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1333(元弘3年)後醍醐天皇は隠岐の島から脱出すると倒幕ののろしをあげるそれに呼応した菊池12代武時は大友氏と鎮西探題北条英時を討つ密約を結ぶそれを察した英時は大友をとり込んでしまう武時はやむなく孤軍で討ち入るべく長男武重を呼ぶ「自分は死を決して討ち入る。お前は菊池に帰り再起せよ。」「故郷に今宵ばかりの命ともしらでや人の我をまつらむ」袖ヶ浦の訣別ですね1359(延文4)北条英時に謀反した少弐頼尚と大友氏時は筑後川北岸で南朝菊池武光らと壮絶な戦いを繰り広げる両軍10万
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り十八」聞いていかれませんか。忠臣が次々に倒れて吉野に寂しい秋がきました。しかし、天皇の御志はいよいよ堅く、北畠親房・顕信らに、義良親王を奉じて奥羽にくだり、官軍の勢を回復せよとお命じになりました。御一行は伊勢から海路をとって東にお進みになりました。不幸にも、途中大風のため、義良親王の御船は伊勢へ吹き戻され、宗良親王の御船は遠江に、親房の船は常陸に着くという有様でした。その年も暮れて、また秋を迎えました。夜もろくろくお休みにならない長い御無理の為でしょ
GWまで後少し何かと混雑するので有給取って一足先に熊本へ城巡り。熊本に来るのは震災前以来、一度予定を立てましたがコロナで飛行機が飛ばず断念。満を持して震災後の熊本城を見る‼️訳では今回なくて💦残り2城となった続日本100名城の鞠智城を中心に回ります。初めての阿蘇熊本空港新しくて綺麗だただ天気は雨でもこれから快方に向かうそうなので少し我慢の走行です。空港はまあまあ高台にあり初日の目的地の鞠智城までは一度下ってからまた登るみたいな運動不足の身には厳しそうな工程です。案の定爆速で下って
菊池市の菊人形菊祭りです菊で「きくまつり」ですね立派に仕立てられてます懸崖も立派ですね丹精込められてます袖ヶ浦の別れは博多の合戦でした武時は武重と武光を菊池へ退却させます場所は櫛田神社の近くの袖ケ浦これが袖ヶ浦の別れですね大刀洗は筑後川の合戦で武光が大友の軍勢と戦い血塗られた太刀を洗った場所今は大刀洗川になっている銅像は菊池武光菊池氏は南朝の主軍団でしたね
熊本は毎日暑い日が続いています。最高気温は35度を超える日々です。全国的には浜松などで40度超え(*_*;どうぞ、皆様命が大事です。ご無理なさいませんように。さて、今日は元気が出るニュースが💖月城さんがインスタを開設されたようです。コメントなどがないのでご本人かどうかとまだ、少し不安ですが一粒万倍日の今日に新しい活動をされるというのはなんとめでたい♪今後、どういう活動をされるのか楽しみでしかないです。写真は菊池武光公午前中にとりましたが暑そう
福岡市南区の住人、ハイジャン男は、昨日、先祖の墓のある三井郡大刀洗町に出かけた。その町の北側に見える山が話題花立山である、先ず、大刀洗町のWikipediaである。大刀洗町-Wikipediaja.m.wikipedia.org南北朝の紛争の頃に、菊池武光が太刀を洗ったことに因む地名である。この一帯は、筑後川の平野部の一部であり、大刀洗町の最高地点は34mという。この近くで山というと、南に耳納連山が見えるが、もっと近くの北側に小高い山がある。それが、花立山なのである。これは、
南北朝時代には日本で屈指の氏族であった菊池氏1247(文永11)武房は元寇で博多に出兵する(文永の役)1333(元弘3)武時は鎮西探題を襲撃し討ち死(袖ヶ浦の別れ)武時の子が武重と武光ですね1359(正平14)武光は懐良親王とともに筑後川合戦で勝利(大刀洗)大刀洗はそのまま大刀洗町として残っている1361(正平16)征西府を大宰府に移す(全盛時代)その後北朝を建てる足利尊氏が優勢に推移していきますね
菊池市で菊祭りが開かれています入場すると菊できくまつりですね大勢の人の力作が展示してあります花は2~3分咲ですねこれからが見頃かな懸崖もなかなかの力作です来週が見頃ですね立体的に造られていますねこちらは普通仕立てで満開ですね
大刀洗という地名の由来の場所福岡県三井郡大刀洗町👆大刀洗伝承の地。👆石段下に降りてみます。👆中世史はとても興味深く、私の大好きな時代です。
こんばんは(・∀・)福岡県那珂川市多次元ライトワーカー光の案内人Greenessence〜緑の滴です。7月2日の内容です。毘沙門天岳城は、久留米森林つつじ公園を目指しました。高良大社、奥の院の先になります。駐車場もあります。ここから高良山山頂を目指しました。高良山頂入口の左側に説明板があります。到着城跡の痕跡など、全く分かりませんでしたが。久留米市街よく見えます毘沙門天岳城の痕跡は、草も生い茂り分かりませんでしたが、この眺めから言うと、北朝の動きがよく見えたでしょ
西鉄甘木線に引き続き、甘木鉄道へ。終点の甘木駅から出発☆毎度のことだが、線路沿いに道があるとは限らない。①甘木駅日本発祥之地卑弥呼の里あまぎの石碑を確認駅前を左へそして庄屋町西信号を左牛木橋渡って斜め左の路地へ(途中線路から離れる)1.9km②高田駅(たかた)線路右側を走り途中で左側へ(これより筑前町)1.4km③太刀洗駅太刀洗平和記念館を覗き見る(ここは太)菊池武光の像を確認(大刀洗の由来)大刀洗飛行場の正門確認(こ
5/16(火)これで初めての宮崎県西米良村レポートはオシマイ。菊池記念館、西米良村歴史民俗資料館見学を終えると昼近くなった。どこで昼食にしようか。西米良は初めてなので不案内。さっぱりわからないが、そのなかで道の駅のような交流拠点・西米良温泉ゆた~とがあるので、行ってみた。食事・温泉入浴・宿泊ができる。お食事処のメニューを見ると、サーモンの刺身、押し寿司などがある。近くにサーモンの養殖がおこなわれているそうだ。そこで“ゆた~と御膳”を注文すると、あら炊きがうま
5/16(火)宮崎県の西米良。菊池記念館を訪ねた。菊池氏は米良一帯を領していた殿さまである。維新後版籍奉還の際、自分の所有山林地をすべて領民に分配してその生活を助けた。その後、東西米良領民は菊池氏に対し一は報恩反始の誠を致し一は、名門菊池家を永遠に顕彰する意味をもって米良十九代武夫公に米良菊池別邸を建設して贈る議が発起せられ、昭和八年七月完成をみた。(米良・菊池記念館ご案内より一部抜粋して引用)菊池記念館の見学は無料、玄関の上り口の活花が上品である。地元女性
5/16(火)宮崎県の西米良へ。あさぎり町の丸池にて池に生える草を眺めた後は、国道219号線をひた走る。あさぎり町、多良木町、湯前町を通り過ぎると、熊本県と宮崎県との境に向けて山の中。2つのトンネルを抜けると、宮崎県の西米良。2つのトンネルは補修工事中でにつき一方通行。工事の係員が赤旗、白旗を振ってゴー・ストップを指示する。トンネルを抜けたところから、数ヵ所、台風、豪雨による土砂崩れが起きたようであった。国道219号については土砂が取り除かれて通行できるが、林道になると
5月初め、うき山の会定例登山にて熊本県と宮崎県との国境にある市房山が予定されていた。これには2つのコースが予定されていて、健脚コース(熊本県水上村)は市房山キャンプ場から市房山へ、ゆっくりコース(宮崎県西米良村)は5合目登山口広場駐車場から市房山へ、それぞれに頂上をめざす。ところが、これが中止になった。土日ともに土砂降りの雨だったから。そしてゆっくりコースを中止せざるを得ない理由がもう一つあった。それは集中豪雨により5合目登山口までの林道が土砂崩れのため通行できないから。これま
懐良は肥後の名将・菊池武光と結び、悲願の九州統一を果たした。そして大宰府を征西府の拠点とし、朝鮮半島の高麗や中国大陸の明と接触することで、全く新しい独立国家の建設を夢見る。しかし、足利幕府から九州探題に任ぜられた今川了俊は、懐良の野望を打ち崩すべく、執拗に軍を進めた――。二十数年にわたる男の夢と友情のドラマを、ダイナミックに描いた一大叙事詩の完結!懐良親王と菊池武光は少弐頼尚を大宰府から追放、大宰府を征西府の拠点となす。足利幕府が九州に送り込んできた斯波氏経をも九州から追放した。
新潮文庫上巻鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇が敷いた建武の新政も、北朝を戴く足利尊氏に追われ、わずか三年で潰えた。しかし、吉野に逃れて南朝を開いた天皇は、京の奪回を試み、各地で反撃を開始する。天皇の皇子・懐良は、全権を持つ征西大将軍として、忽那島の戦を皮切りに、九州征伐と統一をめざす。懐良の胸中にある統一後の壮大な『夢』とは――。新しい視点と文体で描く、著者初の歴史長編。この本をブロガーさんに教えてもらった。それから是非とも読みたいと思いながら、熊本県内の書店を探し、図書館を探したけれど、
タラの芽が出ましたね今年は蕗の薹と天ぷらにしました片栗粉を半分混ぜてカリカリですね、まいうーッ❣菊池公園の本丸跡には菊池神社があります祭神は菊池武時、武重、武光ですねそれ以外の菊池氏も祀られているようです歴史は古くなく明治時代ですね明治天皇の勅命で建立されました南朝の後醍醐天皇についた菊池武時の銅像です太平洋戦争の松尾敬宇中佐も軍神として祀られてますお稲荷さんの一角もありますね近くには十月桜が咲いてます、もともと今の時期かな
熊本県菊池市は郷里の英雄「菊池一族」の活躍をとりあげたイベントを多々行っていて注目しています現在は菊池一族オンラインセミナーが開催中菊池氏については時々blogで書いていますがもともとは沿岸防備の為に(刀伊の入寇など)都から下向した役人の末裔で北九州に地盤を築いた府官系武士団院政期に拡大し源平の戦いや承久の乱など盛衰を経て中世肥後に大きな勢力を持ち南北朝時代には後醍醐天皇の懐良親王が菊池に入り菊池武光の軍事力で11年間征西府樹立後に北朝(室町幕府)に帰順す
さらに南下して久留米市の宮ノ陣神社へお参りしました宮ノ陣とは・・南北朝時代後醍醐天皇は南朝勢力を広げるために皇子たちを各地に派遣しますが建武3年(1336)幼い懐良親王は九州へ向け京都を立ちます讃岐、忽那島(愛媛県中島)を経て興国2年(1341)薩摩に上陸正平3年(1348)熊本の菊池氏の隈府城へ菊池家15代当主の菊池武光は卓越した軍事力で正平8年(1353)針摺原の戦い正平14年(1359)筑後川の戦いで勝利して2年後には太宰府に入り「征西府」を樹立以
今回は福岡市内から南へ向かい南朝遺跡をまわりました最初に向かったのは福岡県三井郡大刀洗町その地名の由来は正平14年(1359)筑後川の戦いで少弐軍に勝利した菊池武光は敗走する兵を追ってこのあたりまで追撃し筑後川を渡りましたが(菊池渡り)が夜明けからの激戦で味方の損傷も疲労も大きいので進軍をやめて川で大刀を洗ったら赤く染まったと昭和12年には菊池武光の像が作られましたこのあたりには大正8年に日本陸軍の大刀洗飛行場ができ昭和20年に大空襲を受けましたが
こんにちは。今回もこのところやってます薩摩遠征からになります。もうしかし、だいぶネタ切れの感じです。そして、今回も戦国の御仁は出てきませんので、エクストラ・ラウンドの2回目という感じでしょうか。今回は、鹿児島にある全国的にも稀な銅像&彫刻美術館からやっていきます。その名も「中村晋也美術館」=彫刻家・中村先生の作品がこれでもかと並ぶ美術館です。今回と次回に分けて「中村晋也美術館」シリーズをやっていきたいと思います。第1回目の今回は「南北朝&幕末明治編」です。どうぞよろしくお願いしま
三社目の菊池神社にお詣り。やはり人出がかなり増えた…と言うかコロナ前に戻りましたね青空とイイ感じの雲をバックに菊池武光公でございますここではいつも福みくじを引いていて初めて3等が当りました!旦那様は左のウサちゃん三社詣りの締めくくりに縁起が良い当りで、大吉もでて夫婦でラッキーな今年の始まりです今年もよろしくお願い致します。休みもあと1日余談ですがホテルに泊まるときはいつも和室かツインを取ります。なぜなら旦那様のイビキがうるさいので今回、耳栓をつけて寝てみたけど
いつか行こうと思いつつ・・気がつくともう10月13日に行われていた「菊池の松囃子」南北朝時代後醍醐天皇皇子の懐良親王は九州に南朝勢力を築くべく幼くして京都を出て讃岐・伊予忽那島・薩摩を経て熊本の菊池武光(十五代)の元に来られ後に征西府を樹立しましたその親王に懐かしい都の舞をと披露したのがこの松囃子(御松囃子御能)の始まりです翁の三番叟にも似て天下泰平を寿ぐ舞です(三番叟は狂言方だけど黄色の足袋ではない様子)舞人1名、大鼓2名、太鼓1名の囃子方と地謡
こんばんは、mmm(まーママ)です。9月11日(日)コッコファームでオムライス食べてお腹いっぱいになったら、ちょっとお散歩。ブログのネタはないかとウロウロ。あったー将軍木熊本県菊池市隈府216-5御所通りの菊池高校正門脇にある椋の巨木です。南北朝時代の南朝方、後醍醐天皇の皇子、懐良親王(かねながしんのう)のお手植えと伝えられ、樹齢650年。頓宮(とんぐう菊池神社秋の大祭初日、神事がおこなわれるそうです。菊池高校はちょう
2022年06月23日長岡城の御城印が発売-長岡市長岡市半紙にお城の名前やゆかりある城主の家紋などがあしらわれた「御城印(ごじょういん)」。長岡藩家老・河井継之助が主人公の映画「峠最後のサムライ」の...戦略シミュレーションゲーム「天下布武戦国志」配信開始!-アキバ総研アキバ総研「天下布武戦国志」は城主として武将を招集し自軍の勢力を広げ、乱世を駆け抜ける戦略シミュレーションゲーム。織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、真田幸村、..G7会場、ドイツの「エルマウ城
今回は熊本県の北に位置する菊池市を訪れます。菊池は人口約45000の小都市ですが、大宰府に近く九州の要所に位置していたので大和朝廷時代にはある役割を担って山城が作られたようです。またこの一帯を平安から室町まで菊池一族が支配しており大宰府に近い事もあって戦も多かったようです。歴史好きにはたいへん興味が湧きます。(2022/06)菊池については初めてなので情報収集のために菊池公園にある菊池観光物産館に寄ってみます。さすが菊池温泉で足湯が迎えてくれます。観光案内所では菊池一族の史跡などについての情
おはようございます最近めっきりさぼっていたジョギングを昨夜頑張りましたたった数キロなのにきつかったー汗スタートは寒いんですけど、その分着込んでるのでゴールしたときは若干汗かくくらいなんですよねやっぱ久しぶりなんできっついなーなんてゴールしたとき思ってたんですけどこんな写真撮れるんならやっぱやってよかったなって現金な私です(笑)素人の私史上、最高クラスの写真だとちょっと嬉しかったですさて、ご当地菊池市も今日も寒いです体調管理に気をつけますでは今日も一日頑張りましょう
こんにちは、スタルペスです。「古墳」と呼ぶのは、古墳時代の墳丘をもつ墓のことを「古墳」と呼びます。概ね3世紀半ばから7世紀頃にかけての墳丘墓のことを言います。古墳時代より古くて墳丘を伴う墓は、たとえ古墳時代より古い墓であっても「古墳」とは呼びません。弥生時代のの墳丘を伴う墓は、「墳丘墓」と呼びます。一方、奈良時代以降の墳丘を伴う墓のことを「墳墓」と呼ぶそうです。今回紹介するのは、南北朝時代に活躍した「懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)」のお墓です。古いお墓ですが、「
こんにちは。今回も前回に続いて令和3年冬の肥後・天草遠征をやっていきます。前回のあんずの丘がある山鹿市から少しだけ南の菊池市からになります。このブログは戦国時代の人物の銅像をテーマとしているのですが、今回取り上げるのは南北朝期の御仁です。そのフォルムがあまりにもカッコイイがため、取り上げることにしました。ですので、今回は特別編ということになります。ご容赦願います。菊池武光(菊池公園)菊池武光さんは南北朝期の御仁、菊池氏の最盛期を築いた御仁とのこと。南朝側に仕え、九州北部の北