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三国志秘密の皇帝Tver無料配信対応のTOKYOMX再放送終了ということで…。中国の歴史は、それを区分すると春秋戦国時代から秦漢、そして三国時代から南北朝時代を経て隋唐による再統一までを古代。五代十国の混乱期を経て北宋の統一から元・明・清と続く統一王朝の時代を近世とする考え方があるそうです。この時代区分の背景や中国における思想(黄老思想や儒家思想)を紐解くと、本作の見え方が変わるように思います。三国志マニアとして有名な渡邉義浩教授による歴史解説動画。その他三国志関連の解説動画
さて張繍との第2ラウンドに向かう曹操軍、兵士たちは喉の渇きに苦しみますが…後世の兵学者はこれを褒めたたえたそうですが…実際山を越えて梅の林が無かった時の失望感はどう処理するのさ(笑)そんなわけで曹操vs張繍、曹操はこんな兵器を持ち出します。まぁ…やりたい事は分かりますよ。分かりますが、舗装されてもいない道でこんなの動かしたら横転間違いなしでしょ(笑)一方の張繍軍も迎え撃つ準備万端。これが煮えたぎった油ならどーにもならない気はしますが、熱湯ならまだなんとかなりそうな気もしなくはないですな
「は?」この男は時々、面白半分で妙なことを言う。「ねえ、文若殿。ちょっと甘えてみてくれませんか?」「何かあったのですか?…………………郭嘉。」唐突なようだが、ふって湧いた思いつきを即、口にしたわけではあるまい。にっこりと笑って見せてはいるが、余計な賢さを備えているだけに一体何を企んでいるのやら。「いえね。あなたはいつも私のことをとても甘やかしてくれるから、たまにはお返しをしなければと思って。」「身に覚えがありませんが。」「それでは私の一方的な思い込み?だとしたら寂しいなあ。」言葉
荀彧文若(163年~212年)・国家戦略の基本方針を曹操に進言したり、許都で留守番しながら「侍中尚書令」として曹操の意向を朝廷で実現させる役を担っていた。・若い頃から「王佐の才」と称され、特に政治的な洞察力に優れていた。・軍事面では、曹操軍の兵站を担当する事もあった。・ただ、彼は漢の愛国者であって漢朝復興が第一目的だった。人生の終盤で曹操の魏公には大反対して曹操に恨まれた。賈詡文和(147年~223年)・知恵と策略に長
原題:三國機密之潛龍在淵NHK-BSで吹替版を放送中の三国志秘密の皇帝三国志秘密の皇帝あなたはこの秘密を守れますか亡き皇帝と入れ替わった双子の弟が、愛と民のために闘うもう一つの三国志ロマン[全33回]後漢(ごかん)末期、王朝の第14代皇帝、劉協(りゅうきょう)[献帝(けんてい)]の時代。漢王朝が衰退し、曹操(そうそう)、孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)ら群雄が割拠するなか、劉協は曹操に擁護され都を許都(きょと)に移した。だが、劉…www.nhk.jp後漢最後の皇帝・献帝(実は
サバ:八洞神仙レベ:206ボス:2020戦役:2020(1.1647億、68-52)サブ:1590(20%,68,100%)訓練:36-9クリア異境:-闘技:1皇室:57元宝:64830精華:153覚醒:10888神髄:393封憶:魏296、蜀319、呉349、群321、華439、和438、洋425(+1)。ダン:Lv.132(+2)。戦力1653万。学術:魏46.5、蜀47.5、呉47.5、群47.5、華47.5、和47.5、洋50.0。工房:木慢18、雲
荀攸三国志!じゅんゆう能力、策の内容、賈詡郭嘉、官渡の戦いも解説三国志の曹操の張良な荀彧の親戚には、軍師...history-ancient.com
文醜!官渡の戦いぶんしゅう、関羽かゆう、顔良、じゅんいくも解説三国志の文醜は、武神関羽に匹敵する武将で...history-ancient.com
ていいく三国志!程昱能力、曹操荀彧、徐庶、逸話、赤壁の戦いも解説三国志の曹操の奇抜な軍師と言えば、程昱で...history-ancient.com
我が子房荀彧!意味、曹操、軍師張良、美人、最後、郭嘉諸葛亮も解説三国志の超世の傑曹操は、軍師荀彧が前漢の...history-ancient.com
三国志じゅんいく!荀彧の推挙能力、荀攸、郭嘉、司馬懿、劉備も解説三国志の曹操の有能な参謀として荀彧がおり...history-ancient.com
サバ:八洞神仙レベ:200ボス:203討伐:202(1.0194億、68-52)サブ:190(20%,68,100%)訓練:36-4異境:-闘技:2皇室:-元宝:43948精華:83覚醒:1646神髄:13登用:なし。収穫:なし。力点:○クレオパトラの髪飾り・恋慕(10)。○鬼谷子の耳飾り・恋慕(10)。○アポロの靴下・恋慕(10)。○クレオパトラの日月神装備腰当の伝説神器(24)。○アポロの聖淵装備矢の進化(180)。○アポロの聖淵装備矢の強化値(180)。○
過去のブログから、どの記事をリメイクしようかと、いろいろ迷ったのですが、今回は魯仲連(ろちゅうれん)先生のお話にしようと思います。このブログは、2013年5月5日に書いたものですが、その時の文章があまりにダラダラと長くて、おそらく半数以上の人が読む気をなくしてしまったのではないでしょうか。ですので、今回はそれを何回かのブログに分けて、リメイクしますね。魯仲連が登場する時代は、中国の春秋戦国時代です。前に綴った韓信が活躍した「項羽と劉邦」の時代よりもはるか前……今、原
玄徳が、その一族と共に、劉表を頼って、荊州へ赴いたのは、建安六年の秋九月であった。劉表は郭外三十里まで出迎え、互いに疎遠の情をのべてから、「この後は、長く唇歯の好誼をふかめ、共々、漢室の宗親たる範を天下に垂れん」と、城中へ迎えて、好遇すこぶる鄭重であった。このことは早くも、曹操の耳に聞えた。曹操はまだ汝南から引揚げる途中であったが、その情報に接すると、愕然として、「しまった。彼を荊州へ追いこんだのは、籠の魚をつかみそこねて、水沢へ逃がしたようなものだ。今のうちに――」
荀彧さん。三國志のゲームでは贔屓にしてる。身を粉にして働く姿が胸を打つからだ。でもなぁ~曹操の魏公就任に反対したことで曹操と対立し、晩年は不遇だったよな。「空箱」の話は泣ける。。。。。曹操の群雄時代には劉備に官職を与えて見返りに呂布を討たせる「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」といった奇計を編み出すところなんか、天才だわ。最期は魏公冊立をめぐって曹操と対立し、自害するという結末って。おかしいよ。残念すぎる。そこが曹操の事があまり好きになれないところだわ。
袁紹の臣沮授は、主君袁紹に諫言して、かえって彼の怒りをかい、軍の監獄に投じられていたが、その夜、獄中に独坐して星を見ているうちに、「……ああ。これはただごとではない」と、大きくつぶやいた。彼の独り言を怪しんで、典獄がそのわけを問うと、沮授はいった。「こよいは星の光いとほがらかなのに、いま天文を仰ぎ見るに、太白星をつらぬいて、一道の妖霧がかかっている。これ兵変のある凶兆である」そして彼は、典獄を通して、主君の袁紹に会うことをおしきりに――しかも、火急に嘆願したので、折から酒をのん
ここに、袁紹の軍のうちに、許攸という一将校がいた。年はもう相当な年配だが、掘子軍の一組頭だったり、平常は中隊長格ぐらいで、戦功もあがらず、不遇なほうであった。この許攸が、不遇な原因は、ほかにもあった。彼は曹操と同郷の生れだから、あまり重用すると、危険だとみられていたのである。酒を飲んだ時か何かの折に、彼自身の口から、「おれは、子供の頃から、曹操とはよく知っている。いったい、あの男は、郷里にいた時分は、毎日、女を射当てに、狩猟には出る、衣装を誇って、村の酒屋は飲みつぶして歩くとい
郭図、審配の二大将は、憤々と、袁紹の前に告げていた。「怪しからん沙汰です。このたび文醜を討ったのもやはり玄徳の義弟関羽だということですぞ」「それは、まったくか」「こんどは漢寿亭侯雲長関羽としるした小旗を負って、戦場へ出たそうですから、事実でしょう」「玄徳を呼べ。いつぞやは巧言をならべおったが、今日はゆるさん」度かさなる味方の損害に、気の腐っていた折でもある。袁紹は、やがて面前に玄徳を見ると、嫌味たッぷり詰問した。「大耳君、弁解の余地もあるまい。袁紹は何も言わん。ただ君の首を要求する
次の日。曹操は、千余の騎兵をしたがえ、車馬の行装ものものしく公然と、国舅董承の邸を訪問した。董承に対面を強いて、客堂で出会うとすぐに曹操は彼にただした。「国舅のお手もとへは、予から出した招待の信箋が届かなかったであろうか」「いや、ご書箋はいただいたが、折返して不参のおもむきを、書面でお断り申しあげてある」「昨夜の会に百官みな宴に揃いながら、国舅ひとりお顔が見えん。いかなるわけでご不参だったか」「されば、昨年からの痼疾の病のため、心ならずも」「はははは。卿の病は、吉平
ええ、絶賛仕事中ですが、ちょっと皆さんの裏をかけて嬉しかったのでプチ更新ね(*ノωノ)貫通に依らず、編成の妙で上手く強いのが組めたと思います。どこをどう裏をかいたのかは対戦してみて下さいな(;・∀・)あん?どうせすぐ都落ちするんだろって?いいんだよ、一瞬でも1等賞取れたらそれで(`д´)bオッケー!では今回はここまでどすえ(*´ω`*)シーユー
歳をいえば、曹操まだ男ざかりの四十代で覇心いよいよ勃々たるものがある。彼をして、かくも迅速に、今日の大を成さしめたものはもちろん彼自身の素質だが、それを扶けたのは彼をめぐって雲のごとく起った謀士良将の一群であり、とりわけ荀彧のような良臣の功も見のがせない。荀彧は常にかれの側にいて、実によく善言を呈している。いまの彼は曹操の片腕ともいうべき存在であった。その荀彧はどんなに老成した人物かというと、曹操より七ツも年下で、まだ三十代の人物だった。潁川の産れで家柄はよく、後漢の名家の一
こんばんは!!ブライダルナカノの愛植男です!世界中から集めた愛の名言集♥今日の名言はこの方誠にその才あれば弱と雖も必ず強し(本当に才能のあるものは今は弱くても必ず強くなれる)荀彧魏の曹操の筆頭軍師。軍師というより、内政官で策士で人事官。彼の功績により曹操は成り上りましたが、晩年は彼の頭脳を怖がったようで無理な北伐に従軍させたためか、荀彧は北伐中に病で亡くなりました。官兵衛も晩年秀吉に煙たがられました
もぉ~早い早い(゚Д゚)ドルァ!!新武将の登場ペースが早すぎるんよ!!もうさ、ひと月に2人ぐらいにしてくれんと、前回の新武将が育ち切ってないから強さとか全く把握しきれんっちゅーの(゚Д゚;)まぁ、とりあえずアーカイブだけはしとくからな!!【貂蝉】【荀彧】【韓当】さてと、まぁ軽ぅ~く説明を読んだうえでスコっとだけお試ししたんだけど、貂蝉の中枢範囲が広くて奥義の威力がデカいのと、荀彧が周年献帝の魏バージョンでデバフ持ちってのはわかったけど、韓
日ならずして、禰衡は、荊州の府に着いた。劉表は、旧知なのでさっそく会うことは会ったが、内心、(うるさい奴が来たものだ)と、いう顔つきである。禰衡の怪舌はここでも控え目になどしていないから、使者の格で来た手前、大いに劉表の徳を称しはしたが、一面またすぐ毒舌のほうで相殺してしまうから何にもならなかった。劉表はこころに彼を嫌い、うるさがっていたので、態よく、江夏の城へ向けてしまった。江夏には、臣下の黄祖が守っている。黄祖と禰衡とは、以前、交際があったので、「彼も会いたがっているし
実に、とんでもない漢を、推薦してしまったというほかはない。人の推挙などというものは、うっかりできないものである――と、ひとり恐れ悔いて、当惑の色ありありと見えたのは、禰衡を推挙した孔融であった。その日、そのせいか、孔融はいつ退出したか、誰も知らなかった。あとに残った人々の憤々たる声や怒るつぶやきはやかましいほどだった。張遼のごときは、わけても憤りが納まらないで、曹操に向って、「なぜあんな乞食儒者に、勝手な熱をふかせて、丞相たるあなたが斬捨てておしまいにならなかったのですか」と、
荊州の劉表(湖北・湖南を領す。州治は襄陽)は、諸国に割拠する群雄のうちでも、たしかに群を抜いた一方の雄藩であった。第一には、江岸の肥沃な地にめぐまれていたし、兵馬は強大だし、かつては江東の孫策の父孫堅すら、その領土へ侵入しては、惨敗の果てその身も戦死をとげ、恨み多き哀碑を建てて、いたずらに彼を誇らせたほどの地である。――で、当然のように。曹操から派遣された誘降の使者は、劉表の一笑に会って、まるで対手にもされず追い返されてしまったのである。その経過を聞いて、張繍は、曹操に随身した
その頃、北海(山東省・寿光県)の太守孔融は、将軍に任命されて、都に逗留していたが、河北の大軍が、黎陽まで進出してきたと聞いて、すぐさま相府に馳けつけ、曹操に謁して、こう直言した。「袁紹とは決して軽々しく戦えません。多少は彼の条件を容れても、ここはじっとご自重あって対策を他日に期して和睦をお求めあることが万全であろうと考えられますが」「貴公もそう思うか」「勢いの旺なるものへ、あえて当って砕けるのは愚の骨頂です」「旺勢は避けて、弱体を衝く。――当然な兵法だな。――だがまた、装備を誇
やがて陳登は、宵闇の道を、驢に乗って出て行った。そして玄徳の旧宅を訪れたが、玄徳には会わず、関羽、張飛のふたりを呼び出し、車冑の企てをはなした。そう聞くや否、張飛は、「さては先ほど、白々しい礼を執って、観月の宴に、お招きしたいとかいって帰った使者がそれだろう。小賢しい曲者めが」と、すぐにも軽騎七、八十を引具し、城内へ突入して、車冑の首を引きちぎってくると、はしゃぎたてた。「あわてるな、敵にも備えのあることだ」関羽は、彼の軽忽をたしなめ、一計を立てて、夜の更けるのを待った。「家兄