ブログ記事35件
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
大阪府茨木市を訪れた続きです茨木市元町に祀られている茨木神社、天満宮の左側にも、末社が祀られていました天照大御神を祭神とする皇太神社です小さな狛犬さんがお守りしていますが何か驚いていますよ~セメントで補修されていました本殿の後方にも神社が祀られています最初に創建された天石門別神社(あめのいわとわけじんじゃ)、祭神は、天手力男命奥宮として祀られていました明治5年(1872)、明治の社格制度により茨木神社が郷社に列せられます
関です。この前仕事で、茨木市内を徒歩で移動している時、めっちゃカッコいい小学校に偶然たどり着きました。正門がこんな感じ。え?城?それもそのはず、これ茨木城の櫓門なんですって。何処か地方で城跡が小学校や市役所になっているところも多いけど大阪府内の結構な都会の町中に現れるとびびります。うらやましいなここの小学生。
訪問日:2024/6/15【場所】大阪府茨木市【築城年】不明【築城者・改修者】茨木氏、中川清秀【城郭様式】平城【主な城主】茨木氏、中川清秀、片桐且元【見所】①復元櫓門②移築搦手門【廃城年】1616年(一国一城令による廃城)【御城印の有無・販売場所】なし【アクセス】阪急茨木市駅より徒歩15分【駐車場情報】市営中央公園駐車場【周辺観光施設】茨木城は建武年間(1334年〜1336年)に楠木正成公が築いたと言う説もありますが、定かではなく諸説あって不明です。主な城主として
8月31日ついに今日で8月も終わり夏休みも終わり。そして夏休みの最終日と言えば"終わっていない宿題”です。ワタクシにも1つだけ宿題が残っています。気に留められていた方は一人いらっしゃらないでしょうが(苦笑)8月5日の茨木探訪の続き、第三部。何と4週間前!でもこの書き残しが個人的に気になって気になって^^;;やっと時間が出来たのできちんと書きます、忘備録ブログ。誰も待っていなかった無駄に長い茨木探訪と茨木城のお話、スタートww
「茨木城跡」(大阪府茨木市片桐町)を訪問郡山(白井河原の)合戦(当連載No.6参照)で荒木村重は茨木佐渡守を、中川(瀬兵衛)清秀は和田惟政を討ち取り、茨木氏は滅亡しました。清秀は、村重の従兄弟です。「中川年譜」をはじめ、通説では郡山合戦直後〜清秀が茨木城主になったとされています。しかし、元亀四(1573)年5月27日付のフロイスの書簡には「〘元亀四(1573)年4月〙茨木主の荒木信濃」との記載があります。また、村重は、織田信長方に移行するまでは、池田家中の最有力者でした。池田城主は池
2023年1月24日吹田・茨木ぶらり旅、片山神社に続いて茨木神社に行ってきました恵比寿神社、御祭神は事代主命、大国主命向かって右から多賀神社、主原神社、天満宮皇太神社愛宕神社天石門別神社皇大神宮稲荷神社黒井乃清水茨木城搦手門茨木童子!
茨木城の歴代の城主に中川清秀、片桐且元がいる。場所は、阪急京都線の茨木駅から北へ徒歩約8分。(御城印は無い)茨木小学校の校門横にある復元された櫓門がある。廃城後の櫓門は、奈良県郡山にある慈光院に移築された。茨木神社に移築された搦手門住宅地にあり、特に遺構は見当たらない。
6月4日の午前に高松城を発った秀吉は山陽道を東へ、まず、織田方へ転じていた宇喜多氏の居城沼城(岡山市)を目指しました。途中、高松から8キロほど先の野殿(同)というところまで退却したところで、摂津茨木城主・中川清秀からの書状を受け取りました(『梅林寺文書』)。摂津衆の中川はおおむね信長が光秀に討たれた事実を知っていたと思われますが、今後どう立ち回るべきか悩み、畿内から最も近いところで大軍を抱えていた秀吉の動向を知ろうとしたのでしょう。秀吉は中川ら摂津衆の動揺を鎮めるため、
今回は2008年に京都駅で撮った画像などです。京都駅の山陰線ホームで撮影した113系5300番台(ワンマン対応車)です。(2008年6月)京都駅の山陰線ホームで撮影した183系の特急「はしだて」です。(2008年6月)特急「はしだて」に組み込まれていたクモハ183-200番台です。(2008年6月)2009年に京都駅で撮影した183系時代の特急「きのさき」です。(2009年7月)先頭車両は改造車のクロハ183でした。昔のクロ181(クロハ181)のような立派な車両とは異
〖コロナ終息祈願!!〗⚫ちょっとテスト的に復活。⚫【戦国庵】紋次郎のオリジナルアイテム通販∞SUZURI(スズリ)#suzuri∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞〖ニッポン城めぐり歴史クイズ〗【本日の問題】大坂冬の陣の直前、片桐且元が大坂城を退去した際、弟の貞隆は次のうちどのような行動を取ったか?◎兄とともに茨木城へと退去した○兄の行動を恥じて切腹して果てた○兄の行動を糾弾して縁を切った○兄の間者として大坂城に留まった答え:◎兄とともに茨木城へと退去した【解説】片桐且元と
村重が有岡城を出て尼崎城に向かった事実について、大雑把な言い方としては、「有岡城主の村重は信長勢に追い詰められたので、妻子や家臣を見捨て、大切な茶器を抱えて有岡城から逃げ延びた人物だ」とまとめられることがある。信長側からみれば、人質となった妻子や家臣の命と引き換えに降伏しなかったことは「見捨てた」ということであり、村重は最終的には毛利方に逃れたので「逃げ延びた」としてこれら事実を繋ぐことはできるだろう。(図メモ書き)村重が動いた理由や事情を史実と照しあわせながら追っていくと、尼崎城に向
昨日の続きで最終回です。茨木市立文化財資料館の一部の資料を紹介しています。今回は中世からです。茨木城周辺の国人分布図です。荘園の管理をしていた荘官たちは、近隣の荘官と土地や水問題で揉め事が多発します。10世紀頃から中央貴族に頼らず、荘官たちは城館を造り、武装して争うようになります。中央貴族・朝廷が制御出来ない豪族で、国人と言うようになります。弱小な国人たちは中央貴族や、有力な国人に頼ります。源氏や平氏がその代表です。平家物語に出てくる、茨木の武士太田
昨日の続きです。今回は南端の外堀までです。外堀と言っても城下町を囲むものなので、惣堀的な外堀です。幅は数m程度の狭いものです。下図⑪から南(下)方向です。道の左側は内堀跡で、右側は武家屋敷跡です。上が北の地図です。上図D地点まで歩くと右側は下図にある梅林寺です。江戸時代の茨木村字名地図です。E付近の案内板という所にあります。上を北にしたので字が逆さまです。字名地図解説板です。上が北の地図です。上図DからE方向です。黑い服の方付近
昨日の続きです。今回は楼門周辺です。下図⑫の復元楼門のところに戻りました。人が通ったので、門の大きさが分かると思います。馬に乗って通れるかは微妙ですね。⑳のところが旧馬引口町なので、城郭中心部へは下馬して、内堀を渡り入ったのでしょう。茨木市立文化財資料館の資料です。(上が北)上図Aには小学校内ですが、ここに片桐且元在城の石碑があります。昭和3年に建てられた、片桐且元在城の石碑です。校内に入らないと撮影出来ません。(茨木市立文化財資料館より)
昨日の続きです。今回は茨木城の北端はどこ?です。下図⑤から⑥方向です。上図⑥付近です。右側の道が下図Aにある外堀跡の水路跡と考えました。幕末1843年の茨木村地図です。さらに進むと下図⑦から⑧方向です。上図の⑧付近三叉路です。⑧から見た三叉路です。赤い→に沿って左の道へ行きます。茨木街道支線の石碑があります。旧北市場町という字地でした。石碑を拡大した写真です。街道というのは町に入ると、道がたくさんあるので支線
昨日の続きです。今回は旧馬引町から古田織部屋敷跡までです。下図⑳から楼門方向です。遠くに楼門が見えます。妙徳寺から⑳まで歩きました。妙徳寺が以前からここにあったとすれば,外堀の外なので、妙徳寺が中川氏関連のお寺なのだから、外堀はやはり片桐氏の時代に造られたものでしょう。⑳の交差点を渡った所です。旧東馬口引町の石碑があります。旧東馬口引町の石碑です。Bの所に行くとB地点です。ここから右に行き上図①へ行きました。番号が①に戻りました。2
昨日の続きです。今回は天守台跡内堀から外堀と妙徳寺・中川清秀です。下図⑯から⑰方向です。この道の右(南)側が内堀で、左(北)側が武家屋敷地でした。屋根にブルーシートがある家が見えますが、数年前の台風のためでしょう。茨木市立文化財資料館資料より引用みどりの木が加筆しています。上が北です。⑰の方に歩くとさらに⑰まで歩くと下図⑰の交差点です。さらに直進します。⑱の所に外堀跡の溝があります。上が北です。⑱から北方向の外堀跡の溝です。
昨日の続きです。今回は楼門から天守台跡です。下図⑫にある復元櫓門(楼門)です。前回での解説板では、櫓門とありましたが、楼門と呼ばれています。裏に回ると裏側から見たところです。オリジナルの楼門は、奈良県大和郡山市の慈光院山門として残っています。茨木城の楼門だった慈光院山門です。(慈光院Webページより)このお寺は片桐且元の甥により建てられました。上が北の地図です。⑫から⑬の所に行くと⑫と⑬の中間地点です。道路の右側には内堀がありまし
昨日の続きです。今回は堀代わり茨木川跡から楼門までです。下図⑥付近です。左端の石碑は六軒町橋跡碑です。この付近から茨木川の水を内堀に取り込んでいたようです。水色で堀跡を塗りました。1843年の茨木村絵図です。堀跡らしき水路を水色で塗りました。水路は後日紹介します。六軒町橋の附近から川の水を引き入れています。茨木城想像図です。(上が北)⑤は上図と同じところです。上図⑥から⑦に歩くと下図⑦付近です。右→で茨木城跡の標識があります
昨日の続きです。今回は茨木神社です。下図①の鳥居です。1615年頃と現代の重ね図です。茨木神社は由緒書によると、大同二年(807年)坂上田村麻呂が荊切の里をつくりしとき、天石門別神社が鎮座された」と伝えられています。「荊切の里」は下図の宮元町付近だそうです。グーグル地図です。平安時代の927年に編纂された延喜式巻第九に摂津国嶋下郡十七座の一つとして、天石門別神社の名が記されています。それは、天石門別神社が編纂当時に、官幣社として尊崇され、茨
昨日の続きです。今回は本願寺別院から茨木川までです。阪急茨木駅前にある本願寺茨木別院です。解説板です。1603年に創建されました。1601年に片桐且元が城主になったので、その2年後のことです。1615年に廃城になりますので、1603~1615年の茨木城想像図です。今回は本願寺別院から茨木川まで歩きます。本願寺別院の鐘楼です。道なりに歩くと茨木神社です。現在との重ね地図です。発掘調査から出来た地図です。本堂です。本堂正面です。
画像を追加したので再UPしました。今回から茨木城の紹介です。2022年1月8日に訪問しました。茨木(いばらき)城は大阪府茨木市にあった城です。南北朝時代1334年~1336年に楠木正成がが家臣に築城させたと言われますが、明確な証拠がありません。室町時代1428年に茨木氏が文献に登場します。1482年に摂津で国人一揆が勃発、修験道に熱心な細川政元が鎮圧に乗り出します。同年6月に三宅城を攻略、ついで同年7月には茨木三郎が守る茨木城も攻略し、同年10
おはようございます昨日も朝早くからの雷雨⚡☔と夕方の急な激しい雨お出かけの予定が立てにくいですさて昨日のブログで『やぐら門』について書きましたがhttps://ameblo.jp/bluebird411/entry-12686482808.html『母校の『やぐら門』』おはようございますここ最近急な雨☔や雷⚡が…と、ここまで昨日書き終えて予約投稿してたのですが…今朝は5時を回ってから雷⚡と激しい雨になっていますではここから…ameblo.jp茨木城の跡地に建てられた
茨木市の歴史講座を受講してきた。テーマは、片桐且元、茨木城に入る❗片桐且元は豊臣秀吉の側近だった武将で、賤ヶ岳の七本槍の1人でもあった人物。加藤清正や福島正則ほど有名ではないけど、知る人は知る的な武将ですね。豊臣の家臣だったのに、大阪城が落城するときには徳川方に寝返ったのではと言われています。いよいよ切羽詰まって大阪城から出て弟がいる茨木城に入る道程を、文献などから推測して、この道をたどったのではないかという講座でした。片桐且元を有名にしたのは坪内逍遙が「桐一葉」を書いてお芝居になっ
こんばんは☆彡絢香×コブクロ/WINDINGROAD今日はお天気が雷とか雹とか大荒れ予報だったので予定してたお散歩は明日に延期朝の町内3周4,300歩のみと...考えてたのに激しい雨が一瞬降ったらあとは晴れ間が出てきて...午後からは突然の激しい雨が予報されてたけど居ても立っても居られなく...(=_=)意を決して飛び出しました!ヒゲジイさんゆかりの地も少しだけ出てきますよ~確かに
【12月6日(日)】歴史散策のお仲間さんと、茨城・高槻方面の史跡探索へ。まずは「茨木市立文化財資料館」無料で入れ展示内容も意外と充実しているのに、私たち以外、訪問者は皆無でした^_^;所在大阪府茨木市東奈良3丁目①庭にはハニワが...②和田惟政政供養塔...別の場所にあったものをこちらへ移したそうです。③茨木市立文化財資料館④銅鐸(複製)⑤銅鐸鋳型⑥皇朝十二銭⑦隠れキリシタン関連・聖母子画像(複製)⑧2階展示は「戦国時代のいばらき」⑨茨木城の復元図ですが、描く人
本日は、難波にでる用事がありましたので、天気が良ければ「高取城」に登城するプランニングを先日来してきましたが、前日の予報では朝から雨でしたので、昨晩急遽「茨木城」(大阪府茨木市)行きの変更プランを作成しました。茨木小学校正門に建つ「復元櫓門」ということで、難波で昼食を取り、もう二件の心斎橋での用事を済ませた後、阪急電車で梅田から茨木市駅へ足を延ばしました。「茨木城」は、「茨木家」が15世紀初期に築城して戦国時代にはそこを拠点とします。「織田信長」が上洛した時にも在城していました
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡で地域活性する活用専門アドバイザーで「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」をお送りいたします。【前回の確認】一旦は幕府から細川家の家督相続を認められた細川澄之だったが、細川高国の介入により細川澄元の反撃にあい細川澄之派の中心人物だった薬師寺長忠と香西元長が襲われる。細川澄元派は更に細川澄之を追い詰めるのであった・・・【遊初軒(ゆうしょけん)の戦い】薬師寺長忠と香西元長
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡で地域活性する活用専門アドバイザーで「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は「謀反・反逆・裏切りから見る戦国史」です。現在は「永正の錯乱」をお送りいたしております。早速、行ってみましょう。【前回の確認】細川澄之方に攻められ細川澄元と三好之長は近江の甲賀に落ち延びたのである・・・細川家の家督争いは細川澄之が有利に進むかに見えた。だが、事態は、ますます混乱していくのである。【茨木城の戦い】細川澄元