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旧三国街道歩きへ、前回は新幹線・電車・路線バスで現地へ向かったが、今回は車にした。行き先周辺のホテルはけっこう混んでいるようだったが、上越線の六日町駅近くのビジホを予約できた。さて、六日町までどういうルートで行くか。カーナビの推奨は、東北道→郡山JCT.→磐越道→新潟中央JCT.→北陸道→関越道だった。ほとんど高速道となるルートだが、地図で見ると少し遠回りになる。いろいろ考えて、それよりは距離の短い庄内平野を通るルートにした。23.5.19(金)朝、盛岡を出て高速に入り、東北道・秋田道を通
攻城日:2018年11月29日↑本丸内部①↑荒戸城は、新潟県南魚沼郡湯沢町にある城跡デス♪↑柴原トンネル手前の城跡案内板&標柱↑城跡は、JR上越新幹線/上越線越後湯沢駅の南西およそ3.5kmにあり、現在は山林となっています。↑旧三国街道の城跡標柱↑丸3日間、新潟~長野の山城を攻めまくったこの時、一番最初に訪れたのがココ荒戸城でした♪関越トンネル手前(トンネルを越えるとさすがに寒そうだったのでww)の谷川岳PAで車中泊し、夜明けと共に攻城開始...って、とても今ではマネ出来な
1月9日図書館の本の譲渡会に行ったついでに気になっていた荒戸城に行ってみる事に先ず手前にある神社は善光寺の別院だったここで下の景色を見ながら座禅をしたりと言う観光ツアーも新聞で紹介されてたここからの眺めは抜群天気が良かったら最高直ぐ近くの神社にも⛩参拝老夫婦にはその必要も無いけれど(笑)子供たちのために、、、御神体は撮影禁止🈲撮影しても人目には出せない🤣皆んなに触られて⭐️ピカピカそして荒戸城櫓の上からの眺めは更にいい寒さが🥶冷たい風が❄️何年か前に綺麗に改
今回は、現在の新潟県南魚沼郡湯沢町にあった城、荒戸城です。湯沢町は人口約8千人の町で、南魚沼郡唯一の自治体となっています。川端康成の小説「雪国」の舞台となったことで温泉地として一気に知名度を上げ、バブル期には多くのスキー場やリゾートマンションが建ち並び、別荘地としても栄えました。東京都湯沢町なんて呼ばれたこともありましたね・・・。大和町、六日町や塩沢町(いずれも現在の南魚沼市)との合併も視野に入れていたようですが、合併しない選択をして現在に至っています。荒戸城跡へは、越後湯沢駅から南越
史跡めぐりの記事です。今回は、大河ドラマの「風林火山」や「江」でロケ地となった長野県千曲市にある荒砥城です。荒砥城(あらと)城は、当地一帯を治めていた地方豪族“村上氏”の支族にあたる“山田氏”により、大永4年(1524)に築城されたと伝えられています。村上義清の本拠地である葛尾城も、千曲川の対岸にあり、支城として役割を果たしました。村上氏は、武田氏と激戦を繰り広げ2度撃退しましたが、天文22年(1553)には武田信玄により葛尾城が落城すると、武田氏に従った屋代政国に与えられました。以後、
今回訪れたのは長野県千曲市の荒砥(あらと)城です。途中見えた車中からの浅間山この城は戦国時代、村上氏の一族・山田氏の城で、武田信玄との戦いで山田氏が滅亡後は武田氏が、川中島の戦い以後は上杉氏が治め、まさに戦国の真っ只中を戦い抜いた山城です。一旦テーマパークが建設され、遺構はだいぶ破壊されてしまいましたが、櫓や門、屋敷などが復元され中世山城の姿が再現されています。駐車場から歩いて入城案内所に城碑と門があります。入城料300円です登っていくとまず櫓が見えます。そして復元門門を抜ける
10月6日7日新潟遠征をして参りました。6日は、新潟が10月としては国内最高気温を記録した日にあたります。暑かったです。北条城→与板城→黒滝城→栃尾城→雲洞庵→荒戸城7日は雨に見舞われました。鮫ケ尾城→林泉寺→春日山城よかったのは、鮫ケ尾城と春日山城です。1.北条城以下のサイトを参照し、中腹で大手道と林道が交差するところまで林道を車で登りそこに駐車。https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-z
今週末1泊2日で越後遠征します。天気予報は今一ですが、もう2回も2部屋づつキャンセルしている宿をまたキャンセルする勇気がなく、多少の秋雨なら登る覚悟です。きつい山もないので。鮫が尾城→春日山城→北条城→与板城→黒瀧城→栃尾城→荒戸城直峰城、樺沢城、坂戸城、犬伏城、浦佐城は済ませていますので今回素通りです。春日山も済ませていますが同行者が済ませていないので参ります。9月26日追記キャンセルしました。いっしょに行く同僚に仕事が入りまして。宿の人ごめんなさい。9月29日追記1
いつも一緒に山城めぐりに行ってくれる同僚が、かなり前から春日山城プランを考えてくれと言っています。私は既に訪城済なのであまり気のりしていませんでした。4月中旬に西播磨遠征につれ出した折に、あらためて「春日山に!」というものですから、プランを考えることにしました。深夜岐阜発6時春日山城8時鮫ヶ尾城10時北条城13時与板城15時黒滝城長岡市泊10時栃尾城14時坂戸城or荒戸城(同僚は坂戸、自分は荒戸)↑書くと短いのですが、歴史の舞台として興味深い城を探し
台風22号の週末土曜出勤からそのまま関越へ雨ではない湯沢で降りて、急げぇ~登城口発見駐車スペースは十分にあったので安心して散策start気持ちのよい道をテクテク進み撮影point紅葉6時に車で家を出て道が混んでてイライラ職場から大泉に行くまでも混雑途中群馬を過ぎるまでは小雨だったけど湯沢まできたら天気予報通り疲れも一気に吹っ飛びました奇跡的にうっすら太陽目印であった芝原トンネルを見下ろす意外と長い道中でしてねクネクネだいぶ上がってきましたよ車が見えたので嫌な
昨日は、こころ号で歴史ツアーに行ってきました!ガイドは、通称歴史マニアの田村さん(旧姓上田さん)。上田さんは、去年まで越後湯沢駅西口のはたご井仙のむらんごっという飲食店で働いていましたが、去年結婚して婿入りし、義父のやっていた湯沢中里の民宿ヴィラグリーングラスを継いでいます。今回は歴史ツアーということで、神社が多かったですね。そして、湯沢町の某所。場所はナイショです!ひかりごけのキレイなところです。写真じゃわかりづらいかな?地元の人から、場所が分かるとヒカリゴケを取りに来る人がい
天正6年(1578)5月。越後で御館の乱勃発の第一報が入った時、小田原北条家当主・北条氏政は、常陸小川台で“坂東太郎”こと佐竹義重率いる佐竹・宇都宮連合軍と対陣していました。急報は彼の末弟・上杉三郎景虎からの救援要請とセットだったに違いありませんが、精強な佐竹勢を眼前にしていた彼にとって、これは舌打ちしたくなるほどのタイミングの悪さだったでしょう。氏政は自身が動けない間、ともかく同盟国・甲斐の武田勝頼に景虎への援軍派遣を依頼。ところが勝頼は援軍を出したものの、上杉景勝が提示した「金一万両
2016.07.31第69回を数える上越の高田高校全校登山を案内しました立山や尾瀬、妙高、白馬の他コースの中から苗場を選んできてくれた37名の皆楽しい思い出を作っていって欲しいです13:30道の駅みつまたで乗り換えて荒戸城駐車場いつも勉強している皆にはたまには森林でリフレッシュして貰いましょう400年前の攻防を思い描きながら歩きます攻守に分かれて実際にお城を攻めても面白いかもですね^_−☆馬出、虎口、竪堀、土塁など防御しつつ攻撃できる先人の知恵を学びました16:
2016.07.25来週の高田高校に備えて荒戸山(荒戸城)に下見に行ってきました一番上の広場が本丸時は戦国天正6年(1578)謙信が春日山城で脳卒中で急死その直後上田長尾氏の「景勝」とはじめ北条氏の人質であったが謙信の幼名を拝し養子となった「景虎」との間で跡目争い“御館(おたて)の乱”が勃発越後と関東の要衝として景勝が荒戸山に築かせたのが荒戸城です景勝の補佐直江兼続は愛の前立で有名ですね道はよく整備されています大手口より入城ちなみに荒戸は荒砥で近くの川で砥
その2では水色丸内の主郭から二郭、大手口を紹介します。その1で紹介した搦手口は関東からの侵攻にたいする守りの備えであったのに対し、大手口は機を視て搦手から攻める敵の背後から挟撃するため、出撃する意図を持った備えのようです。現地説明版の縄張り図に加筆し、学習研究社発行戦国の堅城Ⅱ、斎藤慎一著中世を道から読む、大家健著図説中世の越後を参考に紹介します。西から見る主郭右側が南面。土塁が囲い、切り口は三郭への虎口。正面が東面。土塁が囲い、切り口は二郭ー大手への虎口。右隅(東南隅)は櫓台
荒戸城は関東と越後を結ぶ街道である三国街道を芝原峠で扼し、関ー越間の情報や人を留め、街道を監視する役割を担います。有事には越後への侵入を阻む前線拠点となります。御館の乱の最中、景虎の実家小田原北条氏の侵攻に備える天正六年七月、景勝が上田衆に発行した文書に、あらと(荒戸)が見えます。「関堺目あらと・直路ニ地利ヲ取候、如何ニも人数相集放戦可成之由申付」「直路・あらと山取立、普請早々出来候様ニ可相稼候」直路は清水越えを監視する直路城。現地説明版の縄張り図に加筆し、学習研究社発