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天皇家は御嵯峨天皇(在位1242~1246)の後、持明院統と大覚寺統に分かれる。しばらくは交互に天皇をたてていたが後醍醐天皇の時に南北朝に分裂する。後醍醐天皇(在位1318~1339)は子の護良(もりよし)親王とともに鎌倉幕府を倒す(建武の新政)。その時の家臣が足利尊氏、楠木正成、新田義貞、北畠顕家などだった。しかし東国の北条氏残党征伐に際して尊氏は鎌倉で家臣に独自の恩賞を与えた。それを離反とみなした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏を討つように命じる。形勢不利の尊氏は九州へ逃れる。護良
私が自衛隊に在籍していた時は銃剣道という戦技に明け暮れ『気・剣・体の一致』を旗印に「気迫で突け!足で突け!弱音を吐くな!」という掛け声と共に生きて来ました。それから人生の方向性を180度転換し【戦いから癒しの世界へ】と変えて「他人に喜んでもらえる事をする事によって、自分も生かされる・・・」という信念で、34年間癒しの道を歩いて参りました。ここで弱音を吐くつもりはありませんが、今はとても清々しい気持ちになっているところなので、自分の気持ちをそのまま書きたいと思います。皮肉な事です
こんにちは、スタルペスです。この日はかかりつけ病院の受診日です。古墳訪問にはあまり時間がありません。なので近場に設定しなければなりません。そこで今回は熊本市のとなり町「菊陽町(きくようまち)」の古墳にしたいと思います。熊本運転免許センタを過ぎるときれいに圃場整備された畑が一面に広がっています。菊陽町辛川(からかわ)という地域です。この中にポツンと1本大きな樟(くすのき)のあることろが今回の目的地「六道塚古墳(ろくどうづかこふん)」です。※大きな楠(くすのき)の「六道塚
先月、小学校の同窓会で福岡へ行きました時、筑前・多々良の古戦場を訪れました。ーー現・福山市東区足利尊氏は、建武2年(1335)8月中先代の乱で北条時行から鎌倉を奪回したが、11月後醍醐天皇から尊氏追討の命を受けた新田義貞を破り京へ進撃した尊氏は京において、義貞、楠木正成、北畠顕家の連合軍に敗れ九州の東国系守護の少弐、大友、島津を頼り九州に下る。そして九州の天皇方の主力・菊池武敏軍と筑前・多々良浜で対峙する。1)多々良浜の戦い写真①は、戦いの前日1336-3-1尊氏方は神
九州縦断旅行・第二弾は多々良浜です!浜といっても砂浜が広がっているわけではなく現在の多々良川下流域ですこの地では建武期に楠木正成や北畠顕家らに京を追われた足利尊氏が勢力を巻き返すきっかけとなった「多々良浜の戦い」が行われました川沿いを河口から上流へ向けて進んでいきますこの日は日曜日の午前散歩やジョギングをする地元の方が大勢いらっしゃいました川のせせらぎ、水鳥の鳴き声、たまに飛行機のエンジン音…のどかな休日のゆっくりとした時間の流れの中せっせと歩みを進めてゆきます北岸を
2010年8月9日帰省したときに一人で行ってきました。台風の影響もあり、このあと局地的集中豪雨に合いました(ToT)宝物館の館長さんに、尊氏に関するものはありますか?と質問したところ一つだけありますと言われ「藍韋威肩白胴丸(あいかわおどしかたじろどうまる)」という尊氏が多々良川の戦いでの勝利のお礼として宗像家に奉納した鎧兜を見せていただきました。これで、中世の鎧は楠木正成と赤松円心のに続き3つめでしたがかなり保存状態も良いものでした。館長さんによると、他にも戦勝を祈願した尊氏のお手植えと伝わ