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この項を書いた後になって、河野司氏より『天皇と二・二六事件』という著書を送られたので、拝読した。河野司氏は二・二六事件蹶起将校の一人河野壽氏(陸軍大尉)の兄君に当たられる人で、現在仏心会を主宰していられる。その書中の故三島由紀夫氏著『英霊の声』から引用された箇所が感銘深い。三島氏が『英霊の声』で言わんとする眼目は「すめらぎ(すめろぎに同じ天皇の御事)は、などて人間になり給いし」と言うことである。三島氏は天皇は神でなければならぬとする天皇観の持主である。二・二六事件の時の天皇は、人間感情を以
昭和天皇の人間宣言に対する三島由紀夫の思いが知りたくて読んでみた。この新潮社の文庫本には、ほかにも初期の三島短編が収められている。簡単にメモろうとしたら、というよりいろいろな人がブログに書いているを知った。メモる手間が省けた。少年の頃から三島にはサイコパスなところがあったのだ。天才と狂人は紙一重。酸模(すかんぼう)ー秋彦の幼き思い出:三島が平岡公威であった13歳の時の作品。刑務所を脱獄した人と少年の話。家族合せ:23歳の時の作品。日食:25歳。手長姫:
今日9日は陰陽道で云う陽数の九が重なる意味で五節句の一つの『重陽』で、奈良時代から宮中では"観菊の宴"が催されてきたと言われている。そして明日10日は文字通り『十日の菊』と云い、時期に遅れて役に立たないという意味。閑話休題、三島由紀夫が36歳の時に書いた『十日の菊』という三幕もの戯曲がある。【1961年11月文学座・岸田今日子/杉村春子/三津田健らで初演】この作品は『憂国』『英霊の声』と併せて『二・二六事件三部作』と呼ばれる。
……mixi2、やってます?去年の秋ぐらいですかね、SNSの先駆けだったmixiが新しいコミュニティサービス「mixi2」を開始しましてね。例によって招待制だったりしたので、あんまり興味湧かなかったんですが、某プロレスラーがいきなり始めたりしてて誰でも招待してたので、その流れに乗って初日から始めることに。とは言っても、TwitterやらブログやらFacebookやらインスタグラムやらfilmarksやらブクログやらやってますんで、おんなじことをやっても仕方なく。
88年前の1936年2月26日二・二六事件が起きた、其の時三島由紀夫は11歳だった。『二・二六事件の青年将校達の、あの劇烈な歎きに結び付くのは時間の問題であった。何故なら、二・二六事件は無意識と意識の間を往復しつつ、此の30年間絶えず私と共にあったからである』と、「二・二六事件と私」に書いている。【三島由紀夫の監督・主演で、1965年に映画化された『憂国』の一場面】「憂國」、「十日の菊」そして「英霊の声」を、「二・二六事件三部作」と呼んでいるが、
風邪気味の時の仕事はしんどいなー。なんだかうまくできなかったー。なかなか元気出ないなー。明日休みたいなー。休まないけどー。……失礼しました💦こういう時は日常とまったく関係ないことを見たり考えたりして時を過ごそうと思います。(いつものことだけど💦)ということで、今回書こうと思っているのはこちら。河出文庫の『英霊の聲』は、他に『憂国』、戯曲『十月の菊』、随筆『二・二六事件と私』が収録されています。どれも前に読了していたけれど、歴史的な事実を知った上で
風邪が流行っているようで、私も流行にのってしまったもよう。家で料理してちゃんと食べていっぱい寝て、本を読んだり映画を観たりしました…で、、、また渋いものを観てしまった……。実はここ最近、2.26事件にやたら詳しい女子となってしまい、なんだか変わった人だと思われそうな予感だけど、『226』という映画を観た~。そもそものきっかけは、三島由紀夫の『英霊の聲』『憂国』など「二・二六事件三部作」を読んだのがきっかけ。この歴史的事実に関しては、学生の頃授業で
昨日9月9日は五節句の最期の「重陽節」、又の名を「菊の節句」と呼ばれて、昔は酒に菊花を浸して飲みながら健康長寿を祝った由。3月3日の「桃の節句」は”ひな祭”として世に知られているが「菊の節句」は世間の認知度が低い。陰陽術で九と云う数字を陽数と云うが9月9日は此の九が重なるので重陽と謂われた。【9月9日は重陽節、又の名を菊の節句】閑話休題、三島由紀夫が36歳の時発表した三幕物の戯曲で『十日の菊』と云うのがある。俗に云う、”六日の菖蒲、十日の菊”と
三島由紀夫「手長姫英霊の声」平野啓一郎さんの「三島由紀夫論」で「英霊の声」が触れてあったので読んでみました。帰神(かむがかり)の会で降霊したのは二・二六事件の将校と神風特攻隊の兵士。三島の思いがのりうつって語っているのか。。。この本には13歳の三島が書いた「酸模(すかんぽう)」も掲載されている。あの年齢でこれが書けるのか。。。どういう基準で選ばれた短編集かは不明ですが、いろんな意味を持っている作品に思えました
『明けましておめでとうございます、今年も当ブログを宜しくお願い致します』扨て、先月11日の当ブログに”三島由紀夫最後の正月は「英霊の声」其のもの”とのタイトルで書いた。元日の今日は、三島が42歳の時、即ち昭和42年お正月の読売新聞に”年頭の迷い”と云うエッセイを書いている、あの衝撃的自決まで3年に迫ったお正月を迎えた三島の心境の一部が垣間見られるので此処に引用したい、『私も40になったら、せめて地球に爪痕を残すだ
今年も後20日でお正月を迎える訳だが、そこで三島由紀夫最期の正月はどうだったか、種々調べてみたら、昭和45年1月1日夜、三島は友人、楯の会々員、そして浪漫劇場の劇団員等を自宅へ招待し、新年会を開催したのだが、出席した美輪明宏(当時は丸山明宏)はその席で突然、「三島さんの左肩辺りに軍刀の様なものをさしたダークグリーンの直立した人影が見える」と、三島に伝えた。三島はそれを聞いて非常に驚き、そして一瞬嫌な顔をした、三島には其れが磯部浅一”であることが分かったのだという。
『もし私の小説を一編だけ読みたいといふ人があったらば、広く読まれた「潮騒」などよりも、寧ろこの「憂國」一編を読んで貰えば私といふ作家のいい所も悪い所もひっくるめて分かって貰える様に考えている』と三島由紀夫自身が語っている。【1961年脱稿、1965年三島主演製作で映画化された「憂國」】「憂國」は1961年1月の「小説中央公論・冬季号」に発表された短編小説、この「憂國」と「十日の菊」「英霊の声」を合わせて「二・二六事件三部作」と呼ばれてい
ここ2年、まともに読書すらしていなかった…原因は裁判と町の会計の仕事だった…。やはり心の余裕がないと落ち着いて書も読めません。その意味でも、はるかぜ書房の鈴木雄一の罪は甚大だったのですが…「決定的に他人の時間はタダだ」と思っている重度の悪質さがありました…。その上、アホなアメーバの犯罪加担でしょ…どれだけの心労だったことか…!。町の会計の仕事は仕方なし…人間界の避けられないシガラミですね。(追記:ホラ、バカアメーバが削除したでしょ!己の罪も認識できず!怒!!!!!)(さらに追記:ホラ
【令和2年”憂国忌”のプログラム】昭和45年11月25日、三島由紀夫は45歳で陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃した訳だが、彼が37歳の時に、文芸雑誌“風景”(昭和37年6月号)で、三島は、『私も2,3年すれば40歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき時が来た。芥川龍之介より長生きしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら遮二無二長生きをしなければならない。古来の人間の平均寿命は、青銅時代は18歳、ローマ時
9日作家で僧侶の瀬戸内晴美が99歳で亡くなった、三島由紀夫と瀬戸内晴美、両者は小説のジャンルも異なり作風も全く異なるものだが、しかし瀬戸内によると昭和25年書下ろしの三島の「愛の渇き」に就いて、感想文を送った処、予想外にも三島から『ファンレターには一切返事をしない主義なのだけれど…….』と、返信が来たのが契機になって時折文通することになった由。但し、生前三島自身は、何故か瀬戸内との交流に就いて直接言及する事は殆ど無かった。
三島由紀夫は、『文化防衛論』や『英霊の声』でも天皇は、“雅”の文化伝統の中心、そして国の神聖な部分を代表する天皇と位置付けている。そして”国体”とは日本民族日本文化のアイデンティティを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とすると言い切っている。国体の本義に就いては、天皇は『皇祖神天照大神の神裔であらせられる』そして『皇祖と天皇とは親子の関係にあらせられる』と。其の国体こそが、世界に類を見ない万世一系の天皇家が代々
お二人とも、私が撮ってきた人ですが…アメーバの過去の記事で思い出した。昨日は李登輝さんの命日かぁ…彼を思うと、高校時代に読んで衝撃を覚えた『きけわだつみのこえ』の生き残り、代弁者であったという気がしてならない…当時、エリート達が沢山死んでいった…当時を想像するに、天皇の人間宣言が一番、罪深いと思う……みんな天皇万歳って言って死んでいったんだから…こんな裏切りはないよね………(近頃なぜか、戦艦武蔵の最後や、沖縄戦、硫黄島の激戦、宮城事件の動画を見てしまう…)三島君
おことわり:シューベルトの「『未完成交響曲』ロ短調D759」が何番目の交響曲なのかについては混乱が生じているお話を以前にも致しました。今回はこのCDの表記にも忠実に,かつ昔から僕が馴染んだとおりに「交響曲第8番」としてお話を進めさせて頂きます。昔,LPの時代には「ベートーヴェンの交響曲第5番とシューベルトの交響曲第8番」というレコードが非常によく販売されていました。これは「この2曲でちょうどLPが一杯になる」という技術的な理由だったようですが,そうすると題名が偶然にも「運命・未完成」と
昨年は、三島由紀夫の没後50年と云う事で憂国忌開催の他、出版、映画、舞台等の催し物が数多くあった。処で、新年明けた処なので、自決した年の三島由紀夫最期の正月はどうだったか、調べてみたら、昭和45年1月1日夜、三島は友人知人、楯の会会員、そして浪漫劇場の劇団員等を自宅へ招待し、新年会を開催しているのだが、出席した丸山明宏(現・美輪明宏)はその席で唐突に、「三島さんの左肩辺りに軍刀の様なものをさしたダークグリーンの直立した人影が見える」と、三島に伝えたのだ、三島はそれを聞いて非常に驚き、
三島由紀夫自身が『もし私の小説を一編だけ読みたいといふ人があったらば、広く読まれた「潮騒」などよりも、寧ろこの「憂國」一編を読んで貰えば私といふ作家のいい所も悪い所もひっくるめて分かって貰える様に考えている』と語っている。「憂國」は1961年1月の「小説中央公論・冬季号」に発表された短編小説。この「憂國」と「十日の菊」「英霊の声」を合わせて「二・二六事件三部作」と呼ばれている。しかし此の作品に限っては二・二六事件の決起将校達の義挙を讃える意図で書かれたものでは
昭和34年、今から60年前の正月の毎日新聞に、三島由紀夫の瑤子夫人談(日本画家の杉山寧氏の長女)の記事が掲載されている、『主人はどんな事があっても必ず午後11時には切り上げ、11時半には帰っていました。唯一の例外はお芝居の舞台稽古がある日です。外で淡泊な日本料理を頂いた日にはビフテキを、西洋料理の時は私が心掛けて和食を用意しましたが兎に角365日殆どが午前零時から1時迄の食事でした。深夜の料理を食べ終わると仕事が始