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軽井沢の別荘の門柱は、四角く石を積み上げたものがよく見られる。次の八田別荘の改修前の門柱がその例だ。建物は新しくても門柱のみ古そうに見えるのもある。また建物はなくても門柱は残っているというケースも時々見られる。「歴史は細部に宿る」のではないが、そんな門柱から歴史を手繰ってみた。軽井沢の歴史の本によく出てくるのが、二手橋の先にあった英国公使館別荘だ。少し台の上に乗るように、視界の開けた場所に公使館の建物は建っていた。ハウスナンバーは800番であった。建てられたのは1890年、「軽
今回はうちの江戸好きみっちゃんと一緒にぶらぶら散歩です!江戸時代の品川に思いを馳せて東海道の品川宿へ行ってきたよ~(#^.^#)YoutubeやすぼんぶらぶらチャンネルYoutubeやすぼんDIYチャンネル
令和4年2月20日参拝何となーく高輪公園へ降りていくと山門があるのに気付きました👀Googleマップ見ると大きなお寺みたい。しかも江戸時代と境内の広さほとんど一緒ってどんなお寺か興味あるよね。梅の香りふわふわ(*˘◡˘*)思い切り吸い込む〜♡ねぇ👀!ここの仁王さんかっこいいわ〜。(n´∀`n)前から横から(加工なし)。東禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院で本尊は釈迦如来です。創建は慶長15年(1610)飫肥藩主伊藤祐慶を開基として日向の嶺南和尚が開山しました。当初は赤坂の
マスクできました!「布マスクか?」というとそうでなくて「コロナに負けない」とアマビエのコラボマスクです!何がすごいって、私、歯医者以外の病院に31年行ったことがありません!31年前は出産なので病気じゃないし(笑)このマスクしたらきっと病気知らずになるかもねー!(笑)これ、パッケージなので、中身は白い不織布のマスクです◇さて本日は1863年6月6日に高杉晋作が奇兵隊を結成した日です名言は高杉晋作の名言です◇もうひとつ「一ノ
職場も学校も用心しながら動き始めました今日も生徒さん、自発的に作品制作してましたもちろんお手本なしで自分で書いてるので「あらまー!上手かけたねー!」とびっくりイラスト入りでなんとクリエイティブなこと!医療従事者の皆様に子どもなりの感謝の気持ちが出ていて嬉しくなりました思っていること、気持ちをしっかり伝える最も大切な力がこどもたちに育っていますねさて昔風にいえば6月1日を過ぎ衣替えの季節夏物と冬着を取り換えするときふと「亭主元気で留
昨夜ラジオ聞いてましたらパーソナリティの著名な芸人さんが「今、ずっと家にいるから書道習いたい」と言ってましたいつも面白い人が神妙な顔で稽古するかしらと楽しくなりました皆さんも「この名言いいな」とか気になる言葉あったら書いてみてください落ち着いた気分ややる気がでてきますよさて本日の「一ノ瀬芳翠の人生が輝く書道」は名言も動画も高杉晋作です晋作も肺炎で若くして病没しました医療現場で命がけで戦ってくださってる人達に感謝して、私たちも
『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●暗殺剣-⑤✪晋作はなお、座敷牢にある。このため彼のことはすこし措く。井上・伊藤が乗っている軍艦は、ドーウェル大佐を艦長とする英艦バロサ号であった。かれらの長州藩領への上陸は、隠密行動に近い。艦内でサムライの服装に着替え、小舟で富海という入江に上陸した。その服装はあらかじめ横浜で買っておいたものであった。「死を賭して開国を唱えるのだ」と、井上は非常な元気であったが、しかし国をあげて攘夷戦争の気構えでいるとき、この意見が通るかどうか。井上は殺され
『世に棲む日日-二』-司馬遼太郎●転換へ-⑦✪さて、派遣すべき秘密留学生の人選のことである。周布の念頭には山尾庸三と野村弥吉の二人があった。どちらも官吏型の平凡な秀才であった。あとで二人追加した。この二人が、例の二人である。聞多と俊輔であった。聞多は早耳で(この特技があるために藩主毛利敬親が聞多と改名しろといって名を変えさせたのだが)、この密謀を嗅ぎ付け、「ぜひ、俊輔とふたり、加えてください」と、彼らがいう「周布先生」に頼みこんだ。周布は、ほんの先般品川の御殿山の英国公使館に火を
『明治という国家』ー司馬遼太郎●徳川国家からの遺産-②✪さて、小栗が、万延元年(1860)の遣米大使の№3であったことは、すでに触れました。正使が新見、副使村垣、この二人は凡庸な人で、新見が恰幅がりっぱなために選ばれ、村垣は、陳腐な表現力ながら多少の文才があることで選ばれました。人選者である大老井伊直弼は、この二人がお飾りであること以外何の期待もしていなかったでしょう。期待する必要もない。ワシントンではただ批准だけせよ、よけいなことはするな、井伊大老はそう思っていたはずです。しかし一人ぐらい
西日本豪雨被害の政府の対応をみてもわかると思うが国家主義とはこういうことなのだ。国民より国家。国家とは主権者(公)である自分たち。国民とは主権者である自分たち(公)に滅私奉公する存在。国民の価値は自分たちにいかに奉仕したかで量られるものであり、奉仕しない人間には価値がない。すなわち国家主義において、国民に求められるものは自分たちを豊かにする競争力だけであるから、競争力のある選ばれた人間のみに人権が与えられるものなのだ。今回の災害でも彼らの視点に立てば、「人権のない国民が助けを主張する
ドラマ、歌舞伎等でおなじみの忠臣蔵。その題材となった赤穂事件のきっかけとなった江戸城の松之廊下刃傷事件。浅野内匠頭が吉良上野介を襲うというこの事件で、捕らえられた浅野内匠頭を預かった一関藩主田村右京太夫建顕について注目してみました。平安時代、蝦夷征討のために陸奥に進駐した武将、征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫と言われている田村家は、伊達政宗の奥さん愛姫(めごひめ)の実家だそうですが、小田原征伐に参加しなかったため「奥州仕置」で豊臣秀吉によって取り潰されてしまった
8月13日今日は南品川を歩いております。清光院。どうしてもマンションの陰にお寺がある風景になってしまう。こちらが備前中津藩の藩主、奥平家の墓所。立ち並ぶ大きな石塔にけっこう圧倒されます。清光院には摂津高槻藩の藩主、永井家の墓所もある。さらに歩く。ご存じ品川神社。この泉の水でお金を洗うと倍になるといいます。洗ったか
明治時代の「こんな人たち」は処刑・私刑にあって間違いなく殺された。会津戦争を視察したイギリス人医師ウィリスは、戦場で目撃した幾多の非人道的な行為を非難して「国際世論」を喚起している。『英国公使館員の維新戦争見聞記』には「負傷した捕虜がまったく見あたらないことに、重大な意味を感ずる」と記されている。また、横浜外国人居留地の新聞『横浜新報もしほ草』第三十四号(明治二年二月晦日)の記事にはこんなことが書かれている。「天皇の軍隊」でもなく、「将軍の軍隊」でもない「賊軍」とレッテルを貼られ
品川宿ミニツアー、続きです売り物件じゃなくて。。。土蔵相模跡土蔵相模とは、幕末~明治にかけて存在した、相模屋という妓楼です。土蔵造りの建物であったため、通称「土蔵相模」と言われていたそうです。安政6年(1860)、「桜田門外の変」の前夜、水戸藩士たちが今生訣別の酒宴を張った場所でもありまた、文久2年(1862)、「英国公使館焼き討ち事件」を起こした長州藩士たちが集結したのが、ここでした。この事件は、品川御殿山に建設中の英国公使館を、攘
品川にある泉岳寺。今日は赤穂浪士の吉良邸討入り事件が起きた日。事を成した赤穂浪士たちは吉良の首を掲げ浅野匠頭の墓がある泉岳寺までやって来た。泉岳寺は義士祭。しかし、人が多いな。先週末にNHKで取り上げられたからだろう。前に来たときは静かな境内も今日は初詣並みの混雑。浪士たちの墓には辿り着けそうにないのですぐに出た。高輪の住宅街を歩く。おっと!雰囲気のよい階段。江戸時代まで高輪の高台の際まで海が迫ってたんだっけ?そしてまた雰囲気のよい坂道。この洞坂を降りた先に
激動の幕末に、英国公使館の通訳として働いていたドイツ人の少年がいた。その名は、アレクサンダー・フォン・シーボルト。日本に西洋医学を伝え、2度の来日を果たしたあのシーボルトの、長男である。生麦事件薩英戦争下関戦争・・・シーボルトの長男・アレクサンダー少年が遭遇したのは、激動の幕末動乱だった。彼は10代ながら通訳として、外交の現場にかかわっていくことに・・・『生麦之発殺』早川松山
攘夷の実行として高杉晋作らは御殿山の英国公使館を焼き討ちして全焼させた!したがって、この公使館は残っていないが、「英国公使の邸宅は海に面した小高い場所にあり、二階建ての広壮な建物で、見事な巨材をもちい、各室は宮殿のように広く、床には漆が塗られ、壁には美しい模様の日本紙が張られていた」(アーネスト・サトウ記、参考)とのことである。この御殿山は現在の品川駅より南方向のJR東海道線と京浜急行線に挟まれたあたりである。御殿山は東京都品川区北品川3丁目から4丁目付近とされる。品川御殿は北品川3丁目5
こんにちは!昨日のつづきです。洞坂を下りていくと東禅寺というお寺の前に出てきます。東禅寺は佛日山と号した臨済宗妙心寺派の別格本山です。開基は日向の飫肥藩主・伊東祐慶で、慶長14年(1609年)に赤坂で創建されました。そのため、東禅寺は飫肥藩・伊東家の菩提寺となります。飫肥は「おび」と読みます。現在地には寛永13年(1636年)に移転し、すぐ目の前の海からは大きく立派なお寺が目立っていたそうです。ここには伊達政宗の長男で初代・宇和島藩主となった伊達秀宗のお墓があることに関係してか、