸。↓↓↓所謂、茶室に出入りする為のアレ。↓↓↓近くから。↓↓↓左上の窓から中を見る。↓↓↓潜り戸の前から。↓↓↓三畳敷の部屋には、釜を設置する小型囲炉裏らしき切れ込みが無いので、ここは茶会出席者の控室か?↓↓↓下図平面図の玄関左脇の三畳敷の部屋。↓↓↓るるぶ鎌倉'26(るるぶ情報版)[JTBパブリッ
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥。旧華頂宮邸の特別公開へ。2階建て洋館の裏庭の奥へ。↓↓↓急に、「和」テイストな門が。↓↓↓玄関前。↓↓↓ここは、茶室らしい。茶室「無為庵」。この玄関から上がる事は出来ない。↓↓↓茶室の奥まで見渡せる。↓↓↓玄関前の天井!↓↓↓るるぶ鎌倉'26超ちいサイズ(るるぶ情報版小型)[JTBパブリッシング旅行ガイドブック編集部]楽天市場1,375円るるぶ鎌倉'26(るる
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥、旧華頂宮邸の特別公開へ。裏庭側へ出る。↓↓↓ポーチ付き!↓↓↓ポーチと、その下の池!裏庭の奥から。↓↓↓華頂宮家は、北朝3代・崇光天皇の子孫。↓↓↓華頂宮邸平面図。右側下段が1F部分。右側中央は、2F部分。右上は、裏庭。↓↓↓鎌倉本新版今まで無かった鎌倉を愛する街ラブ本。(エイムック)楽天市場1,017円るるぶ鎌倉'26超ちいサイズ(るるぶ情報版小型)[JTBパ
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥、旧華頂宮邸の特別公開へ。1Fに降りて、庭に面したエントランス部分。↓↓↓ここにも暖炉。↓↓↓暖炉の上の漆喰天井。↓↓↓かつての屋根の銅板。↓↓↓正門側と脇の窓。↓↓↓正門側の窓下には、スチーム式暖房器具。↓↓↓漆喰天井と照明器具。↓↓↓隣の部屋へ。↓↓↓漆喰天井と照明器具。↓↓↓下図左側が、1F部分の平面図。↓↓↓鎌倉本新版今まで無かった鎌倉を愛する街ラブ本。(エイ
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥。旧華頂宮邸の特別公開へ。スチーム式暖房器具の有る窓辺から…↓↓↓封鎖された階段上を通り過ぎる。↓↓↓封鎖階段の脇のコレは…部屋の窓??いや、違うな…??↓↓↓その隣が、もう1つの和室の入口。↓↓↓こちらは、暖炉らしき物は無い。窓以外は純和室。↓↓↓天井&照明器具。↓↓↓廊下を進み…↓↓↓ここに戻る。↓↓↓天井。↓↓↓階段を降り、1Fへ。↓↓↓下図、右側の2F平面図の左
鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥。令和7年5/17(土)、旧華頂宮邸の特別公開へ。こちらは、2Fの和室。↓↓↓廊下から部屋に入ると、板の間からの畳の間。↓↓↓畳は、8畳。↓↓↓所謂、角部屋!↓↓↓部屋の奥には、暖炉?↓↓↓漆喰(シックイ)の天井からは、シャンデリアの超簡易小型版?↓↓↓廊下に出て…↓↓↓表門方向の窓。窓のすぐ下には、スチーム式暖房器具。↓↓↓漆喰の天井と照明器具。↓↓↓下図、右側(2階)平面図の、左端が和室。↓↓↓
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥。旧華頂宮邸の特別公開へ。まだまだ2F。↑↑↑暖炉!↓↓↓照明器具。↓↓↓↑↑↑裏庭側の窓。↓↓↓漆喰(シックイ)の天井と照明器具。↓↓↓暖炉!↓↓↓暖炉の上から庭側の窓を見る。↓↓↓右側が2Fの平面図。↓↓↓鎌倉本新版今まで無かった鎌倉を愛する街ラブ本。(エイムック)楽天市場1,017円${EVENT_LABEL_01_TEXT}るるぶ鎌倉'26(るるぶ情報版)
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺、報国寺(所謂、竹寺)の細道の更に奥。旧華頂宮邸の特別公開へ。2階へ。↓↓↓洋室の隅(写真右奥)には、スチーム式の暖房器具。↓↓↓隣の部屋には、洗面台。↓↓↓観音開き式の鏡。↓↓↓洗面台の部屋から、階段方向を振り返る。↓↓↓右側が2階の平面図。↓↓↓『工場直送便』鎌倉サイダー(江の島サイダー)340mlビン×1ケース(24本入り)神奈川鎌倉土産楽天市場7,355円${EVENT_LABEL_01_TEXT}
令和7年5/17(土)、鎌倉市浄明寺2丁目の、旧華頂宮邸へ。報国寺(所謂、竹寺)の在る細道の、更に奥。旧華頂宮邸は、昭和4年に華頂博信侯爵邸として建てられた、2階建ての木造洋館。国登録有形文化財。内部の公開は、概ね春と秋の限られた日のみ。※内部の公開日は、毎年変わる様なので、次の公開日はこちらから確認されたし!↓↓↓↓↓↓↓https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/k-index1.html旧華頂宮邸の保存と活用www.
鎌倉の金沢街道(鎌倉と横浜市金沢区の海岸を結ぶ、塩を運ぶ道だったそうです)の脇道の谷戸に伏見宮家の分家であった華頂宮家が戦前数年住んでおられた住宅があります。現在市の所有となっていまして、普段から庭園の開放をしているのですが、春と秋に2日ずつ建物内を公開しています。外側に梁や柱が見える洋館です↓さて、公開日に着物でお散歩してきました。鎌倉三大洋館と呼ばれていますよ庭はちょうど薔薇が盛り。↑こちら、お誘いしてご一緒したコーラス&元職場の先輩。無料着付け教室の展示会でいく
大人の散歩っていっても良いのか私。年はすごいことになってるけど、中身は大人げない大人のままです。それで婆さん徘徊とか書きましたが、いやはや、さすがに身も蓋もなく薄汚れた感じがするので、彷徨と書きかけて、庄司薫みたいで、いやそんな精神世界のない女だなとかなぞと考えながら、報国寺から思いつきで華頂宮邸に向かいました。ここは、近いのです。華頂宮と聞いてもピンとこないので、泥縄で調べました。徳川家茂の猶子の博経氏が創設した宮家(違ってるかも)で、珍しやの華頂という名は、元々知恩院の門跡であ
大分経っちゃったけど7月21日鎌倉にお墓参りに行きましたそのついでに(いやこっちがメイン)華頂宮邸の内部公開に行ってきました中に入るのに一時間以上は並んだかな暑かったけどそこはお屋敷木陰がいっぱいあって助かりました人にカメラを向けてはいけませんというお約束なので上ばっかこの下の部分は人でギューギュー豆粒だから許してねこの手のお屋敷には必ず和館が付いているお茶室もあったよこういう何気ないデザインが可愛
是非2本続けて見ることおすすめデス。日本のご先祖様の働きや叡智、今のこの時代まで見据えた準備や活動…奥が深過ぎます。そして日本だけではなく、世界、地球レベルで考えられている壮大な何かが、徐々に明らかにされ、やはり日本が世界の雛型になる流れが何となく感じ始めています。
鎌倉にある旧華頂宮邸です。昭和4年(1929年)、侯爵華頂博信の邸宅として建てられた西洋風建造物。外にはフランス式庭園が広がります。博信は断絶した華頂宮家の祭祀を引き継いでいたため、旧華頂宮邸の名があります。江戸時代、宮家は四家に限られていましたが、慶応4年(1868年)、これまで門跡に入り出家していた皇族子弟は軍人になるべく還俗を命じられて宮家増設。知恩院に入り出家していた尊秀(伏見宮邦家親王の第十二王子)は還俗して博経親王となり華頂宮家が成立します。血縁の遠い伏見宮系の宮家が大
更に二本榎通りを進む亀塚公園にやってきたこちらでは縄文時代の住居跡が発掘されている江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷として明治維新後は皇族華頂宮家の宮邸となりなんと宮邸時代の外壁が公園を取り囲んでいます公園の一角にカントウタンポポを保全しているエリアもあります通りの向かい側に小さな豊川稲荷の社三田豊川稲荷神社とでもしておこうか歩道よりさて、亀塚公園内奥に小山公園名の由来となった亀塚円墳状の盛り土があり昭和46年に実施した港区教育委員会と慶
https://x.com/daifit4/status/1700841219491037618?s=46&t=14eDVfq2uyvNyzcfb0kVog華頂博一さんの講演会に行って来ました。TOLANDVLOGの三人にも会えました😊
2025年に日本が乗っ取られるシリーズを書いてきました(まだ最後のポールシフトについて書いてませんが(汗))。『ポールシフトと日本の巨石群、2025年の民族大移動その1』まず前置きで(笑)。殺伐とした記事を書こうと調べ物をしていた中で、一筋の光明。狼の愛情の深さに涙。そして、グリムを野生に帰すために、一年近く大草原で生活したこ…ameblo.jp『ポールシフトと日本の巨石群、2025年の民族大移動その2』昨日の私の妄想(笑)の続きです。『ポールシフトと日本の巨石群、2025
X(旧Twitter)で、今日知った、youtubeです。びっくりでした。本当。びっくり、もっと、掘ります。
コヤッキースタジオより貼り付けさせていただきます。<(__)>削除されるかもしれません。日本の真の歴史の話がヤバすぎる…【都市伝説】本日ゲストにお越しいただいた華頂殿下のチャンネルはこちら!▼旧皇族華頂宮チャンネルhttps://www.youtube.com/@kachonomiya_channel今回はとんでもない人がゲストに来てくれました。今までコヤスタでも多くの日本の隠された歴史に関して紹介してきましたが、今回のゲストの方はその答え...youtu.be今回もまたすごい方
何年も前から色々な予言や考察を聞いていたけど、、、私は、殿下に一票(ㅇㅁㅇ川https://youtu.be/N1dPn_XTCt8BeingHumanフリーエネルギーを資本主義に乗せると人間の歴史は終わる☆チャンネル登録お願いします☆http://www.youtube.com/channel/UC0AanNmw5A6nchQca8IbKMg?sub_confirmation=1[プロフィール]日本文化振興会副総裁旧皇族華頂宮当主華頂博一高祖父伏見貞愛曽祖父伏見博恭
前回の日記で、朝夷奈切通を歩いて、鎌倉市の十二所(じゅうにそ)という所に出ました。ここからちょっと歩いて、今まで行ったことがない場所を目指します。「報国寺の奥に、庭園を公開している洋館がある」って聞いたのがつい先月のこと。洋館?報国寺の奥?初めて聞いた。本当にあるのかいな?参拝者が絶えない竹の寺・報国寺。しかしその奥の道は誰もおらず、両側にお屋敷が立ち並ぶのみ。本当にあるのか・・・あった説明板を読むと、「旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい
リブログさせていただきます。
2020年5月の旧東海道歴史散策の続き。「実相寺」「幽霊坂」「常教寺」「荘厳寺」と回った後は、旧東海道に戻りました。実相寺(その2)・幽霊坂・常教寺・荘厳寺のレポ『実相寺(その2)と、幽霊坂と、常教寺と、荘厳寺と~旧東海道~東京都の史跡・寺院・街並』2020年5月の旧東海道歴史散策の続き。「大増寺」「亀塚公園・旧華頂宮邸跡」と回って、「実相寺」の続き。大増寺・亀塚公園・旧華頂宮邸跡・亀塚・亀山碑・実…ameblo.jp「荘厳寺」の道路を挟んだ向かい側
3年日記2冊分シリーズ♪3年前のこの日は、歌の仲間と鎌倉は華頂宮邸に出かけた。前日天気が悪く心配でポリの着物で旧宮様邸へ行ったのが返す返すも残念だった。もっとしゃなりと行きたかった帯揚げはベージュ、帯締めは濃紺しかし、華頂宮邸の手前の穴子丼のお店まで鎌倉駅から歩いて35分のところを、バスに乗ったらなんと1時間ほどかかってしまった。大渋滞で、徒歩10分の鶴岡八幡宮までバスで40分、
武士にとっては、初めの「聖戦の地」なのかもしれないのだが、、、皇宮それも、明治維新後において、そこは、武士の権力を、「無効化」した地なのであろう。そして、明治維新後、権力と言う物の「定義」が、「将軍」から「天皇」へと移った、、、あの歴史上、「武士社会」を創始した「鎌倉」において、、、近代史において、「皇宮」の存在価値は、はかりしれないものであったであろう!「旧頂華宮邸」武士政権の創始期である「鎌倉」において,その創始期を共にしてきた、皇宮は、必要なのであったのだろう。その武士
幽霊坂を下っています。化粧地蔵のある玉鳳寺から見た幽霊坂。坂を下り切ると桜田通り(R1)です。坂の下には、渋谷川の下流に当たる古川が削った低地が広がっています。幽霊坂にある長松寺へは、桜田通りからアクセスします。道路沿いに、荻生徂徠の墓所を示す石碑が建っています。儒学者であった徂徠は、赤穂浪士の処分に際して切腹を主張しました。切腹を申し渡された大石内蔵助が、「切腹を仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と応えたように、義士達の仇討ちを賛美し助命を嘆願する意見も多
2020.2.9①=旧:諸戸邸=竣工1908年(明治41年)オーダードリス式オーダー(1階)イオニア式オーダー(2階)https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/keikan/ke12.html1908年(明治41年)に株仲買人の福島浪蔵の別邸として建てられ、当時は建物の北側と東側に和館と庭園もあったそうです。1921年(大正10年)に三重県桑名市の富豪である諸戸家二代目の諸戸清六の別邸となり、関東大震災の際も、被害を受けませんでした。1976年