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今回は、広島県竹原市の観光地「大久野島」より「芸予要塞時代の桟橋(げいよようさいじだいのさんばし)」をご紹介いたします☺️大久野島は現在、たくさんのウサギさんが生息する「うさぎの島」として有名ですが🐰1929年から終戦まで、戦争兵器である毒ガスの製造をしていたため「毒ガスの島」とも呼ばれ☠️終戦後は、敗戦国となった日本が毒ガス兵器を一気に処分し島の存在自体を隠そうとしたため「地図から消された島」とも呼ばれています🗺❌そんな「大久野島」へのアクセスについては、こちらのブログ記事をご覧くださ
カイ君ママとカイ君🐗ハンターさんと蓮君と久しぶりにワンプロ終わる時はスンと終わる(笑)
撮影日2009/10/16呉線忠海駅忠海港ここから島へ渡る大久野島到着島の住所は広島県竹原市忠海町芸予要塞跡リュックの中を探ってくる高さ226m、日本一高い送電鉄塔らしい伝声管?
2008年8月記伝えたい島がある広島県竹原市忠海の沖に浮かぶ「大久野島」この島は国民休暇村がある周囲4.3kmの小さな島で忠海港から船で約15分のところだここには島国の宝物である「負の遺産」がある明治10年ごろこの島は田畑ばかりののどかな島だった明治35年日露戦争に備え、軍都広島を守るため芸予要塞を建設し始める大砲16門の砲台工事に島は活気付き、町は潤っていった明治から大正にかけ陸軍の施設が置かれ島は要塞化していたが時代背景により必要性の有無が問わるそして後に要塞地帯から
校区内だけど船に乗る『間にあう?!』船に向かって叫ぶと手招きしてくれるので跳び乗る待合所に券売機があるが船で440円『帰りのももろとるけんね』特に切符は無い出航造船所が並ぶ小島(おしま)に向う来島にも寄る10分で到着入れ違いに大勢が乗船するほぼ観光子供の頃は祖母の家から歩いてきて船に乗り泳ぎに来ていた今は住む人も減り釣りに来る人砲台跡を見に来る人くらいだからこんなのがあるNHK坂の上の雲の時のレプリカ砲台跡に向う道が椿の道芸予要塞日露戦争
小島の防御営造物最後の紹介は北部電燈です。現地の案内図では、島の北側の「探照灯跡」とその南の「発電所跡」が北部電燈の施設となります。ドイツのジーメンス・シュッケルト社製90㎝射光機(探照灯)を装備する電燈所は、夜間の海上照射を目的として島の北部と南部の2か所に設けられ、南部電燈は明治34年(1901年)7月31日、その2か月後の9月30日に北部電燈が竣工しました。南部電燈は紹介済みですのでこちらの記事をどうぞ。『芸予要塞探訪㉒~来島南部電燈/電燈機関舎-再訪-』先月の大久野島に
後編では重砲の二十四糎加農砲座を見ていきます。軽砲砲座からほどなく歩いて重砲砲座に到着です。説明書き。説明看板の後方は広場になっています。石垣で囲われた削平地もあります。僅かながらに建物があった痕跡が残っています。おそらく広場や削平地には、弾廠・炸薬填実所・装薬調整所がセットになった建物、そして砲具庫が建っていたのではないかと思われます。北部電燈への道もありますが、こちらは次回。(トンネルではありませんwでは砲座を見ていきます。北部砲台に配備され
いよいよ最後の区画、6⃣北部砲台跡周辺を見ていきます。来島北部砲台の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)11月5日◆竣工:明治35年(1902年)2月28日◆備砲(重砲):二十六口径二十四糎加農4門◆備砲(軽砲):斯加式九糎速射加農4門◆備砲完了:明治35年7月◆砲座設置標高:二十四加/29.95m、九速加/23m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍※芸予要塞の概略はこちら→→→来島北部砲台は芸予要塞の6つの堡塁砲台のうち最後に築
後編では赤丸の所から歩いて行きます。砲側庫と掩蔽部の間に観測所への階段がありますが、これを上がるのは後回しにして、まずは掩蔽部を見てみます。6連の掩蔽部です。手前から見ていきます。まずは掩蔽部.1の内部です。通常の棲息掩蔽部より狭いですが、階段側の壁に丸い穴が開いています。階段側から見るとこんな感じです。これが伝声管とするなら、掩蔽部=指令所から伝声管越しに指令を受けた伝令が観測所に駆け上がったor観測所から駆け下りて指令所に報告した...ってところかな。
兵舎跡から遊歩道を辿って5⃣の中部砲台跡に進んで行きます。来島中部堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)5月20日◆竣工:明治34年(1901年)3月31日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治34年10月備砲完了)◆砲座設置標高:78m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍◆特記:日露戦争時の明治37年8月、二十八糎榴弾砲2門を撤去して中国大陸に送付、旅順攻囲戦にて活躍※芸予要塞の概略はこちら→→→中部堡塁は島の最高峰(標高100m)
今日は4⃣の弾薬庫跡を見て藪に埋もれる兵舎跡を進んで行きます。小島には弾火薬を保管する火薬本庫(火具庫併設)と弾薬本庫が1棟ずつ設けられていたようです。現地案内図の「4⃣弾薬庫跡」にはレンガ積みの建物が2棟残っていますが、これが火薬庫なのか弾薬庫なのか、史料や書籍によっても記述がまちまちです。ただレンガ積み建物の構造やサイズ、土塁を築いて大小2つの建物が並んでいることを踏まえると、「4⃣弾薬庫跡」は火薬本庫だったと推測します。それでは火薬本庫を見に行きます。遊歩道を進むと
今回は3⃣の南部砲台跡を見に行きます。来島南部砲台の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)3月10日◆竣工:明治33年(1900年)6月28日◆備砲:加式十二糎速射加農2門(明治33年7月備砲完了)◆砲座設置標高:23m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍※芸予要塞の概略はこちら→→→南部砲台は小島の3砲台の中で一番最初に竣工しました。小島北西の低地に設けられ、本土~小島間の水路を防御することが任務でした。見取図を描きましたので掲載
先月の大久野島に続き今月は2年ぶりに小島(おしま)を訪問しましたので、あらためて記事を書き直していきます。(※芸予要塞の概略と小島の紹介はこちら→→→)小島の施設案内図です。案内図にある番号順にレポートしていきます。まずは来島南部電燈から。夜間に海上を照らすドイツのジーメンス・シュッケルト社製90㎝射光機(探照灯)を有する電燈所は島の北部と南部の2か所に設けられました。南部電燈は明治34年(1901年)7月31日に竣工、その2か月後の9月30日に北部電燈が完成しました。
大久野島から本土に戻り、山に登って忠海(ただのうみ)地区を眺めてみます。芸予要塞建設に伴い、明治32年(1899年)11月、芸予要塞砲兵大隊が忠海町に兵営を構えることになり、併せて演習砲台、練兵場、射撃場も近隣に建設されました。また明治33年(1899年)6月25日には、芸予要塞司令部が砲兵大隊内に開庁して事務を開始しました。町の北側に聳える黒滝山から俯瞰。施設が置かれたのは赤点線の部分です。史料に基づき施設の場所を推測して書き込んでみました。明治37年(1904年)2
南部電燈は今回の渡島(2022年10月)では再訪していませんが、ついでなので記事を書き直します。合わせて豪雨災害による土砂崩れで壊れてしまった火薬本庫にも触れていきます。まずは島内地図で場所を確認します。1.南部電燈夜間に海面を照らす射光機(電燈、探照灯)を有する電燈所は島の北部と南部に設けられました。北部は既に紹介済みで、他地域の物と異なる云々...と書きましたが、南部電燈はオーソドックスでよく見る造りとなっています。(北部電燈の記事はこちら→→→)南部電燈は明
後編では速射加農砲が置かれた軽砲砲台に向かいます。軽砲砲台を拡大して掲載します。舗装路から脇道に入って軽砲砲台に向かいます。2連の掩蔽部がありますが...2つとも埋没しています。かろうじて入口が見えますね。掩蔽部の先は広場になっており、2つの砲座と砲側庫が右手に見えます。広場の真ん中に説明書きがあります。なお写真奥に見える建物は企業の社屋として現存しています。砲座にはそれぞれ砲側庫が付属していますが、砲側庫①は完全に埋没...(・_・;)突き出し
今日レポートする南部砲台はすでブログで紹介しましたが、2年ぶりに訪問しましたので新しく書き直すことにしました。◆起工:明治31年(1898年)2月1日◆竣工:明治33年(1900年)8月31日◆備砲(重砲):二十六口径二十四糎加農砲4門(明治35年3月備砲完了)◆備砲(軽砲):斯加式九糎加農砲4門(明治34年7月備砲完了)◆設置標高:23m/36m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍※芸予要塞の概略はこちら→→→*過去記事:2020年7月23日
後編では砲座を見ていきます。1砲座2門で合計3砲座が横一列に並んでいましたが、北側の第1砲座は鉄塔建設により消滅しています。塁道を北に歩いて砲座を見に行きます。3つの砲座のうち左翼側の第3砲座です。少々荒れていますね。左手の横墻部分に砲側庫③への地下通路があるので中に入ってみます。地下通路の先には...砲側庫③があります。内部です。砲側庫は通常塁道側に出入口があるのですが、こんなスタイルで配置されているのはここだけなのでとても貴重です(・∀・
今日は大久野島最高峰に置かれた中部堡塁をレポートします。島内の遺構地図で場所を確認します。中部堡塁に向かう主なルートは、①フェリー発着の2つの桟橋から舗装路、②西岸広場から登山道、③北部砲台から階段の遊歩道の3つとなります。前回訪問した2年前の2020年7月には土砂崩れの影響で全てのルートが閉ざされていましたが、今回2022年10月の訪問では開通していましたので、晴れて見に行くことができました(・∀・)まずは中部堡塁の履歴を掲載します。◆起工:明治31年(1898年)10月
夜間に敵艦探知を行う射光機(探照灯)を有する電燈所は島の北部と南部に配備されましたが、今回は北部電燈をレポートします。大東亜戦時中(1941-45年)に陸軍築城部が編纂した『現代本邦築城史』を読むと、なぜか防御営造物履歴に北部電燈の名前がありません。(南部電燈は掲載されています)よって建築年月が分かりませんが、おそらく北部砲台と同時期の明治30年(1897年)3月に着工され、翌年には竣工したのではないかと思われます。また現地の遺構は他の電燈所と造りが異なっており、色々と不明な点が多
北部砲台は小高い所に置かれた観測所を挟んで東側に十二糎加農砲の軽砲砲座、西側に二十四糎加農砲の重砲砲座が設けられています。今日紹介する重砲砲座周辺を拡大して掲載します。軽砲砲座から道路を下って入口に到着。ちなみに軽砲の砲座標高は30mであるのに対し、重砲は15.85mと低い位置に築かれています。入ると左手に削平地があり、レンガ積みの桝や瓦礫が転がっています。おそらく厠跡では?と思いましたので見取図にはそのように記載しました。スロープを下って砲座後方の塁道に下りていきます
2年ぶりに大久野島を訪問しましたので、今日から過去記事を書き直していきます。大久野島(おおくのしま)は広島県竹原市忠海の沖合3㎞に浮かぶ周囲4.3㎞の島です。今ではウサギの島として多くの観光客が訪れますが、明治・大正期には芸予要塞、昭和期には毒ガス製造工場が置かれた軍事施設の島でした。島内における芸予要塞関連施設は以下の通りですが、南部砲台の24㎝加農砲砲座は毒ガス工場時代に技能者養成所などの施設が建てられたため消滅、現在はキャンプ場...と言うかゴミ捨て場となっています。大久
「坂の上の雲」は司馬遼太郎が執筆した小説で2009年から約3年かけてNHKが放送しました。旅順攻撃のシーンに28サンチ榴弾砲が登場しています撮影終了後、本来は破棄されるはずでした。詳しい経緯はわかりませんが、愛媛県松山市松山城ロープウェイ乗り場の屋上に長らく展示されていました。そしてこれまた経緯はよくわかりませんが2013年4月に今治市の小島(おしま)に移設されています。そんな事も知らない私は同年4月こ
ねんどろいどたちと行った広島の大久野島、展望台の近くの中部砲台跡へ。中部砲台跡へと続く道で規模の大きい砲台跡はありますが行き止まりでもあります。当時の施設もかなり残っていますね、芸予要塞の名残の一部。埋められていますがりゅう弾砲やカノン砲が設置されていた台座跡。少女終末旅行の2人がケッテンクラートに乗って中部砲台跡を散策。中への通路は塞がれていました。本来は各施設につ
ウサギの島で有名な広島の大久野島へ行ってきました。前から行きたかった場所ですがちょっと特殊な旅になることに。数が減ったとはいえそれでも多くのウサギが出迎えてくれます。うさぎということでごちうさからねんどろいどチノとココアで。大久野島のもう一つの顔である芸予要塞の一画を担った歴史と毒ガス工場という負の遺産。ケッテンクラートに乗った少女終末旅行のチトとユーリが巡ります。ウサギの島というだけでは興味がイマイチだ
以前ドラえもん切符でマッサンの故郷、竹原に来ました。その時港へ行ったら大久野島行きフェリーが出ていて大久野島=うさぎ島ということで、うさぎには興味がないため、行くことはないだろうと思っていました。大久野島はうさぎ、毒ガスで知名度が高いけど、芸予要塞の遺構があると知り、断然興味が湧いて行くことになりました。大久野島へは忠海港からフェリーで15分。フェリー出航ギリギリで乗り込んだため、船が離岸してから切符売り場の写真を撮りました。大久野島に上陸後、国民休
陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所②貯蔵庫など広島県竹原市忠海町大久野島長浦貯蔵庫跡島の北西側に建設された島内最大の毒ガス貯蔵庫。これは大久野島砲台の施設の転用ではなく、忠海兵器製造所建設時につくられた貯蔵庫。--中央廊下を挟んで左右対称につくられている。正面手前には左右にボイラー室?があり、各々巨大な煙突が建つ。まずは左右の出入口脇にある小さな部屋から。この貯蔵庫はこの小部屋と貯蔵部屋だけしかない。-コンクリート製台座の上には直径4m×高さ11m(容量
陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所広島県竹原市忠海町大久野島東京第二陸軍造兵火工廠忠海兵器製造所芸予要塞廃止/除籍後の昭和2年、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(→東京第2陸軍造兵廠忠海兵器製造所→臣第2963部隊)の建設が始まり、大久野島砲台群の様子は大幅に変わってしまった。島の大半が陸軍用地、島ゆえの秘匿性の高さ、運搬の利便性などから大久野島が選ばれたようだ。昭和4年、忠海兵器製造所が竣工。陸軍は毒ガスの全てを大久野島で生産した。毒ガスの生産・保有は違反行為ではないが、使用は違
[芸予要塞](明治期)大久野島火薬本庫広島県竹原市忠海町大久野島-大久野島火薬本庫着工:明治31年12月8日竣工:明治32年6月7日規模:4間×18間、1棟廃止:大正13年12月廃止/除籍(第5師団経理部へ移管)芸予要塞時代は弾薬庫だったが、陸軍造兵廠時代(毒ガス工場)は何らかの貯蔵庫として使われた。戦後、ここに駐留していた米軍は火薬庫として使ったようだ(朝鮮戦争時)。周囲は土塁で囲まれ、屋根は火薬が爆発してもその威力が真上に抜けるよう、ワザと木造で作ってい